僕はあくびをした。
テーブルの上のバラはすでに枯れていて、花瓶の内側にはカビが生えていた。面倒で始末しないんじゃない。触るのが怖いから放置しているだけ。そのうち、花瓶ごとバラを始末すればいい。それだけのこと。
涙のにじんだ眼で辺りを見まわすと、ルカが窓際で昼寝をしていた。気持ちよさそうな顔。思えば彼女はいつも寝ている。
「ルカ」
僕が呼ぶと、彼女は顔だけこちらに向けた。僕の次のセリフを待っている。僕は何も言わないで、手招きした。でも彼女は来なかった。そこから動きたくないみたいだった。
「ルカ」
仕方が無いので僕の方から出向いた。ルカは枕に頬をうずめ、気持ちよさそうな顔をしていたが、僕が抱き起こすと素直に起きあがった。細い腰、大きな眼、そして気まぐれな微笑。まるでネコみたいだ。
「せっかく光合成してたのに、邪魔しないで。今日のエネルギーためてるんだから」
「光合成しなくても、僕が食事をつくってあげるよ」
僕は右手で彼女のあごの下を撫でた。ルカは白い喉を仰け反らせ、ないた。しなやかな腕を僕の首にからませる。僕は触れ合う喜びにひたる。
「リウの作る料理、おいしいから嫌」
彼女は僕の方にもたれかり、体重をかけてきた。法則にしたがって、僕の身体は後ろへ倒れる。ルカは僕の上にのしかかり、じっと僕の眼をのぞきこんだ。……深く、澄んだ瞳。わがままで気まぐれで、でも可愛いルカ。
「おいしいから、食べ過ぎちゃう。私太りたくないの」
「君は充分痩せてるよ」
彼女の腰は、僕の両手でつかめてしまう。足なんか、僕の腕ぐらいしかない。その細い身体を包み込む、ゆらゆらと長く淡い茶色の髪。
僕らはウォーターベッドの中で泳いだ。ルカはその長い髪をもてあましながらはしゃいだ。僕は彼女の体の中に飛び込んだ。溶けこみ、同化し、彼女とともにねっとりとした大気の中を漂った。しばらくし
て、彼女はベッドから飛び出した。僕は起きあがって声をかける。
「帰るの?」
「そう。明日の夜明けの太陽の角度、私が計らなくちゃならないの」
「ここではできないの?」
「ここには東向きの窓が無いから」
ルカは僕に手を振った。
「じゃあね」
僕は平泳ぎをマスターしようとして、溺れかけたので諦めた。
バラは腐りかけている。カビは増殖する。早く捨ててしまわなければ。早く…………まあ、いい。
「最近動きが鈍いの」
ルカはそんなことを言った。僕は彼女を抱き上げた。軽い。ぬいぐるみを抱いているみたいだ。
「体重が増えたの?」
「そうじゃなくて」
ルカは首を振った。ふわふわと揺れる髪。彼女の一部。僕は一掴みの髪を手に取り、キスした。
「もうすぐ、私死ぬんだわ」
僕は顔をあげた。ルカはシャツの前をはだけた。彼女の左胸にある、時計。
「動きが遅くなってるの。もうすぐ止まるわ。ゼンマイが切れるのよ」
「ゼンマイをまけばいい」
僕がそう言うと、ルカは答えた。
「まけないわ」
ルカは時計の一部を示した。
「ここ、鍵穴があるでしょう。ここの鍵がないと、開かないわ。その鍵をもっているのは神様で、ゼンマイをまいたのも神様よ」
「どうやっても開けられないの?」
「……たぶん」
ルカ自身、あらゆる可能性を考えたのだろう。
「時計の針、逆には回せないの?」
「無理よ。時間を過去には戻せない」
僕はそっと時計に触れた。
「短いよ、十八年なんて。神様は君のゼンマイをまくの、手を抜いたんだ。でなきゃたった十八年で終わったりしない」
「十八年は長かったわ」
ルカは言った。
「……探してくるよ、鍵」
「無理よ。それより、そばにいて。最後の瞬間まで、そばにいてよ」
「このまま諦めてしまいたくない。嫌だよ。君を失いたくない」
僕の言葉に、ルカは首を振った。髪が、やわらかく揺れる 好きなんだ、揺れるルカの髪が金に透けるのが。柔らかい髪。まるで絹糸。
「神様が決めたことよ」
静かな声。この声がきけなくなる。透き通った、まるで銀の鈴を振るかのような声。耳に心地よく響く声。
「僕はいくよ」
ルカは眼を伏せる。大きな眼が寂しげだった。瞳はエメラルドの碧。潤んで宝石の輝きをもった 。
あてはなかった。当たり前だ。神様に会う術もない。ついに諦めた僕が帰った帰ってきたとき、まさにルカの時計が止まった時だった。時計はカチリと音を立て、彼女はカラクリ人形のようにぴたりと動き
を止めた。
「ああ、ルカ」
涙がこぼれ、それは空気と反応して結晶になりビー玉のように固い音をたてて床を転がっていった。
ルカの体は時計が止まった時、その形を捨て始めていた。もう少しすると、さらさらとした砂だけが、その場に山となって残っていた。
僕はテーブルの上の花瓶を投げ飛ばした。破片が飛び散り、嫌な匂いがした 。
僕は路上で棒倒しをしていた。原形を留めなかったルカの体で。通りすがりの女性が、しばらく棒倒しにつきあってくれた。
「一つ、お願いがあるんだけど」
彼女は言った。
「なに」
「私、もうすぐ死ぬから」
彼女の眼はどんよりしていて、生彩がなかった。
「体が粉になったら、ほら、この袋の中に私の恋人の粉が入っている
から……これと混ぜてほしいの」
僕は袋を受取った。確かに中身は粉だ。人一人分の量だから結構ある。
「それでね……その粉を、妊婦に飲ませてほしいの。そうね……半分ぐらいは飲ませないとダメね」
「飲ませると、どうかなるの?」
「うまれてくる子供に、私たち 私と私の恋人の同化した魂が宿るの。私たちは一人の人間として生まれ変わるのよ。そういう話をきいたの。私と恋人は、もう二度と離れることがない……一つの魂の、
一人の人間として生まれ変わるの」
僕は承知した。彼女は微笑んだ。
「よかった……ありがとう……おねがい、よ……」
彼女はぱたりと倒れ、そのまま動かなくなった。僕は彼女が粉になるのを待って、そして恋人の粉と混ぜてやった。
「……」
僕は路上に散っていたルカの粉をかき集め、袋の中に入れた。今袋の中には、三人分の粉が入っている。
僕はルカと、通りすがりの女性とその恋人の同化した魂を宿す子供を生んでくれるはずの、新しい恋人を探しに出た。