Time Has Come
 
 
 
Pussy Cat Dues 3


 私は一息ついた気がして、愛用の湯呑みでお茶を啜った。
 観音坂の膝の上にいたネコは、携帯電話が鳴るやびっくりしたように飛び退き、私の隣で丸くなっている。
「……です」
 小さな声が聞こえた。
「うん?」
「何故です」
 もう一度、はっきりした口調で瑞喜が呟いた。
「何故、あなたはそんなに斜に構えた態度を続けるんですか」
「生まれつきなのかな」
 あまりに明け透けに、私の性格について詰問してきたので、苦笑するほかなかった。
「いいえ、違います」
 これまたきっぱりと、私の回答を否定する。
「ここに来る前に、私は西行寺さんからお話を聞いてます」
 なるほどね。
 私は心の中でひとりごちた。
 西行寺はこの辺りの所轄の風紀課の人間だ。最近めっきりと後退した額がトレードマークの四十代前半の男で、太い眉に鷲鼻となかなかの強面なのだが、声色はソプラノと全く釣り合いがとれていない。
 私がこの界隈で客をとるようになって三年以上になるが、当初からちょっかいをかけてきた男だ。
 更正を促してくるのではない。自分もおこぼれにあずかろうとするのだ。
 小さな町ではあるが、私が仕事場としている地域には、二十人前後の同業者がいる。勿論、入れ替わりの激しい業界であるから、同じ顔ぶれというわけではなく、常にそのぐらいの人数の女――最近は男も増えたが――が他人に股を開いて金を稼ごうとしている。
 西行寺はたまにふらりと現れては、小物にありがちな卑屈な笑みを浮かべて、商品を一通り品定めした挙げ句、めぼしいのを見つけると、ねちねちと職権を振りかざして自分との行為を強制してくる。実際には、刃向かって拘留されたところで、訴訟にまでいたるケースは万に一つもありえず、早期釈放となるわけなのだが、その間の収入は断たれるわけで、有り難かろうはずもない。結果的に西行寺を恐れるわけでもないのに、その意のままに従わねばならないという実に屈辱的なこととなる。
 そして当の西行寺は、商売女達が身を差し出すのを、自分の抗い難い魅力と勘違いしている。
 最低の下衆野郎なのだ。
 ただ、そんなクズであっても、どう立ち回っているものやら、警察内部での評判は決して悪いものではないらしく、無駄に重ねた年輪も古株ということで後輩からは慕われる理由にもなったりするらしい。
 瑞喜になにやら吹き込んだのも、そんな頼りになる西行寺であったに違いない。
「あなたの出自や経歴、そしてどうしてこんなことを始める羽目に陥ったのか、十分同情の余地はあると思います。でも、だからといって、今みたいに男のおこぼれで、なんとか生き延びさせてもらっていてどうするんですか」
 私は口を挟まなかった。むしろ、挟む気にもなれなかったというのが正しいだろう。
 娼婦という仕事についてから、この種のわかりのいい憐憫はいくらでも受けてきた。ある時は店勤めのホステスから、ある時はやることだけきちんとやり終えた男から。ただ、それを聞き入れるつもりは毛頭なかった。
 こういう説教を垂れる人間は、そうすることで、自らの身を正当化しているに過ぎない。法に背いたことをしている人間を諭す、自分の正当性を堪能し、自己満足に浸ろうというわけだ。
「結婚というのは、確かに一つの幸せではあるでしょう。けど、だからと言って、それを失ったからといって、全てをなげうって自暴自棄になってもしかたがないじゃないですか」
 失敗。私はこの商売につく前は主婦をしていた。言われてみれば、私の結婚生活は破綻したのだろうとも思える。だが、それでやけを起こしているつもりはない。
「子供を生まなくたって、いくらでも人生の楽しみはあります」
 今度は人生の楽しみときた。一時の享楽に身を任せ、本当に大事なものを見失う。陳腐な戯れ言だ。
「けどね、あたしには、選択肢がなかったのよ」
 自分でも驚くぐらいに落ち着いた言葉が出た。
「子供を生まなかったんじゃない。生めなかったの。この体のせいでね。どうやら、向こうから見れば、それで十分あたしはできそこないだったらしいわ」
 結婚生活も二年を過ぎた頃から、私に妊娠の徴候が一切見られないことに、相手側の親が焦れだした。とにかく、一度検査してもらえという強い促しを受けた。結果は私の排卵能力の著しい欠落がはっきりしただけであった。私の体内には、卵子を排出する器官が正常に働いておらず、着床していないところにいくら精子を注ぎ込んだところで受胎しようがないという説明を、専門用語をふんだんに交えて教えられた。
 瑞喜は黙って私の言葉に耳を傾けていた。
「けどね、それと今のあたしは何も関係がない。毎日毎日、男のモノしゃぶってくわえこんでいるだけの生活だけど、それをみじめだとも思わないし、不幸だとも思わない。寧ろ、自分の仕事に誇りすら感じる」
「どうして……」
 瑞喜の声がかすれたものになる。驚きと憤りのために、急には言葉が出なくなってしまったのだろう。
「それが自分の選んだ仕事だからよ」
 小難しい理屈があるわけではない。始めた経緯がどうあれ、私は娼婦という職業を選択し、それを続けることを決意した。段階を二つ経ている以上、おいそれとやめることはできないし、やめるつもりもない。
「わかりません。そこまでして、男にかしづく意味が」
「別にかしづいちゃいないわ」
 強がりではない。横になって、マグロのように男のするにまかせるだけだったら、一番最初の思い切りさえあれば誰にだってできる。私達は、技芸を売りにして、それに代金をつけているのだ。需要者も納得すれば金を払う。金額が相互に折り合いのついているものである以上、売るほうにも買うほうにも身分的な上下は存在しない。あとは気分的な問題になるだろう。そして、感情といった主観的なものは、決して一般化できない。
 だが、瑞喜にはそれがわからない。いや、理解を拒もうとしているのだろう。
「けど、結局は男から金をもらって、自分の身を差し出していることに間違いはない。そうした行為が、女性の地位を上げようと努めている人々の支障になっていることを御存知ないんですか」
 よくある論理のすり替えだ。
 賤しき商売に手を染めることが、即女性全体の品位を貶めるというわけだ。その賤しい女の体を抱くことに、なんら疑問を感じぬ男の地位が安泰な理由を、けれども、彼女らは説明しない。
「別に、あたしは全女性を代表するつもりはないし、あんた達もあたしなんかをそうさせたいの?」
「個人主義です」
 ぼそりと瑞喜が呟く。大分、感情の起伏が激しくなってきている。
「その個人主義が、何をもたらすかわかっているんですか? 女性全体なんていう話題は、興味がないみたいだからやめておきます。でも、待っているのは、空しい最期だけです。島崎さんの死体を見つけたのは、あなたでしょう」
 瑞喜はコタツ板に手を打ちつけた。
 その手の平には、数枚の写真が用意されていて、私の目の前に差し出された。
「誰にも看取られず、孤独に苦しみもがき死んでいく。そういう結末が、あなたはお望みなんですか?」
 それらの写真は、カオリの死んでいた場所を写したものであった。さすがに死体は運び出された後のもののようで、どこにも亡骸は見当たらなかった。けれども、水を吸って偏食した桜の花弁が死体のあった場所を、正確に縁取っていて、まだ半日も経っていない殺人現場の光景をより生々しく訴えかけていた。
「最近の警察じゃあ、宗教も勧めてくれるの?」
 私はそれらの写真を爪弾いて、瑞喜のほうに押し戻した。
「な……っ」
「いずれあなたもこんな死に方をしますよ。だから、現在を悔い改めなさい。そうすれば、未来は保証されます。立派な御題目よね。でも、どうやって、あんたはそれを証明するのよ。犯罪は善人をよけて起こっているとでも言うつもり? あんた達は、人目を憚る悪事を働いているから、その報いを受けているんだ。そうとでも言うつもりなの?」
 つまらない屁理屈だ。私も少々気が高ぶっていたのだろう。
 だが、私以上に、目の前の女刑事さんは、更に感情的になっていた。
 女同士の喧嘩は両極端だ。つまらない小競り合いが延々と続くか、致命的な一撃がどちらかに下されて終わるか。どちらにしても、双方に特になることは何もない。
 私と瑞喜の言い争いも、そういう喧嘩に発展する寸前であった。
 再び呼び鈴が鳴らなければ、爪を立てあっていたかもしれない。
「いやあ、どうも失礼いたしました」
 玄関を開けると、観音坂が変わりない笑いを浮かべて突っ立っていた。
「まったく、間のいいこと」
「はい?」
 飽くまで空とぼける姿勢は崩すつもりはないらしい。私も別にどうでもよくなったので、この律儀な男を再び室内に通すと、もう瑞喜の方には目を向けなかった。
「おや、加藤君、熱心だね。杏さんに、状況説明をしてくれていたんだ」
「え、は、いえ……」
 瑞喜は突然の観音坂の帰還にあっけにとられたらしく、コタツの上に散乱した写真を大慌てでかき集めながら、言葉にならない言葉で、どうにか返答らしいものをするのが精一杯だった。
「ところで、さっきの話の続きを聞かせてもらってもかまわないかしら」
 別に瑞喜をかばってやるつもりもなかったが、これ以上、手間を取らされるのも御免だった。
「そうですね。ぼくらも、急いで次の場所へ行けって、上司に怒られちゃいました。で、奥田、富川さんのことからでしたね」
 どうやら韜晦するのはやめにしたらしく、あっさりと話の続きを繰り出す。
「両氏は三山氏と同じ暴力団に属している組員で、よく一緒にいたそうです。ついでにいうと、島崎さんともつながりがあって、高利貸しの手伝いもしていたということです。と、こうなると、犯人像が二つばかり導かれるんですよ。犯人はこの四人のうちの一人、動機はなんらかの仲間割れ。もしくはこれまで四人になんらかの恨みを持っている者の犯行」
「なるほどね」
「で、現在、一度でも島崎さんを利用したことのある人を、こうやって訪問してその時の状況を聞いて回っているんですよ」
「それで、さっき、三山とかの名前に聞き覚えがないかって言ってきたわけね」
 そこで私とカオリとの関係を推測しようとしたのだろう。
「けど、さっきも言った通り、あたしは幸いにカオリ止まりで、借りたものはすぐに返したし、利用したのはただの一回きりだから、その連中はまったく知らないわね」
「よく用意できましたね。かなりの高利だと聞いてますけど」
「急に羽振りがよくなったのよ」
「へえ、そりゃどうしてです? 是非、あやかりたいもんですね」
「天下の回りものだからね。どうしてだかは、あたしにもわからないわ」
 私は空とぼけることに決めた。今更、商売を口にしてどうこうなることでもないとは思うが、念には念を入れておいて損はない。
「残念ですね。っと、じゃあ、これでおいとまさせていただきます。お手間取らせてしまって申し訳ありません」
 観音坂が腰を上げると、遅れて瑞喜も続いた。
「いいえ、ろくにお構いもできませんで」
 私は送り出しは辞退することにして、座ったままで通り一遍の言葉を返した。
「ところで、刑事さん、あんたはこの事件どう思ってんの?」
 はぐらかされるのはわかっていたが、このまま自分だけ色々聞かれたままなのは腹立たしいものがあるので、とにかく言うだけ言ってみた。
「さて、どうでしょう」
「借金していた人間を当たっているってことは、リストかなにかが出てきてるんでしょ。それであたしのとこにまでわざわざ来るってことは、特にめぼしいのがいないってことじゃないの? なら、犯行は内部の人間……」
「でもですね」
 私の言葉を遮るように、観音坂は述べる。
「彼らはアリバイを主張しているんですよ。まあ、それほど立派なものでもないんですけどね。彼らの行きつけ――要は息が掛かったってことですが――の店で島崎さんとは、雨が降り出した直後に会った。その後、誰かに呼び出されて、どこかに行った。そして、第三者の証言もとれている」
 私に代わって観音坂を送って玄関まで出ていったネコの顎をしゃくってやると、「それじゃあ、今度こそ本当に失礼します」と言って部屋を後にした。  人の些細な思いなどはまったくお構いなしに、時間は過ぎ去り、昼が暮れれば夜がやって来る。
 多くの人々が区切りとして一日の終わりを感じている頃、私達の労働時間は開始される。
 昨日と同じ町、昨日と同じ場所で、薄暗いネオンの明かりだけを頼りに、気怠い表情をたたえながら、私は客を待っていた。
「あんた、まだこんな仕事やってたのか」
 馴れ馴れしげに声を掛けて来た男が、その日の口開けだった。五十代半ばといったところだろうか、中年太り、脂性、まだらの白髪と特徴はあるが個性のない男だった。
 頻りに以前、以前と連発して、どうやら私を諭して、こんな仕事から足を洗うように促したらしいのだが、生憎全く覚えがなかった。いや、覚えがありすぎるといった方が正確かもしれない。大概の客は、自分の欲望をしっかりと発散させた後、小難しい顔をして人に説教を始めるのがパターンとなっていた。私にしても、そんな十把一絡げの客までわざわざ記憶にとどめていたりはしない。
「まったく、楽に金儲けなんかできるわけがないんだ。もう一度、みっちりと人の道を説いてやる」
 酒臭い息を振りまいて、目を血走らせながら、一帯どういう人の道を教えるつもりかはせいぜい見物ではあったが、とにかくそうやって私はホテルに連れ込まれた。
 正義感か性欲か、男を突き動かしていたものが何かは知ったことではないが、その一途さは大したもので、風営法改正後の今となっては動かすことが違法となる回転ベッドだのが置いてある、中の設備にすら手をかけられない場末のホテルの一室にやって来て、ようやく私が一匹のネコを抱いているのに気付いたくらいだった。
「な、なんだそれ?」
「ネコだけど」
 文字通り地に足が着かない状態でむずがっていたネコを、床に放してやりながら私は答えた。
「そ、そんなことを、言ってるんじゃない。こんなところに、ネコを連れて来るなんてどういうつもりだ」
「こんなところ? 説教するのに、ネコが邪魔なわけでもあるの?」
 男は途端に言葉を詰まらせた。
 どうやら、自分の大層高邁な思想が、いつの間にか下半身中心のものに変わってきたのを、朧気ながら自覚し始めたようであった。
 しかし、ここで本格的に気付かれてしまっては、私の稼ぎもだめになりかねない。
「先にシャワー浴びて来るわ」
 言って服を男の目の前で脱いでいく。ネックレスとイヤリングを外し、ベッドに足を掛けてストッキングを下げる。貫頭衣になっている服の後ろのファスナーを下ろし、ブラジャーを先に外す。それらをベッドに無造作に重ねていくと、男の視線が集中してきているのが嫌でも感じられる。最後に腰の下着一枚を残して真裸になると、軽く微笑みを浮かべてシャワー室に向かった。
 やる気の人間に抱かれるだけならば、そこらのホステスやソープ嬢と私達は変わりない。その気でない人間も十分に興奮させて、相手の満足を最大限に引き出すように抱かれてやるのが、娼婦という職業なのだ。
 たった数年でのことだが、私は色々な手腕を学び、身につけてきた。
 シャワー室の扉が背後で開く音が聞こえた。大量の温水の流れるのにも負けない強い加齢臭が鼻をつく。
 まるで、色事しか考えられない中高生のように、男は私の体にむしゃぶりついてきた。
「もう、慌てないの」
 作りなれた艶声をあげて、私は本気ではない拒絶をして、男を焦らしていった。
 たわいもない相手だ。
 私は内心の微笑を隠し、恍惚とした表情をして、適当に喘ぎ声をあげておけば、仕事は完了する。
 この時もその通例に変わりはなかった。
 相手の果てるのに合わせて、こちらも適当に絶頂に至った振りをすれば、男は自負心を傷つけられずに済む。
「君みたいな人間がこんなことを続けてちゃいかんよ」
 汗――ほとんどが男のものだが――でベトベトになった体を、改めてシャワーで洗い流した後、男はおもむろに呟くように語りだした。
 タバコに火をつけ、本人はきめているつもりかもしれないが、ブリーフ一丁でたるんだ下腹部をもろに披露されては、説得力も威厳もあったものではない。
「あたしも、いい加減足を洗いたいんだけどね……」
「……何か事情があるのか」
 タバコの煙とともに、男は深く息を吐く。
「母が病気なのよ。あたしって、何も取り柄がないでしょう。だから……」
 互いに信じてもいない嘘をつく。とんだ三文役者ぶりだが、男に金を払わせる機会を与えるには、こうでもしないと他に道はない。飽くまで親孝行な娘に善意の手を差し延べるのであって、私の体を買ったのではない。馬鹿馬鹿しい理屈だが、それで納得がいくのだからしようがない。
「わかった、これを使いなさい」
 男は財布の中から紙幣を数枚取り出す。少しはこなれた人物らしく、私の手に握らされた金額は相場に見合ったものだった。
 やることもやり、いただくものもいただいた。
 それで私がラブホテルの一室に居残る義理もなければ必要もなかった。
 そう普段ならば。
「ねえ、ネコ知らない?」
「ネコ? ああ、いっしょに連れてきてたあれか。いいや」
 格好よく自らの役割を決めたつもりでいた男は、私が更に言葉を接いだので、ややびっくりしたように、目をパチクリしながら気の利かない台詞を吐いた。
 部屋を見回してみたが、ネコはどこにもいない。念のため、ベッドの下や、シャワールームも覗き込んでみたが結果は同じだった。
「本当に? えらく気にしてたみたいだから、あたしがシャワー浴びてる隙に、外に放り出したんじゃないの?」
「ば、ばかなことを言うなよ。なんで、俺がそんなことをせにゃならんのだ」
「見られてると、緊張してできないとか」
「そ、そ、そんなことが……」
 見られてかどうかは別として、緊張すると生理現象が妨害される類の人間であったらしく、たちまち耳たぶまで真っ赤にして、男はうつむいてしまった。
 中年男の羞じらいを観察していてもしかたがないので、私は探索が徒労に終わったのを確認すると、気にはなったものの、そのまま部屋を後にした。
 それから、三人ほどの客をくわえこんで、その日は割と懐が潤ったが、ついにネコは戻ってこなかった。
 正夢、逆夢、夢のお告げなど、古来から夢の映像を現実の出来事に結びつけようとする慣習はいくらでもある。その信憑性に疑問を呈せられるようになってからも、フロイトの『夢判断』は相も変わらずある種の権威を帯びている。自分の思い通りにならない夢というものを、なんとか理屈づけて掌握したいという思いの表れなのであろう。
 私は習慣にせよ、心理学的な分析にせよ、夢というものの関与を認めない。
 夢というのはレム睡眠時の記憶映像の混乱であるに過ぎない。
 である以上、そうしたものと現実が関係することなどありえない。
 などと強がりを言ってみても、悪い夢を見たらその日一日気分が優れないし、いい夢を見ればなんとなく晴れやかにもなる。
 二日連続で安眠を妨害されるのは、私としても嬉しいことであるはずもない。
 ましてや生理的に受け付けない不快な夢を見た後のことなら尚更だ。
「はい、もしもしぃ」
 夢の内容は急速に鮮明さを喪失していき、ただ不快さだけが雲のように頭の中に居座り続ける。
「どうも杏さんですか? 観音坂です」
 おまけに同じ人間に叩き起こされたとあっては、私の不機嫌はとどまるところを知らず深まっていく。
「なによ」
「すいませんね、お休みのところを。今日はそちらに回っている時間がなくて、ちょっとお電話で話をうかがいたいんですが」
「はいはい」
「実は富川さんが殺されました」
「はぁ?」
 思い切り素っ頓狂な声で返答してしまった。いきなり殺人事件の報告で、それも一瞬誰だかわからない人間の名前が出てきたので、不意を突かれてついそんな間抜けな答え方をしてしまったのだ。
 少し考えて、それがカオリの後ろについていたヤクザの一人だと思い当たった。
「驚かれるのも無理がないことだと思いますよ。昨日と今日で三人ですからね」
 演技か素なのか、完璧に誤解した口調で、観音坂は私の仰天に合わせた。
「事件は昨夜八時二十分頃のことです。島崎さんが殺されたのとさほど遠からぬ行きつけのスナックで軽く一杯やった後、店を変えようと外に出たところを待ち構えていた犯人に一撃で。下腹部を下からえぐるように突き刺されて。傷は内蔵にまで達していたそうです。急いで病院に運ばれたんですが、もともと不摂生な生活をしていたんでしょうね、体力がもたずに数時間をまたずに亡くなりました。傷口から今回も島崎さん、三山氏の殺害に使われたものと極めて似通った凶器によるものと推定されています」
 淡々と新しい殺人の模様を述べていく。
「で、また、あたしのアリバイでも聞きたいっていうの?」
「え? あ、いや、そんなつもりはないんですよ」
 さも意外そうに、観音坂は否定する。
「こりゃ、ぼくの言い方がまずかったかな。凶器のことから切り出すべきじゃなかったですね。八時と言えば、まだ宵の口です。日付が変わる頃ならまだしも、十分に人通りのある時間帯でしょ」
「ってことは」
「はい。今回に限って、犯人の姿が目撃されているんです。それも複数の人から」
 電話越しに空気が張り詰めた気がした。
「犯人は二十代前後の女性。髪型は長髪を後ろで束ねていて、服装はジャージ姿だったらしいです。とにかく早業だったらしく、周囲の人間が捕らえようとした時には、もう万事済まして逃走してしまったということですから」
「それにしても、ずいぶんと色気のない格好ね」
「ええ、ラフな格好なのが気に掛かって、我々も現場近くの住人かと目星をつけたんですが、該当する人物に行き当たっていないんですよ。目下、総動員で捜索中です」
「ふーん。ところで刑事さん、あんたはどう思っているわけ。この事件の連関を」
「一連の事件は、この女性の犯行、それが捜査本部の統一見解です」
「違う」
 知らず語気が荒くなる。自分でも何がこんなに苛立たせるのかわからない。ただ、非常に不快だった。観音坂が、ではない。この事件全体を覆う影みたいなものがである。
「あたしが聞きたいのは、そんなことじゃない。観音坂明さん、あんたがどういう風に思っているか、よ」
「やっと名前で呼んでくれましたね」
 その一言で私の血が逆流したような気がした。
「あたしは警察が融通の利かない場所だとは思うけど、無能の集まりだとは思わない。だから、あたしが考えていることぐらい、とっくの昔にわかっていることだと思う。なのに、あんた達は、どうしてあいつらを泳がしておいたの?」
 電話の向こうからは何も返ってこなかった。ただ、受話器の先で、私の話を耳を澄まして聞いている気配だけが、はっきりと感じられた。
「おかしなことはあった。まず、カオリの化粧。あいつの商売は、水商売の女相手。だから、貸した金を取り立てるのに、わざわざ化粧なんかやっていくはずがないのよ。しかも、あんなにゴテゴテと。女が精一杯飾っているとなると、落ち合う相手は男に決まっているじゃない。あんただって、雨で半ば落ちたあのどぎつい仮面を見ている筈よ。それと、次に、そして決定的なのは雨よ。あたしがカオリの死体を発見したのが、雨の降り出した直後。なのに、どうして、あの連中が話なんかできるのよ。なるほど、正確な時間差は割り出せないから、万一ってこともあるかもしれない。けどね、昨日一緒に連れてきた、あの正義感の強いお嬢さんが見せてくれたでしょ。死体を持ち去った後の現場写真を。あそこには、ポッカリと穴みたいに、死体のあった場所が桜の花びらで囲まれていた。つまり、桜の散るより前に、カオリは殺されていたことになるのよ。三山、奥田、富川の三人の雨が降り出してからカオリと会ったっていう供述は、ここで完全に矛盾が出てくる。桜の散りだしたのは、雨が降りだしてからなんだから。そこまでわかっていながら、どうしてあいつらをひぱるなりしないの?」
 一気にまくしたて、相手の応答を待つ。けれども、依然、観音坂は押し黙ったままだった。
 これ以上はいけない。
 頭の中で警鐘が猛烈に鳴り響いていた。
 これ以上踏み込めば、取り返しのつかないことになる。直感に過ぎないが、私はその警告に従い、口を閉ざした。
 本当はほんの一分もなかったのかもしれない。
 それでも沈黙の重圧は容赦なく私を責め立て、実際の数倍、数十倍にまで時間感覚を膨らませた。
「拝聴させていただきました」
 突然、静かに観音坂が、沈黙を打ち破った。
「仰ることは全く理にかなっている。我々としましても、少々これは深刻に考えねばならないでしょう」
 初めて観音坂は慎重に言葉を選んで発言している様を露骨に現していた。
 辛くもこちらの言い分が受け入れられたことで、全身の緊張が一気に弛緩していくようだった。
 だが、それは甘い楽観だった。観音坂はその隙を突いて、私の泣き所に潜り込んできた。
「ところで、聡明な杏さんにどうしてもお聞きしたいことがあるんですよ。おそらく、あなたならもうとっくにわかられて話を進められているんだと思いますが」
 沈黙。
 ただし、今度は望んでのものではなかった。黙らざるをえなかったのだ。
「犯人は誰なんです?」
「そ、そんなこと……」
 答えようのない質問。それでも観音坂は容赦をしない。
「わからないはずはないと思いますが。先程の持論を傾聴しておりますと、島崎さんが最期に会っていたのは三山氏らということになるはずです。けれども、富川さんが殺害されたのは、衆人環視の状況で、犯人は女性という立派な証言もあります。にも関わらず、あなたはそれを全く無視した。おかしいですよね。そもそも、あなたは富川さん殺しの話の連続として、今の推理を口にされたはずです。なのに、どうして、三山氏達の糾弾は進めても、その女性の方には論理的思考を働かせようともしないんですか?」
 そこで観音坂は一息おいた。それは、まるで私の頭に十分言葉が染み込むのを待つかのようだった。
「それは犯人が論理的考察を待たない相手だから。杏さん、あなたが犯人を知っているからじゃないんですか?」
 三度沈黙が電話を境にして二人の間を満たした。
 けれども、それまでのものと根本的に種類を異にしていたのは、この沈黙は私が口を開かないことには、永遠に破られることがないということであった。
 私は大きく嘆息した。
「……別に隠しているわけじゃない。確かに、あんたのいうように、私の頭に一つの予感はある。ただね、これはしゃべれないのよ。誰に対しての義理だとか、そういうもんじゃない。ただ、あまりに馬鹿げていて、荒唐無稽な話だから」
 自分でもわかるぐらいに力弱い発言だった。
 それぐらい、私の頭に渦巻いていた疑念は絵空事に近いものだったのだ。
「そうですか」
 無気味なぐらいの物分かりのよさを見せて観音坂は折れた。
「そう仰るのならしかたがないですね。どちらにせよ、この事件はあなたがイニシアティブを握っているんです。あなたの言葉通り、残っている奥田さんの聴取をはじめましょう」
「どういうこと?」
「我々はね、初動捜査で大きなミスをやらかしているんですよ。第一発見者であるあなたを、ほったらかしにしたまま、都合一時間近くも猶予を与えてしまったというね。我々の仕事は疑ってかかることです。あなたは警察の到着を予測できなかったとはいえ、それでも何かを隠したかもしれないという疑念を、こちらに残し続けることにはなる。そうした点で、杏さん、あなたがこの事件の要になっていたのは間違いないんですよ」
「勝手な理屈ね」
 観音坂の口調は途中から完全に元の人を喰ったものに戻り、つられて私の動揺も完全に払拭されていた。
「まったくです」
 大真面目な言い方で賛同する。私は思わず、それに吹き出しそうになる。
「警察ってのは、勝手で強引で我の強いところです。けどね、決して融通の利かないところじゃないんですよ」
 観音坂の最後の一言はまるで、私の考えすらも読んでいるかのようであった。