V. Patetico
緒方俊之による言行録
音楽は人間に未知の王国を開示する。
それは人間の外側を取り巻く感覚世界とは何一つ共通するものを持たない世界であり、
そこでは人間は既製の感情をすべて打ち捨てて、言葉にできない憧れに身を委ねるのである。
(E.T.A.Hoffmann 『クライスレリアーナ』より)
今年初めての木枯らしが、その名の通りに木々の乾いた葉を翻弄していた。僕はフロントガラス越しに飛ばされていく枯葉を見ながら、街を抜け、山手にある住宅街を目指していた。
仕事とはいえ、見知らぬ人を訪ねることは、僕にとって心躍ることだった。こんな木枯らしなんてちっとも気にならないほどに。
僕はいわゆるフリーライターである。主にクラシック音楽に関する文章を書いているので、本当ならミュージック・ジャーナリストとでも名乗りたいところだが、あいにくまだ駆け出しなので、そんな華々しい実績も持っていなかった。それに今回の仕事は依頼ではなく、僕の個人的な取材なのだ。
信号で停止するとともに、僕はカーステレオに手を伸ばし、一枚のCDをセットした。フランツ・リストの『巡礼の年 第一年、スイス』が流れてくる。やや内向的にすぎるきらいはあるが、思慮深く、幻想に満ちた演奏だ。喩えるなら優れた思索家が書いた詩のような、そんな雰囲気が漂っている。絢爛豪華なリストしか知らない人間にとって、この演奏はカルチャーショックであるに違いない。ピアニストの名前は片山龍介とある。
この片山龍介については殆ど資料がない。大学卒業後、3年間パリに留学していたこと、内外の音楽コンクールには全く参加していないということ位だ。しかも、パリで師事していた先生の名前さえわかっていない。はっきりしているのは、現在32歳であるということと、留学前のプロフィール、それからこのCDが7年前に収録されたということだけだ。しかも、解説書には彼の写真が載っていないし、リサイタルのチラシなども見つからなかったから、顔さえ分からない。
僕はそれでも、多くの関係者を当たってこの人物の所在を確かめた。どうしても片山龍介に会いたかった。彼の演奏も好きだったが、彼が無冠であるということも、僕の気持ちを引きつけた。
僕が最初にこのCDを聞いたのは、去年原稿を入れていた雑誌の編集部でだった。しかし何のコンクールにも参加せず、プロフィールにも不明な点が多いこのピアニストの演奏は、黙殺され、当時の新譜紹介にすら載らなかった。僕が見つけたとき、CDは資料室の隅で埃を被っていた。資料ナンバーもバーコードもついていなかったそれを、僕はこっそり持ち出した。この無冠のピアニストを取材し、日本の楽壇に一石投じてやろう。その時の僕はそんな野心を抱いた。事実、彼の演奏はそれに値するような力を持っていた。
信号が青になり、僕は車を発車させた。山の手に近づけば近づくほどビルは減り、庭を持った家が増えてくる。片山家はそんな住宅地のはずれにあった。小さな洋風の造りで、庭には芝生が敷かれていた。門から2段の階段を昇ると、ドアまで3メートル程の赤煉瓦の道が続いていた。そして2階建ての家がある。敷地は40坪ぐらいだろう。さっき通った住宅地の家に比べると、小さい方だ。僕は家の前に車を止めた。約束の3時より5分ほど早く着いてしまった。ステレオをオフにし、CDを取り出して鞄に入れた。ドアを開けると冷たい風が吹き込んできたので、僕は慌ててコートの襟を合わせた。そしてそれと同時にピアノの音も聞こえてきた。それは『子供の情景』の第1曲、『見知らぬ国と人々について』だった。おそらく片山龍介本人が弾いているのだろう。CDの演奏で現れていた特徴が、はっきりと感じられた。そして、それよりもさらに親密な演奏だった。まるでそっと誰かに語りかけるような。
1分半程の短い曲なので、終わるのを待ってからインターホンを鳴らした。すると、スピーカー越しに返事があった。
「先日お電話致しました、緒方です」
僕がそう告げると、しばらくして玄関のドアが開いた。出てきたのは背の高い男だった。この人が……。実際に見るのは初めてだったため、僕はつい不躾に顔を眺めてしまった。双眸は鋭く、力強い光を放ち、薄めの唇は横に結ばれていた。役者みたいに端整な顔立ちをしているが、どこか冷たそうな印象があった。そして痩せてはいるが、頑強そうな身体をしていた。頬の輪郭を覆うように無精ひげが生えていたが、だらしないという感じは無く、かえって精悍そうに見えた。豊かな黒髪は無造作に後ろに流され、服装は黒のズボンに白のカッターというさっぱりしたものである。彼の外見はとても30を超えているようには見えなかった。もしかしたら28歳の僕よりも若く見えるかもしれない。
「片山先生ですか?」
僕は尋ねた。僕は原則として年上の取材相手には「先生」と敬称をつけることにしている。男は僕の言葉を受けて頷いた。
「……どうぞ」
彼は事務的な口調で言い、僕を家に招き入れた。そして僕はリビングと思しき広い部屋に通された。そこには応接用のソファが一組とグランドピアノ、そして小さな備え付けの棚があり、フォトスタンドと時計、それから一輪挿しに活けられた深い青色の花が置かれていた。その部屋には縁側に出るための大きなガラス戸があり、相変わらず強く吹きつけている風が、隣家の庭木から芝生に葉を落としていた。この家には彼の他に人の気配は無かった。彼が席を外した隙に、僕は棚の前に行った。そこには3枚の写真が飾られていた。1枚は年を取った男性だった。目の雰囲気が彼と似ている。おそらく父か祖父か、血縁のある男性だろう。それからまだ学生服を着ている彼が写っているもの。一緒に写真に収まっている男は、トランペットを手にしている。何かの演奏会の後に撮ったものかもしれない。最後の1枚が最も新しい写真だった。そこには今より少し若い彼が、一人の老人とピアノの前で並んでいた。そして、その老人は日本人ではなかった。白人の男性だ。おそらく留学中に写したものだろう。しかしこの老人、どこかで見たことがあるような……。僕は写真を手にとってじっくりと眺め、その人の名前を思い出そうとしたが、名前は出てこなかった。諦めて写真を棚に戻そうとした時、彼の足音が聞こえたので、僕は慌ててソファに座った。
「お待たせいたしました」
そう言って彼は湯呑みをテーブルに置いた。ほうじ茶の香ばしい香りが辺りに漂った。取材の時はどこでもコーヒーを出されているので、妙に新鮮だった。
「写真をご覧になったんですね」
唐突に彼が言ったので、僕は驚いた。が、開き直ることにした。
「ええ。勝手に拝見してしまい、申し訳ありませんでした。でも何故分かったんです?」
彼は棚の方を指差した。
「フォトスタンドの位置がずれていたんですよ。多分あなたは一人になると、ご覧になるだろうと思っていましたから」
僕はばつが悪くなって俯いた。まるで彼に一挙手一投足を観察されているような気分だった。彼は僕の向かいに座り、しばらくその様子を見ていた。
「緒方さん、気にしないでください。私はこれでも文章を書く人の性質はよく分かっているつもりですから」
言葉遣いは丁寧だが、ひどく苦々しい響きがあった。彼は過去に誹謗中傷めいた記事でも書かれたことがあるのだろうか? 或いは何かのスキャンダルに巻き込まれたとか?
僕がおずおずと顔を上げると、彼はリラックスしたように足を組み、背もたれに身を預けた。僕は例のCDを鞄の中から取り出した。
「これは先生が演奏されたものですね」
彼はケースを手に取り、ジャケットを眺めた。表には美しい湖の写真と『LISZT Annees de Pe lerinage,Premere Annee,Suisse』という文字がプリントされている。彼がジャケットを眺めている間、僕はその手をじっと観察した。大きくて筋肉の良く発達した、非常に男らしい手だった。しかし、それよりも右手の甲にある傷痕がひどく気にかかった。多くのピアニストは何よりも手を大事にしていて、球技すらしないで育つ。なのに、どうして彼はこんな致命的とも言える怪我を負ったのだろう……。
「よく手に入りましたね」
CDをテーブルに置き、彼は心底感心したように言った。
「このCDは殆ど市場に出回らなかったと聞いていたんですが」
「ある音楽雑誌の編集部で見つけたんです」
「なるほど」
彼は納得したように頷いた。
「僕は最初、この演奏を聞いた時、正直に言うと何て変わった弾き方をする人なんだろうって思いました。何ていうか、大ホールのリサイタルには向かないなって感じたんです。こう……小さな親密な空間で聞きたくなるような、決してサロン的という意味ではなく、もっとプライヴェートな……、僕の言ってることは分かりにくいかもしれませんが」
そんなことはない、分かりますよ。と彼は答えた。
「何度も聞いているうちに、僕はこの演奏が極めて変わっていると感じた理由が見えてきました。それは楽譜の解釈とか弾き方以前の問題でした。音色や響きの作り方自体が際立って個性的なんです。それに、どこか昔風で、古い時代の演奏家を思い出させます。今現在の日本の若手演奏家達とは全く違う。多分どんな状況でも、先生の音だけは、聞けばすぐに誰が弾いているのか分かる。そんな印象を受けたのです」
それだけまくし立てて、僕は少しお茶を飲んだ。美味いお茶だった。
「緒方さん、先生などと言わないで下さい。私には相応しくない呼称だ。で、結局貴方は何を取材したいのですか?」
彼はそう言って、僕の顔をゆっくりと覗き込んだ。彼の目に笑みは無く、心の中まで見透かされているような視線だった。僕は負けまいと真直ぐに彼を見て言った。
「どんな人がこの演奏をしたのかを知りたいのです。つまり、貴方がパリで学ばれたこと。そして何故コンクールにも参加せず、無名とも言える状態におられるのか。そう言ったことなどです。それから出来るなら、実際に貴方がどのように曲にアプローチしているのかということや、演奏会の様子などです」
僕は出来る限り正直に話すよう、心がけた。彼は頷き、それから棚のほうを見た。
「私と写っている老人の名前はご存知ですか?」
分からない、と僕は答えた。どこかで見たことのある気はするのだけれど。
「彼は、ヴィルヘルム・ロートマイアーです」
僕はその名を聞いてはっとした。そうだ、あれはロートマイアーだったのだ。1907年生まれのそのピアニストは、世界中を熱狂の渦の中に巻き込むことはなかったが、ドイツロマン派、とりわけその中でも内向的なシューマンの音楽を得意としていた。レコードの幾つかはピアノ曲の名盤にも数えられていたはずだ。僕の知っているロートマイアーの顔は、もっと若い時のものだから気付かなかったのだ。
「私はパリで師事していたジャン・フィリップ・グランテール教授の縁故で、ロートマイアー先生に会ったのです。そして月に一度、先生がお住まいになっていた、チューリヒ近郊にある屋敷にレッスンを受けに訪れていました」
「待ってください」
僕は思わず叫んだ。
「ロートマイアー氏が亡くなったのは、ここ10年以内だと記憶しています。あなたのCD録音が7年前……、あなたは最晩年のロートマイアー氏に会われたんですか」
「そうです。先生が亡くなった時も、私はその場に居合わせました」
「すると、あなたは彼の最後の弟子なんですね」
「そんなことはどうでもいい。ロートマイアーに会えた。そのことだけで私には充分なのです」
そこで彼は一息をついた。そして遠くを見るようにして語り始めた。
「先生に初めて会ったとき、私はラフマニノフの『音の絵』33−6を弾きました。本当はショパンを中心に勉強していたのですが、暗に自分の技術を誇る気持ちがあったのです。けれども、先生は何もおっしゃいませんでした。そしてある時、先生は私にシューマンの『トロイメライ』の楽譜を差し出しました。正直、先生の意図が分かりませんでした。それまで私が弾いていたのは、ショパン以外では、リスト、印象主義の作曲家、それからシェーンベルクやラフマニノフといった比較的近い時代の、それもヴィルトゥオーソ(超絶技巧を持つ名人演奏家)的な曲が多かったのです。それでも何かと考えながら弾きました。楽譜がそれ程複雑でない分、出すべき音色に神経を使いました。この曲には絢爛豪華な技巧や派手な音色は必要ありません。むしろ極度に柔らかく、優しく、透き通るような、しかし弱くならない音が必要です。でも、私にはそれが出来ませんでした。先生は次にご自分で同じ楽譜を弾いて下さいました。それは、とても同じ曲とは思えませんでした。一言で言うと、それはまさしくピアノで歌っているといった感じでした。抑揚の付け方、節回し、音の響きの作り方、何もかもが優れていました。私は初めて他人の演奏に本気で感動したのです。それと同時に、もう駄目だと思いました。自分はこんな凄い人の前で、傲慢にもヴィルトゥオーソぶっていたのだから……。項垂れた私に向かって、先生はこうおっしゃいました。『リュウ、技巧はより優れた音楽のための手段に過ぎない。いつの時代にも本当に人の心を打つのは、素朴で美しいメロディなのだよ』と。また、こうもおっしゃいました。『演奏家には、本当は自己顕示欲なんて必要ない。むしろ、謙虚に音と向き合う姿勢を持たねばならない.まして他人に対する競争心など、本来の音楽とは無縁のものだ。音楽はスポーツではない。傲慢になってはいけない。すべてのものに耳を傾け、そこから奏でるべき音を聞き取ること。それこそが音楽家の使命なのだ』と。
どんどん調性を崩して複雑化していく現代音楽、そしてコンクール至上主義が蔓延し、演奏の均一化が進みつつある演奏家の世界。先生は常にその二つの行く末を危惧しておられました。そして私にドイツロマン派、分けてもシューマンの曲を勉強することを勧めてくださいました」
そこで彼は湯呑みを取り上げ、お茶を口に含んだ。
「先生は私の音楽の特徴をして、極めて私的に、自分に問いかけるようにして演奏するということを挙げられました。或いはそれが、シューマンを弾くのにふさわしいと判断されたのかもしれません。シューマンの曲は、演奏者ただ一人のために書かれていると言われる位ですから。私がパリからスイスに移り、本格的にご指導を受けようとした矢先、先生は突然倒れられ、そのまま帰らぬ人となったのです。そして私は帰国しました。
あのCDは日本で最初にリサイタルを行った時に収録したものです。あの曲を選んだのは、先生との思い出が強く私の中に残っていたからです。そのCDの」
と彼はCDケースを指差した。
「写真は、先生の家の近くにあった湖です。私は先生と何度かそこを散歩しました。そんな時、先生はよくドイツの古謡を口ずさんでいらしたものです。あれは私にとっての、一種の巡礼だったのかもしれません。留学する前の私は、もっと傲慢な人間でした。先生に会わなければ、私の人生は、もっと悲惨なものになっていたでしょう」
そう言って、彼は黙った。話すべきことは全て話したと言う様子だった。
「今は、どうなさってるんですか?」
僕は言った。
「近隣の地域のホールで定期的に演奏会を開いています。何度も繰り返していると、本当に分かってくれる方は聞きに来てくれます。もちろん始めはそれだけでは生活できずに、楽譜の写譜のアルバイトや、学生時代のようにホテルのラウンジで演奏したこともありました。しかし、この頃はコンサートだけでも何とか生活していけるようになりました。賞のないピアニストでも、耳を傾けてもらうことはできるんです」
彼はそう言ってもう一度ふっと棚の方に視線をやった。そして自分の言葉に確信を持つようにして、軽く頷いた。
「やはり、コンクールには出られないんですか?」
「ええ。それに私はもう32歳です。賞は、それを求めている若い人たちに与えればいいのです。それに、もし何かの弾みで受賞したとしても、毎年毎年プロ野球の試合と同じ回数のコンサートをこなすことは、私には無理です。あまり多く演奏し過ぎると、必ずむらが出来てしまいます。そんな芸の切り売りのような演奏はしたくないのです」
そう言われれば僕は引き下がるしかなかった。そこで、もう1つの目的を果たすことにした。
「何か、実際に弾いていただけませんか?」
彼は笑って辞退した。今日はもう遅いから、ということだった。僕は時計を見た。時計は7時を回っていた。
「緒方さん、私は一週間後にリサイタルをします。それは私にとって特別な演奏会なんです。曲作りの過程を見たいとおっしゃるなら、明日また来てください。幾つかの曲をお聞かせしますから」
「本当ですか!?」
僕は思わず大声を挙げた。いよいよこの人の演奏が聞けるのだ。僕は長居をしてしまった詫びを述べ、片山家を後にした。外は相変わらず冷たい風が吹き荒れていたが、幸せだった。
翌日は風も止み、青空が広がっていた。僕は昨日と同じ、午後3時に片山家を訪ねた。その時彼は庭に出て、芝生に落ちていた木の葉をかき集めていた。今日は上下共に黒い服を.宿ていた。モノトーンの服しか着ない人なのかもしれない。彼は、昨日よりは幾分親しげな様子で僕を迎え入れてくれた。そして僕は再びリビングに通された。
「ところで、昨日お聞きしたかったんですが」
挨拶もそこそこに僕は切り出した。
「これまでに何か批評を受けられたことはあるんですか?」
彼は怪訝そうな顔をした。
「どうしてですか?」
「ふと思っただけです。文章を書く人間は、余りお好きではないようでしたから」
彼の顔が突然険しくなった。声も苦々しいものになる。
「正直に言いますと、余り好感は持っていませんね」
「何故です?」
「彼等はひたすら他人を食い潰すことばかり考えているからです。あるいは自分の文章の対象を利用することばかりね」
僕はそれが自分に向けられた皮肉であるような気がした。確かに僕はある意味では彼を利用しているのだから。
「しかし文章は、事実を伝えるという点においては、どんなジャンルよりも大きな力を発揮します。僕は書くことによって、物事のあるべき正しい姿を人に伝えたいんです」
僕がそう言うと、彼は大きな溜め息をついた。
「世の中の書き手が、みんなそう思ってくれていればいいのですが」
そして彼は下を向いて黙り込んでしまった。丁寧な言葉に隠れていたが、実際はかなり感情の起伏が激しい人のようだ。僕は頭の中で、必死に話題を探し始めた。
「一つお聞きしたいんですが一週間後のリサイタルが特別だとおっしゃっていましたが、それはどう言った意味で特別なんでしょうか?」
彼はそこで、初めて僕の存在に気付いたような顔をした。
「そのリサイタルのタイトルは『シューマンの夕べ』、つまりシューマンの曲ばかりを演奏するんです。それは初めての試みです。曲は『幻想小曲集』、これは若い時の方ですね。それと『幻想曲』、休憩を挟んで『子供の情景』そして最後に『クライスレリアーナ』です」
「何だか変わった選曲ですね。プログラムの配列には何か意味があるんですか?」
「ええ。今回はシューマンの作品の中でも、とりわけ良く知られているものを選びました。有名な作品を演奏すること程、緊張することはありません。でも、敢えてそれに挑んでみました。プログラムは作曲され始めた順番に並んでいます。そうすることによって、二十六歳から二十八歳までの彼の心の動きも、少しは見えてくるかと思います。今回の主役は私ではなく、シューマンなんです。そして同時に」
彼の眼光が鋭い光を放った。
「シューマンが何を感じながら、これらの曲を作っていたのか。私はそれを感じてみたいのです。クラシックの音楽家にとって、作曲家はある意味で『神』の代弁者です。私は一人のピアニストとしてそれに迫ってみたい」
僕はその迫力に少し気圧された。
「それ程までに力を入れられるのは、どうしてなんですか」
「実は、今度の演奏会の会場は、私が高校時代までを過ごした街なんです」
彼はそう言って、僕の知らない地名を挙げた。
「え、ここで育たれたんじゃないんですか」
「いえ、この家は私の大学進学と同時に父が購入したものです。私は大学時代は下宿していたので、この家に住んだのは帰国してからです。父が死んでからは、兄弟もいないので、私一人ですが」
「失礼ですが、お母さんは?」
「母は居ません」
断定的な言い方だった。僕は彼が気分を害したのでは、と心配になった。
「それより、約束通り演奏しましょう」
僕はまず、彼の所有しているピアノをつぶさに観察した。
「ベヒシュタインのEN280モデルですか?」
「そうです」
「このピアノは、19世紀ロマンティシズムヘの郷愁をかき立てる効果があると聞いたことがあります」
彼は笑った。
「確かに、現在最もポピュラーなコンサートピアノ、スタインウェイなどに比べると、音の力感や音色の輝きは及びません。しかしおっしゃる通り、このピアノにはノスタルジーを呼び起こすような、そんな雰囲気の音があります。私のCDを録音したのも、このピアノです。リストはベヒシュタインを愛用していたそうですから」
少し自分で音を出してみたいという気持ちに駆られたが、思い止まった。この人の前でピアノに触れることは出来なかった。彼は両手をこすり合わせ、ゆっくりと鍵盤に指を近付けた。
「まずは『子供の情景』を聞いてください。これは今までに、何度か演奏会で取り上げている曲です」
そう言って彼はピアノを弾き始めた。視線は何も置かれていない楽譜スタンドに固定された。彼がそこに何を見ているのかは、僕には分からない。
『子供の情景』は全部で十三曲の小品がまとめられていて、それぞれの曲にはそこから連想されるタイトルがついている。それは「見知らぬ国と人々について」「不思議なお話」「鬼ごっこ」「おねだりする子供」「大満足」「重大事件」「トロイメライ」「炉端にて」「木馬の騎士」「むきになって」「びっくり」「子供は眠る」「詩人のお話」の順に並べられている。楽譜自体はそんなに複雑でもないが、単純ゆえに弾くものの音楽性や感じ方がはっきりと分かる曲だ。
彼の演奏は、第一曲の出だしでしっかりと僕の心を捉えた。決して押し付けがましくなく、むしろあっさりし過ぎているくらいにさりげなくメロディと3連符が奏でられ、聞く者の心に浸透していく。彼はまるで、おずおずとドアをノックして「入ってもいいですか?」と尋ねている異国の詩人のようだ。僕は喜んでドアを開き、「どうぞ」と彼を招き入れる。すると彼はさっきまでのしおらしさとは一変して、そこらを縦横無尽に駆け回る子供になる。大人たる僕は半ば呆れ、半ば羨ましく思いながら彼を見つめる。やがて、一通りの遊びと我が侭を終えた子供は眠りにつく。その時彼は本来の詩人の姿に返り、我々に懐かしい物語を始める。そして子供は安らかな夢の世界に浸る……。
彼は前後の調性が大きく転換する「トロイメライ」と「むきになって」の前以外は、殆ど間を取らずに曲を続けた。その為、この作品は曲集というよりは、一個の曲として僕の耳に届いた。僕宛のメッセージとして。
音の余韻が消えるのを待って、彼が鍵盤から指を離したとき、僕はようやく我に返り、慌てて拍手をした。CDで聞いた時に感じた音の親密さや深い思索的な雰囲気はそのままだったが、そんなものとは別種の、純真さだけでは語れない子供らしさも同居していた。それは決して子供の様子を描写する大人の視点ではなかった。僕がそんな印象を語ると、彼は微笑んで僕に向かって礼をしてくれた。コンサートの時みたいに。
「シューマンはこの曲集を『子供のための曲ではなく、むしろ大きくなった人の回想であり、大人のためのものだ』と言っています」
彼は言った。
「大抵のピアニストはそうなのでしょうが、私の子供の頃も練習に追われるばかりで、生活の中にこんな情景はありませんでした。だから私はこの曲を弾くことによって、永遠に損なわれてしまった、自分の幼少期を取り戻そうとしているのかもしれません」
「やはり、外で遊んだりする機会は少なかったんですか?」
「ええ、そうです。というよりも、全く無かったですね。悲しかったですよ。みんなが校庭でドッジボールやバスケットをしている横を通って、練習するために一人で帰るんですから」
「そうでしょうね」
「皮肉なことだと思いませんか? 誰よりも心を豊かに持たねばならないはずの音楽家が、こんな貧弱な思い出しか持てないなんて。楽器というものは身体運動を伴う以上、スポーツと同じように毎日のトレーニングが必要です。特にピアノなどは、物心が付くか付かぬかのうちに鍵盤に向かわねばなりません。心が音楽に向かう前にです。心が成熟し、本当に音楽を理解する様になってからでは遅いのです。そのいい例がシューマンです。彼の悲劇を御存じですか?」
「確か、どちらかの手が不自由だったそうですね」
「そうです。彼は成人するまでは、一介のアマチュアに過ぎませんでした。ヴィークに師事し、ピアニストになる為に本格的に勉強を始めたのは20歳。現在では信じられない程、晩学だったのです。彼は遅れを取り戻そうとして焦り、奇妙な機械を右手に装着し、指の動きを良くしようと練習しました。その結果、負担をかけ過ぎて右手を壊してしまった。そしてピアニストになる夢を断念して、作曲家になったのです」
僕は黙って次の言葉を促した。
「タルティー二は夢の中で、悪魔の恐ろしいまでに素晴らしい演奏を聞き、ヴァイオリン・ソナタを作曲したという伝説があります。昔から楽器を操るのに長けているものは、いつでも悪魔でした。ピアニストは、そんな悪魔の如き技を身に付けなければなりません。しかし同時に、ハーモニー、そして美しい音の響きの、神の如き崇高さをも知らねばなりません。どちらにせよ、普通ではいられないのです。20歳にして自らその世界に足を踏み入れた彼は、果たして幸福だったのでしょうか?」
僕には答えようが無かった。何故なら僕は音楽家ではないのだから。
「あなたはどうなんですか。音楽をしていて幸せでしたか?」
「分かりません。音楽をすることによって、普通では味わえないような人生を生きてきたことは確かです。ですが、人並みの幸せすら手に入れられなかったこともまた、事実なんです。私には分からないことだらけです」
そう言って彼は笑った。どこか寂しそうな笑い方だった。
それから彼は2階に行き、しばらくして1冊の楽譜を持って戻ってきた。『クライスレリアーナ』の楽譜だった。
「実は、『クライスレリアーナ』を取り上げるのは初めてなんです」
「えっ、そうなんですか?」
僕は驚いた。彼が今まで、シューマンのピアノ音楽の最高峰とされるこの曲を取り上げていないのは意外だった。
「ええ。昔、弾きかけたことがあったのですが……」
彼はややためらうようにして言った。
「何故か弾くことができなかったんです。この曲には余りにも色々なものが混じり過ぎていて、その渦に飲み込まれてしまいそうな気持ちになるんです」
「それは不思議な感じ方ですね。僕はこの曲は好きですよ」
彼はパラパラと楽譜をめくり、僕に見せた。
「そうやって、色々なものが混じり合っているくせに、妙に整然としているんですよ。8曲のテンポだって、急・緩・急・緩…と交互に出てくるし、調性だってB−dur(変ロ長調)とD−moll(二短調)という平行調(調号を同じくする長調と短調)を中心に構成されています。極度に人工的な作りなのに、極めて取りとめのない想念を連想させる。そこに何か不気味なものが潜んでいるように思えてならないんです」
「片山さんは、『クライスレリアーナ』のタイトルの由来は御存じですか?」
「いいえ、ホフマンという作家の作品から取ったらしいということしか知りません」
「その作品を実際に読まれたことは?」
「ありません。恥ずかしながら」
「一読されることをお勧めしますよ。ヨハネス・クライスラーという狂気の音楽家を中心とした短編集です。彼は、狂的にして純粋な人物です。最後は失踪してしまいますけどね」
「そんな話なんですか」
彼は驚いたように言った。
「アウトラインはそうですが、彼の、つまりクライスラー=ホフマンの音楽観が非常によく現れています。後にシューマンやブラームス、そしてワーグナーまでもが影響を受けたとされる人物です。ドイツロマン主義の創始者とも言えますね。この曲は直接はホフマンに関係ないことになってますが、きっと大きな影響は受けていると思います」
「狂気の音楽家か……。皮肉な偶然ですが、後年、シューマン自身も発狂しています。彼らの心は一体何処に行ってしまったんでしょうか。この第8曲の最後のように、この世界から別の世界へと、落ちていってしまったのかもしれませんね」
彼はそう言って、楽譜の最後のぺージを開いた。この曲は段々と音が減っていって、最後に低いGの単発の音を残して終わる。本当にどこかに消えていくような終わり方だ。
「おそらく」
「そして二度と戻ってこなかった」
僕は頷いた。彼は鍵盤には手を触れずに、長い間じっと楽譜を見つめていた。
「緒方さん」
玄関で靴を履いていると、彼が声をかけてきた。
「申し訳ないんですが、私も色々と予定がありますので、次はリサイタルの当日にお会いするというのでよろしいでしょうか」
「そうですか……」
『子供の情景』しか聞けなかったのは残念だった。本番までに一度、僕だけの為に演奏して欲しい。そんな気持ちがあった。しかし、それで彼がコンディションを崩しては、元も子も無い。
「当日は本番が18時からで、15時頃からリハーサルをします。午後からは全部会場を押さえてありますから、いつでも入ってきてください。あなたがいらっしゃることを向こうにも伝えておきますし」
リハーサルに入れてくれるというのは、多分、今の彼にできる精一杯の厚意なのだろう。僕は取材の範囲を越えた自分の我がままさに苦笑した。
「分かりました。有難うございます」
僕は礼を言って、片山家を辞去した。「頑張ってください」と言うべきかどうか考えたが、プロの音楽家にはそんな言葉は無用だろうと、敢えて口をつぐんで、車に乗り込んだ。
それからリサイタルまでの5日間、僕はずっと彼に関する原稿を書こうとした。しかし僕の中から、言葉は一言も浮かばなかった。プロフィールをなぞる事、ロートマイアーとの出会い、そんなものについて語るのは簡単だ。僕に分からないのは、彼自身が感じている音楽そのものなのだ。一体彼は何の音を聞こうとしているのだ? 今時珍しく、何故そこまで作曲家そのものにこだわるのか。そしてその上で何を奏でようとしているのか。僕にはそれが掴めなかった。そんな風に音を追い求める彼の姿は、『クライスレリアーナ』の主人公に似ていた。僕は彼がヨハネス・クライスラーと同じように、奇妙な格好で狂ったように飛び跳ねながら何処かへ去っていく姿を想像した。それは滑稽で悲壮で、かつ痛々しい姿だった。
リサイタル当日、僕は16時過ぎに会場に着いた。楽屋口から通路を通って控え室に向かおうとすると、係員に呼び止められた。僕が名前を言うと、すんなりと通してくれた。多分彼が事前に言っておいてくれたのだろう。初めて来たホールなので、迷いながら控え室を探した。何度か階段を昇ったり降りたりしていると、「片山龍介様控え室」と書かれたボードが立ててある部屋が見つかった。僕はドアをノックした。
「どうぞ」
中から彼が答えた。
「失礼します」
そう言って僕はドアを開けた。まだ彼は普段着のままだったが、ひげが剃ってある分、さらに若返ったように見えた。彼はソファに腰掛けてはいたが、何となく苛立っているようだった。
「どうかしたんですか?」
「ピアノが余り良くないんです。音が硬すぎて、いつもの調子が出せない。全く違う音に聞こえてしまうんです。音程もおかしい。今、調律師の方が頑張ってくれてるんですけどね」
彼はそのままむっつりと黙り込んでしまった。ピアニストはいつも、会場のコンディションに悩まされる。自分の楽器を毎回ホールに運ぶわけにはいかず、会場にある楽器を使わねばならないからだ。そこにある楽器がひどければ、それだけ演奏も悪くなってしまう。自力では何とも出来ない分、そのフラストレーションは凄まじいものなのだろう。繊細すぎる聴覚が仇となってしまう瞬間だ。
暫くすると内線電話がコールされた。調律が終わったようだ。彼は足早にステージに向かい、僕はその後を追いかけた。
ステージだけに照明があたり、無人の客席が真っ暗になっているというのは、何だか不気味なものだった。そこに何かが潜んでいるような気がして、僕は何度見ても好きになれなかった。ステージ上では彼が中年の調律師の男と何か口論している。やがて彼が諦めたように肩をすくめ、調律師はこっちに向かってきた。そして僕を見ると、吐き捨てるように言った。
「あんたんとこの先生、ありゃ何様のつもりだ!」
どうやら僕を付き人か何かと勘違いしたらしい。
「ピアニストのつもりだろ」
僕が言うと、男は悔しそうに背中を向けて去っていった。
舞台では彼が、最初の曲である『幻想小曲集』の第一曲、「夕べに」の出だしを引いていた。音の響きと音程を確かめているだけらしく、余り真剣には弾いていないようだった。それでも僕の中で、演奏への期待は充分高められた。しかし彼はすぐ舞台袖に戻ってきた。
「リハーサルはいいんですか?」
「大体分かったからいいんですよ」
そう言って彼は楽屋に戻った。時計を見ると17時。開演まであと1時間だった。
控え室に帰ると、彼は着替えるから外に出ていて下さいと言った。僕はロビーに行って、今月の催し物についての案内を3回読んだ。開場前のロビーは、忙しく受付準備をするホールの職員以外は誰もいなかった。受付の女の子が、胡散臭そうな目で僕を見た。何となく気まずくなったので、僕は目ぼしいコンサートのチラシを何枚か貰って、急ぎ足で控え室に戻った。
ノックをすると、すぐにドアが開いた。そこには正装した彼が立っていた。長身痩纏の身体にタキシードを纏った彼は、古いヨーロッパ映画のワンシーンに登場しそうな雰囲気だった。
「素晴らしい」
僕は感嘆した。
「古い演出だという人もいますが、私は聞きに来てくださる方に敬意を払って、いつも正装するんです」.
「ルックスだけでもかなりのものですよ」
「いえ、私は役者じゃないんです。ピアニストの評価は純粋に演奏で決まりますから」
彼はいささか生真面目すぎる表情でそう言った。
僕らが控え室で休んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。彼は顔を上げ、僕に「断って欲しい」という合図を寄越した。
僕がドアを開けると、一人の男が立っていた。
「すみませんが、関係者の方以外は……」
言いかけた僕を、彼が制した。
「いや、いいです。緒方さん。入れてください」
そして男に向かってこう言った。
「久し振りだな、押上」
「お知り合いですか?」
僕は驚いて尋ねた。
「ええ。高校の同級生なんです」
言われてみて気付いたが、ここは彼の生まれた土地なのだ。知り合いも大勢来ているのだろう。僕は改めて押上と呼ばれた男の方を見た。こちらは彼とは対称的に、壮年に差しかかりつつある男の、強さや逞しさが強調された顔をしていた。背はそんなに高くないが、がっちりとした体格をしていた。そして仕立てのいいダークブルーのスーツを着ている。有能なビジネスマンといった感じだ。
「龍介、本当にピアニストになったんだな……」
押上さんは彼を見て、しみじみと言った。
「ああ。何とかそう呼ぱれるようにはなれたよ。しかし、その服。お前はやっぱり目立つな」
「そのタキシードと一緒で、ビジネスマンにも演出は必要なんだ」
そして二人は顔を見合わせて笑った。
「この人は、マネージャーなのか?」
押上さんは僕の方を見ながら言った。
「いや、取材をしてもらっている、ライターの緒方さんだ」
はじめまして、と僕は頭を下げた。
「なぁ、学校の奴等は大勢来ているのか?」
「多分ね。高校の同窓会からも手紙が送られてきたからな。一躍名士扱いだぜ」
「馬鹿馬鹿しい。在学中には見向きもされなかったってのに」
「あのサロンコンサートのことも大仰に書かれてて、俺まで恥ずかしかったよ」
「そうか。そういや、そんなこともあったな……」
そう言って彼は遠い眼をした。何かを思い出しているようだった。押上さんが入ってきた時の嬉しそうな表情から考えると、多分それは彼にとって良い思い出なんだろう。彼がそういったものを持っていたことに、僕はなんとなく安堵を感じた。そして壁に掛けられた時計を見た。開演まであと15分。
そろそろ舞台袖に向かおうかという頃、もう一度外からノックする音が聞こえた。僕がドアを開けると、そこには一人の老婆が立っていた。老婆の顔は硬い皺と染みで覆われていて、ひどく醜かった。そして髪は一本残らず白くなっていた。
「龍介……」
老婆は声を振り絞るように言った。その声は容貌から想像されるものよりも、随分若かった。もしかしたらまだ還暦前後の年齢なのかもしれない。
「龍介、私が分かる?」
まるですがるような言い方だった。その時、ガタリと音を立てて、凄い勢いで彼が立ち上がった。そしてぞっとするような恐ろしい眼で老婆を睨みつけていた。
「俺は、あんたなんか、知らない」
彼は一言ずつ、吐き出すように言った。その顔は歪んでいた。苦痛、憎悪、そういった負の感情のために。しかし僕は、同時に二人の横顔がどことなく似ていることにも気が付いた。
老婆はなおも言った。
「龍介、お母さんが分から……」
その時、彼がテーブルを叩き、大声で叫んだ。
「出ていけ!! 二度とその面を見せるな!」
その言葉は激しく、そして右の拳は骨も砕けんばかりに強く握り締められていた。手の甲には、大きく斜めに走る傷がはっきりと浮かび上がっていた。僕は場違いにも『聖痕』という言葉を連想した。しかし、演奏前にこれ以上右手に負担をかけてはいけない。そう思って僕が声を出そうとした時、押上さんが口を開いた。
「申し訳ございません。何しろ彼は、演奏前でナーバスになっておりますので、これでお引き取り願えませんか?」
老婆はがっくりと肩を落とした。押上さんが老婆の肩を抱,き、外に連れ出した。ドアの閉じる音を聞いた後、彼はひどく震え始めた。
「大丈夫ですか?」
「どうして……今さら、どうしてなんだ……」
彼は完全に我を失っていた。止むを得ず、僕は彼の背中を叩いた。
「片山さん、しっかりしてください!!」
彼は正気に戻ったように辺りを見回し、そして僕に言った。
「開演は10分遅らせてもらいます。それから……、少し一人にさせてください」
僕は頷いて外に出た。ドアを締めるとき、彼が右手をじっと見つめているのが見えた。
しばらくすると押上さんが戻ってきた。僕らは交わす言葉もなく、控え室の前で並んで待っていた。控え室からは
物音一つしなかった。ドアは凍ったように沈黙していた。次にドアが開いたとき、彼は血の気の失せた顔のまま、外に歩き出した。そして小さく一つ頷き、僕にタオルとミネラルウォーターのボトルを差し出した。僕がそれを受け取ると、そのまま振り返りもせずに舞台に向かって歩いて行った。
700人収容のホールは、ほぼ満席だった。よほど有名な公演でもない限り、クラシックでこれだけ人が集まるのはやはり凄い事だった。しかも世間的には無名のピアニストが……。僕がそう考えていると、後ろから押上さんが言った。
「この中の一体何人が、龍介を『友達』扱いするんだろう?」
僕は首を捻って、それを答にした。それを答えるには、僕は余りにも彼の事を知らなさ過ぎる。
彼が舞台へ一歩踏み出した瞬間に、大地を揺るがすような拍手の嵐が起こった。ピアノの脇に立ち止まった彼は、どこか居心地が悪そうだった。演奏を聞く前からすでに熱狂している聴衆に、戸惑いを覚えたのかもしれない。
それでも彼は、客席に向かって丁寧に礼をし、ピアノの前に座った。『幻想小曲集』の第1曲、「タベに」が鳴った。隣の押上さんが声にならない溜め息を漏らす。
「こんな優しい音で弾くようになったのか……」
実際それは壊れやすいガラスに触れるような、慎重で優しいタッチだった。彼の前に広がる夕日はぎらぎらした西日ではなく、むしろ遠くのほうから我々を照らす夕焼け、陽が落ち切った後にまだ西の空で幾つかの雲を染めている、そんな熱のない静かな夕焼けだった。続いて、雰囲気をがらりと変え、目まぐるしい動きが続く「飛翔」。上昇型の音符が、彼自身を上へ上へと運び上げていくようだった。しかし、地の底で轟めく何かがそれを引き留めようとする。その葛藤。そして「なぜに」。何故自分はここにいるのか、何をしているのか、そんな問いかけを含んでいる。しかし、その問いかけは答えられぬままに、彼を矛盾の中に放り込む。「気まぐれ」はユーモアを持ちながらもどこか悲しみに沈むピエロを思わせる。ピエロはお白粉に涙を隠して、奇妙な軽業を披露し続ける。
そこで彼は少し手を休めた。前半と後半にこの曲集を分けるのは、楽譜に書かれている通りだった。
後半は「夜に」から始まった。夕方はあれ程優しく、穏やかだった心も、夜になると突然何かが外れ、押さえ様のない気持ちが溢れ出して、渦を巻き始める。しかし「寓話」でその激しい波は収まり、彼の心は古い物語に向けられる。まるでさっきまでの激しい感情を忘れようとするかのように。そして美しい物語の結末が訪れる。それを聞きながら彼は静かに眠りにつく。「夢のもつれ」。彼は楽しくはしゃぎ回る夢の中にいる。しかし、ふと夢は途切れ、別の情景が現れる。そこには昔の恋人の姿がある。しかし彼の心はそこには届かず再び初めに見ていた夢の中に戻される。そこでは「歌の終わり」として婚礼の宴が行われている。華やかに踊る人々。シャンパンが酌み交わされる。彼は婚礼を祝うためにピアノの前に行き、軽快な舞曲を奏でる。そして祝福される花嫁と花婿。しかしそこに、親しい人の死を知らせる便りが舞い込んでくる。彼は一人婚姻の列から離れ、白い墓石にそっと花を手向けた。
曲が終わった時、僕は迷わず拍手をした。この曲集の各曲がここまで有機的に結び付き、一つの物語のように聞こえるものだとは、考えもしなかった。僕の耳の横で押上さんの拍手もまた、鳴りやむことはなかった。
続いて彼は『幻想曲』を弾いた。この難しく、一見取りとめのない曲は、思索的な詩人ではないもう一人の彼、リストやラフマニノフを弾きこなす、ヴィルトゥオーソとしての片山龍介を示していた。早朝の霧が晴れ、そこから風景が現れる様に、彼の姿は変貌を遂げていた。
三楽章に渡る音楽は、シューマンという男が見続けた一つの壮大な幻想なのかもしれない。頻繁に曲想や調性が変わるのは、これが幻想であるが故にか。彼はいつものように譜面スタンドの辺りに視線を固定していたが、曲の途中で不意に頭を右斜め上に上げた。しかし、彼はこちらに背を向けているので、正確な表情や視線は読み取れなかった。そしてそのままの姿勢でしばらくピアノを弾き続けた。しばらくして被は、突然首を左右に振った。それから今度は鍵盤すれすれまで頭を下げて背を丸めた。彼のそんな振舞いは、少なくとも僕の知っている限りでは見たことがなかった。
「どうしたんでしょう?」
僕は不安になり、押上さんに尋ねてみた。
「分からない。とにかく曲が終わるまで待とう」
演奏が終わってこちらに引き上げてくる彼の顔は、相変わらず蒼白だった。まるで僕らの身体の向こう側を見透かすような眼で、彼はこちらを見た。僕が水のボトルを差し出すと、彼は受け取って二口だけ飲んだ。そしてそのまま控え室に引き上げてしまった。
15分の休憩の間、彼は身動き一つせずに、椅子に座っていた。その姿は何かに祈っている様でもあり、途方に暮れている様でもあった。あれだけ長い時間───ほぼ1時間だ───ライトに照らされていたにも関わらず、彼は全く汗をかいていなかった。それだけに、逆にそこには悲壮な緊迫感が漂っていた。
僕と押上さんはそっとドアを開けて外に出た。そこにいると沈黙で息がつまりそうだった。
開演5分前のブザーと同時に控え室の扉が開いた。
「さあ、行こう。音楽はもう始まっている」
彼は何か、ふっ切れた様な表情でそう言うと、一人で歩き出した。今度はタオルも水も持っていなかった。彼は全くの手ぶらだった。
「どういう意昧なんでしょう?」
僕は押上さんに尋ねてみた。別に答えを期待した訳ではなく、単に問いかけずにはいられなかったのだ。
「高校の頃、龍介にトランペットの伴奏をしてもらったことがあった」
押上さんは独り言のように言った。それでは、僕がリビングで見た写真に写っていたトランペッターは、押上さんだったのだ。
「その時彼はこんなことを言ってたんだ。『メロディは初めから和声の中にあるのだ』と。でも、和声が何処から来るかという事については、何も言わなかった。もしかしたら、あいつは何か、もっと深い意味で、音楽を感じているのかもしれない」
「まさか」
僕は言った。
「そんな事、一体誰に分かるというんです? 気違い沙汰ですよ」
僕の強い調子に、押上さんは少し戸惑ったようだった。
「そうか。俺の考え過ぎかな」
「きっとそうですよ」
それから僕らも彼を追って、舞台袖に向かった。
舞台袖では既に彼がスタンバイをしていた。そして、一心に両手をこすり合わせていた。その合わさった手のひらの形は、何かに祈りを捧げる時の手つきを思い出させた。
「あの癖だけは昔と一緒だ」
押上さんはぽつりと眩いた。
休憩が終わり、彼はもう一度舞台に歩み出した。舞台の照明は、さっきよりも明るさを増したようだった。
彼は客席に礼をし、『子供の情景』を弾き始めた。しかし僕は、彼の弾くテンポがこの前よりも少し落ちていることに気付いた。前半のプログラムでは感じなかったが、彼は広すぎる会場に拡散する音と、音が硬すぎるというピアノにためらっている様にも聞こえた。
演奏が十三曲の真中に当たる『トロイメライ』に差し掛かった時、異変は明らかになった。彼のテンポはもう、誰が聞いても分かる程に落ち込んでいた。
この曲は四分音符=80〜100で演奏するのが標準的なのだが、彼は四分音符=50くらいのテンポで弾いていた。そして、初めの方に出てくる装飾音がやけにはっきりと聞こえ、その次の和音で、曲が止まってしまったかに思えた。僕は息を飲んだ。しかし、彼は次の音を弾いた。
「これが、龍介にとっての『トロイメライ』か」
押上さんの言葉に僕ははっとした。トロイメライとは「夢想」を意味する言葉だ。シューマンの夢、そしてその楽譜を改訂し、普及に努めたクララの夢。弾く人によって無数に表現される夢がある。きっとこれは、片山龍介の夢なのだ。夢から醒めるのを拒むように、彼はゆっくりと弾き続ける。その夢は、『トロイメライ』が終わった後も醒めることなく、後半の曲を支配し続けた。演奏を終えた彼の背中は丸められ、小さく震えていた。そして彼は、客席に向かって立ち上がった。その眼は潤んでいる様に見えた。
「……泣いているのか?」
押上さんは言った。
「分かりません。ただあの人は、失われた子供の頃を取り戻すために、この曲を弾いているのかもしれないって言ってました」
「ひどい生活だったらしいからな」
僕は頷いた。
彼は再びピアノの前に着き、体を構えた。背中がいつもよりもかなり前傾していた。そして『クライスレリアーナ』は唐突に始まった。第一曲の冒頭にある音の奔流が渦を巻き、この空間全てを流し尽くそうとした。そこには霞がかったような夢も柔らかさも無かった。全てはリアルな音として、ダイレクトに耳に飛び込んできた。激しく何かに駆り立てられたかと思うと沈静し、そうしているとまた何かが溢れて自分を押さえられなくなる。この曲は極めて精神状態の不安定な人間を連想させる。
第7曲が始まった頃、僕は信じられない音を耳にした。彼はピアノに向かったまま、捻っていた。その声は段々と高くなり、まるでヴォカリーズの様に僕の耳に届いた。その音は曲とは全く関連が無かったため、その声を聞き取った、僕を含めた何人かの聴衆が驚いたようだった。前の方の客席がざわつき始める。
「押上さん!」
僕は慌てて声をかけた。
「一体どうなってるんだ?」
押上さんは途方に暮れた眼差しで、旧友の姿を眺めていた。最早、彼の長く引き伸ばされた声は、誰の耳にも届いていた。今更止めようもない。僕らはただ成す術もなく、舞台中央を見つめた。曲はいよいよ大詰めの第8曲に差しかかった。戯けるような低音の動きを弾きながら、声を上げ続ける彼の姿は滑稽で異様なのだが、同時に悲壮であり、崇高でもあった。我知らず目頭が熱くなった。彼はとうとうシューマンの、そしてヨハネス・クライスラーの聞いていた何かを感じることが出来たのだろうか。やがて彼の声のボリュームと共に、ピアノの音はどんどんと減っていき、最後にGの低音だけが鳴った。その音はひどく遠いところから響いて、すぐに消え去ってしまった。
会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こった。僕はもう涙を堪えなかった。隣では押上さんが熱狂的に拍手を送っていた。
やがて彼が立ち上がり、会場は興奮の堆塙になった。しかし彼はマリオネットの様に機械的に頭を下げ、真っ直こちらに向かって歩いてきた。そして立ち止まること無く控え室に入り、そのまま椅子に座り込んだ。
「龍介」
押上さんが呼んだ。彼は僅かに顔を上げただけだった。僕は首を振った。
「客が訪ねてくる前に引き上げましょう」
僕らは、まだ正装したままの彼を二人掛りで立たせた。意識ははっきりしているようで、彼は自分の足で歩いた。そして裏口に停めてある僕の車まで連れて行った。ホールの外に出ると、雲の切れ目から見事な満月が現れた。どこまでも空気の澄んだ晩秋の夜だった。僕が助手席のドアを開けると、彼は黙って乗り込んだ。
「龍介、やっぱり、お前は」
押上さんは声を詰まらせながら言った。
「俺にとって、最高のピアニストだ」
彼は少し首を動かして頷いた。それを合図に、僕は車を走らせた。バックミラーに、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、独りぼっちで佇んいる押上さんの姿が映った。
帰り道、彼は一言も口をきかなかった。眼は開いていたが、まるで深い眠りに落ちてしまったかのように、彼は静かだった。僕は隣にいるはずの彼が、徐々に消えていくような、そんな錯覚を感じ続けた。
家の前で車を停めた時、初めて彼は僕の顔を見た。そして聞き取れないくらいかすれた声で「ありがとう」と言った。そのまま彼は車を降りて、家の方に歩いて行った。夜の闇に包まれて、彼の身体の輪郭がぼやけた時、僕は不意に、もう二度と片山龍介のピアノを聞く事が出来ないのでは、と思った。彼は闇に溶け込むようにして、僕の視界から消えていった。