Pussy Cat Dues 4
それから数時間の内に起こった出来事は、私が直接見聞したものではない。ただ、後になって、何人かの人間からバラバラに聞いたものを知るに過ぎない。
カオリの後ろ盾になっていた人物の最後となった奥田は、自らの所属する組事務所の奥で、昼日中だというのに泥酔状態にあった。
実態がどうであったかは定かではないものの、一旦、カオリの高利貸しとその用心棒を組とは関わりのないことだと断言した手前、その暴力団の上層部は奥田の引き渡しにも黙って従うしかなく、内心はどうあれ大した悶着もなく警察官達は問題の人物と対面することができた。
「奥田、お楽しみのところ悪いんだが、署まで一緒に来てもらえんかな」
連行には甲村という刑事が担当することとなった。定年まであと五年を切ったベテランの刑事で、それだけに顔が広く、この暴力団にも昔から顔がきいた。奥田という男にも、僅かではあるが面識があった。年齢こそそこそこいっているものの、要はそれだけで、映画の中のような抗争の時代にもこそこそと動き回ることでなんとか凌いだ小心者というのが印象であった。
幹部連からは睨まれ若い衆からは馬鹿にされ、決して昼間から酒浸りでいられるような身分の男ではなかった。
それが証拠に、一升瓶を片手に、床に座り込んで何度も喉を上下させている奥田の顔には、酒を楽しんでいる様子や、アルコール中毒者にありがちな切迫感は些かも感じられず、ただただ悲愴感だけが漂っていた。
「あ、あんた、警察の人か? なら、助けてくれよ。なんでも言う。言うからさ、ここにいちゃ殺されちまうよ」
甲村の顔を見るなり、奥田はすがりついてきた。目にはうっすらと涙さえ浮かべられている。
怯えていた。いくら組関係で板挟みの立場とはいえ、普段は肩で風を切り、往来を我が物顔で歩いている人間が、自らの一切合財をなげうってひたすらに助けを請うてきたのである。
甲村の鼻に刺すような臭いが感じられた。
見れば服のあちこちに白いぶちのようなものができている。
反吐だった。
奥田は何かをおそれるあまり、酒に逃避し、吐いては飲み飲んでは吐くという行為を繰り返していたのである。
「わ、わかった、とにかく、署まで行こう」
さすがに予想外の出来事に面食らった甲村は、なんとか奥田をなだめすかすと、警察署までの任意同行を了承させた。
ひとまず落ち着くのを待ってから、尋問を始めるしかないだろう。
抵抗を受けた時のためにと率いてきた二人の制服の警官達に、逆に守られるようにしながら、なおもびくびくと畏れを隠そうとしない奥田を連れて組事務所を出ようとした甲村は、顔中の皺をたたみこむかのようにして渋面を作った。
組事務所の前にパトカーを横付けするのは外聞が悪い、そうした理由から車はやや離れた場所に停めてあった。
あまりの怯えように、甲村は一瞬、車をこちらによこそうかとも考えたが、すぐに苦笑して頭を横に振った。 ――馬鹿馬鹿しい。子供を相手にしているんじゃないんだから。
そう考え直して、パトカーに向かった瞬間だった。
視界の端を何かの影が走った。
もし、それが両脇や足元であったならば、甲村も即座に立ち止まり体勢を変えることができたであろう。
けれども、それは上、頭上を通り過ぎたのである。
見た、と思った瞬間にも、足は尚進んでいた。
奥田の両脇にいた警官にしても、対応は似たようなものであった。
突然、女性が上から降ってくるような状況は、少なくとも警察学校では想定されてはいなかった。
その女は、正確には刑事達の歩いていた脇の雑居ビルの三階から、甲村が行き過ぎるのを待って、奥田との間に飛び降りて来たのであった。
逮捕ではなく、一応は任意同行という形をとっているのだから、警官達は奥田と密着しているわけではなかった。加えて、自分から警察に連れていってくれと哀願してくる人間に、警戒などしているわけもなかった。
だから、その女が一本の抜き身の短刀らしきものを持っているのを見てさえ、警官達は何の反応もできなかった。
ただ一人、奥田だけが、何かが付着しているらしい赤茶色に変色した刃の意味を、即座に悟ることが可能であった。
もっとも、わかったからといって、彼にできたことと言えば、せいぜい自らの想像していた最悪の予想が正に的中しつつある現実を認め、絶望に顔面を引きつらせるぐらいではあったが。
女の手が横に一閃される。
乾いた血潮の付着した短刀は、鮮やかとはとてもいえない切れ味で、半ば肉を引き裂く形で奥田の首をかっ斬った。その傷は頸動脈にまで達した。
真っ赤な噴水がたちどころに吹き上がった。
「あひゃびゃば……」
ようやく出せた悲鳴も、己の血流に邪魔されて、すぐに掻き消える。傷口を押さえることすら忘れて、気管に血液が流れ込んでくる苦しさに、手足をバタバタと振り回し、奥田は地面を転げ回った。
ここまで来て、警官達は目の前で起こりつつある、自分達の大失態を認識した。
「……おまっ」
何かを叫ぼうとした一人の制服の警官に、女は新たな滴りを得た短刀で斬り付けた。顔面を斜めに縦断した傷跡は、左の眼球を断ち割り、唇をいびつに大きく広げた。
今度の悲鳴は消えることがなかった。
完全に浮き足立った警官達を一瞥すると、女は一転皆に背を向け、脱兎の如くその場からの脱出を試みた。
最終的にこの逃走は成功した。
ただし、その際に、女は残った一人の警官が放った銃弾を、計二発喰らうこととなったが。
その日も結局仕事に出ることにした。
テレビでは、ヤクザを三人ばかり惨殺し、警官にも重傷を負わせた犯人が、自らも負傷しながら尚も逃走中という報道を頻りに繰り返し、外出を自粛するよう戒めていた。
町に出ても、いつもの倍以上の警官が辺りを巡回し、何度も何度も職務質問をして来ては、とっとと家に帰れと捨て台詞を吐いて去っていった。
そんな状況では、さすがに商売になるはずもなく、しかたなく今日はもう引き上げるかと決心しかけた時だった。
どこからかネコの鳴き声が聞こえてきた。
周囲を見渡してみても、それらしい姿はない。
空耳かと思って歩を進めようとすると、再び聞こえてくる。
そんなことが三度ばかり繰り返された。
鳴き声は人から忘れ去られたようなビルとビルの細い隙間から聞こえてきているのだった。
虫の知らせなんて言葉など信じないと、普段はうそぶいている私が、その中に入っていこうという気を起こしたのは、やはり何か予感があったのだろう。
一歩その細長い通路に足を踏み入れると、たちまちにしてもともと光量の足りないネオンや街灯の頼りは得られなくなり、かろうじて月明かりだけが足元をわずかに照らし出す役目を担ってくれた。
とにかく乱雑だった。
いつからあるとは知れない中身の詰まったゴミ袋に木箱、サドルがなくなり車輪のひんまがった自転車が、ただでさえ狭い道を我が物顔で遮り、腐敗したダンボール箱は時折足をすくおうとする。コンクリートはところどころに亀裂が入り、そこからはひょろ長い雑草が顔を出している。
土と草のものに混じり、生ゴミと強烈なアンモニアの異臭が鼻腔をくすぐり、私は胸のむかつきを押さえることができなかった。
なんとか足にまとわりつこうとする、それらのひとまとめにしてゴミと呼ばれるものをふりほどいてやや行くと、にわかにこじんまりとした空間に出た。
まだゴミはあるとはいえ、空間に占める割合が格段に減ったため、遮蔽物から無視できる物体へと変わった。
目の前には、いくつかの非常階段が並んでいた。
どうやら、来た道は周りのビルの緊急時の避難経路になっているらしい。
もっとも、通路があのありさまで、おまけに階段には使えるスペースを最大限に利用すべく、荷物が積み重ねられていては、使用するには余程の努力が強いられるように思われる。
非常階段の一つ、比較的積載量の少ないものに、それは腰を下ろしていた。
「ねえ、ネコ見なかった?」
私はなにはともあれ、取り敢えずそう訊ねた。
「……今にも死にそうな相手への第一声がそれですか」
口元に軽い笑みを浮かべながらそいつは言った。
「でもよかった。来てくれて嬉しいですよ、杏さん」
女のようだった。長い髪を後ろで束ね、ひとまとめにしている。器量は決して悪くはない。ドングリ眼に細い鼻、薄い唇はかわいいと呼ばれる部類に入るだろう。ただ、その顔には、あまりに生気が欠けていた。
「どこかで会ったっけ?」
覚えのない相手の顔をまじまじと見つめる。
「この姿では初めてですね」
「なに、変装が趣味とでも言うつもり?」
「変装かな、あれは。まあ、なんでもいいじゃないですか。あなたにはお世話になったから、ちゃんとお礼を言っておきたかったんですよ」
女は時折苦しげに息を荒げながら呟いた。
「ちゃんと説明してよ、いきなりお礼なんて言われても、なんのことだかわからないもの」
「ふふふ。……そうかもしれませんね」
一度笑みを大きくすると、一人何か納得して、女は語りだした。
「……辛かったんですけどね、不幸だと思ったことはなかったんですよ。毎日のように、腹いせに殴られて、タバコの火を押しつけられたりしたのも、なんだか当然のような気もしていたんです。だから、あの人を飼い主だと思ったこともなかったし、ましてや自分が世話を受けているなんてことは夢にも思わなかった。けど、なんの因果でしょうね、血まみれになって倒れているあの人を見ていたら、急に怒りがわいてきたんです。こいつが、こいつのせいで。そう思ったら、いてもたってもいられなくなりましてね、なんとなく血をすすってやったんです。せめてものしかえしのつもりだったんでしょうね」
辺りは静まり返っている。場所のせいもあるのだろうか、一切の物音が遮断されているようだった。
「そのせいで、こんな出来損ないみたいな体になっちゃったんです」
自嘲の笑いが女から洩れる。が、その笑いは、途中から咳き込みに変わる。
この場所に着いた時から、私の目には一つの色の溜まりが映っていた。赤から黒へと外側に向かってかけられたグラデーション。じょじょに広がり続けるそれは血溜まりに他ならず、その源は女の脇腹から滴っていた。
「杏さんと初めて会ったのは、実は私が二回目にあの場所を訪れた時だったんです。最初に血をすすると、強烈な義務感が襲ってきました。仇を討たねばならない。どうしてそんなことを考えたのかはわかりません。でも、思っちゃったんです。そして、困惑するなか、体が勝手に動いていました。凶器はあったんですよ。ただ、私が持ち去っていただけで。簡単に発見されないように近くの建物の屋根の上に隠しておいたんです。それが終わると、急に喉が乾いてきました。血です。血が飲みたかった。なんだか、そうすれば、もやもやがはっきりするみたいな気がしたんです。ところが、それはかなわず、杏さんに妨害された。おかげで、ずいぶんと遠回りをしましたよ、あの三人を仕留めるのに。知ってはいたんですよ、なんだか口論みたいなのをして、突然ブスッとやられるところまでしっかりとこの目で見てましたから。けど、爪が生え替わらなかったから、犯人の素性を知らせないために隠したあの短刀を使わないといけなかったし。でも、おかしいですね。全てをやりとげて、もう未練は何もないはずなのに、自分がどうしてあんなことをしたのか。どうして、あんなヤツのために、人を殺さないといけなかったのか。どうして、そのせいで自分も後を追おうとしているのか、どうしてもわからないんですよ」
いつからか女は笑顔をたたえながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。それは自らの内部の、相反する二つの心を表しているようであった。
「でも、つまんないな、杏さん、全然驚いてくれないんだもん。もっとびっくりしてくれると思ったんだけど」
「もともと感情が表に出ないタチでね」
言いつつ私は女を支えてやるために近寄った。体は既に水を浴びたように冷たくなっている。
「ふふふ。……そうやって、あなたは生きていくんですね。全ての責任を認めて、けどそれを認めていることを絶対に露わそうとはせずに、自分一人でひっかぶっていく」
女は私の腕を握りしめてきた。その力はあまりにも弱々しく、ほとんど触れられている感触すら受けないぐらいだった。
「私があのホテルの一室から出ることはできなかったはずですよね。ドアノブに手を掛けて回しでもできない限りは。今の姿なら、それも簡単なんですよね」
途端、音が戻ってきた。
車の排気音、誰かの歩く音、店々の中からの嬌声。まるで、それまでどこかに失われでもしていたかのように、私の耳へと押し寄せてきた。
その中に、まだ時間も早いというのに、店を閉め出されでもしたのだろうか、酔っ払いのやけを起こしたようなほとんど怒鳴りつけているだけの歌声が聞こえてきた。
――星の流れに 身を占って
何処をねぐらの 今日の宿
「懐かしいなあ、あいつがよく歌ってたっけ。つい二、三日前のことなのに、どうしてこんなに懐かしいんだろう……」
女の声はか細い張りのないものになっていた。
それでも最後の力を振り絞るように、歌の後を継いだ。
――荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も 涸れ果てた
こんな女に誰がした
「……こんな女に誰がした」
歌い終わった途端、女の体が私の方に倒れ込んできた。けれども、重さを感じたのもほんの束の間のことであった。たちまち、その肉体は重量を失った。
気が付くと、私の腕の中には一匹のネコがうずくまっているだけだった。
手を鼻にかざす。
呼吸の流動は感じられなかった。
私はそっと頭上を見上げた。
天頂では大きな満月が、蒼白の光を振りまいている。けれども、スモッグのせいだろうか、にわかにその真円が朧に霞み、ついにはいびつに歪みはじめた。
〈了〉