U.Lamentoso
永野秀美の思い出
「君は愛が最も強い情熱だと思う?」と彼は聞いた。
「もっと強いものがあるだろうか?」
「あるとも、関心さ」
(T.Mann 『ファウストゥス博士』より)
窓の外は暗く、色とりどりの灯りが灯されていた。ホテルの最上階のラウンジからは、この街の夜景が一望できる。客としてみれば素晴らしい景色なのだろう。しかし、一年以上もここでアルバイトしている私にとっては、何の新鮮さも無い景色だった。私の仕事はこのラウンジのウェイトレスである。ここの客はホテルに宿泊しているビジネスマンか、品の良い中年夫婦が殆どだったので、街の居酒屋やスナックよりはずっと安全で清潔だった。仕事を始めた頃には意識していた営業スマイルも、いつのまにか顔の一部となった。ホテルなのでいくらか礼儀にうるさいところもあったが、その分時給は良かった。つまりは申し分のない職場だった。でも私にはたった一つ、大きな不満があった。それは退屈さだった。
実際その頃、私はあらゆるものを退屈に感じていた。アルバイトもそうだったが、大学はもっとつまらなかった。私はバイト先から電車で三十分程かかるところにある、芸術大学の文芸学科創作コースに通っていた。音楽家志望者が音楽大学に、画家志望者が美術大学に行くように、私はそこに入った。小説家になりたかったからだ。私は子供の頃から文章を書くことが得意で、中学の頃には既に、原稿用紙にして三百枚を超える小説も書いていた。だから、ごく自然に今の大学を選んだ。自分と同世代の人間がどれほどの物を書くのか見てみたいという気持ちもあった。しかし、大学の同級生はあまりにも凡庸だった。読み終わった後に何一つとして印象に残らない、だらだらとした絵空事の長編小説。知りもしないくせに、ただ悪戯に人生の醜悪さだけを描き出した私小説風の小説。そしてケーキに生クリームを倍ほど乗せ、その上から砂糖を振りかけたような、歯がきしむくらいに甘い、理想と願望だけの恋愛小説……。もっと馬鹿馬鹿しいのは、小説なんて一つも書いたことのない人間が、楽々と合格しているということだった。そして私は、段々と大学生活に倦んでいった。
私は今にも口から飛び出しそうな欠伸を噛み殺し、ラウンジ内を眺めた。今日は平日なので、客もそう多くはなかった。十五人といったところだ。外国人客も何人かいた。フロアの中央に置かれたグランドピアノでは、アルバイトのピアニストが古いムード音楽を奏でている。彼は、常勤のピアニストが入院したために、九月の初めから一ヶ月の代理として来ている。私と同じ大学の音楽生で、学年も同じ三回生ということだが、大学で見かけたことは一度もなかった。彼が弾いている音楽は、妙に私を苛立たせる。大体私はいかにもラウンジ的な、軽薄なムード音楽が大嫌いなのだ。事前に弾く曲を全て決められている事が分かっていても、そんな音楽を弾いているせいで、彼自身もひどく軽薄な人間に見えた。彼は整った顔立ちをしているのだが、痩せているために、黒いタキシードを着ているとヴァンパイアみたいだった。マントを着ればそのまま映画に出られそうだった。私はぼんやりと、彼がスクリーンで美女の首筋に歯を立てる姿を想像した。頭の軽い女なら一発で痺れてしまうくらいには、格好良かった。
その時、窓際の席に座っていた初老の外国人女性が立ち上がり、ピアノに向かってゆっくりと歩み寄った。そして彼女はピアニストに何かを囁きかけた。どうやら曲のリクエストらしい。ピアニストは彼女の言葉に対し、「Oui,Madame」と呟くように答えた。何を弾くんだろう? 私は彼の横顔を見つめた。その手がゆっくりと鍵盤に乗せられる。次の瞬間、音が生まれ、フロア中の時間が止まった。
その時の彼の姿は、普段とは全くの別人だった。彼は鋭い視線を譜面立ての辺りに集中し、何かを見つめるように音を弾き始めた。もしかしたら、自分の指先から紡ぎ出される音を見つめ、吟味していたのかもしれない。彼の顔は大理石で出来た彫像のようで、その音楽と比べると、余りにも無機的だった。
最後の和音の余韻が静かに消えていった時、一瞬の静寂が生まれ、続いてフロアのあちこちから拍手が挙がった。私はといえば、自分がウェイトレスであることも忘れ、その音楽に聞き惚れていた。曲のタイトルは浮かばなかったが、どこかで聞いたことのあるような気はした。きっと有名な曲なのだろう。しかし何よりも驚くべきことは、彼が弾き終わるまでの5分ほどの間、フロア中の客が1人として注文をしたり、スタッフを呼びつけたりしなかったことだ。
「Bravo!!」
リクエストをした婦人が叫び、彼に握手を求めた。一瞬のためらいの後、彼は椅子から立ち上がり、左手を差し出して握手をした。そして婦人は手を挙げて私を呼んだ。
「Kotira−no−kata−ni−nanika」
彼女はたどたどしい日本語でそういった。
「かしこまりました」
通じるかどうか分からなかったが、とりあえず日本語で返事をしておいてから、私は彼に尋ねた。
「何にします?」
「任せるよ」
彼がそう言ったために、やむなく私はカウンターにいるバーテンダーのところに向かった。
「凄いな、彼」
まだ若いバーテンダーは心底驚いたように言った。
「あんな演奏、聞いたことがない。お決まりのラウンジ用の音楽を弾かせとくなんて、もったいないよ」
「ほんと、驚いた」
私は同調した。
「彼に何か作ってあげてって」
バーテンダーは少し思案した後に、誰かの肖像らしきものが入った瓶を手に取った。
「それは?」
「これはポーランドのウォッカで、“CHOPIN”って言うんだ。ほら、ここにショパンの肖像画が入っているだろ。さっきの曲はショパンの『別れの曲』だからね」
そのタイトルは私も知っていた。TVのCMなんかでもよく使われている。にも関わらず、使い古された曲という印象は全くなかった。それがショパンの力なのか彼の力なのかは分からないけれど。
バーテンダーは次にモーツァルトという銘柄のチョコレートリキュールとアマレットを取り出し、三つの酒をシェイクした。そしてソーサー型のシャンパングラスに注ぎ、生クリームをフロートさせる。
「ショパンとモーツァルト。音楽家にふさわしい」
「オリジナル?」
「そう。彼のために」
私はグラスの中できれいに層に分離している、ココア色の混合酒と純白の生クリームに見入った。
「なんて名前にするの?」
彼はしばらく考え、それからぱっと何かを思いついたような顔をした。
「“Music of the night” どうかな?」
「『夜の調べ』なんだ。でも、どうして?」
「うん。モーツァルトの曲には『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ってやつがあって、そのナハトムジークってのは『夜の音楽』っていう意味なんだ。それからショパンが幾つも作ったノクターンは『夜の祈り』が語源だって言われているんだ。だからそれにひっかけてみた」
そして私にグラスを渡しながら言った。
「彼のお気に召すといいんだけど」
「きっと気にいってくれると思う」
グラスをトレイに乗せてピアノの方に向かうと、彼は先ほどの婦人と外国語で話をしていた。私にはよく分からないが、どうやら発音の雰囲気を見ると、フランス語のようだった。
「お待たせしました」
私はピアノを弾き終えて、くつろいだ表情になっているピアニストにグラスを渡した。彼は婦人に向かって礼を言い、グラスに口を付けかけた。
「それ、オリジナルだって」
彼は驚いたようにグラスの中の液体を眺めた。
「そんなもの作ってもらったのは初めてだ。何て名前なんだろう?」
「“Music of the night”だって」
「いい名前だ」
そしてゆっくりとした動作で、カクテルを口に含んだ。
「かなり甘めだけど、なかなか旨いな」
彼はそう言うと一気にカクテルを飲み干し、グラスをバーテンダーの方に掲げた。先ほどの握手もグラスを持つのも左手だったために、私は彼が左利きなのだと思った。右手はズボンのポケットの中に突っ込まれていた。
「さっきのピアノ、本当に凄かったよ」
私がそう言うと、彼はじっと私の目を見た。彼は背が高く、覗き込まれるような感覚があったので、私は意味もなく動揺してしまった。
「ありがとう」
彼は言った。
それが私達の初めての全話だった。
彼の弾くショパンを聞いてから、私の耳はおかしくなってしまったに違いない。何故ならそれまで大嫌いだったムード音楽も、彼が弾いていると考えると、とても自然に聞こえるようになったからだ。まるで呼吸するように、それらの音は私の中に入ってきた。そしてその音によって、私の中に溜っている言葉の澱は、淀みなく引き出されていった。私は次第に、彼のことを身近に感じるようになった。
その後、私達はスタッフルームで何度か顔を合わせているうちに、徐々にだが言葉を交わすようになった。そして彼は私が小説を書いていることについて、興味を持ってくれたようだった。
「俺の父親が昔風の文学青年でね」
と彼は言った。
「だから俺の名前も、同じ誕生日の作家にあやかったんだ」
その時私は、彼の名前を聞きそびれていたことを思い出した。
「そういえば、私、まだ君の名前を聞いてないよ」
彼は驚いたように私を見た。
「えっ、そうだっけ。君の名前を聞いてたから、もう知ってるもんだと思ってた」
「ううん、知らない」
私は首を横に振った。
「それは礼儀に反していたな。俺は片山龍介って言うんだ」
「龍介?それって芥川?」
「そう。俺も芥川も3月1日生まれだから」
余りの名前に私は吹き出しそうになった。
「名前負けしなかったら、大作家になれるね」
そう言うと、彼はおかしそうに笑った。笑うと端正な顔が崩れて、どこか子供っぽくなった。
常勤のピアニストが復帰し、彼が職場から去る日がやってきた。彼は普段と同じように、時折リクエストに答える以外は、決められた楽譜を丁寧になぞっていた。しかし、そろそろ閉店という時間になって、突然手を挙げて私を呼んだ。
「どうしたの?」
私が聞くと、彼は少しはにかんで言った。
「何か、聞きたい曲はある?」
私は咄嵯に思いつくことができなかった。
「ショパン……」
「ショパン?」
「ショパンの曲を何か」
「何でもいい?」
「うん」
そこで彼は少し考え、そして言った。
「それではワルツ嬰ハ短調作品64の2を」
彼は暫く目を閉じて神経を集中すると、両手を鍵盤の上に乗せた。その手を間近で見た時、私は初めて彼が左手で握手をした訳を知った。彼の右手の甲には、大きな傷痕があったのだ。
そして私は再び、あの音に包まれた。優しく、だけどとても切ない旋律を持つそのワルツは、何の抵抗もなく私の心の一番深い部分に浸透した。私は身体の隅々に、血液とともにピアノの音が行き渡るのを感じた。そして、彼を離したくないと痛切に感じた。
その夜、私は彼に告白した。
彼との交際はひどくストイックなものだった。私は週に4日はアルバイトに行っていたし、彼は1日の大部分の時間をピアノの練習に充てていた。だから、たまに大学で昼食を共にする以外、殆ど会うことはできなかった。普通のカップルのようにお互いの下宿を訪れることはおろか、どこかに食事にでかけたり遊びにいったりすることも、手をつないで歩くことさえなかった。
もしかしたら彼は、私と一緒にいることによって、自分の生活スタイルや練習のペースが崩れることを恐れていたのかもしれない。演奏家はスポーツ選手と同じ位、その生活を厳しく律しているという話を聞いたことがあった。彼が本当にそんな生活をしているのかは分からないが、私のように、自分の興味を引くものにはどんどん首を突っ込んでいくというタイプではないのは確かだった。そして彼の無関心に近い態度は、時に私を不安にさせた。
そんな不安を解消しようとするかのように、私は彼と会う度に、のべつまくなしに喋り続けた。話せば次の瞬間に忘れてしまうくらいの空虚な金話だった。話はいつも尻切れトンボで、私はそのトンボのしっぽを何とかして捕まえようと走っている子供みたいだった。彼はそんな私を見て、いつも静かに相槌を打っていた。そして自分のことは殆ど何も話さなかった。
話が途切れてしまうと、私は何度も腕時計に目をやった。それは落ち着かない時の癖で、以前から相手に失礼だと注意され続けていたが、直すことができないのだった。そんな時、彼は少し斜め上に視線をやったまま、黙っていた。まるで頭の中にある楽譜を一人でめくっているような顔だった。私の中には彼に伝えたいことや言いたいことがぎっしりと詰まっていたのだが、それらを上手く言葉にすることはできなかった。書くことと語ることが大きく違うということを、私は強く感じた。
彼の下宿を初めて訪れたのは、11月の最初の日曜日だった。彼の下宿は大学からバスで20分程山に登ったバス停から、さらに徒歩で15分かかる所にあった。
「なんでこんなに遠くに住んでるの?」
「音楽の学生は騒音公害になるから、なかなか受入先がないんだ。特にピアノ生は広い部屋が必要だしね」
「どうして?」
「専攻の人間が、コンパクトな電子ピアノって訳にもいかないだろ」
私の学科と比べると、学費が二倍近くかかるということもあって、常々音楽系は大変だと聞いていたが、住む所まで制限されているとは知らなかった。
「入学案内に付いている学生寮紹介でも、音楽系は除くってところが多いんだ」
と彼は言った。
日曜の昼下がリは11月とは思えない程暖かく、私はジャケットを脱いだ。彼は上下ともに真っ黒な服を着ていたが、汗一つかいていなかった。バス停の周囲に集まっていた住宅街を抜けると、後は山の斜面に沿って作られた、葡萄畑が広がっていた。何処かに出かけるには最適な日和だった。彼の下宿はまだ新しい二階建てのアパートだった。建物の大きさに反して扉が少ないところから、一つ一つの部屋が広いのだろうということが分かった。
「やっぱり住んでるのは、音楽の人が多いの?」
「いや、ピアノは俺だけだね。よく知らないけど写真や美術の人もいるらしい。やっぱりアトリエとかスタジオみたいに部屋を使いたいって感じじゃないかな」
「ピアノなんか弾いて、苦情が出ない?」
私は心配になって聞いてみた。
「部屋は端っこだし、隣はこの前出ていって空いてるから、大丈夫さ」
そんな会話を交わしながら、私達は階段を昇り、一番奥の部屋に行った。表札は出ていなかったが、そこが彼の部屋らしい。彼はポケットから鍵を取り出して、ドアを開けた。
玄関を上がると右側にキッチンがあり、左側にはセパレートのバスとトイレがあった。そして正面にはドアが付いていた。きっと防音の役割も兼ねているのだろう。
「どうぞ」
彼は正面のドアを開き、私を招き入れるような仕草をした。部屋は十六畳位の、とても広いワンルームだった。床はフローリングで、右側にはベッドと小さなテーブル、そして辞書や教科書を入れる棚と書き物机があった。机の上にはフランス語の辞書が置かれていた。私はそこで、彼が以前ホテルでフランス語を話したことを思い出した。
「音楽系でフランス語って珍しくない?」
私は尋ねた。殆どの音楽生はイタリア語かドイツ語を履修するという風に聞いたことがあるからだ。
「まあ、そうかも。でも、俺はフランスの音楽が好きだし、卒業したら向こうに留学するからね」
私は彼がそんな大事なことを教えてくれなかったことに、ショックを受けた。どうしてこの人はそんな大事なことを言ってくれなかったんだろう。黙り込んだ私を、彼は怪諾そうな目で見ていた。
私は気を取り直して、彼が好きだというフランス音楽の作曲家の名前を思い出そうとしたが、ショパンしか出てこなかった。そう言うと、彼は苦笑した。
「確かにフランスで活躍したけど、ショパンはポーランド人だ」
私は無知を晒してしまったことを恥じ、黙って部屋の観察を続けた。部屋の真中には黒くて大きなグランドピアノがあった。ワンルームの部屋にグランドピアノがあるというのは、不思議な感じだった。まるで違う風景を切り取ってはめ込んだように、ピアノは異様な雰囲気を漂わせていた。そして部屋の左側にはクローゼットとコンポと本棚が二つ置いてあった。一つには本が入っていて、もう一つには楽譜とCDが入っていた。そしてコンポの横には、取っ手の付いた堅そうな焦げ茶色の箱が置かれていた。
「あの箱は?」
私は純粋な好奇心から尋ねてみた。
「ああ」
彼は少し恥ずかしそうに答えた。
「トランペットだ」
「トランペット?」
「ピアノと声楽の学生は、1・2回生の間、副科でオーケストラの楽器を一つ勉強するって決まってるんだ」
「でも金管楽器って、意外だね。君はもっと……ヴァイオリンとかチェロとか弾いてそうなイメージがあるのに」
「高校の頃、トランペットの伴奏をしたことがあるんで、興味を持ってたんだ」
私はおや、と思った。彼が高校の頃の話を具体的にしたのは初めてだったからだ。
「その人は今どうしてるの?」
「一浪して経済関係の大学に入ったらしい。プロになれる程ではなかったけど、なかなかいいプレイヤーだったよ」
最後の方は眩くように小さな声だった。私は彼がひどく懐かしそうな顔をしているのに気付き、何となく穏やかな気持ちではなくなった。いつかずっと先に私のことを人に話すことがあっても、彼はやはりこんな顔で話してくれるのだろうか?
「君はトランペットはどうだったの?」
私は話題を元に戻してみた。
「いや、さっぱりだった。マウスピースで音を出すのも難しかったな。音程を一定に保つだけで一苦労だったよ。後で聞いたら、先生も俺のことは諦めていたらしい」
私は笑った。彼が必死でトランペットを吹いている姿が想像できたからだ。きっとピアノの時とは似ても似つかない形相で、懸命に楽器に息を吹き込んでいたのだろう。話に区切りが付くと、私は早速本棚をチェックし始めた。
自分で文章を書いていると、どうしても他人の読んでいる本が気になってしまう。私は指でなぞるようにして、本の背表紙を追った。べートーヴェン・ショパン・リスト・ドビュッシー・ラヴェルー……、殆どがいわゆるロマン派とそれ以降の音楽家に関する伝記や解説書だった。私はショパンの伝記を手に取った。
『……フレデリクは1810年、3月1日にジェラゾヴァ・ヴォーラに生まれた』
彼が肩越しに本を覗き込んできた。
「1810年は不思議な年だった。ショパンとシューマンが生まれた。そしてその翌年にはリスト。奇跡みたいな時代だった。時々、そういう偶然が起こる。バッハとヘンデル、ワーグナーとヴェルディ。いずれも同い年だ。偉大な才能は生まれる前から引かれ合うものなのかもしれない。実際の人生で会う会わないは別として」
私はショパンの誕生日を指でなぞった。
「ショパンとも一緒なんだね」
「そうらしい」
彼は平板な声で答えた。
本棚には不思議なことに、演奏家に関する本は一冊も無かった。
「どうしてピアニストや指揮者の伝記は無いの?」
「どう言ったらいいかなあ」
彼は少し考えてから口を開いた。
「演奏者は、ただ楽譜に向き合えばいい。演奏家が示せるのは、楽譜の中にあるほんの一部の可能性だけだからね。だから、演奏家に関する伝記や参考書っていうのは、実際にはあまり役に立たないんだよ。むしろ、演奏そのものを聞くことの方が重要なんだ」
なるほど、と私は頷いた。そして再び背表紙を追った。音楽書以外の本はすべて小説だった。漱石から始まって、芥川龍之介・泉鏡花・中島敦・三島由紀夫と続いた。私の読書は外国文学が中心なので、彼等については教科書程度の知識しか持っていなかった。だからこの読書傾向に脈絡があるのかどうかは判断しかねるが、とりあえず共通点はあった。皆死んでいる作家ばかりだった。
「今時の文学青年もびっくりするようなラインナップだね」
「そうかな?」
「うん。私の周リでも、こんな本を読んでいる人は珍しいよ」
「まあ、半分は親父の趣味さ。これは彼の持論だけど、優れた作品は時間の洗礼を浴びて、初めて姿を現すらしい。だから俺は、いつも死んだ人間の本しか勧められなかったな」
「それって本当だと思う?」
彼は少し考えてから言った。
「多分、本当だろうね。というより、リアルタイムで本当にいいものを見抜くには、かなりの才能が必要な気がするよ。作家や演奏家とは又違う、批評家としてのセンスみたいなものがね」
「でも、最近の批評家は、あんまりそんなものの発掘には乗り気じゃなさそうな気がするけど」
「そうだなぁ、確かに大方の馬鹿な批評家は、批評とは相手をけなすことだと考えているみたいだからね。だけど、昔はけっこうセンスのある批評家もいたんだ。例えばシューマンは、まだ新人だったショパンやベルリオーズ、そしてブラームスの才能をいち早く見抜いて、世間に紹介したからね」
「そんな時代に生まれてみたかった?」
私は冗談めかして聞いてみた。
「もし俺を天才として生まれさせてくれるなら、やっぱりその時代に生まれてみたかったかな。でも、そんなこと不可能だけど」
「天才?」
「『恐らく、天才を完全に理解できるものは、天才だけだろう』。シューマンはそう書いている」
彼は言った。
夕食はあり合わせの材料でポトフを作った。彼は料理にはあまり関心がないらしく、包丁はお世辞にもよく切れるとは言えなかった。もしかしたら指を切らないように、わざとなまくらにしているのかもしれない。後ろでは彼が、食器の用意をしたり、昨日買ったという白ワインを冷蔵庫から出してみて、「冷やし過ぎたかな」と呟いたりしていた。
ポトフを煮終えて火を止めた時、不意に後ろから肩に手を置かれた。
「今日は泊まれる?」
彼の声はまるで独り言のようにくぐもっていた。私は頷いた。いつの間にか陽は落ち、部屋は薄い闇に飲み込まれていた。
ポトフを食べている間、私達は一言も言葉を交わさなかった。ただ、相手のグラスが空になると、静かにワインを満たした。白ワインはとても辛くて、少し舌先が痺れた。
夕食を終えた後も、彼はワインを飲み続けた。私は酒に弱いので、二杯も飲むと眠気が襲ってきた。うつらうつらし始めた時、突然彼が電気を消して、窓際に私を呼んだ。
「どうしたの?」
「見てごらん」
そう言って、彼はカーテンを開けて外を指差した。見事な満月が昇り始めていた。月明かりは信じられないほどに白く澄み、窓から差し込んだ光が部屋の中を照らしていた。その光の中でピアノやベッドが陰のように朧気に浮かび上がった。
「ねぇ」
窓の外を眺めていた彼が振り返った。
「何か弾いて」
彼は頷くと、黙ってピアノの前に座った。私はグランドピアノの縁に肘をついて、そんな彼の姿を見つめた。
しばらくの沈黙の後、音楽が流れ始めた。それはいつも彼が弾いている曲とは全然違っていた。いつものように劇的でもなく、明確な起伏も無かった。しかし、心が安らぐような流れがあった。
彼は目を閉じて、緩やかに身体を揺らしながらピアノを弾いていた。そこには以前見た硬質な厳しさは無かった。そこにあったのは、ある種のはかなさだった。放っておくと、彼はそのまま闇の中に溶けていきそうだった。彼の心は完全に音楽に奪われたみたいで、その肉体は奏でられる音ほどの存在感を持っていなかった。
私は腕時計を外してピアノの縁に置いた。もう時計を見る必要も無かった。そして目を閉じた。すると闇の中で、左手が奏でる低音がうねりとなって動き始めた。そして途切れることの無いメロディーは寄せては返す潮騒となって私を誘い、いつしか私は暗い波にたゆっていた。
波のうねりがゆっくりとなり、音楽はそこで終った。静寂が耳を刺激した。目を開けると、そこに彼が立っていた。私がピアノから離れて真っ直ぐに立つと同時に、両肩に手が置かれた。彼の手は目で見ているときよりもずっと大きく、力強かったが、少し震えていた。そして硬く強張った顔は、月明かりを受けて白磁のように見えた。彼はぎこちない動作で顔を近づけ、目を閉じて私の口元にキスをした。
どうしてそんなところに? 疑問に思って彼の顔を見つめていると、彼はゆっくりと目を開いた。その顔からはいつもの自信に満ちた眼差しは消え去っていた。むしろその目は困惑し、うろたえているように見えた。私達はしばらくお互いの顔を凝視した。呼吸することさえ許されないような緊張と、その真っ直ぐすぎる視線に耐えられず、私は顔を背けかけた。その時、私の頭は強い力で抱き寄せられ、彼は意を決したようにもう一度顔を近づけてきた。今度は確かに唇が重ねられた。舌先に辛い白ワインの味が蘇った。
「初めてだ」
彼は上ずった声で呟いた。人よりも奥手だと感じていた私でさえ、過去に経験があっただけに、ひどく意外だった。
「頭が痺れる」
今度は私が彼を抱きしめ。背伸びをしてキスをした。
「酒に酔ったようだ」
心ここにあらずといった調子で呟きつづけるその姿からは、昼間の彼からは想像できないぐらいに幼く、とても同一人物とは思えなかった。同時にたった一度のキスでここまで動揺している彼の姿を見ると、自分がひどい擦れからしになったような気がして、急に恥ずかしくなった。しかし彼は自信を取り戻したのか、もう一度唇を重ねてきた。さっきよりも長く。そして私達は抱き合ったままベッドに倒れ込んだ。シングルベッドがきしんだ音を立てた。彼の手が私のブラウスのボタンにかかった。その手つきは鍵盤の上を流れるような動きからは想像も出来ない程。不器用だった。
やがて私達は何一つ纏わぬ姿で抱き合った。彼の肩や胸がしっかりした質感を持って私を覆った。彼は確かにここに存在しているのだ。服の上からは想像も出来なかったような力強さを伴って。
「なんて、優しい……」
「何が?」
彼はそれに答えず、私の胸に顔を埋めた。私は彼の後ろに流された黒髪を撫でた。
その時私達は一人の男と女として、直に向き合っていた。そこには音楽も小説も介在しなかった。だが、激しく抱き合いながらも、私はそれらを介在させない自分たちには一体何が残るのだろうという不安を感じていた。音楽を抜いた彼、小説を抜いた私、そこには何も残らないのではないだろうか。その不安が小説を書く副作用として生じた、偏執的な自己分析癖によって引き起こされたものであることは解っているのだが。しかしそれも彼との行為によって生まれる熱とわずかな痛みと悦びに、次第に溶かされていった。
「さっきピアノを聞きながら、海のことを考えてたの」
私は隣に横たわっている彼の左肩に鼻先を押し付けながら言った。
「海?」
彼は少し驚いたように顔を上げ、そして私を抱き寄せた。
「うん。あれ、なんて曲だっけ」
「バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』。聞いたことあるだろ」
私は頷いた。
「なんて言うか、曲がいつまでも途切れることがないから、波の音を聞いてるみたいだった」
「バッハはショパンやリストほど生の感情を喚起させることが少ないけれど、聞く人を敬虔な気持ちにさせることがある。神の存在を示すみたいに。でも海って面白いな」
「波に呼ばれているような、そんな不思議な気持ちになったの」
彼は微笑んだ。
「海は好き?」
「年中泳げたらいいのにって思うくらい」
「俺は海が好きじゃないから、良く分からないよ」
「溺れたことでもあるの?」
「分からない。子供の頃から海に行く機会なんて殆どなかったし、潮騒は耳につく。ずっと途切れずに続く音が苦手なせいもあるけど」
「繊細な耳なんだ」
私は彼の耳を覗き込んだ。普通の人と全く変わらない形状をしていながら、私とは全く違った聞こえ方をする耳。その神秘的な器官に向かって、私は彼の名前を囁いた。
「くすぐったいよ」
そう言って彼は身体を反転し、横向きに私と向き合った。そして右手で私の髪を撫でた。私はその手首を捕まえ、引き寄せた。甲に触れると彼は手を引っ込めようとしたが、私は離さなかった。
彼の右手の傷。鋭利な刃物で切り裂かれたような裂傷の跡が、人差指の付け根から斜めに甲を横切っている。こんな深い傷を追いながら、ピアノを引けるのは奇跡のようにも思える。私はその傷に接吻した。彼が泣きそうな目になった。そして私から手を引き戻すと、静かに仰向けになって目を閉じた。彼は眠ろうとしていた。私はもう一度彼の胸に耳を当て、そのまままどろみ始めた。
私の眠りは獣のような声に破られた。慌てて顔を起こすと、彼が苦しげにうなされていた。言葉にならない声を発し、彼は唸っていた。私は驚いて彼の身体を揺さぶり、目を覚まさせた。
「大丈夫、何も恐くない」
まだ夢の中にいる彼を安心させるため、私は彼を抱きしめた。乳房が顔に触れた瞬間、彼は大声で何かを叫び、私を突き飛ばした。私は床に片手をついてバランスを取り戻し、もう一度彼の身体を揺さぶった。彼はそこでようやく我に返ったらしく、上半身を起こし、まだ焦点の定まらない目で私の顔を見つめた。月明かりが反射し、裸の胸が汗で光った。彼の荒い呼吸が部屋中に響いた。空気は冷たく、私は布団を方まで引っ張り上げ、くるまった。
「夢を見たの?」
彼はその声には答えず、無言のまま立ち上がり、バスルームの方に歩いた。彼の顔は死人のように青ざめていた。そのせいで、私はこの出来事の方が夢なのではないかと思った。
彼の部屋で一夜を過ごして以来、私達は頻繁に互いの部屋を行き来するようになった。しかし、再び抱き合うことはなかった。何かの折に身体が触れ合うことはあったが、それ以上の行為を求められることはなかった。そして私達はいつの間にか、互いに優しい無関心を示すようになっていた。交わるわけでもなく、離れるわけでもなく。
12月の始めに、小説創作の授業で私の習作が合評にかかった。それは僅か20枚程の掌編だった。20歳になったばかりの男に、突然子供の頃生きたまま焼かれた仔猫の死体を見た記憶が甦ると言う話だった。世界は理由無き悪意によって満たされているという事を、子供の目を通して描きたかったのだ。
しかし合評は途中から、妙な雲行きになっていた。以前から私のことを嫌っているという噂のあった男子学生が、まだ合評の終っていないにも関わらず、みなの前で私の原稿を投げ捨てたのだ。
「これは読み物としては全然面白くないね」
それがその学生の言葉だった。私は悔しさと恥ずかしさのあまり、残りの授業時間中、一度も顔を上げることが出来なかった。ここでは時々そんなことが起きる。批評を公然と他人を罵倒するチャンスだと考え、気に入らない人間に執拗な攻撃を加えるのだ。私も常に酷評されることは覚悟していたが、目の前で原稿を捨てられたのはさすがにこたえた。
私は授業が終るとすぐに下宿に戻り、ベッドに身を投げ出した。泣くつもりなんて無かったのに、涙が溢れてきた。私は枕に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
次に気が付いた時、部屋の中は既に暗くなっていた。どうやら泣くだけ泣いて眠ってしまったらしい。目の周りがヒリヒリした。
電気ストーブが点火される音に驚き、起き上がってみるとベッドの脇に彼が立っていた。私は驚いて声をかけた。
「いつ来たの?」
「ついさっき」
影法師みたいな彼が答えた。
「鍵をかけないまま寝るなんて、無用心じゃないか」
「あぁ」
私は気だるさの中でうめいた。
「起こしてくれればよかったのに」
そう言って電気を付けようとしたが、ためらった。彼に泣き腫らした醜い顔を見せたくはなかった。
「具合悪いのか?」
彼の優しい口調に、私は「どうしたの」と聞いてくれているような気がした。私はぽつりぽつり、今日の合評の話をした。彼は相槌一つ打たずに話を聞き、そしてこう言った。
「何を甘えてるんだ」
その声は低く、冷たかった。私は弾かれたように起き上がり、彼を見た。
「悪い作品や下らない作品が捨てられるのは当然だ。どうせ他のメンバーだって、家に帰ったら読み返しもしないでゴミ箱に捨ててるだろうよ。それは、捨てられるような作品を人に見せた奴が悪い。捨てられるようなものしか書けない奴が駄目なんだ。お前には泣く資格なんて無い」
あまりの言葉に私は彼を睨みつけた。彼にお前呼ばわりされたのも、初めてだった。無論彼の表情は見えなかったが、整っているが故に酷薄そうに見える顔が、目に浮かぶようだった。「違う! あれは公平な読み方じゃなかった。私には何の問題もない!!」
「馬鹿な」
彼は笑った。
「公平な読み方って何だ? そんなものに何の価値がある? どんなものでも公平に見てる奴がいるなら、是非会わせていただきたいね。いいか、何かを作っていく人間は、作品のみで世界と向き合わなけりゃ駄目なんだ。そんな風に扱われるのが嫌なら、小説を書くのなんてやめちまえ。本は読むだけにしておくのが、一番幸せだ。それ以上踏み込んだところにあるのは、限りない苦しみと一時の自己満足だけだ。それでも、そうせずにはいられないという強い気持ちがある奴だけが、本当に何かを作ることが出来るんだ」
私はもう、何も言えなかった。止まったと思っていたはずの涙が、再び溢れてくるのが分かった。彼は溜め息をつき、ベッドの端に腰掛けた。マットレスが彼の体重にあわせて沈むのが分かった。
「なぁ、何をするにしても、創作するってことは、自分も無傷ではいられないってことなんだ。君がどれくらいの気持ちで物を書いてるのか、俺には分からないんだが、その、なんていうか、いいかげんな気持ちでやって欲しくないんだ。他の奴等みたいに何となく軽い気持ちで、作品を消耗品にするようなマネはね」
「そんないい加減なことをした覚えは一度も無い。私は生活の全てを書く代償として支払っている」
「書く代償?」
「そう。生活のあらゆる出来事を作品の動機として考えてしまう。普通の人みたいに手放しで感情に身を任せることは出来ないし、自分が何かを感じても、すぐにその理由を分析しようとしてしまう。自分一人の主観的な視点で生きることが出来ない……」
「幾つの時からだ?」
その声にはさっきまでの刺は含まれていなかった。だが私は一瞬彼の問いの意味が分からなかった。
「幾つの時から書いてる?」
「覚えてない。子供の時からずっと、文章を書くのが好きで、中学の頃には幾つか小説を書いていた」
「そうか」
それから彼は大きく息をついた。
「俺は右手を怪我するまで、ただ義務でピアノを弾いていたよ」
彼がその傷について言及したのは初めてだった。
「何で怪我したの?」
「切られたんだ」
「切られた? 誰に?」
「俺の一番最初のピアノの先生で、そして」
私は静かに次の言葉を待った。
「俺の母親だった」
「母親?」
彼がどれほどひどく斬りつけられたかは、その傷跡がはっきりと示していた。本気で斬りつけない限り、十年以上もこんな傷を残せるはずがない。
「その女は若い頃、音楽生でピアニストを目指していた。だけど結局はなれなかった。才能・運・チャンス……そう言ったものに恵まれなかったんだろうな。そして不本意ながら音楽教室の講師になった。俺は物心つく前からずっとピアノを叩き込まれていた。友達と遊ぶ暇もなかったし、体育の球技だってさせてもらえなかった。指を痛めてしまうからね。親父は仕事が忙しくて、遅くまで帰ってこなかったから、殆ど夕食も作ってくれなかった。毎日毎日がそんな生活だったんだ」
私は自分の子供の頃を思い出してみた。私だって特別友達が多かった訳ではないが、それでも放課後遅くまでドッジボールやバスケットをして遊んでいた。その頃彼はそんな生活を送っていたのだ。
「ある時、俺はピアノは嫌いだって言ったんだ。もう、絶対弾きたくないって。そしたらあいつはこう言った。『じゃあそんな手は要らないわ』って。そして文具入れの中からカッターを取り出して、斬りつけて来たんだ。『お前が生まれてきたせいで、私は不幸になった』とか『なんで私の子供に生まれてきたんだ』とか言われながら。俺はまだ九つだったけど、もの凄いショックを受けたことは覚えている。今にして思えば、たぶんあいつは俺と自分の資質を比べていたんだろう。俺の将来に嫉妬することだってあったに違いない。それ以来俺はあいつとは会ってない。本当に何処にいるかも知らないんだ。両親は離婚したし、俺は一人っ子だったから、ずっと親父と二人で暮らしてたんだ」
彼は私の髪を撫でた。その手の動きは優しかったが、背筋が凍りつくほど冷たかった。私の体温は奪われ、暖房をつけているはずの部屋の中は氷点下になった。
「親父はもうピアノを弾かなくてもいいと言った。でも気がつけば、俺もあいつと同じ道を歩んでいる。何かが俺にそうさせるんだ。自分でも悲しくなる。もし音楽から離れれば、どんなに楽だろう。でも、弾かずにいられないんだ」
「音楽は嫌い?」
私は声を絞り出すようにして聞いてみた。私はずっと枕に顔を押し付けたままだったが、なぜか顔を上げることは出来なかった。彼の顔を見てはいけないような気がしたのだ。
「『苦しい』と『嫌い』はまた違うよ。バッハ・ベートーヴェン・ショパン・リスト……。音楽を通して、俺は言葉も時代も超えた出会いを体験した。それはある意味では現実に生きる人との出会いよりも素晴らしく、かけがえのないものだった。でも、どうだろうな、本当のところは……。良く分からないよ。きっと死ぬまで分からないんじゃないかな」
それから彼は口をつぐんで、さらに私の髪や肩や背中を撫でた。彼は熱心にその動作を続けたが、そこには性的なものは殆ど含まれていなかった。彼の苦い言葉とは裏腹に、その手の動きは心地よく、私はもう少しで眠りに引き戻されそうになった。
しばらくして彼は、思い出したように言った。
「小説を書くのは好き?」
「うん」
私は答えた。彼ほど切実なものを背負ってはいないが、小説を書くことは、私にとって一番大切なことだった。
「そう思えるのは」
彼は呟いた。
「幸せなことだ」
私はその言葉に揶揄されているようなものを感じた。そして本格的に襲ってくる睡魔の中で、少しだけ彼を憎んだ。
ピアノを弾くことは、小説を書くこととどこか似ている。私は彼と出会ってから、そう感じ始めた。たった独りで自分の中に世界を築き上げねばならない小説家と、たった独りで楽譜の中に命を吹き込まねばならないピアニスト……。しかし、そのどちらが人により深い感動を与えるかというと、それはいつも音楽の方ではないだろうか。彼のピアノを聞くと、時々私は自分がひどく小さな存在に思えてしまう。私がどんなに言葉を尽くしても書けないものや想いを、彼はたったワンフレーズで伝えることが出来る。勿論それを弾くに至るまでには、数多くの苦しみや鍛錬があることは分かっているのだが。私はもう、以前のように彼のピアノを享受することは出来なかった。聞き慣れるに従って、私の中では音楽に対する羨望と、彼への強い嫉妬が疼き始めた。そしてその気持ちは、いつしか一つの小説を書きたいという気持ちへと変化していった。それは、一人のピアニストを主人公とした、長い長い小説だった。私は彼と会う回数を減らし、独りきりで夢中になってその小説を書いた。
私はそれまで、モデルを使って小説を書いたことは一度も無かった。今回だって初めから意図していた訳ではない。ただ、彼の生い立ちや考え方は、私にとってひどく刺激的だった。榊雄介という名を付けられた主人公は、私の原稿の中で生き始めた。自由を奪われた子供、母の嫉妬と憎悪と近親相姦的な愛情、比類なき音楽の才能と孤独で狷介な性格……。その人物は私の空想の中で育ち、ついには文学史上最も優れた音楽家である。ジャン・クリストフやアードリアン・レーヴァーキューンと肩を並べるほどになった。私はその作品を書きながら、常に主人公を身近に感じ、愛情のようなものまで抱き始めた。
小説は3ヶ月かけて完成した。それは原稿用紙にして400枚程の作品になった。私はその作品を印刷し、学科の学生に配布した。誰にもこれほどの小説は書けまいという自負もあったし、何よりも、書き捨てるようにしていい加減な作品を書いている奴等や、寝惚けたようにモラトリアムを貪っている奴らに叩きつけたかった。はじめは実在のモデルを使ったことに少々疚しさを感じたが、それも次第に気にならなくなった。榊雄介という人物は、完全に私が作り上げた人間なのだ。その世界では私は神とも言うべき存在で、彼は私にとって創造されたアダムなのだ。全ては私の中にある……。私の中で片山龍介は完全に姿を消していた。実在の彼に対する興味は、とうに消えていた。
小説が書きあがってしばらくして、それまで音沙汰なしだった彼から、急に呼び出しの電話が入った。いつもよりも幾らかかすれた声で、彼は「話がある」とだけ言った。私はバスに乗って、何度も歩き慣れた道を歩いた。季節はいつの間にか春になっていたが、空気はまだ冷たく、頬を刺激した。
久しぶりにみる彼の顔は、何だか少し悴れていた。そして私を部屋に通すと、何度かためらうように口を開いた。その時私は机の上に見慣れた冊子があることに気付いた。それは私の書いた小説だった。なぜ彼がそれを読んだかまでは分からなかったけれど。
「読んだの?」
私は聞いた。
「ああ」
彼は答えた。
「実に、実によく書けていた。残酷なくらいね」
「どうして手に入ったの?」
「君に小説をもらった女の子が、寮のルームメイトにこれを見せたんだ。そのルームメイトってのが俺と同じクラスでね、『君のことじゃないか』って言って持って来たんだ」
「これは全部フィクションよ」
「プライバシーの暴露がか」
私達は睨み合った。
「誰でも、他人には知られたくないことがある。俺は君を信頼していたから、話したんだ。それが、このザマか。お前は人の傷口にたかって膿を貪る、蝿みたいな奴だ」
彼は分かっていない。私は膿を貪ってでも書き続けなければならないのだ。私の力を示すために。そして彼はゆっくりと、吐き捨てるようにして言った。
「モノ書きほど、卑しい人間はいないな」
「ピアニストほど、自己完結はしてないわ」
私は毅然とした態度を意識しながら踵を返し、部屋を出た。背後から彼がピアノに叩きつけている不協和音が聞こえた。私は振り返らずに、その音を遮るようにしてドアを閉めた。そしてそれが終わりだった。