1.Appassionato
押上英治かく語りき
ただ鳴るだけで、魂の状態の言葉でも印でもないようなものは、小さな芸術じゃないか!
(R.Schumann 『音楽と音楽家』)
早朝の音楽室は、九月初めとはいえひんやりしていた。俺はいつものように手にしていたケースからトランペットを出して、楽器を温め始めた。高校に入って以来、毎朝感じてきた静寂があたりを覆っている。
他の吹奏楽部の連中は強制ではないからと言って、誰も朝練なんかしない。そんなことをするのは、俺みたいな物好きだけだ。でも、俺はそれが好きだった。朝のまだ手付かずの時間を自分が手にいれたような気がして、嬉しかったのだ。
マウスピースを手にして、2、3度確かめるように唇を合わせてから、“M”と発音する形に唇を固定した。そしてマウスピースを当て、唇を振動させながら、真っ直に息を吹く。Bの音、Aの音、様々な音の音程や音色をイメージし、その通りに鳴らしていく。マウスピースだけで正確な音程が取れなければ、楽器をつけても輸郭のぼやけたような音しか発音できない。この頃は大分イメージ通りに音が出るようになってきた。人一倍音感の鈍い俺は、そうなるまでに2年以上かかった。
音というものは不思議なものだ。俺はいつもそう思う。今右手にあるトランペットは、俺が唇に振動を起こしながら、マウスピースを通して息を送り込まなければ、何時までも沈黙し続ける只の金属塊に過ぎない。それでは、これは最早楽器でさえないのだ。音……、音はどこで生まれるのだろう。俺の呼吸の中か、それとも呼吸が楽器の中を通る過程でか。べルの先端から放たれる自分の音に、俺はいつもうんざりする。そして上手くなりたいと思う。曲でもなく、フレーズでもなく、単発の音とその響きで感動できるような、そんな音が欲しい。それがどんなものなのか、今の俺には全く分からないのだけれども。
今度は楽器をつけて音を鳴らし始める。基音となるBの音を8秒間のばし続けた。今日はまだ調子が良い方だ。俺は頬を少し緩めてから、気を引き締め直して、いつもの練習メニューを始めた。
15分程すると、隣の音楽準備室に誰かが来て、ピアノを弾き始めた。別に珍しいことではない。たまたま早く登校した生徒が始業時間までの間、気晴らしにピアノを弾きにくるということは、よくあることだった。以前など、突然ラジオ体操第一の曲を弾き始めたやつもいた。壁で仕切られているために、誰が弾いているのかまでは分からなかったけれど。
練習している横で無神経にピアノを鳴らされるのは、正直余り愉快ではなかった。しかし、俺にそんなことを言う権利もない。あっちがマイペースで弾く以上、こっちもそうするまでよ。そう思って息を吸い込もうとした時、ピアノの音が鮮明に聞こえてきた。急き込むような音の奔流が溢れ、まるでやり場のない怒りや悲しみに苛まれているかのように、早いパッセージの中に時折強い和音が叩きつけられた。俺は構えていたトランペットを降ろした。とてもこの音の中に自分の音を割り込ませる気にはなれない。そうして、手近にあった椅子を引き寄せ、座り込んでピアノに耳を傾けた。
俺は今までに、何人もの人問がピアノを弾くのを聞いてきた。その中には本当に失笑しかねない位に拙いものもあれば、異常なまでに感傷的に過ぎる演奏もあった。俺は心のどこかでピアノ弾きを馬鹿にしていた。吹奏楽のような、合奏で音楽を作り上げていくジャンルにとって必要不可欠なもの─音楽への熱狂に対するある種の節度だ─が、ピアニストには欠けているような気がしていたからだ。陶酔するようにして鍵盤を叩く姿も、ナルシシズムを連想させて嫌だった。だが俺は知らなかった。ピアノの音が時として聞き手に畏怖の念を抱かせることを。低音の素早く力強い蠢き、ぺタルによって増幅された和音の振動。いや、正直に言うと、俺はオーケストラの生演奏を初めて聞く赤ん坊のように、その音の固まりに本能的な怯え、飲み込まれそうな恐怖を感じた。出来れば一刻も早くその場を立ち去りたかった。しかしそれと同時に、この音の奔流に身を委ねていたいという気持ちもあった。矛盾した混乱を抱えながら、俺は弾き手も曲のタイトルも分からないままに耳を傾けていた。曲が終わってからも、俺はトランペットを吹くことができなかった。あれだけの音楽を聞かされた後に、一体何が吹けるというのだ。のろのろと椅子から立ち上がり、楽器をケースに直した。帰りに準備室を少し覗いたが、そこにはもう誰も居なかった。
「ミーティング始めます」
放課後はいつもこの一言で始まる。俺が大声で言うと、部室前に部員達が集まってくる。2、3……4人。俺を入れて5人だけの吹奏楽部だ。そのうち俺を含めた3人が3年生。みんな10月の文化祭を最後に引退する。このクラブが存続できるのも、最早時間の問題というところだろう。今日の練習予定を確認して、みんなが楽器を取りに楽器庫へ向かいかけると、副部長の松井香奈が話しかけてきた。
「押上くん、今年の文化祭のことなんだけど……」
「うん」
「今の状態じゃ、やっぱりちょっと……」
そう言って、彼女は下を向いた。俺には彼女の言いたいことは良く分かっていた。確かに吹奏楽という、オーケストラに匹敵するような大がかりな演奏を、この人数でするのは不可能だ。俺は頭の中でもう一度今の編成を考えてみた。3年生はフルート2人と俺のトランペット。2年生はパーカッションが1人。そして1年生はこの4月にホルンを始めたばかり。とても演奏を組み立てられそうにない。
「ちょっとしんどいな」
俺は彼女と顔を見合わせて、俺達が役職についてから、何百回目かの溜め息をついた。このクラブも俺が入った頃には30人位部員がいて、演奏でもそれなりの成果を上げていた。だが、俺が2年の時に顧問が変わった。先輩たちは新しい顧問と折り合いが悪かったし、2年生と1年生も仲が悪かった。そうした要因が重なって、みんな辞めていった。残ったのは本当に楽器が好きなやつと、俺みたいに周囲の人間関係に無関心だったやつ位だ。だけど、人数が減って演奏活動が困難になると、周囲には「やる気がない」と判断され、生徒会の方では実際に廃部を求める方針を打ち出してきた。学校の看板になれない以上、高価な楽器や楽譜を使う吹奏楽部は、ただの金喰い虫でしかないということらしい。
「だけど」
と俺は言った。
「今、俺達が何かしないと、本当にこのクラブは潰されちまうぜ」
「でも、何をすればいいのかしら。この状態で」
俺達は堂々巡りの議論に陥ってしまった。やる気が無い訳じゃない。人さえ集まればすぐにだって演奏する。何とかして立て直しのきっかけを掴まないと……。でも、どうすればいい?
「それなんだけど」
突然もう1人の3年生、岩田裕子が割り込んできた。
「あのね、別に編成にさえこだわらなきゃ、私達だって、演奏できると思うんだけど」
「でも、一応ここは吹奏楽部なんだし……」
俺は言葉を濁した。すると、岩田裕子は真剣な眼差しで俺を見つめた。
「押上くん、だけどやっぱり、私達が活動していることを実際に見てもらった方がいいかもね。それを見て誰かが楽器やってみようって思ってくれるかもしれないんだし」
松井香奈が頷いている。
「確かに30人編成なんてとても無理だけど、例えばフルートのデュエットだったら、私とユウちゃんで出来るしね」
俺も頷いた。確かに個人的な能力を見れば、彼女等はそんなに下手じゃない。それなりには演奏できるだろう。
「うん、そうだな。それもいい案だ。でも、どうやって発表する?」
「ばっちり考えてるわ。これ見て」
岩田裕子はブラウスの胸ポケットから4つに折りたたんだプリントを取り出した。俺が受け取って広げ、松井香奈がのぞき込む。そこには『サロンコンサートに出ませんか?』という文字が印刷されていた。どうやら文化祭の一環として行われる、クラシック版の有志参加イベントらしい。希望者が多ければ、選考があるということだが。
「この一部の時間をもらって、私達も出てみない? ちょっと考えてみてね」
「前向きに検討するよ」
そう言ってから、俺はふと今朝のことを思い出した。
「それはそうと、今朝音楽準備室でピアノを弾いていた人、誰だか知らないか?」
2人は首を横に振ってから、目配せをして笑った。俺は変な勘違いをされたような気がして、仏頂面になった。
それからも、毎朝ピアノは聞こえてきた。どうやらこの人はベートーヴェンのソナタがレパートリーらしい。後で松井香奈に教えてもらったが、俺が初めに聞いた曲はソナタ『月光』の第三楽章だった。もう初めて聞いたとき程の驚きはなかったが、それでも俺はいつも、楽器を降ろしてしまった。俺は演奏者としてはそんなに大した器量を持っている訳ではないのだけど、その音を無視して吹き続けられる程、傲慢な人間ではないのだ。たまに、なかなかピアノが鳴らない日があると、俺は意味もなく落ち着きをなくしてしまった。岩田裕子は毎日「ピアノの君には会えた?」と俺をからかってくるが、こうしていると本当に、恋をしているみたいだなと思った。一体誰がこんな演奏をしているのだろう。音楽の清水先生は声楽出身で、ピアノはそんなに得意じゃない。だからきっと生徒が弾いているに違いないのだが、それにしても……。
ある朝、ピアノが聞こえ出すと、とうとう俺は我慢ができなくなった。そして静かに準備室のドアを開けて、中に入った。
ピアノに向かっていたのはひとりの男だった。あれだけの力強い音を出している割に、身体はひどく華著だった。ピアノの前には譜面が無かったが、男は丁度楽譜のスタンドのあたりに視線を固定していた。その顔は厳しく硬質で、自身が奏でる音について、一切の妥協を廃し、厳しく検査をしているといったような顔付きをしていた。男は俺が初めに聞いたときと同じ曲を演奏していた。鬼気迫るようでもなく、陶酔しているようでもないのだが、前にこの曲の中に感じた怒りや悲しみは更に凄まじく渦巻いていた。俺がより近くで音を聞き、和音が巻き起こす空気振動を直接身体に受けているせいかもしれないが。俺はその場に立ち尽くして、身じろぎもせずに音楽に聞き入った。
やがて男は最後の和音を叩き、その余韻が消えるのを同じ表情で待った。それから右手を椅子の背もたれに掛けた。体格のわりに筋肉の発達した、大きな手だった。そして俺はその手の甲を斜めに走る深い裂傷の跡に気付いた。普通なら障害が残ってしまうのではないかと思う位、ひどい傷痕だった。男はゆっくりとこちらを振り返った。
「何か用か?」
男の声は冷たく、遊びを邪魔された子供のように不機嫌だった。薄い唇と、高く通った鼻筋、そしてやや凹んだ奥二重の眼。整った気品のある顔立ちだったが、全く感情が読めない表情と、異常に何かを凝視するような眼差しが、その顔に酷薄さのヴェールを纏わせていた。俺は岩田裕子言うところの『ピアノの君』が余りにもイメージとかけ離れていたので、戸惑ってしまった。
「この前から、ずっと聞いてたんだ。それで誰が弾いているのか気になって……」
ふっと男の表情が緩んだ。
「じゃあ、あのトランペットを吹いてたのはお前か」
初対面の人間に「お前」呼ばわりされてむっとしない訳でもなかったが、俺は素直に頷いた。
「俺もずっと聞いていた。なかなか練習熱心だな。けど……」
「何だ?」
「それだけだな」
何なんだ、この態度は。俺は腹が立つと同時に、尚一層この男に興味を持った。男の態度と演奏のギャップが面白かったのかもしれない。
「それじゃ、あんたはそれ以上のものを持ってるのかよ?」
俺は幾分声を荒げた。男は黙っていたが、その沈黙が俺の問いを肯定していた。しかし、俺には男が持っているであろう「それ以上の何か」が具体的にどんなものかまでは分からなかった。
「毎日聞いてたなら、何となく分かってるだろう」
男はからかうような調子で言った。
「その証拠に、俺が弾き始めると、お前はいつも吹くのを止めるじゃないか」
成程、俺は完壁にこの男に読まれていたのだ。
「あんた、名前は?」
俺は聞いてみた。
「片山龍介」
「学年は?」
「3年。クラスは3−Bだ」
松井香奈と同じクラスだ。
「そしてお前は、あの吹奏楽部の部長の押上だろう?」
「よく知ってるな」
あのという言葉は引っ掛かるものがあったが、俺のことを知っているということは意外だった。うちの高校は各学年が400人程度なので、同級生でも半分くらいは名前も知らないというのが普通なのだが。
「お前は俺と違って、目立つんでな」
彼はぽつりと言った。
「やっと『ピアノの君』に会えたよ」
放課後の練習の後、俺がそう言うと、岩田裕子は意味深な笑いを浮かべながらこう言った。
「で、どうだった? きれいな人だった?」
やっぱりこいつは勘違いしていた。
「男だった」
「えーっ、そうなの。期待してたのに」
「B組の片山って奴だったんだ。こう、右手にちょっと怪我の跡がある……」
「えっ、『ピアノの君』って片山くんなの?」
彼女は少し眉をひそめた。
「知ってる?」
「うん、去年同じクラスだったから」
なんとなく歯切れの悪い調子だった。
「なかなか難しそうな人だな」
「うん、あの人は……、色々ある人みたいだから。いつも独りで、修学旅行や体育祭の時も休んでたし、クラスの人とも殆ど交流がなかったの。でも、そんなにピアノが上手いなんて、全然知らなかった」
「そうなんだ。じゃ、誰もあいつのピアノを聞いたことが無いんだ」
「多分ね。押上くんくらいじゃない。それにあの人って、あんまり音楽とかしそうなイメージ無いし」
彼女は首を振った。確かにあの男からは情緒や感受性といったものは想像できない。むしろそんなものは、全部母親のお腹の中に置き忘れてきたような感じさえ受ける。
「でも、興味深い男だった」
俺の言葉が意外だったのか、岩田裕子は目を見張った。
翌朝、俺は初めから準備室に行って、片山が来るのを待った。待ちながら、自分が妙に緊張していることに気付いた。人前で演奏する時でさえ、殆ど緊張したことがないというのに。
やがてドアが開いて、片山が姿を現した。昨日は気付かなかったが、彼は意外に背が高かった。180p近くあるのかもしれない。少なくとも171pの俺よりも5pは高いだろう。
「またお前か」
片山は俺を見て、うんざりしたような口調でこう言った。
「俺はあんたの演奏に興味を持ったんでな、こうして聞かせてもらいに来たんだ」
片山はしばらく俺の顔を見て、ふいと横を向いてピアノの前に座った。
「勝手にしろ」
そう言って鞄から楽譜を取り出した。白っぽい表紙には、“Beethoven”と書かれていた。
「ベートーヴェンが好きなのか?」
片山は気のない風に鍵盤を叩きながら、楽譜のページをめくった。
「別に好きとかそういうのじゃなくて、必要なんだ」
「受験か?」
「そうだ。大体どこでも、バッハとベートーヴェンを弾けるようにしておけば受かる」
「成程。それで何だ、ピアニストにでもなりたいのか?」
片山は手を止めて、真っ直に俺を見た。
「なりたい、じゃなくて、なるんだ。ピアニストに。俺はその為に生きているんだ」
その言い方が余りに断定的だったので、俺は少し鼻白んでしまった。
「でも、誰もあんたがピアノを弾けることは知らない」
「ああ。でも、音楽をしていることなんて、別に声高に言い回ることでもないだろう。お前らは自分が楽器をしていることを知って欲しくて仕方ないみたいだけどな」
「それは部の宣伝のためだ」
「クラブか」
片山は馬鹿にしたように笑った。
「ろくに人数も揃わない。揃ったら揃ったで意見が合わない。音楽をやっているのにそれ以外の問題に振り回される。そして肝心の演奏はお粗末だ。下らない。そんなもののどこがいい? やってて馬鹿馬鹿しくないのか?」
俺は右手を握り締めた。もう少しで怒りが爆発しそうになった。片山が言ったことは、俺が一番言われたくないことだった。だが、同時に図星をさされたような痛みもあった。
「あんたは」
俺は押し殺した声で言った。
「あんたは今までに、他人と何かを一緒にしたことがあるか?」
今度は彼が黙り込んだ。視線を鍵盤の上に落とし、何かを堪えるようなその姿は、レッスン中に先生に叱られている子供みたいだった。
「どうなんだ?」
俺は今までの逆襲をするように、更に追い打ちをかけた。
「ない」
片山は視線を動かさず、吐き出すように言った。
「一度もない」
「子供の頃からか」
「そうだ」
彼は何かを吐き出すように、一気に話し出した。
「俺は指を痛めないように、ドッジボールもバスケットもやったことがない。練習ができなくなってしまうから修学旅行にも行かなかった。いや、それ以前に友達と遊ぶ時問すら削られていた。物心ついた時からずっとそうだった。ピアノを弾く以外には何もなかった」
そして彼は自嘲的に笑った。
「分かるだろう。俺には、ピアニストになる以外に道はないんだよ」
俺は溜め息をついた。今まで俺は、何かのプロフエッショナルになることができる人間を、ただ単純に羨ましいと思っていた。しかしこの男を見ていると、それが時として、とてつもない重荷になることがあるという気がした。
「どうして、一体誰にあんたをそこまで縛り付ける権利があるんだ……」
「そいつには、あったのさ」
彼は視線を上げた。
「何てったって、そいつは俺を生んだ女だったからな」
そして、彼は声を上げずに笑った。何故『母親』と言わないのだろう……。そんな疑問が浮かんだが、聞くことは出来なかった。
「サロンコンサートに出よう」
ミーティングで俺はそう告げた。
「ソロでもアンサンブルでも何でもいい。強制ではないから、各白の自主性に任せる。希望者は俺のところまで言いに来てくれ。連絡は以上だ」
松井香奈が嬉しそうにやって来た。
「さすが押上くん。そう言ってくれるのを待ってたよ」
「ああ、俺も気が変わったんだ。是非ともやりたいことが出来たんでね」
「なあに?」
俺は部室から探し出した楽譜を差し出した。
「トランペットソロ、J・S・バッハ〜グノーの『アヴェ・マリア』。これ知ってるわ、きれいな曲ね」
「なかなかいいだろう」
「でも、ちょっと変わったアレンジね。始めはピアノだけで全曲演奏して、2回目からトランペットが入っている。伴奏というよりは、ソリストが二人っ
感じ」
「そう。だから選んだんだ」
彼女は最後まで楽譜を見て、俺にそれを渡した。
「誰がピアノ弾くの? いないんなら、私が弾いてもいいけど」
「いや」
俺は首を振った。
「せっかくだけど、頼みたい人がいるんだ」
彼女は笑った。
「例の『ピアノの君』ね。随分ご執心なんだ」
「ああ」
「いいわ。私も彼が弾くのを聞いてみたいから。でも、OKしてもらえるの?」
「多分、大丈夫さ」
俺は何の確信もなく、そう言った。
「お前、何考えてるんだ」
片山は俺の手渡した楽譜をめくりながら言った。
「だから俺の高校最後の演奏の、伴奏を頼んでるんだ」
「ふん……。何で俺なんだ? 他にもピアノを叩ける奴くらい、いっぱいいるだろうが」
「弾ける奴はあんまりいないさ。それに何度も言うが、俺はあんたのピアノに興味がある。それにあんただって、一度くらい他人と何かをやってみたらどうだ。俺達への印象も変わるかもしれんぞ」
それには答えず、彼は楽譜をスタンドに置き、ピアノを弾き始めた。
「この伴奏部分は編曲で調が変わっているが、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1番のプレリュードをそのまま惜用している。盗作まがいだが、グノーのバッハヘの敬意とも見てとれる」
そのプレリュードを知っているのか、彼はほぼ完壁に楽譜を弾いた。俺は今更ながら、この男の能力の高さに舌を巻いた。かつて大怪我を負ったであろう右手も、信じられない程滑らかに動いている。俺の視線は無意識の内に右手に吸い寄せられていた。それを知ってか知らずか、片山は弾き終わると同時に右手を下ろし、ポケットの中に突っ込んだ。
「そうなのか」
俺は内心の動揺を悟られないように、無表情に答えた。
「そうだ。俺が弾くから、1回吹いてみろ」
そう言って、片山はトランペットのメロディーが始まる小節の頭を指差した。俺は楽器を構えた。また緊張している自分に気が付いた。俺はよくいるスクールバンドの指揮者みたいには、緊張や危機感の効力を認めていない。だからいつも部員には「余計な緊張や危機感は音を萎縮させ、その輝きを鈍らせてしまうだけだ」と言ってきたというのに、その俺自身が練習の段階で、こんなに緊張してしまうとは……。
前奏(楽譜の上では正確には間奏だ)が始まると、俺は最初の音の音程をピアノに耳を集中しながら割り出し、イメージした。動きが少ない曲だけに、1つ1つの音の出方ですぐに優劣が聞き分けられてしまう。音の出だしは柔らかく、敬虞な思いを込めて。これは祈りの音楽なのだから……。
後は夢中で吹いた。というよりも、それ以上何かを考えることが出来なかった。曲が終わった後で片山は言った。
「今、自分がどう吹いていたか、ちゃんと覚えてるか?」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「頭の中が真っ白になっていた」
片山は潮るような笑いを浮かべた。
「俺の感想を言おうか」
「ああ」
「歌い方も知らんくせに、俺を煩わせないでくれ。お互い時間の無駄になる。」
俺は手でピアノの枠を叩いた。
「何だと!?」
片山は涼しい顔で楽譜をなぞった。
「お前、漱石の『夢十夜』って読んだことあるか?」
「えっ?」
突拍子もない質問に俺は戸惑った。
「あの中に、『仏像は鑿で作るんじゃない。それはもう木に埋もれていて、ただ鑿と槌の力でそれを掘リ出すんだ』という風な話が出てくるんだ。音楽も同じことだ」
「楽譜が木で音が仏像という訳か?」
「違う」
片山は首を振った。そして伴奏部分だけを取リ出して弾いた。
「これだけで、この曲は1つの完成された作品だった訳だ。よく聞いてみろ。この中にグノーの『アヴェ・マリア』が隠れてないか?」
俺は息を詰めるようにして、ピアノの音を聴取した。無心にバッハのプレリュードに耳を傾けていると、本当にそこにメロディーが隠れているような感じがしてきた。
「つまり、初めからグノーのメロディーはここにあったとも言える。歌うということは、それを感じ、自然に沸き上がる音を紡ぎ出すということだ。ただ楽譜をなぞるということじゃない。作曲家が和声からそのメロディーを紡ぎ出したところまで、弾き手は近付いていかなきゃならない。それが楽譜に向かうということだ。楽譜に弾かされているようじゃ駄目だ」
そこで片山は手を止め、俺の顔を見た。
「音は高い方がエネルギーがある。だから上昇するフレーズはクレシェンド、下降するフレーズはディミヌエンド。スラーは一息で吹く。こんなのが歌うということじゃない。それは音楽を感じていれば、自ずとそういう演奏になるはずだ。だからお前は、ただ俺のピアノに耳を傾ければいい。そうすれば自然にメロディーは聞こえてくる。その上で、感じ方が違えば言ってくれ。その時はお前に合わせる」
「分かった」
俺は答えた。
「宜しくお願いします」
これ程正直に他人に頭を下げたのは、久し振りだった。
俺達の練習は奇妙なものだった。まず俺は、曲に使われている音階のロングトーンを中心とした基礎練習だけを繰り返した。片山には何度も伴奏部分であるバッハのプレリュードを弾かせ、伴奏部分の表現を定めた。そして俺はその伴奏を集中して聴取し、メロディーをイメージしていった。完全にイメージが出来上がるまで、一度も楽器でメロディーは吹かなかった。楽譜には書かれていない小さな抑揚、ヴィブラートの使い方、僅かなテンポの揺れ具合。そういったものを完全に頭の中で作り上げたのは、本番の一週間前だった。
「明日から合わせに入りたい」
俺がそう言った時、片山は嬉しそうに言った。
「どう吹いてくれるか、楽しみにしている」
この男が親しげに口を聞いてくれたのは、これが初めてだった。
片山と音を合わせるということは、一種の凄絶なまでの闘いだった。俺の演奏に問題があると、必ずピアノを弾く手は止まり、罵倒するような口調で指摘された。ほんの僅かな音程の狂いさえ、彼の耳は聞き逃さなかった。もしかしたら、絶対音感を持っているのかもしれない。俺には分からないぐらいの小さな音程のぶつかりも、片山には大きな苦痛になるようだった。そんな時はピアノで単音を何度も鳴らし、俺がきちんとした音程を取れるようになるまで、決して先には進まなかった。曲を最後まで通せる確率は、5回に1回程だった。
別にそんなに激しい曲を演奏している訳ではない。これはとても静かで、ゆったりとした美しい曲だ。それでも俺の神経は時に悲鳴を上げそうだった。俺が普段やっている吹奏楽やオーケストラといったジャンルは、(理想としては)大勢の人間が、指揮者の元に統一された音楽観でもって音を増幅し、あたかも1つの有機体のようにして音楽を作り上げる。そこには各自、各楽器の音楽上の役割への自覚と節度が要求される。故に、強すぎる自已主張や異常なまでの独創性は、時として演奏そのものを崩壊させる。しかし、独奏となると話は違う。ソリストと伴奏者がただ音を合わせるだけでは、それは音楽として成立しない。ぎりぎりの一線までお互いをぶつけ合い、火花を散らさねば、優れた演奏には成り得ない。両者の力関係がアンバランスだと、たちまち音楽は力を喪失してしまう。俺は片山と対等の力で音楽に向かい合うために、極度の集中を続けた。一度気を抜けば、あの圧倒的な音に俺のトランペットはかき消されてしまう。そのため、僅か3分足らずのソロパートを吹き終える度に、俺はぐったりと椅子に座り込んでしまった。
ある時、そんな風に椅子に座リ込んでいる俺に、片山が言った。
「なあ、お前はどうして音楽を始めたんだ?」
「俺は中学の頃はサッカーをしてた。でも、膝を痛めて、医者にスポーツを止められたんだ。だから、他に何か夢中になれるものが欲しかった」
片山は不思議そうに俺を見た。
「それだけなのか?」
「ああ」
「それで……、夢中にはなれたのか?」
「今のところは」
「万一嫌になったら?」
「多分、吹くのを止めるだろうな」
本当にそんな時が来るのかな? 俺はふと思った。俺が音楽から離れてしまうことがあるのだろうか。今はそのつもりは無いけれど。
「それだけのものなのか?」
片山は納得できないというように、なおも喰い下がった。
「ああ。俺は自分の吹きたい時に吹く。他人に無理強いされるのはまっぴらだ」
片山は俺を見つめ、それから溜め息混じリに言った。
「お前が羨ましいよ」
その一瞬、彼の顔には、少し疲労が滲んだように見えた。
本番前日のリハーサルは、疲れを残さないために軽く流すだけに留めた。片山は上半身を上下させ、傍目にはいかにも情感を込めて弾いているように見えるのだが、それは実はあまり集中していない証拠だった。本当に集中した時は視線が完全に固定されてしまうのが、彼の特徴だからだ。それでも他の参加者からみれば、驚嘆すべき演奏だったのだろう。舞台を降りると松井香奈と岩田裕子が飛んできた。
「二人とも凄いじゃない。きれいだったよ」
「片山くん、こんなにピアノが弾けるなんて、ちっとも知らなかったわ」
口々に話しかけられて驚いたのか、片山は狼狽した視線で俺に助けを求めてきた。僅かに顔が紅潮していた。そこには傲然とも一言えるくらいに自信を持ったいつもの姿は皆無だった。その子供っぽい様子は、そばにいた人々の笑いさえ誘った。
「俺がピアノを頼んだ理由が分かっただろう」
俺は胸を張って言った。すると岩田が笑いながら言い返した。
「押上くん、片山くんのピアノに霞まないようにしてね。一応トランペットがメインなんだから」
俺が口を開こうとする前に、片山が答えた。
「大丈夫だ。何の問題もない」
俺は驚いて片山の顔を見た。彼はもう元の取り澄ました表情に戻っていた。両肩にずしりとプレッシャーがのしかかった。
当日、会場となる体育館の客席はがらがらだった。模擬店やその他のイベントに客が取られているのだろう。当り前だが、クラシックの有志演奏は人気がない。これがロックバンドなんかだったら、もう少し客も増えるのだろうけれども。出演者全貝が待機している舞台袖では、岩田が客席の人数を数え始めた。
「10、11……、全部で14人か。出てるほうが多いんじゃない?」
「そうかなあ」
俺はそう言って、出演者の数を数えてみた。その殆どが声楽かピアノの発表のようで、楽譜しか持っていなかったが、中にはヴァイオリンやチェロを持っている奴もいた。さすがに管楽器を持っているのは俺達だけだったが。こちらは各伴奏者を合わせて17人いた。本当に出演者の方が多かったのだ。
「張り合いねえな、まったく」
緊張を飛ばすためにそうつぶやいたが、結果は脇腹に松井の肘打ちをくらっただけだった。
「何言ってるのよ、聞いてくれる人がいるだけでも、有難いじゃない」
俺は脇腹をさすりながら、肩をすくめた。片山は手近にあった椅子に座り、そんな俺達の様子を、奇妙な動物でも眺めるように見ていた。
その時、スタッフらしき女の子がやってきて、コンサートを始めるから静かにするようにと言った。そして最初の出演者である女の子が呼ばれた。
サロンコンサートは一応部門ごとに別れていて、声楽・ピアノ・弦楽器と続き、吹奏楽部の2組はまとめて最後に回されていた。それが今年の俺達のクラブのステージということだった。舞台にはスポットライトなんかも用意されていて、体裁はなかなか本格的なコンサートなのだが、演奏そのものは退屈だった。声楽はまだいいのだが、ピアノとなるともう完全に駄目だった。片山の演奏に比べると、その差は歴然としていた。ピアノのタッチの鋭さも、楽譜の読みの深さも……。俺は改めて、この男がどれ程希有な力を持っているかを思い知った。そして同時に、自分がいかにこのピアニストに惚れ込んでしまったかも。おそらく、今舞台でピアノを弾いている奴等は、片山龍介の後に弾くことは出来まい。当の片山は目をつぶったまま、両手をこすり合わせていた。緊張をほぐすためなのか、それとも単に指を温めているだけなのか。いずれにせよ、彼は熱心にその仕草を続けた。
弦楽器の演奏が終わり、いよいよ松井・岩田デュオの番になった。
「がんばってな」
俺がそう言うと、松井はにっこりと微笑み、岩田はガッツポーズをしてみせた。2人の背中を見送りながら、俺はトランペットを手に取った。次はいよいよ俺達の出番なのだ。
音を鳴らさないように注意しながら、楽器に息を吹き込み温めていると、小声で片山が話しかけてきた。
「なかなか上手いな、あの2人。息もよく合っている。アンサンブルのいい手本だな。1人ずつで聞くと、飛び抜けて上手い訳でもないんだろうが……」
俺は頷いた。
「合わせる音楽の魅力はそこにあるんだ。滅多に味わえないが、時として互いの演奏が相乗効果を生み、より優れた音楽を作ることがある。それが、俺達の目指している理想の音楽なんだ」
片山はだまって俺の言葉を聞いていた。薄暗い舞台袖で、その表情ははっきりとは見えなかったが。そして片山は一息つくと、「押上」と俺の名前を呼んだ。
「楽譜はここに置いていけ。舞台の上まで持っていくと、変に緊張して、集中力が削がれてしまう」
「本気か?」
「いつものように集中してプレリュードを聞くんだ。そうすれば必ずメロディーは聞こえてくる」
俺はその言葉に頷いて、ゆっくりと楽譜を椅子の上に置いた。
「俺も、お前のメロディーを聞く。そこにはバッハのプレリュードがある。そしてそれが合わさった時、グノーの音楽は現れる」
そう言うと、片山は舞台の方に視線を移した。そこには無事に演奏を終えて、客席に向かって礼をする2人の姿があった。
そして俺達は舞台に出た。
Bの音を合わせて客席に礼をした後、俺はわざと無造作にピアノに寄り掛かった。曲の前半はピアノのみで演奏されるからだ。しばしの沈黙の後、片山が鍵盤に手を乗せ、初めの音を響かせた。誰もが聞いたことのある『アヴェ・マリア』のメロディーが流れ始めた。その瞬間、会場からはどよめきのような声が漏れた。どんなソプラノが歌うよりも、その音は透明で美しかった。暗幕で被われた薄暗い体育館に、一筋の光が差し込んだ。
このピアノの上に音を浮かべる……。自然に俺の気持ちは敬慶なものになった。そして、もう俺の目には体育館の壁や天井は見えなかった。スポットライトの逆光が目に入るせいなのか、それともこのピアノのせいなのか。どちらにしろ視覚は、全く使いものにならなくなっていた。ただ俺は聞き慣れた分散和音の中に、確かにメロディーを感じた。その音を聞きながら、俺は前方に開けた全ての空問に音が響くよう、トランペットを構えた。
ベルの先からは音が当り前のように溢れ出した。ピアノがトランペットを吹かせているのか、トランペットがピアノを弾かせているのか。どちらにせよ、そこにはただ、ひとつの音楽だけがあった。
演奏が終わった後、片山はポツリと呟いた。
「他人と何かをするということも、悪くないな」
そして右手を差し出した。俺はそっとその手を握った。
「ありがとう」
片山龍介はそう言った。舞台を降りたところでは、松井と岩田を先頭に、クラブの部員たち、そして演奏を聞いてくれた人々が笑顔で待っていた。俺達はあっという間に彼等に取り囲まれていた