Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  27
「え、今、なんて?」
 新聞を読んでいたために、母親の話をよく聞いていなかった。
「♪今なんて言ったの〜 他の事考えて 君のこーとーぼんやーりー見てた〜」
 紫が隣でオフコースの『Yes・No』のフレーズを口ずさんだ。それを無視し、母親の返事を待つ。
「坂井のおじさんがね、車を買いかえるらしいの。それで今まで使っていた車、お父さんに買わないかって話がきてね、お父さん前向きに検討してるみたい。2台目となると、駐車場借りないといけなくなるんだけどね」
「君を抱いていいの〜  好きにーなってもいいの〜」
 後ろで紫が続きを歌っている。
「坂井さんが乗ってた車って何」
「えーとね、MOVEだったと思う」
 軽か……小さい方が駐車とか楽だな。
「えー、車欲しい欲しい」
 紫が話に割り込んできた。
「なんで免許持ってないあんたが車欲しがるの」
 僕が思ったことを母親がそのまま口にした。
「あたしも高校卒業したら免許取るもん。そしたら乗れるでしょ?」
「あんたが? 危なっかしいわねぇ」
 僕と母親の考えはまったく一緒だった。
「あたし運転得意よぉ。知らないでしょ」
「お前ができるのはゲーセンのレーシングゲームだろうが」
「運転の素質があるってことじゃん!」 
 そう言い返して、紫は「心は今どこにあるの〜」と歌いながら部屋へ戻っていった。
「で、友則。あんたも出資なさい」
「え」
「そしたら、お父さん、買うと思うわよ」
 車が欲しいと言いながら、結局なくてもそれほど不自由していないので気にしていなかったが……これはチャンスかな。車自体はたぶん安くなるだろうけど、車検だの駐車場だのって、結構かかるよな。維持費が問題で……。
「いくら出したらいい?」
「それとなく聞いておくわ」
 バイト、来月から頑張ろう……。


「お、車か。いいなぁ」
 もう一台車が増えるかもしれない話をすると、高崎は素直に羨ましがった。
「あ、でもまだ決定じゃないんだ。あんまり期待はしないでくれ」
「じゃ、あんまり期待しないで待つことにしよう。ぜひどっかにつれてってくれ。泊りがけとか、どうや」
 食べ終わった食器を返却口に置いて、僕と高崎は食堂を後にした。昼休み前に食べて正解だったかもしれない。大勢の学生と入れ違いになった。
この後、2人とも授業はない。高崎はサークルへ行くと言うので、僕は久しぶりにTUTAYAでも行こうかと考えていた。洋楽の新譜でもチェックするとしよう。
「車で白浜にでも行くか?」
 冗談で言ったつもりが、高崎は真に受けたようだった。
「いいねえ、帰りに俺の実家に寄ってくれ。あ、この前電話したらさ、今度の学祭、浩二来るって言ってた」
「へぇ、浩二が大阪に来るの、久しぶりじゃないか?」
「そうやねん。一泊して帰るって。そう、それでその間だけ、プレステ貸してくれへんかな。俺がバイトしてる間浩二待たせるからさ」
「あぁ、別にいいけど。貸すのはいいけど、物の受け渡しはどうしたらいいんだ」
「俺がバイクで取りに行くわ。それでええやろ」
「いいよ。俺がいなくても、親から渡してもらうし。ゲームソフトも適当に付けておくから」
 今家にあるゲームで、高崎や浩二が楽しめそうなものあったかな。野球とかパズルでいいか。
「おう、暇つぶしになりそうなゲームだったらなんでもいい。でもお前、軽くOKしてくれるのはいいけど、紫ちゃんだってゲームするんちゃうん」
 確かに今はまっているゲームがあるだけに、文句言いそうだ。
「プレステ買ったのは俺。あれは俺の。紫に文句言われる筋合いない」
「はは、そういうことか。まぁ2日の間だけ、レンタルさせてもらおうか」
「レンタル料は?」
 冗談のつもりで言ったのだが、高崎は真面目な表情で頷いた。
「缶コーヒー2本。1日につき1本てことで」
「え、十分十分。あ、俺も浩二と一緒に泊まりに行こうかな」
 兄と違い浩二は結構ゲームが上手で、以前も一緒に遊んだことがある仲だ。
「別にそれは構わんで。あ、飯つくってくれたらめちゃ嬉しい」
「カレ−ぐらいならいつでも作ってやるよ」
「うわーありがたい。あんまし浩二に弁当とかファーストフード、食わせたないしな」
 いい兄ちゃんだよ。
 僕が高崎の弟思いな言葉にほろりと来ていたとき、高崎が「あ」と声をあげた。
「おい、あの子、宮下って子やんな?」
「え?」 
 高崎が示した方向にいたのは、確かに夕佳里さんだった。
 一瞬、別人かと思った。
 自然な栗色に染められた髪は、緩やかなウェーブを描いて肩のあたりまでの長さになっていた。ストレートの黒髪の姿とは随分印象が変わっている。後姿ではたぶんわからなかっただろう。
 髪型もだが、さらに驚いたのは彼女の化粧だった。
 僕が見たことのある夕佳里さんの化粧というのは、瀬戸さんたちのように目元や頬に色をつけるといったことはせずに、肌にファンデーションを塗って軽く整えた程度のものだった。それでも素顔と印象は違っていたが、今の彼女の化粧とはかなり差がある。穂積さんや清水さんが明るいオレンジやピンクなどの明るい色を使っているのに対し、夕佳里さんはブラウン系で全体的に落ち着いた色使いだった。それがやや童顔な顔立ちを大人びた雰囲気に見せ、どこか影のある彼女にミステリアスな華やかさを与えていた。
 服装は清水さん達とお揃いのブラウス(彼女はカーキ色だった)に薄手の茶色のジャケットを合わせ、生成りのスカートを履いていた。僕の認識としては、彼女が大学にスカートを履いて来るのはかなり珍しいことだった。
「……」
 夕佳里さんは僕に気づかずそのまま通り過ぎ、彼女の姿は校舎に隠れてしまった。
「女の子って、ほんと化粧で変わるよなぁ……」
 高崎は感心したようにつぶやいた。
 僕の方は驚きの方が勝って、感心どころではなかった。
 穂積さんといい夕佳里さんといい、何か心境の変化でもあったのだろうか。まぁ夕佳里さんが予想外の行動をとるのは不思議でもない気がするけど……。
 あ。
「そういや、高崎……」
「へ?」
「お前って、一回生の時、あの子……宮下さんのこと、知ってた?」
「え……」
 高崎は、明らかに動揺した素振りを見せた。 
「いや、俺直接知りあいだったわけじゃないし」
 微妙な言いまわしだ。
「知り合いじゃなくても、存在は知ってた?」
「まぁ、それなりに」
「例えば?」
「え、え、お前と同じくゲーム好きってことぐらいやな」
 ……。
僕がじーっと高崎を見ていると、彼はさらにうろたえた。
「な、なんやねん。なんでそんなつっこむん」
「いや、お前のうろたえ方が不審だから」
「お前が変につっこむからやろ。なんやねん、まさかお前あの子が……」
 高崎は言いかけて、はっとしたような表情を見せた。
「え、まさか? 佳月、まさかまさか」
 ここで肯定した方がいいのかどうしたものか。……やめとこ。
「いや」
 僕の返事に、高崎は大げさにふーっと息をついた。
「あー、びっくりした。ていうか驚き損やったな」
「俺があの子を好きだって言ったら、そんなに驚くことか」
「いやいや、佳月って最近そういうのに全然興味なさそうやったからさ」
 ……お前俺のどこを見てそんなことを。
「ていうか、佳月ってあんま、俺にそういうことって相談してくれへんよな。高山と付き合いだした件やってさぁ……」
「またその話か。はいはい、俺が悪かったって」
 高崎は僕と愛子が付き合い出したという話を、半月後ぐらいに遊び仲間だった三田さんから聞いた。あんまり身近な友達に速攻で教えると舞い上がってるみたいで恥ずかしかっただけなんだが……高崎は自分が一番に教えてもらえなかったという理由で、しばらく……いや今でも根に持っていて、時々その件を持ち出してくる。
「実は言わへんだけで、なんか抱えてるとか、ない?」
「ないよ」
 僕が答えると、高崎は妙に真面目な顔つきになった。
「そういや俺、思うんやけど……友達に言ってすっきりする悩みって、まだ楽な方なんかな。本当に深刻な悩みって、誰かに言われへん気もする。誰にも言いたくない、友達だから言いたくない悩みって、あると思うんやけど……どうかな」
 高崎がそういうことを言い出したのは、少し意外だった。
 高校時代の彼は、悩みがあるならなんでも相談しろ、と頼もしい事を言っていたものだが。もしかすると、高崎自身が人には言えない悩みを抱えているとか?
「……どうして急にそんなことを」
「いや、俺さ、悩みって友達に言ったらたとえ解決しなくても、少し楽になるもんだって思ってたわけや。でもお前も徳田も、どっちかっていうと何も言わんけどさ、悩みないってわけちゃうやろ? 誰かにも言いたくない、そういう悩みを持ってるのかなと」
「自分で解決できる大したことのない悩みだから、口にしないだけとか」
「いや、だからさ、お前とか徳田って、大したことのない悩みは悩んでしまう前にうまいこと片付けてるから誰かに相談する必要がなくて、悩んでしまうようなことは、誰にも言いたくない秘密にしておきたい類の悩みだから何も言わないんかな……とか、思ったりしたわけ」
「別にそんな悩みはないよ。なんだよ、お前」
「だって、お前俺に何も相談せんし」
 少し拗ねたような口調で言うと、高崎はそっぽを向いた。
 ……。
 僕は高崎の背中をばんばんと叩いた。
「おっ前、可愛いとこあるよな」
「あっ……あほ、何言って……ったく、言わせんなや、こんなこと」
 少し乱暴な口調になるのは、照れ隠しの為だとわかる。
 高崎って、いいヤツだ。
 そう思いながら、僕はそんな高崎に応えて真面目に言った。
「でも、本当に深刻な何かがあっても……お前には言いたくないかな」
「なんで」
 高崎は少し不満そうな表情を見せた。
「お前は自分のことで悩むことがたくさんあるだろうから、俺の悩み分追加したくないし、自分でなんとかするよ。なんとかできると思うし。たぶん、徳田もそう考えると思う」
 高崎は僕の言葉に「そうかなぁ」とつぶやいていた。
 僕の返事は、婉曲的に高崎の「友達には言いたくない悩みというものが存在する」という言葉を認めていることになるのかもしれない。
 
 高崎と別れた後ふらりと一人立ち寄った本屋で、立ち読みをしている夕佳里さんを見つけた。
「おはよう」
 声をかけると、夕佳里さんは少し驚いたように顔をあげ、そして僕の顔を見て微かな笑みを浮かべた。
「おはよう」
「今日、学校帰りに何か用事?」
 僕がそう聞くと、彼女は本を棚に戻しながら「どうして?」と返してきた。ちらりと見えたその表紙は江戸川乱歩だった。
「質問に質問で応えるな! 疑問形には疑問形で答えろと学校では教えられているのか!? 」
 ……と、ジョジョの奇妙な冒険第4部に登場する吉良吉彰のセリフを口にしても、彼女にわかるだろうか。わかってもウケないかもしれない。こんなネタで喜ぶのはきっと紫ぐらいだ。
「いや、珍しく化粧してるから」
 僕の方へ向き直った夕佳里さんは(それがどうしたの?)と言うような表情を見せた。
「何かおかしい? 似合わない?」
 質問に答えたくないのだろうか。あくまで疑問形で返してくる。
「何もおかしくはないし、似合ってないとも思わない。ただ俺は、君が急に髪型を変えて化粧もしていることに何かあるのかと思って聞いただけ」
 一気に畳み掛けるように言うと、夕佳里さんは僕の口調がおかしかったのか、口元に微かな笑みを浮かべた。その笑みはどこか澁谷先生に似ていたが、含まれるものがまったく異なっているようにも見えた。
「遅れ馳せながらの大学デビューでもしようかと思って」
 彼女の口調は平淡で、本気で言っているとはとても思えなかった。しかし一応理由らしきものを答えてはくれたので、それ以上追求するのは避けた。
 本屋の中で立ち話をするのもなんなので、彼女を促して店の外へ出た。
「実家……いつから帰るんだった?」
 僕がそう聞くと、夕佳里さんは頬にまつわる髪を払いながら「予定では、再来週」と答えた。
「その前に、一回ゲーセンで対戦、行かない?」
「うーん、用意があるから」
 忙しい、という言葉を彼女は曖昧な笑みに含ませた。
「そんな用意に時間がかかる?」
「一言も口をきかずにイラクサの上着を100枚編み上げるよりはましだけど」
 君は『白鳥の王子』のお姫様かい。
……ツッコミを入れるのはやめておいた。今回はこれ以上は誘わないほうが良さそうだ。
 そう判断して、僕はそれ以上言葉を重ねるのは止めて、夕佳里さんの顔をじっと見た。
 化粧をした彼女を、近くてじっくり見るのはこれが初めてかな。ゼミコンの時は向かいの席とはいえ多少離れていたし、あまり意識して見てなかったら覚えていない。
 彼女にウェーブへアがこんなに似合うと思わなかった。やや眼にかぶるぐらい長かった前髪も揃えている(可愛いと言ったらたぶん嫌な顔されるだろうから言わないが)。和歌に詠まれる『ぬばたまの黒髪』という響きが好きで、どちらかと言うと黒髪の方がタイプなのだけど、茶髪もこれぐらいだったら悪くない……って、これは僕の個人的意見に過ぎないんだが。
 元から長い睫にマスカラをつけているから、瞳に影が差して憂いを帯びているように見える。時折眼を伏せるその表情はどこか艶かしい。
外見的な印象が違うとはいえ、感情の読み取りにくい曖昧な笑みはいつもの夕佳里さんのものだ。その口紅を塗った唇で、色艶めいた言葉でも僕に言ってくれたら嬉しいんだが……そんなことを考えてしまう。
 その時、まるで僕の下心を見透かしたかのように、夕佳里さんは僅かに表情を強張らせた。彼女は鞄を胸の前で抱きしめるように抱えると「それじゃあ、またね」と言って足早に立ち去ってしまった。
「え」
 僕は半ば呆然としてその後姿を見送った。
「……」
 しばらく京都に戻る前の最後かもしれない逢瀬がこれって……ちょっと寂しいんだが。
「佳月」
 突然声をかけられ、僕は内心の動揺を隠しながら振りかえった。立っていたのは、トランペットのケースと鞄を担いだ徳田だった。
「どうしたんだ、こんなとこに突っ立って。待ち合わせか」
「え、いや……」
 徳田は夕佳里さんの姿を見ていなかったらしい。僕が1人で本屋の前に立っていたものと勘違いしている。
「もう掲示板の確認はしたか?」
「あぁ、一通りは」
「佳月は木原先生の授業の確認はしてないよな……」
 えーと……。
「木原先生のとこは何も連絡はなかったと思ったが」
「そうか、俺も朝見たんだが、その時は何もなかったんだ。先週休講になるようなことを言っていたんだが、結局どうなったのかわからんな。休講ならサークルへ行こうかと思っていたんだが」
 彼はつかの間考え込むように黙っていたが、
「まぁいい。とりあえず教室に行くことにしよう」
 そうつぶやいて、肩にかけていた鞄をかけなおした。
「そうだ、佳月。今度の水曜日よかったら晩飯一緒に食わないか。その日は用事で梅田に出るんだ。用事は6時過ぎには終わるんだが」
 今度の水曜、水曜……。
「あー、せっかくだけど、俺だめだ」
「バイトか? 忙しいことだな」
「まぁ当たらずとも遠からずてとこだな」
 ……バイトの全体ミーティングだ。


「……店全体でサジェスト率が低下しています。これは先月から新人さんが増えてまだレジに慣れていないためにサジェストをする余裕がないのが理由かと思われますが、最初こそ急がず慌てず、基本を抑えたオペレーションを意識してください」
 月に一度の地下街休業日。一応全員出席が基本だが、都合が悪いのかさぼりなのか、バイト約30名のうち半分ぐらいしか来ていない。僕も以前はかなりさぼっていたが、一応サブマネなので出席できるときは出席している。
 店長は先月の売り上げなどについて一通り口にした後、ごほんと咳払いをした。
「それから、別件の報告なのですが……」
 その言葉に「店長異動か?」「辞任か?」とざわめく中で、店長は思わせぶりなにやにや笑いを浮かべていたが、咳払いをするとおもむろに口を開いた。
「先週の土曜日、長女が誕生しました」
「えーっ」
「おめでとうございます」
「よかったですねー」
 拍手と祝いの言葉で店内は一気に騒がしくなった。
「名前はなんていうんですか?」
「愛華……愛に華やぐって字で愛華です」
 店長は満面の笑みで答えた。目じりが下がっている。かなりの親ばかになること間違いなしだな。
 娘さん、店長に似ずに奥さんに似ていればいいんだけど。奥さんは以前店に来たことがあるので知っているが、なかなかの美人だった。
「これはやっぱ、何かお祝いしておきますか?」
 佐藤がそうつぶやいた。
「そうだな、おめでたいことだし」
「プレゼントとか渡しますか?」
 僕、相本さん、佐藤、鈴木さん、中岡さんの数人で密談する。周りは盛り上がっていて騒がしいので、それほどこそこそしなくても見咎められそうにない。
「あ、でも何をあげればいいんだろ。えーと」
「ほら、赤ちゃん本舗とか行ったら、目星つかへんかな。これからいろいろと必要なものってあるやろうし」
 鈴木さんがそう提案した。
「どこにあったっけ……本町かどっかで見た気がするけど」
「僕はそんなとこ行くの嫌だなぁ」
 中岡さんの言葉に、鈴木さんは素っ気無く答える。
「1人で行くのがいやなら、誰か女の子についてきてもらったらいいじゃないですか」
「えー、でも、『こんなの見てたら、私も赤ちゃん欲しくなっちゃう』とか言われたら困るしねぇ。僕まだ学生だしさぁ……」
 中岡さんのセリフは全員に無視された。
「迷うようなら、食事に招待するとかは?」
「奥さんも誘うん? しばらくは赤ちゃんにかかりきりちゃうかなぁ」
「それもそうか」
「じゃ、やっぱりプレゼント?」
「よし。それ、私がなんか探しておくわ」
 鈴木さんが言った。
「高校の友達で、もう結婚して子どもがいる子がおんねん。だからその子に聞いてみる」
 そうしてプレゼントに関しては鈴木さんにお願いすることになった。
「予算決まったら教えてよ。僕皆からカンパ募るからさ」
 中岡さんが一応サブマネらしくまとめてくれた。
「そういうわけで、俺はもう家に帰るから、今日は解散」
 先週末父親となった店長の一言でミーティングはお開きとなり、全員でテーブルと椅子を並べなおし、店を出た。地下街全体の休業日なので、シャッターが下りている店先を通り過ぎる人もまばらだった。
「佳月君、久しぶりに飲みに行かない?」
 中岡さんがぽんぽんと僕の肩を叩いてきた。
「僕今日はお金持ってないんで遠慮しておきます」
 ……というか、車代貯金しないとならないしな。
「嫌だなぁ、それぐらい僕が貸してあげるよ。これからサブマネでばりばり働いたらすぐ返済できるって」
「いや、今日はやめておきます」
「お兄さん、お茶して帰りません?」
 相本さんが言った。学校帰りの彼女の格好は制服だ。学校指定の鞄はないので、手に持っているのはリュックだった。
「いいよ、お茶しよっか」
 相本さんの背中を押して歩き出そうとした僕のリュックを、中岡さんが掴んだ。
「佳月くーん、君は僕より亜希子ちゃんを選ぶわけ」
「当たり前じゃないですか。僕は中岡さんより相本さんを選びます」
「きゃー、中岡さんに勝っちゃったー。恋の勝者ですー」
 ……妙な盛り上りだ。
 相本さんと近くのビルにあるドトールに入った。佐藤と鈴木さんも誘ったが、彼らは2人だけの方がいいらしく断られてしまった。
「たまには私が奢ります。奢らせてください」
「いや、いいよ。いいって。俺が出すよ」
 レジでしばらくやりあっていたが、ドトールでコーヒーぐらいなら奢ってもらっても気兼ねしなくてすむので好意を受けいれた。また今度バイトに入っているときお昼でもご馳走してあげればいいし。
「お兄さん、英語の高見先生って覚えてます? 高見先生がですねぇ」
 紫と相本さんが通う高校は僕の母校でもあるので、相本さんがする高校の話は大体わかる。僕と紫は4歳違うので中学も高校も同じだが一緒に通ったことはない。通学する時期が重なってなくて良かったと思う。紫が芸大に進学したいと言い出したらどうしようかと思っていたが、幸い紫は心理学を専攻したいとO…大学を第一志望校にあげていた。
「相本さんて、大学進学するんだよね。どこだっけ?」
「え、えーと……まだ絞りきれてないんです」
 紫と一緒ではないということは、紫から以前聞いたことがある。2人は専攻したいものが異なっているらしい。
「あのですねぇ、お兄さん。今度……ちょっと相談に乗って欲しいことがあるんです」
「え? 今度って……今日じゃなくて?」
「今はまだ……整理がついてないから、まだダメなんです」
 相本さんは胸に両手をあてて目を伏せた。いかにも悩める乙女、という感じの仕草だった。
「紫は、相本さんが俺に相談したいと思っていることについて、知ってる?」
「少しだけは……でも、詳しくは話してないんです。私が今日言ったこと、紫には内緒にしておいてください」
 相本さんはいつも僕のことをお兄さんと呼ぶが、単に僕が「紫の兄」だから呼び方が「お兄さん」なのであって、相本さんにとって僕は本当に兄みたいな存在というわけではないと思っていた。だから改まって「相談がある」と言われても、一体どういう内容なのか全然見当がつかない。
 ……バイトの話かな。相本さんもそろそろ辞め時だし。
「じゃ、次の機会に聞くよ」
「お願いします」
 相本さんの神妙な表情に、ふと高崎の言葉を思い出した。
「友達だからこそ言えない悩みってあるよな」
 もしかして相本さんの悩みは、友達である紫に言えないようなものなのかもしれない。果たしてそれを聞くのが僕でいいのか……いや、相本さんが僕を選んだのだから、僕が気に病むことはないのかもしれないが。悩みを相談する側もされる側も胸中は複雑なものだと思う……って、相談される前から悩んでも仕方ない。相本さんの気持ちに整理がつくまで待つことにしよう。


 ……まだ、夕佳里さんは実家に戻ってないよな。今日同じ授業を履修していたはずなんだが、来るだろうか。
 相変わらず大学に来ると無意識に彼女の姿を探してしまう。今までは長い黒髪の女の子を探していたが、これからは茶色のウェーブヘアになるわけだ。
 しかしあの化粧とスカート姿は彼女の一時の気まぐれで、次に会ったら黒髪で素顔の夕佳里さんに出会うような気が……って、そんなことはないか。ないよな。でもいつも素顔でどちらかというと目立たないような格好をしていた彼女が、華やかな化粧をして洒落た格好をするのは、どうもイメージが違うんだよな。まさかとは思うけど、彼女に興味を持つ男が出てこないとも限らないし(それが気になる)。
 もちろん彼女が綺麗に装うのはいいと思うし、外見どうこうで気持ちは変わらないんだが……。
 ぼんやりしながら歩いていたら、清水さんと瀬戸さんに出会った。
 この前カラオケに誘われたのを断ってから、清水さんと特に会話を交わしていなかったので少し気になっていた。かと言って自分からどこかへ誘うことはせず、そのまま曖昧にしてしまっていた。僕には「またね」が十八番の夕佳里さんを責めることはできない。僕も同じことをしている。
「おはよう〜。今日は風があって涼しいね」
 清水さんの方はいつもの通学スタイルだったが、瀬戸さんの方はショルダーバックを肩から提げ、さらに結構な大きさのボックス型の鞄を手にしていた。テレビで見たことがある。メイクさんが使うメイクボックスだ。
「それ、中身はメイク道具? 結構重そうだね」
そう言うと、瀬戸さんは快活な笑みを見せた。
「これね、そうそう、メイク用小道具と化粧品が入ってんの。私これからバイト」
「バイト? その化粧道具を持っていくのは大変だね」
「あ、ちゃうねん。映像学科の知り合いがビデオ撮影するのに、役者さんのメイクすんの。メイク担当のバイト」
 あぁ、そういうことか。
 立ち止まった足元に瀬戸さんは鞄を置き、両手を上に伸ばして背伸びをした。
「今度美也子の従姉の結婚式でも、メイク担当するんよ、私」
 瀬戸さんは清水さんと「ねーっ」と顔を見合わせた。
「え、結婚式のメイクさん? 式場にプロのメイクさんがいるんじゃない?」
「私の従姉はね、手作りウェディングってことで、レストラン貸し切りにして人前式するん。司会者も友達に頼んだりとかするんやって」
「そう、それで私がメイクで、私の友達の美容師さんがヘアメイク担当する予定」
「そうなんだ、そりゃすごい」
「挙式や披露宴には出席したことはあるけど、裏方は初めてやからいい経験やわ。すっごい楽しみ。花嫁の笑顔をサポートするメイクアーチスト……なんて甘美な響き♡ 今からめっちゃ気合入るわ〜」
 瀬戸さんは拳をぐっと握り締めてそう言った。
「あ、そうそう、私まだ佳月君に化粧すんの諦めてないから、その気になったらいつでも言って」
 ……。
「じゃーあね〜」
 瀬戸さんはミュールをカタカタ言わせながら映像学科の教室の方へ向かっていった。
 彼女はいつ見てもパワフルさに溢れた人だなぁ……。
「清水さんも、忙しくなりそうだね」
 僕がそう言うと、清水さんは笑みを浮かべて頷いた。
「私もだけど、おばさん……従姉のお母さんもいろいろ手伝いで大変なん。一生に一度だけだから、自分達だけの結婚式がしたいって主張するんやもん、皆で巻き込まれて大変なんやから」
 そう口では文句を言っているものの、清水さんの口調は好意的だった。
「清水さんは、どういう手伝いを?」
「私は前日の会場の装飾の手伝いがメインかな。あとペーパーアイテムの手配とか、いろいろ」
「どこのレストランでする予定?」
「うん、実は、カイトでするん」
 へぇ、澁谷先生のお友達のお店か。
僕は先生のお友達という女性を思い出した。……そういやあの人と会ったのは、夕佳里さんに告白した日だったな。
「あそこのお店ってまだレストランウェディングしたことないらしいんやけど、料理は美味しいし店もわりと広いし、天王寺だから場所としては悪くないし……最初話聞くだけ聞いてみようと思ってたら、お店の人も親切に相談のってくれてすんなり決まっちゃった」
「そうだね、あの店は悪くないね」
「そうそう、あの店の店長夫婦って、澁谷先生の知り合いやん? なんか、澁谷先生まで手が空いてたら手伝うとか言ってくれてさ、あり難いけどめっちゃ気がひける……本気かなァ」
 先生が何を手伝うって? 前日の準備とか、当日の料理を運ぶ作業とか? 先生のウェイトレス姿……見たいような見たくないような。いや……なんか怖いな。
「式は、いつ?」
「12月」
 ……って、あと3ヶ月もないじゃないか。
「まぁ、いろいろ都合があって、今年のうちに結婚式済ませようってことになってん……っと」
 不意に、清水さんが手をぱんと叩いた。
「そうだ。私、佳月君にお願いがあるん」
「え?」
「あのさ、従姉が洋楽オンチで、旦那さんになる人も全然やねん。佳月君洋楽詳しいやん? なんかオススメの曲、教えてよ。結婚式に合いそうな曲」
 うーん……。
「ウェディング向きのオムニバスアルバムとかあるから、それを参考にしてみたら?」
「うん、そういうのあるのは知ってるんだけど……選択肢は多いほうがいいかと思うし、佳月君の知ってる曲、いろいろ教えてくれたら嬉しい。今日これから、TUTAYAとかタワーレコード行って、一緒に見てくれへんかなぁ……お願い!」 
「……」
 僕の知識程度で役に立てるのかなぁ……まぁおそらく清水さんよりは洋楽に詳しいのは確実だろうけど。
 結婚式っていろいろ準備があるだろうし、清水さんも本当に大変だろう。頼ってくれているのだから、今日ぐらいは付き合ってもいいか。
 僕と清水さんは天王寺のタワーレコードに向かった。
 えーと、結婚式に合うような曲ねぇ……。
 とはいえ、僕はまだ結婚式にも披露宴にも出席したことがない。従兄姉ですでに既婚者はいるのだが、招待されたのは両親だけで子どもは留守番だった。そのため、一連の儀式も漠然としかわからない。
 どういうシーンで曲使うんだろう……そもそも人前式って、どんなもんなんだ? 
しかしよく考えれば、僕がどのシーンにどの曲を使うか選曲するわけじゃない。結婚式に似合いそうな曲を教えたらいいわけだから、別にそんな悩む必要はないな。要はラブソングならいいわけだ。
 バラード系かな……どちらかというと、女性ボーカルの方がいいかな。……とすると、ここはベタなところでマライア・キャリーとかセリーヌ・ディオンとか? そっちはあまり詳しくはないんだがウェディング向けのオムニバスCDには入っているので、僕があえてあげる必要はなかった。
「従姉さんて、ディズニーは好き?」
「従姉の美紀さんは、ディズニーはまぁまぁ好きかなぁ。ミッキーマウスとか?」
「ごめん、言葉が足りなかった。ディズニー映画は好きかな」
「あぁ、『美女と野獣』とかやね。わりと好きな方かなぁ」
「ベタな線でいけば、その『美女と野獣』とか『アラジン』の歌かな」
「別にベタじゃなくてもいいよ。佳月君がいいと思う曲で」
 ……と言われても、MR.BIGの『To Be With You』とか AEROSMITHの『Angel』とかはイマイチだろうな。シカゴなら『素直になれなくて』が有名だが、そこをあえて『You're The Inspiration』にする。フィル・コリンズもいいんだが、何かラブソングってあったっけ……『Everyday』好きなんだけど、確か失恋の歌だったしな。
 もし……俺だったら。
 めちゃくちゃハードロックで統一してしまうってのもいいなぁ。
 レッチリとか、ボブ・ディランとか、ディープパープルとか……すごいノリノリのロックで最初から最後までハイテンションで進行させてみるとか……感動もへったくれもないな。うちの母親と紫は洋楽ロック好きだけど、結婚相手の大反対が予想される。いや、相手は今のところいないけど。
 手帳にこれと思われる曲名・歌手名をメモしていく。アルバム名もわかっている方がいいんだろうけどそこまでメモしていくのは正直しんどいので、アルバム名の頭の単語だけ書き添えておいた。
 これらの曲が入っているアーチストのアルバムを借りていくのは大変だが、ほぼヒット曲と言われるものをピックアップしたので、70年代、80年代のヒット集を借りたら入ってるだろう。
 十分だと思える数を書き出したところで、清水さんの姿を探した。
 えーと……。
 店内を見回すと、棚2つ向こうに清水さんがいるのが見えた。
「?」
彼女に話しかけている男の姿も見える。知り合いと出会ったのだろうか。2人はしばらく何か話していたが、そのうち男の方が笑いながら立ち去っていった。
「知り合いがいた?」
 清水さんに近づいて声をかけると、
「あ、えーと」
 清水さんはうろたえたように視線をさ迷わせた。
「う、ううん、さっきのは……」
「もしかして、ナンパされた、とか?」 
 清水さんはため息をついた。
「お店の中で声かけられるなんて、初めてやわ」
「清水さんて、難波とか歩いてたら声かけられることが多そうだね」
 そう言うと、彼女は(彼女には珍しく)表情を暗いものにして小さな声で「ナンパは、もうウンザリ」と口にした。
 僕がどう言葉をかけようか考えている間に、彼女はまた笑顔に戻り「何か、いい曲あった?」と明るい声で言った。
「そうだね、だいたい候補は絞込みできたかな」
「あ、こんなに書いてくれたん? すごーい」
 僕と清水さんはビルの地下飲食街の喫茶店に入った。
4人掛けテーブルを占領し、ルーズリーフを出して手帳に書いた曲名等を書き写す。
 清水さんはある曲名を指で示した。
「あ、この曲って、CMに使われてたことない? なんか題名に覚えがあるんやけど」
「そうそう」
「ね、これって、どんな曲?」
「これは……」
 僕がサビを口ずさむと、清水さんは何度も頷いた。
「あぁ、知ってる知ってる」
 ルーズリーフの曲名を辿る指の爪には、鮮やかなピンクパールのマニキュアが塗られていた。そして銀色の小さな花
(これはスパンコールか?)が上手に貼り付けてあった。
「いつも、爪きれいにしてるね」
 清水さんは両手の指を、爪が見える方に揃えて僕に示した。
「これ? 昨日塗ったばかりだからきれいやけど、たまに剥げてることもあるよ。ははっ」
「ネイルアートって、すごい時間がかかりそうだね」
「自分でするのは結構時間かかるけど、友達同士でお互いのネイル塗ったりすると、楽。珠ちゃんもやってくれるけど、他にも上手な友達いるから」
「でも何か作業するとき、爪が気にならない? 料理できないとか」
「ネイルアートしてる子は、家事をしなさそうってこと? そんなことないって」
 清水さんは「やだぁ」と右手で僕を叩くような仕草を見せた。
「確かに洗い物とか料理するときは気にするけど、私全然してへんってことないよ。私、結構料理上手いんやから」
 口調からすると、かなりの自信があるらしい。
「何が得意?」
「そうやね、餃子かな。皮に具をつめて閉じる手つきはもう王将のテクを凌駕してる……って言ったら言いすぎやけど」
 餃子……なんか意外なところに来たな。煮物とかそういう料理を想像していた。
「餃子って言ってもさ、普通の餃子だけじゃなくて、中身をちょっと変えるとまた楽しいんよ。豚肉じゃなくて鶏肉とかいろいろ。焼いてしまえばどれがどれだか食べなきゃわからんでしょ。それが面白いの」
「なるほど」
「友達呼んで食事するとき、一緒にやると楽しいし、よく作るん。たくさん作って冷凍しておくこともできるやん? たぶん近所のスーパーの餃子の皮購入者のリピーターナンバーワンやわ、私」
 カールした髪をくるくると指に巻きつけるようにいじりながら、清水さんは笑顔を見せた。
「料理が得意なら、一人暮らしも楽だね」
「あ、そうそう。もう住むとこも決めたし、来月引越しすんの」
「どこらへん?」
 清水さんが答えた住所は……。
「え、澁谷先生の家に近いんじゃないかな」
「佳月君、先生の家知ってるん?」
 ぎく。
 まさか先生の家に行った事があるなんて言えない。
「いや、話の流れで聞いたことがあって……確かそっちの方面だったと思う」
「そうなんだ。へぇ」
 清水さんはさほど気にしたふうもなく「一緒のアパートってことはないやろうけどね」と笑った。
 時計を見ると、7時前だった。どこでそんなに時間を使ったのか覚えがない。
「そろそろ出ようか」
 声をかけると、清水さんは「そうやね」とルーズリーフを鞄にしまった。
 地下から駅へ向かうのかと思っていたが、先を歩いていた清水さんは先に地上へ出る道を選んだ。地上ではやや生暖かい風が吹いていた。もしかしたら、明日は雨になるかもしれない。
 雑貨売りの女の子の傍らを通り、チラシ配りの男性の手を避けて、駅へ続く歩道橋に上がる。
 歩道橋の中ほどで、前を歩いていた清水さんが突然足を止め、歩道橋の手すりに寄りかかった。
「疲れた?」
 声をかけると、彼女は少し驚いたような顔をして「ううん」と返事をした。
「あのさ、私……佳月君のこと、好き、なんだ」
 それはあまりに唐突な告白だったので、僕は思わず「え」と声をあげてしまった。
 僕の表情を見て、彼女はちょっと笑い、
「……気付いてなかったん?」 
 そう言って照れを隠すように視線を外した。
 僕が驚いたのは、彼女の告白自体じゃない。
 どういうわけか、僕の中では、告白ってものは夜にするものだという思いこみがあった。
 愛子に告白された時は、放課後梅田で遊んだ帰りだったので8時過ぎ。僕が夕佳里さんに告白したのも夜。なんかそういう秘めた思いを打ち明けるのには、やはり暗くなってから……つまり夜が相応しいんじゃないかと、そんなふうに思っていた。
 だから清水さんと遊びに行くというのも、明るいうちにさよならするのだったら、そんな事態にはならないだろうという楽観的憶測のもとに安請け合いしたのだった。 
 だからこんな時間に、彼女がそんなことを言い出すなんて晴天の霹靂。おまけに場所は人通りの絶えない駅前の歩道橋の上。僕自身考えたこともないシチュエーションだった。
 清水さんは僕に視線を戻し、頬を少し赤らめて口を開いた。
「佳月君て、今彼女いないんやんね……私と、付き合ってほしい」
 夕佳里さんに告白した日、あの夜の駅から公園までの記憶の道を辿る。夕佳里さんの月に照らされた横顔を思い出す。頬を伝った彼女の涙も……。
 審判の時を迎えたような緊張感と、受け入れられなかった孤独感。
今の清水さんは、あの時の僕と同じ気持ちを抱いているのだろうか。これから、抱くのだろうか。
「……好きな人が、いる」
 清水さんは落胆も驚きもみせなかった。その真っ直ぐな視線に、少しひるんでしまう。
「差し支えなかったらさ、相手がどんな人か教えて?」
 どんな子……どんな子って、どういう特徴をあげればいいんだ。僕の好きな相手が夕佳里さんだということを、清水さんに知られない方がいいよな。
 ……ゲームの好きな女の子。
 いや、清水さんは僕と夕佳里さんがゲーム友達だと知っているだろうからこれはまずいかな。
 ……髪の長い女の子。
 いや、髪が長いから好きってわけじゃないし、それに夕佳里さんは髪を切ってたな。あれはロングというよりセミロングで当てはまらないのでは……。
 ……いっそ適当に答えるか? 例えば相本さんと仮定して、バイト先の年下の女の子とか。
 いや、清水さんは夕佳里さんと付き合いがある。まさか夕佳里さんは自分が僕に告白されたとは清水さんに言いはしないだろうが、清水さんが「佳月君はバイト先の子が好きらしいの」なんて夕佳里さんに相談でもしたら、夕佳里さんは僕のことをどう思うだろうか。適当なことが言えない。
 僕が長いこと黙っていたので、清水さんが怪訝そうな表情で言った。
「……好きな人いるって、実は嘘? 私を振る口実なん?」
「いや、そういうわけじゃない」
 とは言えど、好きな子について言えないって、そりゃ怪しいよな。俺だって夕佳里さんが好きな相手がいると言いながら相手がどんな男か言えなかったら、その存在を疑うだろうし。
「趣味が近くて……話があう人」
 非常に曖昧な返事になってしまった。幸い清水さんはそれ以上相手の特徴について追求してこようとはしなかった。
「そのうち、告白しようとかって……思ってるん?」 
「……」
 もうすでに告白して振られたなんて、とても言えない。
 なんか、俺、話せば話すほど追い詰められていく気がする。どう回避したらいいんだ。

 A+B同時押し。

 違うっ!! それはKOFの緊急回避だ!!(かなり動揺してるな)
 ……なんて答えたものだろう。夕佳里さんと清水さんが友達でさえなかったら、適当に答えるんだが。
「それで、もし告白したら、OKもらえそうな、感じ?」
 僕の焦りを余所に、清水さんは質問を重ねた。
 歩道橋の上に立ち止まっている僕たちの横を、何人もの人が通り過ぎていく。誰も今、僕と清水さんが告白シーンの真っ只中だなんて知りはしないだろう。もしかしたら僕も今までにどこかで、誰かのそういう場の脇を通り過ぎたことがあるのかもしれない……。
 清水さんは黙っている僕の様子から察したらしい。答えを待たずに口を開いた。
「あのさ、私、明日から恋人気取りしたくて告白してるわけちゃうん。一緒にどこかへ遊びに行ったりとか……そういう感じで、今までと同じ付き合い方でいいの。でも、いつまでも女友達のうちの1人って存在でいたくなかったから。私のこと、恋愛の対象として、見て欲しいん」
 もたれていた手すりから体を起こし、清水さんは僕の正面に立った。
「今佳月君に好きな人がいても……佳月君とその子が、今すぐどうなる、ってまだわからないんでしょ? 好きな人がいるから断るっていうのは、私自身を見て断ってるわけじゃないやん? 私のこと恋愛対象として見て、私のことをもっと知って欲しいん。それから、返事ちょうだい。急がないから」
 ……。
…………。
 …………………………。
「わかってくれる?」
 清水さんは思いつめたような眼で、じっと僕を見つめた。

 
「そら、お前さんが悪いわ」
 牧さんはフォークで僕を指した。行儀の悪い……。
「相手の女の子って、お前さんの甘いところを理解してんじゃないの? こういう言い方したら断れないだろうって読んでるんだよ。で、お前さんは見事にひっかかったと、そんなところ」
「……」
「付き合う気がないなら、なぜ断らないんだよ」
「……」
「恋愛対象としては見られないって、そう返事したらよかったんじゃないの?」
「でも……恋愛対象として考えてから返事くれって……」
「あのなぁ、同じ事100人に言われたら、お前100人と付き合うわけ?」
「いや、いくらなんでもそんなことしませんよ。清水さんは夕佳里さんと仲がいいから……それでちょっと、うまく断れなくって」
「じゃあさ、仮に夕佳里ちゃんの友達が3人ぐらい同じこと言ったらどうするよ。3人と公平にお付き合いするのか? できるのか?」
「……」
 答えにつまった僕を見て、牧さんはため息をついた。
「やれやれ、お前さんの甘さはそのうち命取りになるだろうよ」
「…………」
 何も言えず、僕は黙ってケーキを食べていた。
 こんな会話をしながら紅茶専門店でケーキセットを食べているのは、牧さんがケーキを食べたいと言ったからだ。あー、なんで男2人でこんな店にっ!! ……と牧さんにあたっても仕方ないのはわかっている。しかし家でお昼食べてきた後なんだが……。
「ま、長い人生1度ぐらい三角関係、やってみたら」
 牧さんはフォークを置き、コーヒーカップに口をつけた。
「え」
 僕と夕佳里さんと清水さん……。
「あ、ほんとだ。三角関係ですね」
「あ、じゃないよ。あ、じゃ」
好きになった人が実は人妻で思わぬ不倫の道に入ってしまうとか、性別を超えた愛に目覚めてしまうとか、今まで読んだ小説の中で知ったもの、創作の中で考えたもの、単純なもの複雑なものと恋愛にはいろんなケースがある。
でも僕は、なぜか自分はいわゆる「普通」(どんなのが「普通」なのかと聞かれれば返答に困るのだが)の恋愛しか経験しないように思っていた。誰かを好きになって、付き合って、何度か別れと出会いを経て、そのうち結婚してもいいと思える人と出会って、結婚するのかなー……とか、漠然とその程度のことしか考えてなかったから、三角関係なんて予想もしてなかった。
今更だけど、人生って……予測不可能だ。
「で、清水さんて、どんな女の子なわけ」
 牧さんがそう言ったので、僕はケーキを切っていた手を止めた。
「どんなって……可愛くてわりとお洒落で、料理が上手で、性格も明るくて、男にもてるし女の子に受けもいいみたいですけど」
「歌手とか芸能人で例えると、誰に似てる?」
「……」
 芸能人……あんまりわからないんだが。
 僕が悩んでいると、牧さんは苦笑いを浮かべた。
「あー、わかったわかった。譲歩しよう。ゲームとかマンガのキャラでもいい。マイだかユリだっけ? あんな感じか?」
 ゲーマーだと思って……。
「でもまぁ、可愛いくて性格もいい子なんだろ。いいじゃないか、そんな子に好かれてさ。お前さんもやるね」
「……そんなこと言われても」
「それだけ揃っている子も滅多にいないと思うけどな。あとゲーマーだったら乗りかえられたのにな」
「……そういうものじゃないでしょう」
 牧さんは皮肉げな笑みを見せた。
「わかってるよ、今のは冗談」
……牧さんが言いたいのは「そういうものじゃないなら、はっきり断っとけ」ということなんだろうな。
「でもまったく望みがないのにいつまでも追いかけていたら夕佳里ちゃんも困るだろうし、ちょっと他の子と遊んで、自分の気持ちを見つめなおしてみるのもいいんじゃないか?」
 夕佳里さんが困る……か。 
 もしかしたらあの時、僕が待つって言ったこと、夕佳里さんは迷惑に思っているだろうか。彼女が誰かと付き合ってもいいと思った時、その対象として僕を一番に意識してもらえたら嬉しいと思ったから、待つなんて軽く言ってしまったけれど。
 夕佳里さんは僕のあの言葉を、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
「ま、お前さんがその子を振るのは、難しいだろうな」
「……はい?」
「なんでか、教えて欲しいか?」
「はい」
「今お前さんに聞いたところによると、その子はすごいいい子なんだろ。男なら彼女にしたくなるようなタイプでさ。お前さんから見て、欠点を見出すことができないような子なわけだ。あえて言うなら、恋愛感情を持てないだけで」
 牧さんの指摘は間違ってはいないので、僕は頷いた。
「で、お前さんはその子を嫌いになれない。嫌いになれない女の子に対して、お前さんは相手を傷つける言葉を口にできるか?」
 ……。
「否、だろ。お前さんて、そういうヤツだもんなぁ。お前さんは『いい人』から抜け出せないタチだから、わざと冷たいこと言って突き放すこともできないだろ。冗談でも無理だろ、『君みたいな女の子は好みじゃない』とか言うの」
 ……。
「おいおい、ちっとは自分で考えてくれよ。お前さん、一生誰かが傍であーだこーだアドバイスしてくれると思っちゃいないだろ。高校生ならアドバイスしてやったけど、もう二十歳すぎた男なんだからさ。自分で考えて、自分で動けよ。
玉砕したら、暖かく慰めてやるから」
 玉砕……したくないんだけど。
「まぁ生きるか死ぬか、食うか食われるかの深刻な状態になりそうな時は早めに連絡してくれよ。あ、そうだ、またお前さんとこの大学に遊びに行くつもりなんだが」
「……何しに来るんですか」
 思わずうろんげな声を出してしまった。
「え、授業でも覗こうかと思って。別に大丈夫だろ? 部外者が授業聞いててもさ」
「授業にもよりますよ。あまり人数少ないと、部外者が混じっているってすぐばれますから」
「そうか。じゃあ人数多いとこに混じったら大丈夫ってことか。お勧めの授業があれば教えてくれ」
「わかりました。また連絡します」
「そうそう、夕佳里ちゃんともぜひ会いたいね。この前会った時は全然話してなかったしな」
 ……あんた、この前はあやしい話しかしてなかったじゃないか。おまけに僕は、夕佳里さんにポルノ好きと勘違いされているかもしれないってのに。
 牧さんが鞄から財布を出したので、僕も慌てて財布を出した。
「あぁ、いいよ。出しておくよ」
「いや、お茶代ぐらい出させてください。前も出してもらっているし」
「いいっていいって。俺に気を使わないで他にまわしとけ」
 ……押し切られた。
「牧さんはこれから帰って仕事ですか」
「一応今から帰宅で仕事だが、夜は人と会う約束があるんだ」
「仕事で、ですか?」
「んー、遊びだな。知り合いの知り合いに、某会社役員がいるんだ。この前1度会ったんだが、そいつがいい男でさ。ゆっくり飲んでいろいろ話しようと思って誘ったら、嬉しいことに向こうも乗り気でさ。今日は盛り上りそうな予感がするなぁ……」
「お酒はほどほどにしておいた方がいいですよ」
「つぶれるほどは飲まんよ。もっとも、俺がつぶれるって言ったら結構な量飲む必要があるけどな」
 牧さんは自信たっぷりにそう言って笑った。
「で、お前さんはこれから?」
「僕はこれから大学です」
「そりゃご苦労様だな。何かあったら、また連絡くれよ」
 僕と牧さんは大阪駅前で別れた。 
 JR環状線を半周し、さらに電車に乗って大学へ。この季節に午後から大学行くのって結構だるいな……一番暑い時間だし。
 授業まではかなり時間があったので、僕は澁谷先生の研究室にゼミの資料もらいに行くことにした。先生、研究室にいるといいんだが。
 さっそく研究室へ向かい、ドアをノックした。
「はい」
 返事が聞こえたが、澁谷先生かどうかはよくわからなかった。とりあえず、入ってみるしかない。
「失礼します」
 ドアを開けると、幸い澁谷先生は在室だった。
「いらっしゃい」
 先生は机で何か作業をしていたが、僕が中に入ると手を止めて微笑かけてきた。同室の先生は不在のようで、澁谷先生はまた音楽を聴いてようだ。今日は片山氏のピアノではなく、エンヤだった。満腹でこれ聞くと、なんか眠たくなってくるな……。
「資料いただきに来たんですが」
「はい、どうぞ」
 先生は机の上に積んであった資料を1部僕にくれた。今日の先生はオフホワイトのオーバーブラウスにエンジ色のスカートという上品な服装だった。肩にかかる髪のウェーブの感じは、夕佳里さんとよく似ている。もしかしたら夕佳里さんは、先生の髪型を真似たのかもしれない。
「よかったら紅茶飲んでいく?」
 紙コップを手に、先生は言った。
「先生が入れてくれるなら、出がらしでも大歓迎です」
 喉が渇いていたこともあり、僕は喜んでその申し出を受け入れた。
「佳月君は面白いことを言うのね」
 先生は机の上に置いてあった缶を開け、茶葉をティーボールに入れた。コップは紙でも、やや大きめの陶器製で洒落た柄が入ったものだった。机の傍らにあった電気ポットでお湯を注ぎ、ご丁寧に逆さまにした紙コップを上からかぶせてフタをし蒸らしている。そこまでこだわるとは、先生恐るべし。
 僕は近くにあったパイプ椅子を勝手に拝借し、座らせてもらった。しばらく待っていると、先生は僕の前に紙コップを差し出した。
「はい、砂糖もミルクも無しで。ハーブティだから」
 僕は紙コップを口元に近づけた。微かにハーブの香りがする。
 口に含むと、柔らかい香りが広がった。久々に飲んだせいか、先生のこだわりが活きているのか、ハーブティも結構いけるもんだと感じた。
「お味はどうかしら?」
「五臓六腑に染み渡りますね」
「……佳月君て、ほんとに面白いことを言う人ね。時々呆れるけど」
 さすが薔薇の君だ。さくっと棘が刺さった。
 ここで「先生の魅力が僕をおかしくしてるんです」とか言ったら、毒付きの棘でさされそうだ。でも実際、僕がこんなふうにふざけたことを言うのは、澁谷先生にだけのような気がするけど。
「もちろん、まともなことも言えますよ」
 先生はどこか思わせぶりな微笑を浮かべて僕を見つめた。
「女の子を口説く時までそんなふうにふざけてないでしょうね」
「口説くときは真剣です」
 真面目に答えると、先生はさらに笑みを深くしてこう言った。
「私、佳月君の好きな人が誰なのか、わかったわよ」
「え?」 
「こないだ、本屋の前で話していた人ね」
 本屋の前……って、え? 夕佳里さんのことか。うわ、いきなりビンゴだよ。すぐ認めるのもシャクだからごまかしておこう。
「徳田のことですか。……ばれてしまったら仕方ないですね」
 先生は僅かに眼を細めた。
「冗談なのか本気で言ってるのか、どちらかしら?」
 こわっ。あまりふざけていると眼から冷凍ビーム出されそうだ(ポケモンで言えば先生の属性は、氷・エスパー系かと思われる)。
「……先生のお察しのとおりです」
「やっぱり?」
 先生は的を射たり、と得意げな顔を見せた。先生にしては珍しい子供っぽい表情で、そこに冷やかしの色はまったくなかった。
「きれいになったわね、彼女。佳月君のためかしら?」
僕に気を使ってくれているのか、先生は夕佳里さんの名前を口にはしなかった。
「それだと嬉しいんですけどね」
「あら、違うの?」
「残念ながら」
 本音を口にすると、先生はどこか優しい眼で僕を見た。
「佳月君は、彼女の作品を読んだことがある?」
「いえ、まだ一度もないです」
 僕がそう答えると、
「そう。なら、機会があれば読んでみたらいいと思うわ」
 ……?
 僕は紙コップの紅茶を飲みきってから先生に尋ねた。
「なにか、興味深い作品があるんですか。僕が読むべきと思われるような……?」
「貴方が彼女の作品から何を読み取るのかは、私にはわからないけど……読んでみる価値はあるんじゃないかしら」
 夕佳里さんの作品って、美形が出てくる非現実的な物語じゃなかったっけ。そんなのを書く予定だとか言っていた気がするけど。
その時ドアをノックする音がした。
先生が「どうぞ」と声をかけると「失礼しまーす」とドアが開いた。
 入ってきたのは清水さんだった。 
「あ」
 僕と目が合うと、清水さんは一瞬足を止めた。
「……おはよう」
 あの告白以来会うのは初めてだったので、お互いぎこちない挨拶になってしまった。目ざとい人にこういうとこ見られたくなかったんだが、仕方ない。
「あ、あの、資料いただきにきたんですけど……」
「はい、どうぞ」
 先生は机の上の資料を清水さんに差し出し、華やかな笑みを見せた。
「清水さんも紅茶、飲んでいく?」
気まずい雰囲気を打ち消そうと気を使ってくれているかのようだった。
「あ、いえ、いいです……」
 清水さんは先生の誘いに戸惑いの様子を見せた。紅茶がどうこうと言うよりは、先生とお茶するのにためらいを感じているらしい。
 あまり長居するのもなんなので、僕もそろそろ行こう。
「次の授業出ますので……ご馳走様でした」
 僕はお礼を言って、清水さんと一緒に研究室を後にした。
 無言で廊下を歩き、エレベーターの前に着いてから清水さんはおもむろに口を開いた。
「佳月君の好きな人って……まさか、澁谷先生?」
「え?」
 唐突な質問に、エレベーターの開くボタンを押しそこねて危うく清水さんの鞄を扉にはさむところだった。
「なんか、結構仲よさそうやん」
 あぁ、そういう観点で今の言葉が出てきたのか。もしかして澁谷先生も趣味がゲームという一面を持っているのかと思ってしまった。
「いや……澁谷先生は、違う」
 誤解されても困るので、清水さんの言葉を否定する。
 僕の答えに、清水さんはふっと息をついた。その仕草が「安心した」というニュアンスを含んでいるように感じられた。
「……私、正直澁谷先生ってちょっと苦手。嫌いとかじゃないけど、なんか……ゼミコンの前に打合せでいろいろ喋ってんけど、上品過ぎて近寄り難いっていうか、なんていうか。でも、別に嫌いじゃないんよ、ほんと」
思えばゼミコンの時から澁谷先生が清水さんをからかうような仲で、清水さんは先生を敬遠しているように見えた。
 もしかすると澁谷先生は、苦手意識を持っている清水さんの心を見透かしたうえで、あんな態度をとっていたのかもしれない。
 清水さんと澁谷先生って、確かにタイプ違うな。清水さんは素直で自分の気持ちに正直な人だが、先生は素顔を見せない人だ。そう考えると、先生と夕佳里さんはちょっと似ている気がする。2人ともどこかひねくれ者で、言葉を曖昧にする方だ。夕佳里さんの方はわざと物事をあやふやにさせるように抽象的で、先生の表現は直接的ではないが意味深な含みがあるように思う。
「佳月君から見ても、渋谷先生って美人だと思うよね」
 好みはともかく事実だとは思うので「そうだね」と僕は答えた。
「あんな人だったら、恋愛で苦労したことないやろね」
「さぁ……どうだろう」
 先生の大学時代の話をそれほど詳しく知らないが、先生が少しも悩んだり苦しんだりしなかったとは思えない。先生は棘はあるが痛みを知らない人ではない。
「清水さんがした苦労はしてないかもしれないけど、清水さんがしなかった苦労をしたかもしれないね」
 僕がそう答えると、清水さんは一瞬言葉につまったように目を見張った。
「……そうやね。先生のことよく知らんのに、そんな言い方したら、あかんよね」
 声音に後悔を滲ませて、彼女は続けた。
「ごめん……感じ悪かった?」
「……いや、別に」
「ほんと?」
 清水さんは視線をそらして「なら、いいんだけど」とつぶやいた。
 ……謝られてしまった。責めたつもりはなかったんだが。
 片山氏の一件がなければ、僕が先生について深く知ることはなかったと思う。あの件があったから、僕は先生の過去を知り、先生という人間を少しだけ理解し、興味と親近感を抱いた。だから先生についての清水さんの発言に同調することはなかった。徳田も最初は澁谷先生についてそれほど好意的なことを言っていなかったが、授業や個人面談等を重ねた今では、時々研究室を訪ねる間柄になっている。
 清水さんがさっきみたいなことを口にしたのは先生のことをそれほど知らないだけで、悪意があるわけじゃない。それはわかってる。
 先日清水さんが僕に言った言葉を思い出した。
『私のこと恋愛対象として見て、私のことをもっと知って欲しいん。それから、返事ちょうだい』
 僕は確かに、今清水さんについてほとんど知らない。牧さんが清水さんについて聞いた時僕が答えたのは彼女の外見とか僕が人から聞いたことのある彼女の情報であって、僕が見て感じて知っている清水さんの姿とはまた違う。彼女の考え方とか、感じ方、価値観についてはほとんど何も知らない。
 相手のすべてを知らなくても、好きになることはできる。しかし相手を知らないから、拒むこともある。
僕は好きだと言っている夕佳里さんのことを本当に知っていると、そう言い切ることはできない……。
「今度……どこか行かない?」
 清水さんがそう切り出した。明るい声音には少しばかり無理をした感があった。
「従姉の結婚式でホントに忙しくなる前に、どこか行きたいなぁって。……2人だけで。いい?」
「あ、うん……」
 今の自分の口調が行きたくないのに了承したかのような響きに聞こえて、僕は自己嫌悪に陥った。例え押し切られた形でも清水さんの願いを受け入れたのだから、そんな態度をとるべきじゃない。
 僕はとり繕うように言葉を足した。
「いいよ。行きたいところがあれば、言ってくれたら」
「ほんと?」
 今度は自然な笑顔を見せ、清水さんは「どこがいいかなー」と1人つぶやいていた。
 優しくすることと、期待させないことと、どうバランスをとればいいのか……僕にはまだわからなかった。

「なに、なんかユーウツそうな顔してへん?」
 本屋に行くと言った清水さんと別れた後、教室の前で穂積さんに出会った。出会って第一声がそれだったので、僕はよほど浮かない顔をしていたようだ。
穂積さんに夕佳里さんのことを聞いたが、今日は体調が優れないので休むという電話があったらしい。
「いや、今夜のバイトが気乗りしなくて」
 今日はバイトはないが、適当にごまかした。
「そうなん? でも仕方ないやんね。いつもいつも楽しく働けるわけじゃないし。頑張りね」
 珍しく彼女から励ましの言葉を頂いた気がする。
「今日も練習?」
「うん、まぁ。でも、学祭終わったら一息つけるし、もう少しやわ」
 そう言って笑みを見せたが穂積さんは、心なしか顔色が冴えなかった。
「穂積さん……なんか、調子悪い?」
「いや、なんもないよ」
 穂積さんはそう答えたが、顔色はともかく以前より痩せたようにも見える。
 僕がじっと見ていると、穂積さんは少し不機嫌そうな表情を見せた。
「そんな人を病人扱いせんとってよ。なんもないって言ってるのに」
 そうムキになるあたりが、不調を隠そうとしているかのようで不自然だった。
 前もあんまり食べられないとかなんとか言ってなかったか? もしかして食生活が不規則になって、体調崩しかけているとかじゃないだろうか。
 なんとなく気になったので、授業中にこっそり徳田に聞いてみた。 
「穂積さん、なんか調子悪そうじゃないか?」
「そうだな。俺もそう思っていたんだが……」
 徳田は僕の意見を認めた。
「昨日まゆちゃんが聞いてみたが、大したことはないと言っていたらしい」
「大したことないって……」
「本人に大丈夫だと主張されたら、周りはどうしようもない」
 そう答えてから、徳田は眼鏡を外してハンカチでレンズを拭きながら続けた。
「もちろん、そのまま黙って放っておくわけじゃないから」
「そうだな」
 穂積さんがサークルに行くなら、常に誰かが一緒にいるだろう。授業の間は夕佳里さん達がいるし、僕も意識しておけば大丈夫かと思われる。
 そうだ、穂積さんなら夕佳里さんが書いた作品を持っているかもしれない。今度読ませてもらえないか聞いてみようかな。もしかしたら、僕が知らない夕佳里さんの何かを、彼女の作品の中から読みとることができるのかもしれない。先生はそれを言いたかったのだろうか。美形がたくさん出てくる作品……彼女の理想の男性像がわかるとか?(先生はそんな理由で作品を読めと勧めないと思うが)
 そういえば……夕佳里さんの変化を、穂積さんはどのように考えているのだろう。きっと彼女は無関係ではない気がする。作品を借りるついでに、さりげなく聞いてみよう。さりげなく……できるのか謎だけど。

離れずに暖めて
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