――アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい……
どこからか酔漢の歌声が響いてくる。 終電をとうに過ぎた頃。いい心持ちでいたところを放り出されたのか、かなり自棄の色が濃く含まれている。もっとも、春先の真夜中、小雨の降る中のことだ。寄る辺なき身の上のものであるならば、誰しも酒の力などに頼らずとも、多かれ少なかれ自棄を起こすことは必定である。
調子外れの歌は、同じ箇所を何度も何度も、飽くことなく繰り返しながら、何処へかと消えていった。
地価が三流ならば、出すものも三流という場末の盛り場。そのあまりのみすぼらしさに、せめて少しでも、文字通りでも花を添えようと、観賞用に申し訳程度に植えられた桜の木々。
不夜城とはお世辞にも言えない、ひっそりとしたバーやスナックの軒先は、煤けた看板や明滅を繰り返すネオンによって、より一層しょぼくれた印象を強めていた。
雨の降り始めた頃にあわせて、まるで、この町の行く末を示すかのように、気の早い桜が散りはじめていた。
細かく力弱い雨滴にすら抗うことも能わず、なすすべもなく薄桃色の花弁が無数に宙に舞う。
仄白い街灯の明かりに花吹雪が照らし出される光景は、確かに幻想的なものではあったが、ひどくはかない束の間の幻影に過ぎなかった。
一時の空中遊泳を満喫した薄片は、街路に付着すると同時に、泥水をしとどに吸い込み、たちまち淡い色合いを捨て去り、茶褐色の汚れに全身を浸す。
わずか数瞬前の姿は見る影もない。
同一物のあまりに異なる行く末という点では、私の目の前で倒れ伏している人物にもぴたりと当てはまった。
やむのかやまないのかはっきりとしない雨模様の中、スカートに泥はねがつかないように注意しながら、今日のところはもう仕事を切り上げるべきか考えあぐねているうちに見つけたその人物は、俯せのまま私が発見した時から微動だにする気配を見せなかった。
それもそのはず、それが死体であるのは、明々白々であった。
致命傷は背中の複数の刺し傷だろう。
ほとんどが浅くせいぜい皮膚を切り裂いたものであったが、二つ三つ、かなり深くえぐられたらしいものがあった。傷跡は、ささくれを作り服の上にまで肉襞が盛り上がって、表に露出していた。
即死というわけにはいかなかったらしい。最終的な到達地点を中心として、あたりには転げ回った痕跡や、力任せに掻きむしった爪痕が点在している。
しかし、そういった生きていた証も、降りしきる花弁により刻一刻と覆い隠されつつあった。 一切の生命活動を停止し、以降あらゆる言動を妨げられ、またその意思も喪失したはずの屍は、それでも生きている者になんらかの感慨を起こさせずにはいられないような表情でひたすら中空を睨み付けていた。
腹這いになっているにもかかわらず、顔だけは亀かすっぽんのように、大きく前に突き出して地面に触れることはなかった。
光彩も濁り、焦点というものがなくなった瞳を正面に受けて、その顔面を覗き込んだ私は、自分の嫌な予感を再確認するほかなかった。
その大部分は涙や汗、鼻水、唾液で流れ落ちているとはいえ、けばけばしい化粧の痕跡までは消しようもなく、どぎつい紫のアイシャドウは目の回りに隈取りのように張りつき、皺を埋めるために塗り固められたファウンデーションはひび割れを起こし、紅いだけで他にはなんの含みもない口紅は幼子の食事後の有様のように頬に額に顎にと気儘な移住を決め込んでいる。
この死体は見知ったもののなれの果てに違いなかった。
額に刻み込まれた深く幾重にも畳み込まれた縦皺。
それがあまりにも明解な身分証明書であった。
私はゆっくりと周囲を見回してみた。
見事なくらいの無人である。もともと人足は繁くない界隈ではあるが、いつにも増して寂れかたが堂に入っていた。店々の中からは、ひっきりなしにカラオケのものらしい胴間声が聞こえてくるが、外に出てくる気配は微塵も感じられない。
――なんの因果なんだか……。
私は軽く嘆息すると、善良な市民としての務めを果たすべく、近くの公衆電話に向かった。
通報を終え、お役所にありがちな有無を言わせぬ態度で、とにかくその場を動くなという指令を下された後、私は死体の転がっているところにまで戻った。
期待していなかったわけじゃない。
別の誰かが死体を見つけて、騒ぎが起こっていることを。
けれども、都合のいい時だけの神頼みがうまくいった例えはそうそうありはしない。
変化はせいぜい二つ程しかなかった。
死体に積もる桜の花びらと、このオブジェを見張っている二つの目。
「にゃぅ」
新たな観客はまずそうありきたりな感想を述べ、そうして、おもむろに綿密なる方法で、作品の鑑賞に入った。
まずは視覚による摂取である。じっくりと四本の足を使い、念入りに全体の様相を観察する。妥協はない。自分が満足するまで何周も何周もぐるぐると周回する。
全体の構造を頭にたたき込むと、今度は嗅覚を使用する。
あまり聞き慣れない鑑賞方だが、そもそも対象が滅多に遭遇する機会を与えられない代物であるのだから、私のごとき素人では立ち入れようはずもない。
鑑賞者は鼻をほとんどこすりつけるようにして、大きく何度も鳴らしては臭いを確認していた。途中、喉元にきたあたりで、何度もくしゃみをした。おそらく、香水が鼻に合わなかったのだろう。
これら二種類の方法での鑑賞を終えると、いよいよとばかりに最後の賞味を行うべく、あらためて背中によじのぼった。
そして、ささくれのあたりから、凝固がはじまりだしている血液をぺちゃぺちゃと舐めはじめたのである。
これにはさすがに作品の警備員として、黙っているわけにもいかなかった。
私は大股に近づくと、相手の首の後ろを摘み上げた。
「そんなの舐めたらお腹こわすよ」
意外になんの抵抗も見せず、私のなすがままにされ、ネコはただもう一度、
「にゃぅ」
とか細い鳴き声を上げるだけだった。
その後、私はネコを抱きかかえ、あまり雨のあたらない木立の陰で屈み込んでいた。
一人目の警官がやって来たのは、通報してからゆうに十分もしてからだった。
五十絡みの交番勤めの駐在らしいその警官は、ろくに油もさしていないらしい自転車を音をさせながら漕いで、ようやく到着したかと思うと、私に声をかけるまでもなく、転がっている死体を見るやいなや一声喉の奥で低い悲鳴をあげると、一目散に来た道を倍以上の速度で戻っていった。
どうやらこういう場面に不慣れな人物であったらしい。
何でもそうだが特殊な対象に接する場合は、まず専門家の見識を頼るのが一番だ。そういった意味では、あの警官の態度はあながち間違いとも言えない。
が、その懸命な処置のおかげで、専門家達が集団で登場するまで、私は更に三十分無為に時間をつぶす羽目に陥った。
春の雨は薄く儚い。力弱い雫はせいぜい動かないものに湿り気を与えるだけでいずこへかと消えた。雲間に覆われた夜空も、たちまち晴れ渡り、代わりに同じく朧気な光を放つ月が顔を見せた。
けたたましいサイレンの音を響かせ、赤色灯をせわしなく回転させるパトカーを先頭に、普通乗用車数台に分乗して現れた警官達は、先程の駐在とは異なり、死体を見下ろしても躊躇することなく、素早く周囲の交通を遮断してしまった。
「あんたが第一発見者? 何も手をつけてないだろうね」
現場保存の準備が整うと、一人の手すきの警官が、妙に甲高い声で横柄にそう訊ねてきた。
「多分ね」
「多分? 多分とはなんだ?」
「できるだけ近寄ったりはしてないけど、あたしは刑事でもなんでもないんだから、何が重要で何が重要でないかわからない。だから、どこまでがあんたの言う『何も』かわからないって意味」
私が訊かれたことに懇切丁寧に説明すると、かえって警官は侮辱されたとでも思ったものか、瞬く間に顔面を紅潮させて怒りを顕わにした。
「貴様、警察をなめてるのか」
「とんでもない」
心の底からの本音を述べる。
「なら、言われたことに素直に答えろ」
「お言葉ですがね、あたしはできる限り素直に、そちらの仰られたことに返答させていただいてますよ」
「その態度が素直じゃないと言っとるんだ」
警官は私のもとに詰め寄ると、見下ろす姿勢でにらみつけてきた。
もっとも、そんなぐらいで臆していては、私みたいな商売はやってられない。
「それは、すみません。なにせ、あたしは、殺人事件の現場に居合わせるのが初めてで、こんな時にする立ち居振る舞いを存じ上げていないんですよ」
昔からこういう手合いは好きになれない。権力だけを笠に着て、相手を見下す連中が。
「なら、今からゆっくりと教えてやろうじゃないか」
だが、今回ばかりは少しおふざけが過ぎたらしい。さすがに、私も死体の側に長時間いたことで、見極めが狂っていたようだ。もっとも、そんなことは相手の顔色が紅から蒼白に変わり、目が据わってきた頃に感づいても遅いのだが。
「署に来て、ゆっくりと話し合えば、そこらへんもわかってもらえるだろう」
実体ない権力を後ろ盾にするしかない人間は、自らの威厳もまた非常にはかないものだということを、ほとんど直感的に理解している。こういった人種は、あまり追い詰めると、その威光を文字通り死守しようと、手段を選ばなくなる。
適当に持ち上げて、適当におちょくるのが最良なのだ。
もう言葉ではどうにもならないだろう。
「よしなさいよ、西川クン。みっともない」
私が次善策を考えようとした時、警官の後ろから誰かの声が聞こえた。
「し、しかし、観音坂さん、こいつは自分を愚弄して……」
振り返るまでもなく、私と対峙していた西川と呼ばれた男は、背後の人物に返答しようとした。
観音坂。名前は奇妙だが、当の本人は割と平凡な外観をしていた。まだ私に対して敵意剥き出しの目の前の警官と異なり、上下揃いのスーツ姿をしているところから見て刑事なのだろう。度のきつそうな眼鏡をしているが、顔全体の印象は柔和なものだった。歳の頃は、三十路を少々出たぐらい、つまりは私と似たようなものだろう。
「愚弄? そりゃ違うなあ。後ろで聞かせてもらったけど、ああいうのは協力的っていうの」
「な……」
西川クンはものの見事に絶句してしまい、酸素の足りない水葬の中野金魚のように、何度も何度も口をパクパクとさせていた。
「いいからいいから。後はぼくにまかせて、警備の方を頼むよ」
「わ、わかりましたよ。けど、現場はいいんですか? 刑事さんってのは、そんなに人手が余ってるんですかね」
若干ペースを取り戻した西川クンは、吐き捨てるように呟いた。
「なに、まだ鑑識さんも来たところだし。ぼくらは邪魔なだけさ。それにいつまでも、御婦人をこんな時間にこんな所で拘束しとくこともできないしね」
だが、そんな捨て台詞も、観音坂はあっさりと受け流してしまった。
「さて、どうも長時間お待たせして、申し訳ありません。ぼくは観音坂といいます。あ、これ名刺です」
改めて私の方に向き直ると、観音坂は警察手帳と一枚の何の細工もない名刺を一枚差し出してきた。観音坂明という名前の他には、所轄と配属、そして巡査という肩書きのみの実にシンプル極まりないもので、如何にも形式的というのを体現していた。
「あ、それでですね、ちょっと官給品なもんで見るだけみたら返してもらえませんか。最近じゃ、うちらでも経費削減がうるさいんですわ」
言われるままに、私は名刺を持ち主に返したが、その際、一言付け加えずにはおれなかった。
「指紋?」
「あちゃ、ばれました?」
「ちょっとやり方が古すぎよ」
「まあ、でも、この方が指が汚れなくっていいでしょ」
観音坂の顔に悪びれた様子はまったくない。せいぜいいたずらが見つかった子供のような表情が浮かんでいるだけであった。
「こりゃ、強敵だわ」
「え、なんですって?」
露骨に聞こえるように洩らした独り言を、露骨に耳に届かなかったふりをする。
「ま、ちゃっちゃと済ませましょ。えーと、お名前は?」
「杏」
「へ?」
「キョウ。『あんず』って漢字があるでしょ。あれよ」
「へえ。で、言いにくいんですが、連絡先の住所と電話番号をお願いできませんかね」
私は警察手帳に素直に本当のことを書いた。
観音坂はそれに一瞥をくれると、すぐに胸のポケットにしまった。
「じゃあ、まずは、遺体発見の時間と状況なんかを詳しく教えていただけませんか」
「別に詳しく言うようなこともないけど。時間は十二時をちょっとまわってたかしら。歩いてきたら、人が倒れてた。見た感じ、生きてるみたいにも見えなかったから通報した。それだけよ」
「いらっしゃったのはどちらの方角からです」
「駅よりの方よ」
「その時、誰か不審人物とか御覧になりませんでした?」
「だれも」
私はできるだけ語間を伸ばして、強調できるだけ強調してみた。
「ただ、この子が何か見てたかもしれないけどね」
腕の中の小動物を観音坂に示すと、それまで丸くなってうとうとしていたネコは、わずかに瞼を開いてカルクあくびをした。
「こりゃ重要な証人だ、どうなさったんです?」
声をたてて笑いながら、観音坂は指の腹で、ネコの顎を撫でてやるのだった。
「通報してからここに戻ってきたらいたのよ」
「だいたいどのくらいです?」
「十分はたってないでしょうね」
「携帯電話は?」
「持ってない。ああいうの苦手なの」
「なるほど。ところで、被害者と面識はありましたか?」
やっぱり。来るべき質問が来て、私は安堵のような不安のような、それらが入り混じったような、奇妙な気分に襲われた。
「知らないこともない」
ため息をつきつつ、そう答えるしかなかった。それまでの応答の相手を煙に巻こうとする感じが、少しでもよい方に受け止められるようにと、我ながら信じられない期待をしつつ。
「よかった。これから、聞き込みなんかをして、一から調べていくのはこれまた骨でしてね。知ってるところを教えてくださいよ」
さすがに、白々しすぎたか、観音坂は私の韜晦などものともせず、質問を重ねてきた。
やっかいな問いだ。
私の知っていることを教えるということは、あの死体との関わりがどの程度であったかを自ら知らしめることになる。どこまで知っていることにするか。今後の対応にも綿密に連携してくる重要な点であった。
瞬間的に様々な煩悶が脳内を駆け回ったが、結局はありのままを述べるのが得策かと判断した。
「名前はカオリって言ってたわ。ヨッちゃんとかミーコとか呼ばれてるところも見たことがあったけどね」
「わかりにくいから、カオリさんでいいですよ」
「歳は知らない。自分じゃ三十五歳だとか言ってたけど」
「そりゃまた」
観音坂はやや呆れたように合いの手をいれた。
「ここで女の年齢を疑うのは御法度なの。そいつが二十歳って言えば、ぶっちゃけた話、還暦越えたような人間でも、一応は成人したての未通女になっちゃうの」
「おぼこですか……」
「そ。それでコトを遂げた後は、お兄さん上手だから、あたし初めてでも痛くなかったわ、ってわけよ」
ここはそういう町なのだ。誰も彼もが疑り深くありながら、誰も彼もが騙されたがっている。
だからこそ、私のような者でも生きていけるとも言える。
「カオリさんは、どこかの店に勤めていたんですか?」
若干話がわき道にそれたので、観音坂が軌道修正にかかる。この頃には、目の前のつかみ所のない男相手にも、ペースを取り戻せてきていた。
「いいえ。あいつは店勤めじゃない。でも、だから余計にタチが悪かった」
「タチ?」
「ええ。あのね。カオリって女は、ここら一帯の女相手に金貸しをやってたのよ。こんな町だから、金の出入りは激しい。昨日までは蝶よ花よと持てはやされて景気の盛りにいたのが、次の日には食べるものにも事欠くってのも珍しい話じゃない。そんな時に、甘い声を掛けて必要以上の金を貸し出して、後は骨までしゃぶりつくすってやり方。考えようによっては、理にかなってるかもね」
「でも、一人だと大変でしょう。取り立てだとかは」
「そんなのあいつがやるわけないじゃない。ちゃんと後ろに、肩代わりしてくれる心強いお兄さん達がついてるわよ。カオリはその連中に取り立てや追い込みを手伝ってもらって、収益のいくらかを収めるって寸法。なかなかよくできたチームワークだと思わない」
「確かに」
観音坂はちょっと間をとって、私との目線を逸らし、宙を見つめた。次の一言を選択しているらしかった。それがどういうものかは、見当のつくはずもないが、私はただ機先を制するためにこちらから口を開いた。
「ちなみに、あたしの借りてたのは十万程度で、もう完済しているわよ」
意図を汲んでのことだろうか、初めて観音坂の顔に苦笑らしきものが浮かんだ。
「まあ、そういう人なら、意味のある質問かどうかはわかりませんが、誰か被害者を恨んでいた人物に心当たりはありませんかね」
「さあ、恨んでない人間を探すほうが大変なんじゃない?」
「そう仰られると思いましたよ。いや、どうもありがとうございます」
言ってペコリと頭を下げた観音坂であったが、さもたった今思いついたかのように、更に一つの疑問をぶつけてきた。
「そうそう、先程、ちょっとおかしなことを仰ってましたよね。あなたは殺人事件の現場に居合わせたのは初めてだって。どうして、これが殺人だとわかりました?」
「そりゃ誰だって一目瞭然なんじゃない? 背中にあんなに深い刺し傷を作って人が死んでいるだもの。実際、最初に来たあの派出所のおじちゃんも、すぐに察して飛んで帰ったわけだしね。第一発見者を残して」
「なるほど、こりゃ、強敵だ」
私の言葉をそっくり繰り返して、観音坂刑事は改めて礼を述べると、そのまま本当に解放してくれた。
こうして、観音坂という変わった刑事との出会いは終了した。