Time Has Come
 
 
 
Pussy Cat Dues 2


 変わっている。
 観音坂は確かに変わった男だった。
 どうにか自宅にたどりついた私は、その日の未明から朝方にかけて体験したことを、思い出すともなく思い出していた。
 警官達から解放された後、もう今日は商売になりそうにもないと判断し、帰路につくことにしたのだが、もとより終電はとうのむかしに出てしまっているし、そうそうタクシーも都合よく客待ちをしていてくれたりはしない。最終的に自分の頼りとなるのは、この両方の脚だけしかなかった。
 私は事件の現場から私鉄で五駅ばかり離れた、かろうじてベッドタウンと呼ばれなくもない新興住宅地の賃貸マンションの一室に居を構えている。近いといえば近く、遠いといえば遠い。この中途半端な距離を身を以て知ったのは、丁度半分ぐらいを通過した時だった。電車ならば十五分という所要時間が、明日の仕事もあるから、とにかく自宅でゆっくりと休みたいという心を奮起させ、目測を誤らせた。ある意味運動不足の私は、あっという間に息が上がり、足取りも露骨に鈍くなっていった。
 なんとなく連れてきたあのネコも、抱えているのが辛くなって、地面に下ろすやいなや、どこかに駆け去っていってしまい、道連れもなく暗い夜道をとぼとぼと歩き続けた。
 そうして、やっと部屋で人心地ついた頃には、早くも東の空が白み始めていた。
 ふくらはぎの辺りがぱんぱんに張って、強烈な疲労感が全身を隈無く覆っていた。
 それでも気を抜くと事件のことを考えてしまう。
 特に観音坂という珍妙な人物は、今後も私を悩ませるであろうことが一番の難点であった。あの韜晦した様子の、どこまでが意図したもので、どこまでが本人の資質によるものなのか、いまいちつかみ取りづらく、こちらの対応を鈍らせるのだ。
 あの男は、普通ならば当然聞くべき質問を、いくつか敢えて無視してきた。話題がそちらに向かないように、話の流れをわざと操作していた節すらある。
 まず、私が何故あんな所にいたかということだ。
 既婚、未婚を問わず、いわゆる一般的な女性が、日付の変わるような時刻に盛り場で一人歩いているというのは、あまり日常的な事態ではない。ましてや、直前に私があの付近の住人ではないということも、きちんと知った上でならば尚更だろう。
 そうなると、考え得る可能性はぐっと狭まる。
 蓋然性の最も高いのは、私があの付近で働いているということだろうし、事実その通りなのだ。
 すると、次に問題となるのは、私の職場である。
 身元の裏付けとともに、法に背く何事かが行われていないかが、それで確認されるわけだ。
 観音坂はこの職務を放棄した。
 これが私にとって幸いなのか、にわかには判断しづらかった。
 確かに、あの際、職業を詰問されると、困ったことになるのは私の方だったに違いない。だが、それは幸運によって回避されたのではなく、あの刑事の掌の上での操作に過ぎないからなのだ。相手にイニシアティブを握られた状況というのは、あまり歓迎されるべきことでもない。
 そう。私は法の光の下では、正面を見据えて歩けない職業の人間なのである。
 難しい言葉や修辞を用いて、真実に塗布を重ねることは、趣味ではない。
 私は娼婦だ。
 死体の第一発見者となったことは偶然だとしても、私があの町にいたこと自体は偶然でもなんでもない。あそここそが私の職場だからだ。ぶらぶら歩いている私をつかまえた人間が客となり、ホテルに直行した後は股を開く。
 多分、観音坂は若年輩の見掛けに相反して、私の職業に気付いている。
 それが職業的な駆け引きか無関心か、どちらかわからないからこそ、私の憂鬱につながるのだ。
 仕事もしていないというのに、少なからぬ汗をかいた私は、とにかくシャワーを浴び、ぼんやりと明朗快活なのだけが売りといった早朝のニュース番組をながめながら、そんなことを考えるともなしに考えていた。
 平和で明るいニュースもいくらでもあるだろうに、この日もその類のものは飽くまでうわべだけの報道で済ませ、人心の不安を煽りたてるようなもののみが大きな時間枠を使って、扇情的に掘り下げられていた。どこかの小さなスーパーで火事があり、ヤクザは殺され、国会議員は相も変わらず疑惑を持たれ、こんな時にでもないと名前の出てこない二世タレントが覚醒剤の不法所持で捕まっていた。
 ありきたりの報道に、半ばまどろみ始めた頃、私の耳がかすかな物音をとらえた。
 何か固いもの同士が触れ合う、妙に神経に障る音で、そのまま眠りに就くこともできず、しかたなしに私はその発生源を探ることにした。
 捜索は容易だった。
 私の住んでいるところは、マンションと呼べば立派だが、せいぜいアパートに毛の生えた程度の建物で、管理人というよりは大家という様相の老夫妻が所有者でもあり、一階の大部分を住居にあてている。趣味が庭いじりと朴訥とした人のいい夫婦なのだが、その善意は万象に分け隔てなく与えられすぎるきらいがあった。建物の外周はやや広めの庭になっていて、そこには所狭しとばかりに種々様々の植物が育てられている。なかでも、樹齢が百年を越えるとかいう柿の巨木は夫妻の自慢の種で、毎年実がついては全住人に一つ二つお裾分けとばかりに分配される。その木が一時問題となった。柿の木は建物の北側にほぼ隣接するように建っている。それまでも枯葉がベランダにたまるなどと苦情があったらしいのだが、とうとう枝が侵入してきて洗濯物を干すにも一苦労ということになった。三階の私の部屋にも、一本ひょろ長い枝が伸びてきていて、風が吹くたびにコツコツと窓に当たって音をたてていた。そんな被害をマンション北面の部屋のほとんどの人間が受けているということで、管理人夫妻には幾度か直談判が行われたのだが、二人は例の博愛精神を全面に押し出して枝を切るのは可哀想だといって譲らない。普段、なにかと世話になっている店子一同は、そうなると強くも言えない、けれども迷惑は迷惑。ということで、一計を案ずることとなった。二階住人に多田という人物がおり、これが学校の教師をやっている。そのつてで、一人植物の研究をやっている人物を紹介してもらい、老木はあまり枝を張り巡らせすぎると、先枯れが起こって逆に木本体を弱らせてしまうみたいなことを夫妻に説明させた。これがてきめんに効を奏し、一大事とばかりに次の日には剪定が執り行われ、誰も難儀を背負うことなく落着した。
 そんな以前の経験から、音の出所はベランダに面した窓であるという推測は容易だった。
 ただ、窓ガラスに接触しているものが、いったい何であるかまでは、さすがに想像の埒外であった。
 春の旋風に飛ばされた小石かはたまた洗濯物のハンガーかと、色々考えつつ窓に近寄ると、私は自分の推測の半分が当たり、半分が外れているのをもくげきした。
 妙に神経に響く音の発生源は、この窓に違いなかった。ただ、発生者存在にまでは思い至らなかった。
 部屋の外でしきりに窓を叩いていたのは、つい最近できた知り合いだった。
「にゃぅ」
 自らの居場所の性格を覚っているのだろうか、ほとんど蚊の鳴くようなような声で、あの現場で一緒だったネコは訴えかける。
 私は苦笑してこの予期せぬ来訪者を招き入れた。
 サッシ窓を開けると、けれども、意に反してネコはなかなか入ってこなかった。遠慮しているかのように、視線は何度も何度も私の顔と部屋の中を往復した。
「そんなにかしこまらないでよ」
 唇に浮かんだ笑みを更に大きくして、私はお客をつまみ上げた。
 そのまま室内を横切り、風呂場へと向かう。
「けど、最低限のエチケットは守ってもらうわよ」
 何度かこうやって持ち上げているうちに、ネコには首輪代わりの紐が巻き付けてあるのを知っていた。どこかで飼われていたのだろうが、それでも油断はできない。へたに野放しにして、部屋中がノミの巣窟になるのは御免被る。
 それに、あの現場のこともある。
 雨に濡れて薄まった死体の血を、しきりに舐めようとしていた場景を思い返すと、なんだか生臭い匂いまでもが蘇ってくるような気になる。
 そうした懸念を全て流し去ろうと、小さな闖入者の全身を、少し冷たいぐらいのぬるま湯で、余すところなく洗ってやる。
「いいシャンプーなんだから、感謝しなさいよ」
 もっとも、飽くまで人間用の洗髪剤が、どれほどネコに効果あるのか知らないので、大きなお世話とも言えなくもない。
「あら、あんた、メスだったのね」
 あちこちを触りたくっていくと、性器のあるべき部分には、特に何も感じられず、代わりに胸のあたりにわかるぐらいの突起がいくつも並んでいる。
 少しは抗うかと思ったが、気持ちよさそうには見えないものの、いっかな逃げ出す素振りを見せない。むしろ、体をできるだけ縮こまらせて、じっと直面している苦難を我慢しているようだ。
 爪を立てないようにして、全身を揉み洗ってやっていると、時折、体毛のない部分に指が触れることがあった。それも一ヶ所や二ヶ所ではない。
 さては病気の類かと思い、手をとめて無毛の部分をよく観察してみた。
 すると、その根元には決まって、小さな水膨れやかさぶた、青黒い痣が残されているのだった。
 医学的な知識なぞ皆無に等しい身の上であるが、それが長期間の虐待によってつけられた傷跡であることは容易に見て取れた。
 脱毛は火―おそらく煙草だろう―を押し付けられた結果だ。
 両手足を仔細に観察してみると、爪は全て切られてしまっている。
 嫌いであろう水を浴びせかけられるのに、じっと耐えているのは怯えからだ。
 両手を使って、そっと包み込むように抱え上げてみると、小刻みな震えが伝わってきた。
 反抗したところで、武器は取り上げられ、遙かに強大な力によって押さえ付けられ、何倍もの仕返しを受ける。そうした無駄な抵抗は、繰り返すうちに、無駄の部分が思い知らされるようになり、しまいには相手のなすがままとなってしまう。私はヤクザの囲われ者となって、体を売ることを強制され、僅かの上がりすら剥奪される娘達の中に、同様の諦念を幾度となく見てきていた。
 単なる僥倖より、そうした身の上にならずにすんでいるに過ぎない私としては、決して抱いてはいけない感慨がある。にも関わらず、生きる希望もなく、ぼんやりと薄笑いを浮かべるだけの同業者を目にする度に、その感情がむくむくと沸き上がってこようとするのをどうにもできないのだ。
 憐憫。
 まったく何様のつもりであろう。自分の境涯を冷静に考えてみろというのだ。他人を見下ろすだけの、このあまりに不遜な態度は、それでも如何ともしようがなく私を突き動かし、シャワーを終えた後よく体を拭ってやったネコの前に牛乳をひたした皿を差し出すという行為に表された。
 その後、余程空腹だったのだろう、牛乳を瞬く間に舐め干した小さな来客に、残り物のみそ汁を冷や飯にかけたのを与えて、半ば炬燵に埋まって軽く背中を撫でてやっているうちに、私は眠りに落ちてしまっていた。  瞬間的に目が覚めた。
 半ば条件反射みたいなものだ。おかげで、頭はろくに働いておらず、自分が何故起きたのかもにわかには判然としなかった。
 駄目押しのように、私を飛び起こさせた音が室内に響く。
 ドアベルが鳴っているのだということに、それでも、気付くのに更に数秒を要した。
 炬燵に突っ伏したまま眠っていたおかげで節々が痛む。柱に掛けてある時計を見上げると、正午をややすぎたぐらいになっていた。
 機敏とはとても言えないよろよろとした動きで、玄関にまで進むと、どうにか応対に出ることができた。
「はーい、どなたですかぁ」
「ああ、よかった、いらっしゃいましたか」
 廊下にはつい数時間前にさんざん向き合った笑顔があった。
「なんだ、さっきの刑事さんか」
「あ、覚えてくたざいましたか。嬉しいですね」
 私のわざとらしい誰何にも、大袈裟に反応する。まったく、やりにくいことこのうえない。
「なに、今度は寝込みでも襲おうってわけ?」
「こりゃ手厳しいですね。本当なら、もうちょっと遅めに来るつもりだったんですがね、ちょっと急に忙しくなってしまいまして」
「ふーん、で、要件は?」
 できるだけ感情を殺した声で、素っ気なくそうたずねてみる。
「昨日――というか今朝ですかね――の事件で、追加でお聞きしたいことが二、三出てきまして。ちょっと、お時間よろしいですか? ああ、玄関先で構いませんので」
 観音坂は物分かりのよさそうな顔で、そう言ってきたが、冗談ではなかった。ただでさえ、マンション内で私は、朝帰りの常習ということで好奇の目で見られているのだ。事実をどう解釈するかは、別段知ったことではないが、この上わけのわからぬ事件の妙な噂まで流されてはたまらない。
 私は部屋の中に、この職務に忠実な刑事を招き入れることにした。
「よろしいんですか?」
「何を言ってんだか。大体、ダメだって場所にまで、無理に押し入るのが、あんた達の仕事でしょ」
「どうも、警察という仕事に、根本的な偏見があるみたいですね」
「一般論よ」
 観音坂は苦笑を隠せなかった。
「じゃ、どーぞ、ちらかってるけどね」
「お構いなく、……と、その前にもう一人連れがいるんですよ」
「連れ?」
「ええ。加藤君、それじゃあ、杏さんから見えないよ」
 観音坂に呼ばれて、突然、一人の女性が扉の陰から姿を現した。それはうっかり死角に立ってしまったというよりは、明確な意図のもと立ち位置を決めていたように受け取れた。
 年齢は二十五歳ぐらい、三十歳には達してないだろう。ショートカットの髪にやや吊り気味の眉、容貌全体は十人並以上のものを有しているが、いかにも気が強そうな感じだった。観音坂と同じく、制服こそ着ていないが、なにより刑事らしい雰囲気を隠すことなく発散していた。
「最近は、警察内部の不祥事がよく取り沙汰されるんで、万一の予防線にと女性関係者宅にうかがう際は、最低一人は女性捜査員を連れていくことになってるんですよ。あ、加藤君も自己紹介をしておいてね、こちらが杏さん」
「加藤瑞喜です」
 愛嬌もなにもあったもんじゃない。加藤女史は本当にただ名乗っただけだった。
「互いに見知ったところで、改めておじゃましますよ」
 先程の言葉はどこへやら、観音坂はなかば私を押しのけるようにして、部屋に上がり込んできた。
 つい先刻まで熟睡の果てにあった炬燵の置いてある居間に二人を通すと、私は湯を湧かして人数分の茶を煎れた。
「女ものの湯呑みしかありませんが」
「こりゃ恐縮です」
 観音坂は早速口を湿らすと、ありきたりなお世辞を述べた。
「桜も咲き始めたというのに、まだ冷えますからね」
 言いつつ、遠慮なく炬燵に足を突っ込む。
 すると、その顔にたちまち奇妙な表情が浮かび、やにわに布団をめくりあげた。
「先客がいましたか」
 いつの間にかもぐりこんでいたらしいネコを、観音坂は抱き上げると胡座をかいて、足の間に置いた。シャワーにはあれだけ恐怖を隠さなかったネコが、観音坂には大して怯えるでもなく、黙ってその場所で丸くなっていた。
「あそこにいたネコですね。連れてきたんですか?」
「まさか。勝手についてきたのよ」
「みたいですね。別に逃げようともしていないし」
 私は瑞喜に一瞥をくれた。このネコを目にしてから、この女刑事の顔に緊張感がいやましていた。理由などわかるはずもないが、大なり小なり、訪問となんらかの関わりがあるには違いなさそうであった。
「そのコがどうかしたの?」
「ご慧眼ですね」
 瑞喜の視線に観音坂も気付いたのだろう。あっさりと私の疑いを認めた。
「順を追って説明しましょう。島崎敏江さん――あ、カオリさんの本名です――は解剖所見の結果、杏さんの看破された通り、他殺の疑いが最も濃厚ということになりました。そこで、被害者宅の捜索と相成ったわけなんですが、どうにもすごかったですよ。違法の私営高利貸しということですが、自宅はこじんまりとしたアパートの一室を借りたものでした。見た目は必要以上に質素なんですが、いざ捜索を始めると、出るわ出るわ。とにかく部屋中の様々なところに現金を隠しているんですよ。冷蔵庫の中とか、トイレのタンクといった定番から、ガス洩れ検出器の中なんていうとんでもないところまで、額も百万円単位から千円まで様々でしたが、総計が千四百万円を越えています」
 警察内部に職を持っていたことはないので、詳しいことまでは知らないが、いくら現在の発達した医療技術をもってしても、観音坂の言うような順序でもって捜査に臨んでいては時間がいくらあってもたりないだろう。おそらく、警察もまた、最初から他殺の疑いを最大視して解剖と同時並行的に調査にあたっていたのだろう。そんなことよりも私を少なからず驚かせたのは、その貯蓄額であった。カオリの基本的な商売相手は、水商売の女である。これまで警察の手にかかってなかったことから考えても、できるだけ相手を絞っていたと考えられる。一人頭の借り入れ額が五十万円ぐらいだとしてもそんな大金を自宅に大事にしまっておく理由はない。
「けど、我々もいつまでも目を丸くはしていられなかったんですよ。杏さんのことだからお気付きでしたでしょうが、現場には死体以外のもの、凶器から被害者の持ち物までが何も発見されていないんですよ」
 私は頭の中に今朝の血にまみれた現場の場景を浮かべてみた。
 確かに、思い出されるのは死体の有様ばかりで、その他の対象が意識にひっかかることはない。
「被害者宅の捜索を急いだ理由はそこにあります。単なる物取りの犯行であったとしても、自宅の鍵を手に入れているならば、荒らされている可能性があったからです」
「けど、その可能性は否定された、と」
「ええ。先程申し上げました通り、実際には、被害者宅には我々がびっくりするぐらいの現金が残されていたわけですからね。また、特に物色されたような形跡もなかったですし。それでも、一応仕事ですからね、隣近所にも被害者宅に出入りしたものがなかったか、また普段の生活ぶりなどもついでにたずねておりました」
「ついで……ね」
「そうなんですよ。さっきから言ってますけど、急に忙しくなりましてね、やらないといけないことが山積みなんですよ。ま、それはともかく、聞き込みの結果、色々なことがわかりました。まず、部屋の落ち着いた雰囲気に反して、暮らしぶりはかなり乱れていたということ。つきあっていた男性がいたらしいんですが、喧嘩が絶えず、罵り合いなんて日常茶飯事だったらしいです。けど、にも関わらず、男の来られない日なんかは、それ以上に不機嫌でよく悲鳴がしていたとのことですよ」
「悲鳴?」
 なんだか前後に合わない単語が出てきたので、私は思わず問い返してしまった。
「悲鳴です。もっとも、人間のものじゃありませんけどね」
「なるほどね」
 ようやく、瑞喜の顔の意味に合点がついた。
「取り敢えず最後まで言わせてくださいね。どうやら島崎さんは、一匹のネコを飼っていたらしいんですが、愛玩というよりは、虐待するためだけの存在だったそうです。自分の機嫌が悪い時には殴る蹴るからはじまって、毛をむしり取ったり、タバコの火を押しつけたりなんてことが行われていたみたいです。それも室内外を問わずで、他の住人の前でも平気でそんな暴行を繰り返していました。この冬には、水を何度も何度も浴びせかけた後で、朝まで外に放り出しておくなんてこともあったってことです」
「で、なに、あたしが動物愛護精神を振りかざして、このネコを助けるために、わざわざ人殺しまでして自宅の鍵でも奪ったとでも言うつもり?」
「まさか。もし、動かないものが室内からなくなっていたならば、我々も少しはその線を考えないといけなかったでしょうが、相手も足がありますからね。それに、杏さんは、島崎さんの自宅の場所を御存知ですか?」
「いいえ」
 一応本当のことを言っておいた。
「でしょうね。島崎さんの自宅は、距離的に言うと、現場からはここ以上に離れているんですよ」
 水商売の人間に金貸しをしていたのだから、相手の職場近くに住むわけもあるまいと思っていたが、そこまで慎重を期していたとは、さすがに思わなかった。
「いや、正直申しまして、我々も一度は杏さんのことを疑ったんですよ。でもですね、時間が足りないんです。解剖所見から、被害者の死亡時刻はかなり狭まっている。そして、一一〇番された公衆電話も、特定されているしで、杏さんが仮に島崎さんを殺害して部屋に行ったとしても、最初の警官がやって来るまでには、どう考えても間に合わないんです」
「じゃあ、このコは、どうしてあんなところにいたのかしら」
「多分、島崎さん本人が連れて来たんでしょう。なんのためかはわかりようもないですが」
「なら、あたしが、そのコを奪うためにカオリを殺したってことも有り得るわけね」
 我ながら馬鹿馬鹿しいが、なんだか反発心をくすぐられた私は、つい自分に不利になるような反論を行っていた。
「なら所持品まで持ち去ったのは何故です? 凶器は身元特定に結びつくからわからないでもありませんが」
 観音坂も相好を崩さず、私の問いかけに乗ってくる。
「ネコだけを連れ去ったのをわからなくするため。つまり、他の品物は全てフェイク」
「そこまで考えますか。けど、無理ですね。その行動が成り立つためには、島崎さんが今朝ネコを連れて来ていて、島崎さんがネコを連れていることを第三者が知っていて、島崎さんがネコを連れていることを第三者が知っているということを杏さんが知っていないといけない。特に最後の部分に確信がなければ、わざわざ足のつく恐れのある被害者の所持品を隠すことは、逆に自らの首を絞めかねない。事実、我々は様々な状況から、島崎さんがネコを連れてきて、そのネコが行方知れずになっていたのを推測していたのですから」
「わからないわよ。もしかして、あたしは、異常に用心深い人間かもしれないし」
「その用心深い方が、堂々と警官が来た後も、相手を殺してまで奪った戦利品を抱いていたというわけですか」
 議論は底を突いた。どうやら、この発想では、私は犯人になりそこねたらしい。
「で、今日は――と言っても、まだ一日経ってないけど――いったい、何を聞きに来たわけ?」
「そうでしたそうでした。いや、女性の部屋に来て、ちょっと浮かれ過ぎましたか。忘れていましたよ」
 両手をすり合わせて、観音坂は言った。
「三山功一という人物を御存知ですか?」
「ミヤマ? ちょっと記憶にないわね」
「そうですか。ちなみに、今日の朝の三時頃はどこにいらっしゃいました?」
「どこって言われてもねえ」
 私は返答に困った。すると、それまで一度も口を開こうとしなかった瑞喜が、間髪おかず露骨に敵意を含めた調子で詰問してきた。
「聞かれて答えられないような場所なんですか」
 薄々感じてはいたが、どうやらこの女刑事さんは、私に対してかなり我慢ならぬところがあるらしい。初対面の人間に、なじるように鋭い語調で言葉をたたきつけてくるのだから間違いない。
「そうね」
 一気に瑞喜の顔が紅潮する。
「例えばさ、加藤さんだったっけ、あんた、今日の十二時四十五分にどこにいたかって言える?」
 現在の時刻は一時二十七分。観音坂達が来て、そろそろ半時間は経っていた。
「ここに向かってました」
「それじゃ答えにならないわよ。あたしは、どこにいたかって聞いたの」
「……っ」
 質問の意図を汲んだのだろう。瑞喜の瞳に鋭さが増す。
「そういうことよ。今朝の三時といったら、あたしも、どこかの誰かさん達が、ゆっくりと現場検証をしている間に終電もなくなって、歩いてこの部屋にまで帰ってる途中だったの」
「では……」
「アリバイはないわね」
 観音坂の言葉を予測してそう言ってみる。
「ですね。どうも、僕は含みを持たせた物言いってのが苦手で、杏さんみたいな人には、簡単に先読みされてしまうみたいですね。考えられた通り、三山功一さんは別の事件の被害者です。それも殺人の。一日に所轄内で二つも殺人事件が連続したということで、急に多忙になったっていうのはそんなわけなんですよ」
「それにしても、どうして、あたしがそんな関係ない事件の犯人扱いまで引き受けなきゃならないのよ」
「それが、一概に無関係とも言えないんですよ」
「え?」
 それまでは警官にありがちな牽強付会な論理展開で、私を追求しようとしているのだと考えていた。
「まず被害者の三山氏は、島崎さんの後ろ盾になっていた暴力団組員の一人です。ただ、組関係者に話を聞いたところによると、組織全体が島崎さんの仕事に手を貸していたわけではなく、あくまで三山氏達の個人的な内職程度の仕事だったということです。次に、今回の被害者も鋭利な刃物による刺殺だったわけなんですが、傷の形状などからどうも凶器が島崎さん殺害に用いられたものと非常に似通っている。おまけに、血痕のうちに、島崎さんと同型の血液が検出されているんですよ。これらの証拠より、三山氏殺害も島崎さんと同じ凶器を用いられた可能性が非常に高くなってきたんですよ」
 その時、ふと思い出した。自宅に帰り着いてから、微睡みの中で漫然と見ていたニュースで流されていたヤクザ殺しが、ここから割と近い場所にあったんじゃないかということを。
「なに、家宅捜索でもやろうっての?」
「まさか。容疑者でもない方の家を、そうそう捜索なんてできませんし、しませんよ」
「へー、あたしって容疑者じゃなかったんだ」
「決まってるじゃないですか。両方とも殺害方法は刃物を使ったものなんですよ。あなたには、最初に会った時、浴びた返り血の跡もなかったし、刃物を使用した際につきやすいためらい傷なんかも見当たりませんでしたからね」
 手の傷の有無は、住所を手帳に書き込んだ時に確認したのだろう。それにしても、街灯があるにはあったが、光量は十分とはいいがたかったあの現場で、気取られずにそこまで私のことを観察していたらしい。
「我々が杏さんにお聞きしたいのは、別のことですよ。何か思い出したことはありませんかね。特に現場付近で落ちていたものとか」
 眼鏡の奥で観音坂の瞳が光った気がした。
「何も」
「そうですか。ところで、奥田、富川という名前に聞き覚えはありませんか?」
「ないわね。人名みたいだけど」
「ええ……」
 返答途中で、突然観音坂の懐から、電子音が鳴り出した。
「ちょっと失礼」
 音の発生源である携帯電話を取り出すと、観音坂は小走りで玄関を抜け、外の廊下へ向かった。
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