「うわ」
本棚から参考書を引っ張り出した時一緒に飛び出してきたのは、写真の入った袋だった。いつも写真は現像後小冊子に入れて保管しているのだが、整理前の写真の袋が本の間に挟まって隠れていたらしい。予想外のものが出てきたので咄嗟に受けとめることができず、写真が何枚か袋から零れ落ちた。
拾い上げてみると、それは大学一回生の時に白浜に行った時の写真だった。
「どこにやったかと思ってたら、こんなとこにあったのか……」
懐かしさに、他の写真も袋から取り出してみた。
夜の海で徳田がトランペットを吹いている写真。
海岸で花火をしている写真。
僕は写真をくった。2年前の記憶が甦ってくる。
三段壁……ここって自殺の名所だったな。心霊写真が撮れるんじゃないかと言っていたら、徳田が嫌がって一緒に写真撮るのを拒否したんだ。だからこの場所の写真だけ徳田の姿がないんだよな。
千畳敷、アドベンチャーワールド……パンダだ。
「……若いなぁ、俺」
思わず声に出してしまう。あれからすごく変わったというわけではないんだが、一回生の自分は高校卒業したばかりということもあり、まだまだ少年という雰囲気を漂わせている。あの頃は二十歳というラインがまだ遠くに感じられたが、月日なんてあっという間だ。春夏秋冬を繰り返しているうちに2年が経ってしまった。
そういや徳田と高崎は、サークルでも白浜に行ったんだよな。同時期に2度も同じ場所に行くことになり、宿泊費はともかく交通費がかさむと2人とも嘆いていた。
確か高崎は2週連続で行ったんだ。観光はせずに海で遊んでいたと言っていただけあって、かなり日焼けしていた。一緒に行ったヤツがナンパして、向こうで知り合った女の子のグループとカラオケに行ったとも聞いた。声かけた相手が同じ大学の子だったこともあったとか。
夕佳里さんも穂積さん達と白浜に行ったって言っていたな。いつ行ったんだろう。向こうですれ違っていたかもしれない……いや、瀬川さんの話だと、夕佳里さんが白浜に行ったのは8月後半だったか。僕が行ったのが8月半ば。時期的に言えば、高崎がサークルの仲間と行った頃と一緒か。ちょっと惜しかった……って、向こうで出会ったからと言って、うまいこと仲が進展していたとは思えないけど……どんな水着だったのかは興味があったりして。
写真を入れる冊子は……予備はないな。今度百円均一で買ってくるか。とりあえず写真は袋に戻しておこう。
しばらく本棚の整理をしていると、時間はあっという間に過ぎてしまった。
「そろそろ出かけるか」
僕は鞄を肩にかけた。
待ち合せは天王寺駅に11時半。10分前には着く計算だ。
「お待たせ」
壁にもたれて立っていると、清水さんがやってきたので、僕はMDを止め、ヘッドホンを外した。
今日は大学へ行く前に、天王寺で清水さんとお昼を食べる約束をしていたのだ。
清水さんは、積極的だ。一緒に昼食を食べよう、一緒に大学に行こうと誘ってくる。
しかし徳田や高崎といる時には別段話しかけてはこないし、同じ授業だからと言って必ず隣や近い席に座ろうとするわけでもない。そうやってある程度の距離をとってくれるのは、結構あり難い。
「用事があるんやったら遠慮なく断ってくれたらいいし。気を使って付き合ってくれなくていいんよ」
清水さんの気遣いに甘えるような立場になっているのは正直あまり喜ばしくないが、応じることができれば傷つけることもない。
(結局、楽な方へ流れて行っているだけなのかもしれない)
そういう思いもあったが「彼女のことをよく知ってから、答えを出す」という約束を果たす行為なんだと考えれば、自分を納得させることは容易かった。
(……で、俺はどのぐらい清水さんを知ればいいんだ?)
そういう素朴な疑問があるにはあったが……。
駅前のショピングセンターの最上階にあるパスタの店に入り、僕はラザニア、清水さんはリゾットのランチセットを注文した。
「なんで清水さんはバイク同好会入ったの」
前から漠然と疑問に感じていたことを聞くと、清水さんは「バイクってなんかカッコいいから」と答えた。
「昔、ライダースーツ着てる女性を見たことがあって、その人めっちゃスタイル良くって、めちゃめちゃカッコよかってん。それに憧れててさ」
「じゃあバイクの免許持ってるんだ?」
「ううん、持ってない。原付は乗ってるけど。でも、そのうち免許とって、遠くへ行きたいと思ってるん。カメラ持って、いろんな場所に行っていろんな景色を撮りたいんだ」
なるほどね。
「同好会のメンバーって、結構人数いたよね」
「うん、人数はおるよ。50人ぐらいおるかな」
50人か。予想以上に多いな。
「でもほとんど幽霊やね。全員の顔とか知らんわ。イベントの時だけ来る人多いから『こんなにいたっけ?』みたいな感じする」
「あぁ、いるね。そういうやつって」
「まぁそんな感じで、実際はバイク好きが集まって騒いでるだけのサークルやねん。皆でツーリング行ったことって1度しかないん」
「瀬戸さんは? 彼女も原付だけ?」
「珠ちゃんはバイクの免許持ってるよ。中型」
これは意外……いや、案外と瀬戸さんには似合っているかもしれない。
「珠ちゃんの彼氏もバイク好きで、よく一緒にツーリング行ってるって。彼氏は背が高くて、バイクに乗る姿もめっちゃ様になってるん。高崎君が一緒に淡路島とか和歌山の方へにツーリング行ったって言ってたよ」
「そういや高崎って、一回生の時2回も白浜に行ったって知ってる?」
今朝の写真のことを思い出し、僕は清水さんに聞いてみた。
「あぁ、私白浜で高崎君に会ったよ」
彼女は顔を上げて言った。
「え、向こうで会ったんだ」
時期は重なっていると思ったが、本当に遭遇していたとは。
「そうそう、宿泊先じゃなくて、偶然海でばったり。高崎君赤い水着で、めっちゃ目立ってたわ〜」
清水さんはその時のことを思い出したらしく、くすくす笑い出した。
「高崎が言ってたけど、一緒に行ったやつが海でナンパばっかりしてたって」
僕がそう言うと、清水さんは一瞬言葉につまったような顔を見せたが、
「あ、そうなんや。同じ同好会の人でも、私も全員知ってるわけじゃないし、その人のことはわからんわ」
どこか早口でそう言った。
「そうそう、高崎君て、水泳得意やってんね。私がビーチボール流しちゃった時、取りに泳いで行ってくれて。めっちゃ早かった」
「彼の高校時代のあだ名はカッパだったよ」
高崎は毎年水泳大会でリレーのアンカーを務めていた。水泳のタイムは、確か学年でも五本の指に入っていたと記憶している。
「えー、そうなんや。ははっ」
清水さんは笑いながらパンを千切った。
「佳月君て、高校時代の呼び名とかあだ名ってあったん?」
「俺は一部の人にトモって呼ばれてたけど、高崎が高1の時ひそかに俺のことを鬼太郎って呼んでたらしい」
「え、なんで?」
「高1の時、髪長くて、前髪で目が隠れてたから」
……この話、誰に話したか覚えてないぐらいいろんな人にしてるな。
「えー、うそー、想像できへん」
かなりウケたらしく、清水さんは大笑いした。
「清水さんは、何かあった?」
「私? みっちゃんとかみーやんとかやね。そういや私、子がつかない名前に憧れてた頃があったわぁ。そうそう、最近の子どもの名前ってめっちゃ変わってるやん? この前さ、レオナって名前の子とかいてん。マンガみたいやんね」
「俺のバイト先に、アイリって名前の子がいるよ」
「うそー、それ可愛いー」
……驚いたときとか「うそー」って言う人、結構多いよな。清水さんもその傾向があるらしい。
「佳月君の名前って、紀友則が由来やんね? その名前って、どう?」
「貴方の名前の由来は、歌人の名前だと覚えておきなさい。貴方の言葉が人の心に響くものになるように」
「……なに? それ」
「俺と妹の名前は祖母が考えたもので、どうしてこの名前をつけたのかって聞いたときの祖母の答えが今の言葉」
「へー、おばあちゃんが付けてくれたんだ」
僕は以前読売新聞で連載されていた小説のことを思い出した。
その小説に登場するお婆さんは昔宝塚の橘薫に憧れていて、自分の子どもを絶対『橘薫』にしようと決め、晴れて橘さんと結婚した。しかし男の子1人しか恵まれず『薫』という名前は付けられなかったが、よく考えれば男の子でも『薫』という名前はおかしくないことに気付き、孫の男の子に『薫』と名づけた……というような下りがあったと記憶している。
僕の祖母はそれほど思い入れがあってこの名前にしたわけではないだろうが、自分の名前に名づけられた理由があるのとないのでは、やっぱり前者の方がいいと思う。
「あー、お腹いっぱい。そろそろ行こっか?」
清水さんがペーパーナフキンで口元を拭った。
あまり時間を気にしていなかったが、駅に向かうとちょうどいいタイミングで電車がやって来た。
「あ、言うの遅れたけど」
シートに座ってから、清水さんがおもむろに切り出した。
「従姉喜んでたわ、佳月君が選曲してくれて。いろいろCD借りてきて、通勤途中に聞いてるらしいん。いい曲ばかりで悩むって言ってた」
「お役に立てたなら、なにより。でもこれからまだまだ準備があるんだよね」
「そうやねん、従姉、週末はかなり忙しいみたい。でも、その忙しさもまた幸せそうで……」
清水さんは口元をほころばせた。従姉の幸せを共に喜んでいるのがよくわかる。
「佳月君はこれから授業?」
「いや、俺は図書館へ行くから」
大学に着いてから、僕は図書館の前で清水さんと別れた。
入り口で手荷物をロッカーに預け、ルーズリーフとペンケースだけ持って中へ入る。
埃をかぶった芸術書を開き年表のページをコピーしようとして、財布を持ってくるのを忘れていたことに気付いた。
まぁいいや。少しだけだから書き写そう。
しばらく座って書き写し、作業を終わらせる。
他にも調べたいことがあったのだが、僕の調べたいことが載っていそうな芸術書はその番号だけ不足していた。貸出禁止の書籍なので、以前から欠巻しているのだろう。仕方ない。
図書館を出ると、次の授業まで約20分というところだった。掲示板のチェックして、教室の前でゲームでもしていればすぐだな。
……。
……?
なんか……挙動不審な人物が視界に入った。
僕と同じ方向へ向かっているらしいのだが、時々建物に隠れるような行動をとっている。
まさか牧さん……じゃないな。彼ならもっと自然に隠れるだろうし。
僕は走って校舎に駆け込み、すぐに影に隠れた。案の定不審人物も同じ方向へやってきた。隠れている僕の前を通り過ぎ、きょろきょろと辺りを見回す。
その姿は僕のよく知っている人物だった。
「やっぱりお前か……」
「やだなぁ、ばれてた?」
紫は悪びれた様子もなく言った。
ストレートの白いジーンズと青地のロゴ入りTシャツという服装でベージュのリュックを肩にかけた姿は、大学生には見えない幼さが漂っているせいか、大学の敷地内で見ると妙に浮いている。
「なんでお前、平日の昼間からこんなとこにいるんだ」
「やだなぁ、忘れたの? 自分の卒業した高校の創立記念日。今日は学校お休みなんだよ」
そんなもん、覚えてるか。
「校長先生の誕生日が元旦だってことは覚えてるぞ」
「あー言ってなぁ、校長先生。お母さんが初日の出を拝んでいるとき陣痛が始まったから、日出男って名前が付けられたって」
「毎年三学期の始業式には必ず言うんだよ、それ」
今日起きてから紫の姿を見ていなかったから、普通に学校へ行っているものと思っていたら……僕が清水さんと昼食を食べ図書館にいる間に起きてここまでやってきたというわけか。
「で、お前は何をしに芸大に来たわけ」
「うっふふふふふー」
紫は不気味な笑いをもらした。
「兄貴が普段どんな感じで大学生活を送っているか、とある人物からの依頼で調査中なんです〜」
「調査するヤツが調査される人間に存在知られてどうすんだ」
「いらんこと言われたくなかったら、賄賂で買収ってテもあるんだよ。どう?」
「別に後ろめたいことはないから構わんが」
僕がノリの悪い返事を返したせいか、紫はふざけるのをやめた。
「まー今のはモチロン冗談。今度あっこを含め何人かで学祭来る予定なんだけど、誰も芸大来たことないから、ちょっと学祭の前に先に下見に来たってわけ。普段の大学がどんなところか、興味があったしね」
「そりゃ御苦労様」
紫は辺りを見回した。
「大学ってさー、もっと人がいるかと思ってたけど、案外といないんだね」
「今は授業時間だから、休み時間になれば教室から学生が出てくる」
「へー、なるほど」
僕が歩き出すと、紫も着いてきた。
「大学に着いて、兄貴かー、高崎さんかー、徳田さん見つかるかなーと思ってたら、速攻兄貴見つかったんで、運がよかったー。まぁ携帯に電話してもよかったんだけど」
そうか、俺は速攻で見つかってしまったのか。
「どこが教室なの? いっぱい建物あってわかんないよ」
「学科ごとに校舎が違うから。文芸は一番奥なんだ」
「じゃあさっき兄貴が出てきたところはなに?」
「あれは図書館」
「へー、外からだと全然わからないね」
紫は僕の説明にいちいち感心していた。
研究室の方へ休講の掲示を見に行こうとすると、
「こっち教室なの?」
「いや、掲示板のチェックに行くだけ」
「ここの上の階にあるの?」
エレベーターに乗ると、紫ははしゃいで声をあげた。
「すごーい、このエレベーター、がたがたいってる〜。途中で止まりそう〜」
部外者だから面白いんだろうが、僕の方は全然楽しくもなんともない。少なくともあと1年半は乗ることになるエレベーターだ。
研究室の前の掲示板を見て、紫は納得したようにつぶやいた。
「こうやって授業の連絡事項とかメモした紙を掲示してるわけかー。休講とかって、結構多いんだ」
そう言いながら、掲示板に視線を向けたまま紫は一歩下がった。
「わわわっ」
は?
「す、すみません。大丈夫ですか」
どうやら、後ろを歩いていた人物にぶつかったらしい。
紫に続いて謝罪の言葉を口にしようとした僕は、相手を見て一瞬言葉を飲みこんだ。
紫がぶつかった相手は、澁谷先生だった。
先生はぶつかった衝撃をそれほど受けていなかったようで、特に気にしたふうもなく紫に微笑みかけ、そして横にいる僕に気付いた。
「……あら?」
紫と僕の顔を見比べる。
「もしかして、佳月君の妹さんかしら?」
「あ、えっと、いつもお世話になってます」
紫は慌てて頭を下げた。動揺しているのか『兄が』という言葉が抜けた。
「すみません、妹がぶつかったみたいで。大丈夫でしたか」
「大丈夫よ」
先生はいつもの華やかな笑みで答えた。
「可愛い妹さんね。お兄さんとして気苦労が絶えないでしょう」
いろんな意味で気苦労は絶えないが……。
「そうだわ佳月君、前に話していた本が見つかったの。今度研究室に来たらお渡しするわ。よろしく」
「え? あ、はい……」
突然そんなことを言われ、僕は驚いた。紫の手前、返事をしてしまったが……。
……前に話していた本? なんのことだっけ。
「それじゃ」
先生は紫に微笑みかけてから、悠然と立ち去った。
「す……っごい美人じゃん。素敵! 笑顔のなんつー艶美なこと!」
先生の姿が見えなくなってから、紫は興奮気味に早口でまくしたてた。
「ね、ね、あの人実は凄腕のスナイパーとか、国際的スパイとか、そういう裏ネタないの?」
……シティハンターの読みすぎ。
「あんな人が大学の先生だなんて信じられなーい。すごーい。私も芸大入ろうかなー。あんな先生にいろいろ教えてほし〜い」
「お前志望大学もう決めてるだろ」
「……あ! ねぇねぇねぇ、兄貴、今の人の香水って」
紫は口元に得意げな笑みを浮かべて僕を見上げた。
「なーんか嗅いだことあるような香りだと思ったら、前に兄貴が朝帰りしたときにしてた香りと、一緒じゃん?」
……こいつの妙な記憶力の良さが、時々怖いんだよな。
「まさか今の先生とアヤシイ関係ってことないよねぇ?」
「ないよ」
いらんツッコミをされないよう即答したが、
「へーぇ、どうだか」
紫はフフフ、と笑った。
「美しい教師との禁断の愛……禁断? 今の人、独身?」
「独身」
「じゃあ禁断ってわけでもないか。兄貴も独り身だし成人してるし、別に禁断の愛じゃないとすると、なんてタイトルつけたらいっかな……」
勝手に悩め。
「じゃ、お兄ちゃんはこれから授業だから、適当に見学したら帰りなさい」
「えー」
紫は抗議の声をあげた。
「なんか面白いとこないの? 案内してよ」
「大学にアトラクションはない。弁天町でフェスティバルゲートでも行ったらいい」
「あー冷たいにゃー」
紫は僕のリュックの紐を掴んでぐいぐい引いた。
「ねーねー、お兄ちゃん。前に言ってたゲームの上手い友達って今日会えないの? 女の人っていうのが気になるじゃない。一度対戦してみたーい」
「あーもう、引っ張るな!」
紐を紫から取り返す。
「今日大学に来てるかわからないから」
「携帯とかで、連絡できないの?」
夕佳里さんは携帯の類を持っていない。持っていたとしても、電話して誘ってOKもらえるかはかなり怪しい。
「携帯は持ってない人だから」
「そうなんだ、じゃあ仕方ないね」
結局紫は教室の前まで着いてきた。愛想のないコンクリートの校舎にどう好奇心を刺激されているのか、歩きながらしきりと周囲を見まわしている。紫に気付いた学生は、明らかに部外者を見る目で紫を見ていた。
「今日は高崎さんとか徳田さん、授業同じじゃないの?」
「高崎は同じ授業だが、今日会えるかは怪しいな」
「大学にくれば、いつでも会えるってわけじゃないんだね」
「まぁね」
「じゃ、大学に好きな人がいても、毎日会えるってわけじゃないんだー」
紫がさらりと言った言葉が、なんとなくひっかかった。
確かに、毎日会えるわけじゃないんだよな……。
「まだ前の授業終ってないんだね」
紫は教室の後方のドアから中を覗いた。
「あんまり覗くなよ、先生から見えるから」
「はーい」
紫はドアから離れると、廊下のベンチに腰掛けた。大学を見物しに来たのはいいが、さすがに授業に紛れこませるのはまずいな。牧さんならともかく、紫は目立ちそうだ。本屋かどこかで待たせておくしかないな。
そう考えていたところへ、夕佳里さんがやってきた。よく考えれば、次は彼女と同じ授業だった。京都にはまだ帰っていなかったらしい。長めの赤茶色のスカートにベージュのアンサンブルという格好がとてもよく似合っている。
夕佳里さんは教室から少し離れた場所で、壁にもたれて手に持っていた本を読み出した。僕の姿はまったく視界に入っていなかったようだ(入っていたら、挨拶ぐらいはしてくれるはずだ)。このまま声をかけなかったら、おそらく教室に入るまで気付かれることはないだろう。
声をかけようかと思ったが、僕と夕佳里さんのことを紫に変に勘ぐられたくないし、他人の前ということでうまくつくろえずさらに関係が悪くなっても困る。もし会話のはずみで夕佳里さんがゲーム仲間だと知れたら紫は必ず対戦しようと誘うだろうけど、夕佳里さんに気を使わせるのは申し訳ないし。
でも、もしかしたら……紫と一緒だったら、OKしてもらえるんじゃないだろうか。
いや、でも……。
えーい、悩む前に行動しよう。少しは清水さんの積極性を見習え、俺。
僅かな期待を抱いて、僕は彼女に向かって声をかけた。
「ユカリ――」
「え?」
夕佳里さんが顔を上げた。
「なーにー?」
紫が僕の隣にやってきた。
「……」
……。
ま、間違えた。
夕佳里さんを呼ぼうとして、ユカリ、で止めてしまった。
おいおい、今の夕佳里さんに向かってだろ? なに呼び捨てしてんだ、俺。最初に「妹と間違えて呼び捨てにしないようにしないと」とか冗談を言った気がするが、まさか本当に間違えるとは思わなかった。隣に紫がいたせいだろうか。
「え、なに? お兄ちゃん」
紫が首をかしげて僕を見上げた。
夕佳里さんの方は、僕を怪訝そうな顔で見つめている。
「ごめん、間違えた」
僕は紫を放っておいて、夕佳里さんに謝った。
「妹の紫と呼び間違って」
僕がそういうと、紫が驚きの声をあげた。
「あれ、この人もユカリって言うんだ?」
夕佳里さんは僕の隣にいた紫をしげしげと見つめた。紫の方がやや背が高いので、少し見上げるような格好になる。
「……佳月君の、妹さん?」
「はい、始めまして、佳月紫と言います。兄がいつもお世話になっています」
紫は頭を下げた。接客業で培ったのか、最大級の笑顔を見せる。同名のよしみかその笑顔にほだされたのか、夕佳里さんも笑みを返した。
「あぁ、それで呼び間違いって……私は芳峰夕佳里って言うんだけど。紫ちゃんて、兄妹だけあってほんと目元とか佳月君に似てるー」
「はは、よく似てるって言われるんですよー」
紫はどこか嬉しそうに夕佳里さんを見ていた。
……そういや。
長髪。ややつりあがり気味の大きな眼。細身だが胸が大きいスタイル。
紫の好みの女性像に近いんだ、夕佳里さんて。
「あ、もしかして、兄貴が言ってたゲーマーな人って、芳峰さんのことですか」
どこからそう勘付いたのか、紫は単刀直入に切り出した。
「え、あ……うん、私ゲーム好きだけど」
夕佳里さんがそう答えると、紫はさらに嬉しそうな表情を見せた。
「良かったら、これから天王寺で対戦しませんか、対戦」
「え、紫ちゃんもゲーマー?」
「もう、バリバリっすよ。現役ゲーマー女子高生です」
「今なに? 何してるの?」
「今ですか? KOFとか、サイキックとかバーチャファイターとか……」
「えー、私も私も」
……盛り上がってるなぁ。
「どうですか? 天王寺、行きません?」
紫が再度誘いの言葉を口にすると、夕佳里さんは「いいよ、行こうか」と答えた。
予想どおり(というか期待どおり)、夕佳里さんは紫の誘いには軽くOKした。
「あ、でも、私これから授業があるから、1時間ほど待ってくれるかな」
夕佳里さんが申し訳なさそうに言った。
「え、そうなんですか……どっか時間つぶす場所あるかなぁ」
「これ貸してやるから、適当な場所で遊んでなさい」
僕はゲームボーイを渡し、食堂の場所を教えてやった。
「授業終ったら電話するから」
「わかったー」
僕と夕佳里さんは教室に入った。彼女が前、僕が後ろの机に座る。ちょっと微妙な関係でも、この距離を保てるならいい方だと思う。
夕佳里さんは後ろを振り返り、僕に話しかけてきた。
「紫ちゃんて、佳月君と顔よく似てるね。背が高いのは家系かな」
「顔は似てるってよく言われるよ。親はあまり背が高くないから、家系ってわけではないかもね」
「そうなんだ? 仲がいい兄妹なんだね。羨ましい」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「いいなー、私も佳月君みたいなお兄ちゃんが欲しかったなー」
……。
誉め言葉として受けとめておこう。
授業が終わった後、僕と夕佳里さんと紫さんは天王寺へ出向いた。
駅前のゲームセンターで、目当てのゲームの対戦台を見つける。
「じゃ、KOFで勝負といきましょう」
夕佳里さんと紫が向かい合せの対戦台に座ったので、僕は紫の後ろで観戦することにした。
紫はゲーム好きだが、あまりゲームが上手とは言えない。レベル的には夕佳里さんの方が強いと思うが、2人とも連続技を使わない(出せない)、対空技を出すタイミングが微妙に遅いという共通点と相性のせいもあったのか、意外と接戦となっていた。
しかし最終的には歴戦の差があったのか、夕佳里さんが勝利した。次に僕が乱入して、勝利。
しばらくは3人で遊んでいたがそのうち見知らぬ人に乱入もしかけたりして、久しぶりに対戦を堪能した。
「ほんと、夕佳里さん結構強いですね」
紫が感心したように言うと、夕佳里さんは照れたような笑みを返した。
「紫ちゃんもなかなか、センスあるよ」
「あー、でも私、思った時に思った技が出ないんですよー」
……それはまだまだ下手くそ。
アーケードゲームの後、缶コーヒーを飲みながら僕らはUFOキャッチャーを覗いた。
「あ、クマ可愛い」
夕佳里さんは景品のクマを見て声をあげた。景品にしてはわりと可愛い顔をしたクマで、紫も「ほんとだかわいーい」と同調した。
「どうかな、1回じゃ無理かな。ひっかけて転がして……」
夕佳里さんは正面と横から中を覗き込んだ。
「取れそう?」
僕の問いかけに、彼女は「うん、たぶん」と答えた。
その言葉どおり、2回の挑戦で夕佳里さんはクマのぬいぐるみを自分のものにした。
「すごーい。あたしも何か取りたいなー」
紫は1人で隣のUFOキャッチャーの方へ行ってしまった。
「夕佳里さん、器用だね」
僕がそう言うと、夕佳里さんは首を振った。
「でも、取れそうなやつしか狙わないから」
「そうなんだ」
僕がそのクマの額あたりを人差し指でつついたその瞬間、夕佳里さんが「あべし」と言った。
「え?」
思わず聞き返すと、夕佳里さんはクマを顔の高さまで持ち上げて、おどけた表情で言った。
「今の、経絡秘孔でしょ?」
……。
僕はもう一度クマの額をつついた。
「お前はもう死んでいる」
「あべし」
僕がケンの名台詞を言うと、夕佳里さんがクマの断末魔を口にして……2人で一緒に笑った。
こういう時の夕佳里さんは、告白後の気まずさをまったく感じさせない。今日誘った時のためらいなんて吹っ飛んでしまうぐらいの笑顔を見せてくれる。
ただのゲーム友達だったら、このまま彼女と仲良くしていける。それはわかっているけれど……。
「あ、夕佳里さん、プリクラ撮りましょ」
戻ってきた紫が夕佳里さんをプリクラの方へと誘った。
「これこれ、このフレームが可愛いんですよ」
「あ、ほんとだ。可愛い」
2人はプリクラ機器の側面に貼られたポスターのフレームを見ながらはしゃいだ。
「兄貴も映りたい? 映りたい? 一緒に映る?」
「いや、いいよ」
僕は断った。
「小銭、小銭……」
「あ、私あるよ」
「あーすみませーん」
「え、どれ? どれにするの?」
「えーと、これでいいですか?」
「うん、いいよ」
「じゃーいきますねー」
しばらく沈黙。カシャっというシャッター音が聞こえた。
「いいですか? これで」
「んー、いいにしようかな」
「文字入れますか? 日付とかでもいいですよ」
「紫ちゃんに任せるー」
カーテンの向こうから、2人の笑い声が聞こえる。
しばらくするとプリントされたプリクラを手に紫が、続いて夕佳里さんが出てきた。
「ハサミ、ハサミ……あれ?」
紫はプリクラ台の近くをうろうろしたが、ハサミを見つけることができなかった。
「店員に聞いてみるか」
「大抵近くにあるんだけどねー」
「ちょっと待って」
夕佳里さんが鞄からペンケースを取り出した。
「これで切れるよね」
夕佳里さんが差し出したカッターを、紫は「すみません」と受け取る。
「それも七つ道具?」
僕がそう言うと、夕佳里さんはなぜか一瞬戸惑った表情を見せたが「まぁ、そんなとこ」と言った。
紫はカッターでシールを半分に切り、夕佳里さんに渡した。
「兄貴もあげる〜」
1枚剥がしたのを差し出してきたので、僕は手帳を取り出し、相本さんとのツーショットプリクラの横に貼った。おまけで紫がいるものの、思わぬ展開から夕佳里さんの写真が手に入った。
「そろそろ帰る? あたし夕食までに帰るって言ってあるんだ」
紫が腕時計を見た。僕も時間を確認すると、もう6時をすぎていた。
「私お手洗い行ってくる。お兄ちゃん、お母さんにもう少ししたら帰るって電話しておいてよ」
「わかった」
夕佳里さんも紫と一緒に行ったので、その間に家に電話した。
他人のプレイを見て待っていると、夕佳里さんと紫が戻ってきた。
「……そうなんだぁ、知らなかった」
「そうなんですよ。夕佳里さんもその気になったら、ぜひ。店長にもしっかり言っておきます」
なんかかなり仲良くなってるなぁ。
「ゲーム仲間できてよかったな」
そういうと、紫は調子に乗ってこんなことを言った。
「夕佳里さんと組んでダブルYってゲーマーユニット組もうかなぁ。美少女2人が梅田で対戦バトルを繰り広げるってどうよ。オタク受けしそうなネタじゃない?」
「……誰が美少女だって?」
冷たい視線を向けると、紫は笑いでごまかした。
「やだなぁお兄ちゃん、妹のあたしのこと可愛いでしょ?」
……。
天王寺の駅で、定期を持たない紫が切符を買いに行っている僅かな間だけ、僕は夕佳里さんと2人だけで話す時間を得ることができた。
「明日から、帰るの」
夕佳里さんは混雑した改札口に視線を向けたままそう言った。
「わかった。次に会えるのは、11月に入ってからかな」
「そうだね」
夕佳里さんはそう言って、視線をあげて僕を見た。彼女が自分から視線を合わせてきたのは、久しぶりのような気がする。
彼女は控えめな笑みを見せた。
「今日は、楽しかったね」
その一言に純粋な喜びを感じていた時、
「お待たせしました、行きましょ」
紫が戻ってきた。
……こいつにこういうとこで邪魔されるとは。
僕らは改札を通ってホームへ向かった。
帰宅ラッシュの時間にぶつかったらしく、車内は結構混んでいた。3人で出入り口付近に立っていたのだが、紫ばかりが喋っていて、夕佳里さんは相槌をうつ程度、僕はほとんど黙っていた。
「じゃあね、佳月君、紫ちゃん」
「また遊びましょう〜」
夕佳里さんが降りると、紫はどこか嬉しそうな表情で僕の顔を覗きこんで言った。
「お兄ちゃんてさ、今彼女いないんでしょ?」
「だから?」
「夕佳里さんてどうなん、夕佳里さん。きれいだしゲーム上手いしいいじゃなーい。あたしあの人好み」
……。
「なんでお前の好みで俺が彼女を選ばなけりゃならんのだ」
「えー、私が男だったら、絶対狙ってるよ〜。あ、でも前に一緒に歩いてた人もきれいな人だったよねー」
こいつが男だったら、浮気性なやつになりそうだな。
「兄貴の周りって、美人ばっかりだね。羨ましい。目の保養ができてさ。保養だけじゃなくて、心の潤いももたらしてくれる人、いるんじゃないの? の?」
「別に」
「ほんとにぃ? 勿体無いなぁ」
わざとらしく嘆息した紫に、僕は一言言ってやる。
「お前が思っているほど、何でもうまくまわらないよ」
「兄貴はなんでも難しく考えすぎだよ」
紫は知ったかぶりな口調で言った。
「好きって伝えるだけでさ、何かが変わるかもしれないよ?」
……。
「はいはい、お前のお子様思考には頭が下がるよ」
「なによ、年上だからって偉そうにさー。ちょっとばかり早く生まれたからって」
「そのちょっとばかり早く生まれたお兄様のおかげで、お前は家でゲームができるんだぞ」
そうだ、紫にプレステを高崎に貸すことを伝えてなかったな。
「あ、今度の連休、プレステ持って高崎の家に行くから」
「え―――――――――――――――」
紫はそれほど大きくはなかったものの、近くにいる人を振り返らせるほどの声をあげた。
「うるさいよお前」
「えー、聞いてない、そんなのひどいわー」
ひどいってなぁ……プレステは俺のだって。
「たっぷりゲームしようと思ってたのに」
「勉強でもしてろ」
「中間テスト終わったから、しばらくのんびりなのにさー」
紫はぶつぶつ言いながらドアにもたれかかった。
「ま、いっかー。夕佳里さんとまたゲーセンに行くって約束したし」
「あ、そう」
僕の返事に、紫は思わせぶりな笑みを口元に浮かべた。
「兄貴も一緒に行きたい? 行く? 行こっか?」
「お前そうやって語尾を変換するの好きだな」
まぁ、今日は紫のおかげで夕佳里さんと遊びに行けたわけだし、感謝しないとな。
「あーあ、あたしが男だったらなー。夕佳里さんデートに誘うのに。ざーんねん」
……こいつが弟じゃなくて、本当によかった。
朝からどんよりとした曇り空だった。予報では雨は降らないらしいが、ここのところ天気予報は頼りない。予報が雨なら曇り、晴れならにわか雨という具合だった。今日は一応折り畳み傘を鞄に入れているがどうなることだろう。
バスを降りて坂を上っていると、トランペットケースを担いだ徳田に出会った。
「なんか、久しぶりに会ったような気がするな」
そんなことを彼が言い出したので、僕は苦笑した。
「この前ゼミで会っただろ。忙しくて調子が狂ったのか」
「調子は悪くない。むしろいいぐらいだ。忙しいのも今のうちだし、この状況を楽しんでいるとでも言うか」
その言葉のとおり、彼は表情に清々しささえ漂わせていた。
「そういや、引退も近いのか」
「学祭が終わったらそろそろだな」
さらりと答える口調にも、寂しさは感じられなかった。
「芸池の傍で練習している徳田を見られなくなるのは勿体無いな」
「芸池の主も、そろそろ他の誰かの演奏を聴きたいと思っているさ」
徳田はそう言って笑みを見せた。彼のこういうところが好きだ。感傷的になり過ぎず、と言って無粋でもない。
「……学祭終わったら、どこか遊びに行くか。飲みに行くでもいいけどさ」
「そうだな、平日はしばらく忙しいな……あぁ、週末も用事があるんだ」
「なんだよ、ほんとに多忙だな」
「高校の同級生が今度結婚するので、その祝いの飲み会に行くんだ」
「同級生……って、まだ若いじゃないか。相手いくつだよ」
「学年で1つ下という話だから、今19か20歳だな」
「もしかして、できちゃった結婚とか」
僕の言葉に、徳田は頷いた。
「そうらしい」
「はー、まだ若いのにな」
「その同級生はもう就職していて、もともと結婚を前提とした付き合いだったらしい。だから結婚するのはいいんだが、今の貯金では挙式が精一杯で新婚旅行の金がないから、旅行は冬のボーナスもらってから来年行くんだと」
「へぇ」
「そういうわけで、ささやかながら、2次会は同級生でしてやるつもりだ。その相談も兼ねた飲み会」
僕とは直接関係はないものの、最近結婚の話をよく聞くなぁ。久しぶりに会ったら結婚していた、という人もいるし。
「そういや知っていたか? 芸大の学生同士で結婚したら、授業料が減額されるって」
徳田がそういうので、僕はふざけて「俺と結婚するか?」と言ってみた。
「冗談」
彼は即答した。
「俺たちの間にはそういう意味での愛は存在していない」
……少しはボケてくれ。
「そういや、一回生の時に結婚が理由で中退した学生がいたな」
ボケの滑った僕に気を使ってくれたのか、徳田からそんな話題を振ってきた。
「え、でき婚で中退したヤツ?」
僕がそう言うと、彼は怪訝そうな表情を見せた。
「そういうふうに略したのを初めて聞いた」
「略したらでき婚になるだろ。で、それって俺の知ってるやつ?」
「根岸という名前の学生だ」
「……知らないな」
「佳月と同じぐらいの身長で、2つだか年上で……俺は同じ専攻授業を取っていたから知っているんだが」
僕と同じぐらいの身長の学生が珍しいというわけではないので、それは情報としてはあまり有力なものではなかった。どちらかというと学籍番号が近い学生に知り合いが多い方で、逆に学籍番号が離れている学生とはあまり付き合いがない。どんな人物なのか、髪型も体格もまったく浮かばない。
「んー、わからんな」
「まぁ、あんまり関わり合いになりたくないやつだったな」
徳田がそんなことを言ったので、少しばかり気になった。
「え? なんか変なヤツだったのか」
「いや、俺は聞いただけなんだが」
彼はそこまで言いかけたが、不意に口ごもった。
「……まぁ、どうでもいい話だ」
急に話す気がそがれたらしく、徳田は唐突に話を終わらせた。僕も知らない人物の話だったので、こだわる気もなくそれ以上追求しなかった。
「飲みに行く話は、進めておいてくれて構わない。12月なら余裕があるんだが」
12月ねぇ。下手したら忘年会になってしまいそうだ。
「佳月のバイトもあるし、こっちの都合が決まればすぐ言うよ。土日は避けた方がよかったんだよな」
「基本的に土日は朝バイトだから夜は空いてる」
「そうか、じゃあ週末でも構わないわけか」
しばらく一緒に歩いていたが、徳田は「打ち合わせがあるから」とボックスの方へ行ってしまったので、僕は一人9号館へ向かった。
さて、まずはいつものように掲示板のチェックといくか。
「あのさぁ、佳月」
メモ帳に休講情報を書き込んでいると、西川がやってきた。
「悪いけど、マージャンはまた今度」
「いやいや、ちょっと聞きたいことがあるんやけど」
?
西川は掲示板の脇へ僕を移動させ、声をひそめて言った。
「この前自分が一緒に歩いてた女の子、あれ誰?」
「女の子?」
「ちょっと背が高い、ショートヘアの子」
……あぁ。
「あれは俺の妹」
「えー」
西川は大げさに驚いたような顔を見せた。
「妹か! そういや顔似てた! へー」
頷きながら、1人で納得している。
「俺の妹がどうかしたか」
「北見がさ、あの子に一目ぼれしてんて。すでにラブレターまで書いてるらしい。今時ラブレターっていうのもなんやけど、今度渡してやってくれへんかな」
「……止めておいたほうがいいと思うが」
「え、なんでや」
「凶暴だし、大食いだし」
「え、まじかよ」
「彼氏いるし」
「それを先に言えって」
西川は脱力したようにため息をついたが、すぐに顔をあげた。
「で、もう1人、一緒にいた子おるやろ」
「え?」
「あれって、文芸の女の子やんな? あれは誰なん?」
……もう1人? 夕佳里さんのことか。
「あ、あぁ……あの子は文芸の子だけど、それが?」
「いや、ちょっと気になって……佳月と付き合ってるってわけちゃうよな?」
……。
「どうなん?」
「付き合ってはないけど……止めておいたほうがいいと思うが」
「なんで」
「彼女の理想の男性って、背が180センチ以上の美形で、ケンカとお酒に強くて、誕生日にバラの花束をくれる人だってさ」
「うわ、俺無理やん。身長ないし、そんな気障なことできんわ」
「残念だったな」
意気消沈している西川を放置して、僕はその場から立ち去った。
……西川だけで終わればいいが。僕の知らないところで、誰かが夕佳里さんに近寄らないとは言い切れない。まぁ彼女は誰かに言い寄られたとしても、僕に言ったように誰かと付き合う気がないと断るとは思うけど。澁谷先生みたいに、どんな男が相手でも悠然と構えてほしいものだ。
そうだ、澁谷先生が研究室に来るようにって言ってたな。本がなんとか。
何の本だろう。芸術の参考書か? まさか片山氏が本を出したから僕にも読ませようと考えているとか、そんなことだったらどうしよう。
僕はあらゆる可能性を想像してみたが、とりあえず先生のところへ行くことにした。
同室の広瀬先生はまたも不在だった。廊下ではよくすれ違うのに、研究室では出会わないな。
「先日は紅茶、御馳走さまでした」
そう言うと、先生は微笑した。
ペイズリー柄のタイトスカートと合わせたアイボリーのブラウスの襟元から、シンプルな革のチョーカーを覗かせている。他の先生の服装なんてあまり気にしていなのだが、澁谷先生だけはついついチェックしてしまうな。
「今日も飲んで行く?」
「今日はいいです」
そう断り、僕は用件を切り出した。
「ところで、本ていうのは……何の話でした?」
僕がそう言うと、先生は机の引出しを開けた。
「彼女の作品よ」
先生が差し出したのはコピー用紙をホッチキスで止めた冊子で、大きさはA5サイズだった。2冊あり、『編物をする彼女』『傷跡』とそれぞれ表紙に題名が書かれている。
「薄い方が、去年彼女が創作論で提出した短編。もう1つが、私のゼミで彼女が提出した作品」
ゼミを選択する際特に作品等の提出義務はなかったが、教授に選考の資料として作品を提出することも可能だった。希望するゼミに必ず入れるわけではないので、学生は担当教授に自分の論文なり小説なり自信作を提出して、アピールすることができたのだ。僕は特に何もしなかったが、夕佳里さんはこの作品を提出したらしい。
「なんで創作論で提出された作品を先生が持ってるんですか?」
「私はゼミに提出された作品を先に読んで、彼女の他の作品はどんなものか知りたかったから、創作論の白井先生にお借りしたの。その時コピーを取ったから、今も手元にあるのよ」
なるほど。
「先生の感想は聞いていいんですか?」
軽い気持ちでそう口にすると、先生はいつになく素っ気無い口調で答えた。
「私の感想を貴方に言うつもりはないわ。私がこうして読むのを勧めるのは、彼女の中にある世界を、貴方が知る手がかりになればいいと思っただけ。その気がなければ、別に読む必要はないわ」
そう言ってから先生は表情を和らげ、いつもの笑みを見せた。
「余計なおせっかいだったかしら?」
「いえ……お借りします」
僕は作品を受け取った。
他に用件は特になかったので、僕は先生にお礼を言って研究室を出た。
帰宅してから夕食まで時間があったので、僕はさっそく借りてきた冊子を机の上に出した。
さて、と。薄い方から先に読もうかな。僕は『編物をする彼女』と題された作品に手を伸ばした。
女の子の一人称かと思っていたが、意外にも男の子の一人称で、読んでいてくすぐったくなるというか……ほのぼのした雰囲気。高校生のカップルの話だった。夕佳里さんが少女趣味という瀬川さんの言葉も頷ける。こういう物語をよく書いているのだろうか。一部に新井素子の作品の引用があった。ほんとに好きなんだな、新井素子。
高校生の頃、夕佳里さんと出会っていたら、こういう恋愛ができたんだろうか。
勢いづいたので、もう一つの冊子も読んでしまおう。
こちらの作品は同じく一人称で、20代半ばの女性が主人公だった。
結婚を間近に控え、愛してくれる家族もいて、特別に恵まれているわけではないが、幸せと言える環境にいる。
しかし彼女には、婚約者にも言えない秘密があった。中学生の頃、同じ学校の不良に性的暴行を受けた過去があり、そのことが彼女の心に常に影を落としている。
誰にも打ち明けられず、彼女はただ時が経って傷が癒されるのを待っていた。だが決して癒されることはない。日常の端々で、過去を思い出す欠片が落ちている。
女の子同士の他愛ない会話。修学旅行の夜暗い部屋の中、布団に入ってファーストキスの思い出を語る友達。彼女は決して笑顔で自分の初体験を語ることができない。少女漫画や小説で憧れ夢見ていたその瞬間は、今の彼女にとっては忌まわしい記憶でしかない。
そして彼女の中には憎しみがつのっていく。
私が受けた傷の報いを、あの男が受けることがないのは不公平だ。
ひそかに彼女は期待していた。新聞の紙面にあの男の死亡記事が掲載される日が来ないだろうか。もしくは犯罪の容疑者として検挙されないだろうか……。
同時に、彼女は怯えていた。
もしかすると、またあの男が、または他の誰かが、彼女に危害を加えようとしないとは限らない。
今幸せだと羨ましがられるこの生活を、他の誰かが壊してしまうかもしれない。
中学校の同窓会にも出席せず、成人式も行かなかった。男と似た顔の人物を見かける度に逃げ出した。
いつだって、彼女が完全に忘れられた時はなかった。
それでも彼女は、自分を愛してくれる異性と巡り合えた。それは間違いなく幸せなのだと思う。結婚して、早くこの地から逃げ出して、あの男から遠ざかりたい……。
ある日彼女は、式場で打合せをした帰りに、加害者である男を見かける。顔立ちは年を経て多少変わっていたものの、彼女にはそれとわかった。
男は妻らしき女性を連れ、子どもを抱いていた。とても幸せそうな、夫婦と子ども。どこにでもいる普通の家族。
その姿を、彼女は冷たい眼で見つめる。
自分を暴行し、癒えない傷を負わせた人間が、数年後には何事もなかったかのように幸せを築いている。未だに私が傷を負っているというのに……。
彼女はその男の不幸を願った。いっそ妻である女にすべてを暴露してやろうかとも企んだ。
しかし彼女は、結局何もできなかった。
結婚式当日、新しい生活への喜びと、過去から決別できるかもしれない微かな期待、拭い切れない不安を抱きながら、彼女は純白のウェディングドレスに身を包む……。
洋楽好きな夕佳里さんらしく、シンディ・ローパーの歌の引用を見つけた。
『Stone, the world is stone. Cold to the touch and hard on the soul……』
主人公が料理をしながら『The
World is Stone』を口ずさむシーンがあった。また違う場面で、主人公の婚約者は車の中で同じ歌手の『Time after Time』をかける。
『if you fall I will catch you. I'll be waiting. time after time』
婚約者は「好きな歌なんだ」とサビの部分を口ずさむ。
……夕佳里さん、シンディ・ローパーのベスト盤でも聴きながらこの作品を書いたのだろうか。同作品の中に同じ歌手の歌を2回引用するって、あまりないような気がする。しかも両シーンで登場人物に歌わせているのは意図的なものなんだろうか。
女性が自傷行為に及ぶシーンを読んで、僕は自分が以前、夕佳里さんが自傷行為をしているのではないかという思い違いをしていたことを思い出した。
『死にたいなんて思ってない』
彼女ははっきりと言った。僕も彼女の腕を見た。傷のないほっそりした腕だった。
だが死にたいと思っている人間だけが自分の腕を切るわけじゃないんだと、彼女はこの作品の中で自ら書いている。
女性は自分の腕を切り、血にまみれた両手を見て、まるで自分が殺人を侵したかのような感覚に陥る。憎い男を自分の手で殺したかのような錯覚を味わい、復讐の達成の愉悦に浸る。
しかし実際に傷を負っているのは女性の腕であり、痛みも流れる血も女性のもので、女性の苦しみが拭われたわけではない。報われない行為が生み出すのは、男への憎しみだけだった。昇華されることのない彼女の憎しみは、マリンスノーのように静かに積もって行く……。
その行為を不定期に繰り返す彼女は、前に進もうとする意思と、消せない記憶に引きずられる感情に挟まれてはいるものの、意外にも冷静に自分の行為を見つめている。
作品の雰囲気は暗いものの、救いがないわけじゃない。女性は過去の記憶に苦しんでいるものの、恋をして、結婚して、幸せになろうとしている。過去に囚われ前に進もうという気のないただの悲劇のヒロインではなく、不安を抱きながらも現実を生きようとする女性の姿を描いている作品……と言える。
ただ気になるのは、描写の仕方だった。
詳細な部分と、乱暴といえるほど雑な部分がある。時間がなくておそろかにしたとしては、むらがありすぎる。「意外」が「以外」になっているなど、変換ミスと思われる誤字。同じような表現が重複する箇所、書き直している途中でそのまま忘れてしまったのか、前後がうまくつながっていない部分もあった。
はっきり言えば、完成作品と呼ぶには荒い。書き上げてから1度も読みなおしていないのではないかとも思える。これを完成作品と言い切るなら、書き手の文章力に疑問を抱いてしまうほどだ。専攻授業で発表したら、口さがない学生に酷評されることは間違いない。
「……」
夕佳里さんがこの作品に満足していたとは思いにくいし、希望のゼミ選考の布石になると信じていたかも怪しい。
彼女は何を思ってこの作品を澁谷先生に提出したのか……。
食事を終え、部屋に戻ったのだが……調子にのって飲みすぎたかな。家ではあまり飲まない方なのだが、珍しく父親が飲みたがっていたので付き合ってしまった。
ベッドに寝転がり、少々酔いがまわった頭で、僕は改めて作品を読み返した。
なんとなく、この主人公の女性に、夕佳里さんと共通するものを感じる。
(私が求めているのはただの平穏な日常だけで、贅沢なものはなにもいらない。誰にも脅かされることのない静かな生活であれば、それ以上のことは望まない)
前倉の1件があった時、僕から夕佳里さんに渡した穂積さんの手紙の言葉を思い返した。
『これぐらいでは、日常は壊れない』
夕佳里さんは、誰かによって日常が壊される可能性を恐れている。そして穂積さんは、その可能性を持つものから彼女を守ろうとしている……。
あの時、穂積さんは僕に「余計なことを考えるな」とクギをさしてきた。
『……その気がなくても、結果的に人を追い詰めてしまうことって、あるやろ? 良かれと思ってしたことが、裏目にでることだって……佳月君がもし好意でしてくれたことでも、それが全く逆の結果になったら……私、佳月君のことを憎むかもしれへん』
僕は彼女の口から「憎む」という言葉を聞いたとき、少し驚いた。夕佳里さんもこの作品の中で「憎む」という言葉を何度も使っている。日常の中で誰かを嫌ったり苦手に思ったことはあっても、憎んだことはない。憎しみは嫌悪よりも強く、殺意につながる感情という認識がある。
……穂積さんは、誰かを憎んでいるのだろうか。そんなことを考えてしまう。普段親しみのない感情について、会話の中にするりと出てくることはそうないと思うんだが。そうなると憎まれている対象は誰かってことになり……それはやっぱり前倉になるのか。
でも、可能性のあるヤツはもう1人いる。2年前夕佳里さんの近くにいた男が……どこの誰かも今どこにいるのかもわからない人物だが……。
……。
……!
僕はとある可能性に気づいた。
もし、もし……夕佳里さんが2年前にその男と何かあったとして、もしそいつが京都に住んでいたとしたら? 会いたくない人物に遭遇するかもしれない場所には行きたくないと思うのは当たり前だ。事実彼女がこの作品にそう書いてるじゃないか。
夕佳里さんは母親の命日には実家に戻ることになっている。義理の両親だって、彼女の帰りを待っているだろう。彼女には京都に戻らなければならない理由がある。夕佳里さんが京都の話をする時に見せるどこか憂鬱そうな表情の意味は、これなら辻褄があうんじゃないか?
これは結構、真実に近いと思われる。
冊子をぱらぱらめくっていると、最後のページを読み落としていたのに気づいた。
後書きかな……。
そこにはただ一行で、こう書かれていた。
『望まれなかった醜い子どもが目の前にいる』
……。
子ども……?
作中に主人公が子どもを産んだ件はない。後日談にしては唐突な書き方だ。主人公は伴侶である男性を愛しているから、子どもが望まれていないってことはないし……主人公が暴行されたのは中学生の時。その時に妊娠したというわけでもないし……主人公でなければ、夕佳里さんの子どもとか?
…………は?
自分の唐突な思いつきに、自分で驚いてしまった。
夕佳里さんが、2年前、その男との子どもを妊娠していた……とか? で、京都にいる会いたくない人物は、実は自分の子どもとか……?
…………。
ちょっと待て。待て待て。ほんとに酔ってるのか、俺。それはあまりに短絡的な解釈だ。いろんな点から見てありえない。夕佳里さんがまさか……。
しかし否定したいという気持ちは、たんなる僕の希望だ。夕佳里さんが2年前誰かと付き合っていて、相手と深い関係があったとしても、別に不思議なことじゃない。今は誰とも付き合いたくないのは、いまだにその時のことを引きずっているのだとしてもおかしくはない。
……。
…………。
………………。
少し気分を落ち着けたところで、さっきの自分の仮説を思い返してみる。
いや、やっぱり違うな。夕佳里さんが妊娠したとか、そういうことじゃない。婉曲的な表現を好む夕佳里さんのことだ、これはなにか別のものを表しているのだろう。この一文を物語の最後ととるか、後書きととるか……それでかなり変わってくる。主人公の視点か、夕佳里さんの視点か。
望まれて生まれたわけでもなく、見た目に美しくもない醜い子ども……文章からは、冷ややかさすら感じる。愛することのできない対象を見つめる冷たい視線。
再度作品を読み直してみたが、やはり最後の一文は不可解だった。作中に意味深な単語はあるものの、そこから最後の一文にはつながるとは思いにくい。
やっかいなメタファーだな。誰かに意見を聞いてみたいが……澁谷先生は今日の様子だと断られそうだ。何も教えてくれないかもしれない。
……そうだ、牧さんに聞いてみよう。彼なら、僕と違うものをこの作品の中に読み取るだろう。今度会ったときに渡してみよう。先生に返却しないといけないから、コピーしておくか。
そう考えながら。
僕はこの作品を受け取った時の澁谷先生の言葉を思い返した。
『彼女の中にある世界を、貴方が知る手がかりになればいいと思っただけ』
先生は、夕佳里さんの中にある世界がどんなものか、理解したのだろうか。
僕は、夕佳里さんの中にある世界を、知ることができるのだろうか。