Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  26
「『彼はスケッチブックを』……で始めてみる、と」
 カタカタカタ。自分で言うのもなんだけど、タイピングは結構速い方だと思う。しかしキーボードを打つのが速いからと言って、創作の進行も早いわけじゃない。たまに、デリートキー連打。よく考えれば、範囲指定して一気に削除した方が早いような……まぁいいや。来年あたり、デリートキーだけ文字が擦れて見えなくなっているかもしれない。
「……やばいな」
 僕は椅子の背にもたれた。しばらく創作していなかったせいか、言葉が出てこないのだ。うまい言い回しとか、比喩とか……。
 おまけに。
 物語を考える時は、どうしたって自分の過去の体験を思い返したりするじゃないか。この時期に恋愛物を書こうという僕も悪いんだが……精神的自滅の道だな。
振られたことに対するショック。その後時間が経つにつれ、こうした方がよかった、とかこういう言い方をすればよかった、とかいろいろと思い返して悔やみだしたりして……いつだって誰でも、その場で最善の行動がとれるわけじゃない。それはわかってる。だから、ある意味仕方ないとは言える。
 いろいろ考えながら、僕は自分の狡さを感じていた。
起こってしまったことは変えようがない。が、自分の考え方でそれをいいようにも悪いようにも変えてしまえる。僕はそうやって逃げようとしている。あの時こうしておけばよかった……でも、そうしかできなかった。自分の中で言い訳を繰り返し、自分の行為を正当化する。 
 ……って、そういう思考に陥りたくないから、創作に逃げるんだよな。
 カタカタカタ。
 自分は今、小説の主人公とシンクロ中で、主人公は過去の傷から逃れようと必死なんだ。だから、今の僕の苦しみは、本当は主人公の苦しみであって、僕自身は……って、思ってしまうと、これがほんとの現実逃避だな。
 僕は冷め切ったコーヒーを飲み干した。 
 この精神状態で創作してたら、主人公はどんどん落ち込んでいきそうな気がする。ハッピーエンドの話だってのに。そもそも……僕自身のハッピーエンドは、いつ訪れるんだ。
 あかん、どんどんテンション下がってきた……聴いてる曲が悪いよな。デュランデュランのORDINARY WORLDじゃあな。
 僕はリモコンを取って、曲順を進めた。レニー・クラヴィッツのAre You Gonna Go My Wayのイントロに少し慰めを得た。
 前向きに行こう。悩むのはいいけど、落ち込むのはやめよう。
 そんなふうに、自分に言い聞かせて、僕は再び創作にとりかかった。
 

 ……やっぱり一人称がいいかな。いや、たまには三人称も書いてみたい。その方がいろんな場面展開ができるし……うーん、どうせなら……。
「……佳月君!」
 腕をとられて振りかえると、穂積さんが
「なんか……急いでたん? 声かけても気づかないし、早足やし」
 僕は苦笑した。ずっと空想の世界に浸っていて、現実に僕を呼ぶ声が耳に届かなかったのだ。
「ん、ちょっと、いろいろ空想してたから」
「妄想? 昼間からそれはアブナイわぁ。うわ近寄らんとこ」
「おいおい、勝手に一文字変えないでくれるかな」
一文字違いでえらい違いだよ。
 今日の穂積さんは小さい花を散らした茶色のブラウスにベージュのスカートという格好で、珍しくヒールのある靴をはいていたので視線の高さがいつもと違った。
「今日、ヒール高いね」
 僕がそう言葉をかけると、彼女は僕を見上げ、1度背伸びをしてから体勢を戻し、笑った。
「佳月君との身長差にはそれほど影響ないみたいやね。元から30センチぐらい差がありそうやし」
 女子高生が好んで履いているあの厚底靴をはいたら、僕と穂積さんの身長差はどれぐらい縮まるのかな。
「今日は……」
夕佳里さんは一緒じゃないのか、と聞きかけて、僕ははっとした。
俺、穂積さんに夕佳里さんの話題をふって大丈夫か?
「ん、なに?」
 穂積さんは小首をかしげた。
「いや……今日は、雨は降らなかったよね」
 強引に方向を変えてごまかす。
「今日? 今週は週末まで、雨は降らへんって言ってたで」
 彼女は空を見上げて答えた。日差しにやや目を細める。
『人の口に戸は立てられない』
 これは高校時代に身をもって味わった。
 僕が愛子と付き合い始めたのを、半月も経たないうちにクラスの約半数である女子が全員知っていた。こそこそ隠れて付き合おうとしていたわけではなかったが、どこからどう伝わったのかあまりの噂の早さに驚くやら呆れるやら……僕も高崎をはじめ仲の良かった2、3人には教えたけど……。
 誰が誰を好きで誰と誰が付き合っているなんていうのは、あの時期は一種の娯楽だった。もちろん、僕も友達とそんな話で盛り上がったことはある。それまで誰かの噂をすることはあっても、される方になったのはそれが初めてだった。
しかも噂というのは、事実プラスアルファがつくもので……なんかすごいデマも流されて、かなりウンザリした。
 夕佳里さんの交友範囲がどれぐらいのものかは僕は知らないのだが、『夕佳里さん→穂積さん→徳田』ぐらいは覚悟していた。しかし『夕佳里さん→穂積さん』も伝わっていないのは意外だった。
それとも穂積さんは知っていて、顔に出さないだけだろうか。いや、以前からの穂積さんの態度を見ていると、彼女は夕佳里さんがらみになると何かと突っかかってくるところがあるから、僕が夕佳里さんに告白したなんて聞いたら、なにか一言言わずにはいないだろう。
 そう考えると、穂積さんは何も知らないのは確実と思われる。まあそれは、夕佳里さんが僕のことを穂積さんに伝える必要がないと思ったからだろうけど……。
「? どうかしたん」
「いや、今日はサークル?」
「うん、授業も1つあるけどね。それ終わったらサークル」
「今日はおやつはないの?」
 僕が穂積さんをからかうと、彼女は真顔で首を振った。
「今の時期は……ちょっと食べられへんから」
「え?」
「え、あ、食べてる時間ないねん。練習忙しいから」
 彼女は慌てたように言った。
 時間がなくて食べられない。これは穂積さんには辛いことかもしれないな。普段の食欲を見ているとそう思うが、練習に没頭していたら食欲なんて忘れてしまうかな。
「穂積さんてよく食べるのに、太らない体質みたいだね」
 僕の言葉に、彼女は首を振った。
「そんなことないわ。私小学校の頃はめっちゃ太ってたし……ブタ、ブタって苛められるぐらい。中学校の頃にはまだマシになったけど」
「え、そうなんだ……」
 過去はともかく、今の穂積さんを見ても太っているなんて全然思わない。自分が女としての凹凸に乏しいと母親にこぼす紫だったら、穂積さんの体型を見れば羨ましがるだろう。
「佳月君は、昔太ってたとかなさそうやね」
「俺は……昔背が低かったからチビとか言われたことあるけど」
「え、そうなん? 今こんな背高いのに!」
 穂積さんが心底驚いた、という顔を見せたのがおかしかった。
「中学校で伸びたけど、小学校卒業した頃はクラスで真中ぐらいだった」
「あー、確かに男子って、中学校で伸びる人多かったわ」
「新しい服買ってもすぐ着られなくなるから、母親に文句言われたっけ」
「そうやんなぁ。買ってもすぐ着られへんくなるなんて勿体無いわぁ。で、その服は誰かにあげたん?」
「今妹が着てる」
 そっか、だから紫は女らしくない格好になるんだな。
 僕が1人納得していると、突然穂積さんが「あぁ」と声をあげて僕の死角にいる誰かに向かって笑いかけながら手を振った。
 出た!(と身構える必要は別にないんだが)
 まぁどっちにしても大学にきたらそのうちに絶対会うんだから、穂積さんと一緒のときでよかったと思うべきか。平然と構えていればいいよな。
 そう考えながら僕は穂積さんと同じ方へ向き……あれ。
「早かったやん。天王寺寄るんじゃなかった?」
「あ、うん、なんか電車の乗り継ぎ良くて、学校着くの早くなってん。用事はもう済ませたよ」
 清水さんは穂積さんに答えてから、くるりと僕の方を向いて「おはよ」と言った。長いブルーのスカートの裾がふわりと揺れた。
「あぁ、うん……」
 僕はつまりながらも返事を返した。
 穂積さんが声をかけたから夕佳里さんだと思ったのに……清水さん? 
 僕の戸惑いをよそに、清水さんは笑顔で続けた。
「あ、そーだそだ。私も珍しく洋楽のCD、借りてみてん。どっかで聴いたことあるような曲とか、結構あった、えーと、歌の名前忘れたけど」
「誰のCD?」
 穂積さんが聞いた。
「誰のってわけじゃないん。オムニバスでいろんな歌手の歌が入ってんの。MDに入れたからさ、今度圭ちゃんに貸そっか? 歌詞わからんけど、いい曲なん」
「そやね」
 2人は僕の前で実に親しげな会話を交わしていた。
 以前の険悪な雰囲気は微塵もなく、いかにも仲の良い友達という感じだった。
「あ、そうそうそう。佳月君を呼びとめた理由を忘れるとこやったわ」
 穂積さんが僕に向き直って言った。
「今日徳田君、昼過ぎから大学来るって言ってたんやけど、会ったらさ、楽譜のコピーは持ってきたって言っておいてくれる?」
「え、あ、うん。わかった」
「じゃ、また」
「じゃね〜」
 2人は喋りつつじゃれあうような仕草を見せながら行ってしまった。
 その後姿を、僕は半ば呆然と見送った。
あれだけ仲が悪そうだった2人が、急に一緒に行動するようになったなんて……。
 どういうことだ? 仲直りしたってことなんだろうけど、穂積さんの様子じゃ、修復は難しそうな気がしていたが。
 穂積さんの中で、何か変化があったのだろうか。清水さんと仲直りしてもいいと思う何かが。彼女は他人に何か言われても、自分が納得しないと実行しないタイプだと思われるが……まぁなんにしても、穂積さんと清水さんが仲直りしたのなら、それはいいことだ。夕佳里さんも、おそらく瀬戸さんにも嬉しいことだろう。
 ……疑問が多々残るけど、喜んでいいことなんだろうな。 

 本屋に寄ってから食堂へ行くと、高崎と一緒に徳田がいた。待ち合わせたわけでもなくこうして会えるのは運がよかった。2人は窓際のテーブルに座って、徳田は分厚い本とノート、高崎はバイクの雑誌を広げていた。
「よう」
 声をかけると、2人は顔をあげて応えた。
「さっき穂積さんに会ったんだが」
 僕は椅子に座りながら徳田に声をかけた。
「楽譜のコピーは持ってきたと言ってたけど」
「そうか、それを聞いてよかったよ。楽譜をコピーすべきか迷っていたんだ」
 徳田は本を閉じた。ドイツ語の辞書だった。
「佳月も見るか?」
 高崎はバイクの雑誌を僕の方へ差し出した。
「いや、俺はバイクはいい。車だったら見るけど」
 高崎が徳田に雑誌を差し出すと、意外にも徳田は受けとりページをめくりだした。
「あれ、徳田ってバイクに興味あったのか」
「まぁ、興味はある。後輩のバイクの後ろに乗ったこともあるし」
「あぁ、そういや徳田のとこのサークルに入ってるって一回生がうちにおったな」
 徳田と高崎が一緒に雑誌を覗きこんでいたので、僕も横から覗いた。バイクはかっこいいが、今の原付でも十分やってける。大型バイクを買うなら、僕としては車の方がいい。
「年内に頑張って車でも買おうかな」
 僕がそう言うと、間髪入れず徳田がぼそっと言った。
「その前に、車庫入れの練習しておいた方がいいんじゃないか」
 う……っ。
 以前徳田の家に車で行った時、車庫入れに失敗して、お祖母さんが手入れしている寄せ植のプランターに当ててヒビ入れた前科が……あの時実は近くの居酒屋に行った帰りで酒気帯び運転だったからその場で僕が謝ることができず、徳田が「僕が自転車であてました」と身代わりになってくれたので、彼にその話を持ち出されると何も言えない。そもそも駐車スペースを狭くするほどプランターを並べているお祖母さんにも非があるのではないかなんて、とてもじゃないが言えない。
「いや、ほんとに車買おうかな、俺。真剣」
 僕の言葉に、高崎が身を乗り出した。
「うわ、ほんとかいな。そんな金あんのか?」
「中古ぐらいなら買えるさ。なにがいいかな」
「じゃ、BMW行こうぜ」
「ベンツはどうだ」
 こいつら……いくら中古って言ったってケタ違うだろ。
「ま、ま、冗談はさておき、資金いくらぐらいあんの」
 高崎に言われて、僕は自分の預金の額を計算してみた。
「そうだな……」
「佳月、結構貯めてんちゃうん。お前一回生のときはかなりバイトしてたよな」
「そういや、週5日はバイトしてたな」 
 確かに、あの頃は我ながらよく頑張ったと思う。……美緒さんに会いたいという下心も多少あった気がするけど。
「まぁ稼げるうちに稼いでおこうかと思ったからな。就職活動とか始めたら、バイトの時間なんてないだろ。まぁ俺は時間に融通のきくファーストフードだからまだ楽だけど」
「俺も来年は深夜メインでバイトかな。深夜は眠いけどちょっと時給高いしな」
「ずっと大阪にいるつもりか?」
「うーん、どうなるかわからん」
 高崎は渋い表情をして早口で答えた。彼自身どうしたいかというよりも、どうなるかわからない部分が多いのだろう。彼の両親はきっと高崎本人のしたいようにさせてくれるとは思うが。
「俺も、いつまで関西にいるかわからないな」
 不意に、徳田がそんなことを言った。
「東京に行く、とか?」
 高崎の質問に、徳田は目を細めて答えた。
「いや……正確に言えば、日本にいつまでいるかわからない。もしかしたら……ドイツに居住するかもしれないし」
「じゃ数年後には、マレーネ・ディートリッヒばりの女性と恋に落ちてるかもしれないってことか」
 僕が徳田をからかうと、徳田は無言でちょっとだけ笑った。
「誰、それ」
 高崎が徳田をつつく。
「ドイツ人の女優。昔出演してた映画を見たことがあったけど……なんだったかな」 
 徳田が答えを求めるように視線をこちらへ向けたので、僕は首を振って応えた。
「俺は名前しか知らない」
 本名がマリア・マグダレーナで、聖書に登場するマグダラのマリアから名づけられたという程度の知識しか持ってない。
「お、そろそろ昼飯食おうか」
 高崎が腕時計を見ながら言った。僕も時間を確認した。11時50分。そろそろ食堂が込み始める時間だ。
「さーて、何食おうかな」
 財布を手に食券の販売機へ向かう高崎の後ろで、僕はこそっと徳田に声をかけた。
「なぁ、徳田」
「なんだ」
「今日って……夕佳里さん見た?」
「見ていない」
 彼は首を振り、それからふと何か思い出したかのような表情で「今……9月か」とつぶやいた。
「? どうかしたか」
「いや、去年の10月頃だったかな。彼女は実家に帰るって言って、しばらく大学に来なかったが」
「実家に?」
「今年も帰るのかな……」
 徳田のつぶやきは独り言のようだったので、僕は声をかけずに黙っていた。 
 
 結局、今日は夕佳里さんに会えなかった。
 彼女が大学に来なかった原因に、僕がかかわっているのではないか……なんていうのは、考えすぎだろうか。
今日2度目に会った穂積さんに聞くところによると、昨日は大学に来ていたということだから、気にすることはないのかもしれない。
 ……でも気にしてしまうんだよな。
 僕は電話の子機を持って自分の部屋に入り、夕佳里さんの電話番号を押した。
 コール2回で電話を切り、もう1度かけなおす。
 ……出るかな。
 時計を見ると10時前だった。少し早いが、もう寝ているという可能性もある。
 そう思ったとき、呼び出し音が途切れた。
「もしもし?」
 誰かに電話するとき、こんな緊張したの初めてじゃなかろうか。
『……はい』
 重たい声が返ってきた。
「あの、佳月だけど」
『……うん』
「寝てた?」
『いや、起きてたけど……何か用……あるからかけてきたんだよね。どうかした?』
 そう言われて、僕は彼女に電話をかけるもっともらしい理由の1つも考えていなかったことに気付いた。穂積さんや徳田に関しても、僕から夕佳里さんに報告すべき事項は特にない。穂積さんと清水さんの件は、今彼女に言うようなことでもないだろう。
 冗談めかして君の声が聞きたかった、と口にしたところで、喜んでもらえるとは思えない。
 …………。
「この前、ごめん」
 思い切って、そう口にした。
『なんで謝るの?』
 電話の向こうで、彼女が小さく笑いをもらしたような気配がした。
『何について、謝ってるの?』
「いや……君を困らせたと思ったから」
 しばらく、何も返事がなかった。電話だと彼女の表情が伺えないので彼女が今何を思っているのかわからない。いや、実際彼女を目の前にしても、彼女の心情を感じ取ることはできないかもしれない。
『そうだね……困らなかったといえば嘘になるけど、改めて謝ってもらうほどじゃないよ』 
 彼女らしい言い回しだった。特に気にしていない、と解釈していいんだろう。
 しばらくの沈黙の後、気をつかってくれたのか、夕佳里さんの方から話題を変えてくれた。
『もうすぐ学祭だね。圭ちゃんもそうだけど、徳田君も忙しそうじゃない?』
「うん、徳田も授業が終ったらすぐサークルに行ってる。君は、学祭行く? SWEの演奏聴きに」
『そうだね……圭ちゃんが演奏するし、行こうかと思ってる』
 そう言った夕佳里さんの声の合間に、何か妙な音が聞こえた。何かかみ合っているものを動かすような、カチカチという音……一定の間隔ではなく、早くなったり遅くなったり、途切れたりもする。時計の秒針……じゃないな。こんな固い音じゃないし。
「今、なんかしてるところだった?」
『え? ……ううん、別に』
 カチカチという音が止まった。続いて、離れた場所で何かがぶつかるような音が聞こえた。
 ……一体夕佳里さんは部屋で何してるんだ。
「どうかした?」
『え? ちょっと机の上のものが落ちてきて』
 彼女がごく自然にそう答えたので、僕はそれ以上追求しなかった。
 適当に振ったゲームの話題に夕佳里さんがのってきてくれたので、会話は明るい方向へ進み、後味の悪さを感じることなく電話を切ることができた。
 そういや、言ってたよな……夕佳里さん。これからもゲーム友達として付き合えたら、って。とりあえず、ゲームの話題でいったらいいわけか。よし、またゲーセン誘ってみよう。
 僕は子機を戻す為に部屋を出た。リビングには紫がいて、チョコフレークの袋を手にしていた。今からお菓子を食べようとしているらしい。
「お前なぁ……こんな時間にお菓子なんか食って」
「いいじゃない、別腹、別腹」
 そういう問題か? 
「あ、お兄ちゃん、はさみ取って」
 筆立てをのぞいたが、はさみはなかった。誰かが使った後戻さなかったらしい。
「はさみ……はないな。カッターでもいいか?」
「いいよ、あ、ありがと」
 僕が部屋に戻ろうとした時、その音は聞こえた。
 カチカチカチ……。
 振り返ると、紫がカッターの刃を繰り出して、袋の端を切ったところだった。ふと顔をあげた紫は僕の視線に気付き、皿に中身をざらざらと入れながら「お兄ちゃんも食べる?」と言った。
「いや……いい」 
 僕は部屋に戻り、机の上のペン立てからカッターを取った。そしてカッターの刃をくりだしその音を聞きながら、ゆっくり記憶を辿った。
 カチカチ……。
 この音だ。間違いない。
夕佳里さんとの電話中、受話器の向こうから聞こえていたあの音。あれはカッターの刃を出し入れする音だ。まぁそれは、電話の前に彼女がカッターで何かしら切っていただけのことだろうけど。
 まさか……まさか、夕佳里さん。
 紫みたいにこんな時間からお菓子を食べようとしていたんじゃ……。
 って、そんなことないか。

 
「次週は諸事情により休講となります。掲示板でもお知らせすると思いますが、よろしくお願いします」
 授業が終わって先生が出て行った。
 来週休講か。でもこの授業の前に中国語があるから休めないな。
 参考書とノートを鞄にしまっていると「おい佳月、佳月」と声をかけられた。声の方へ振りかえると、端の席に座っていた学生が手を振っていた。
「マージャンやらん、マージャン」 
一回生の時に同じ授業を履修していた北見という学生なのだが、彼と親しくなったのは誘われて一緒にマージャンをしたからだ。お金は賭けないというので参加したのだが、平和とタンヤオとが大好きでなぜだか最初に一九字牌をきりたがる面子ばっかりで、一緒にやっててイマイチ乗り切れない……。
 その面子というのが僕がひそかに方角トリオと呼んでいる3人で、北見、西川、南出というメンバーなのだが、残念ながら東がつく1名を欠いている。本人達ももう1人の仲間を求めて先輩後輩問わず探しているらしいが、まだ知り合えないようだ。
「いや、今日はやめとく」
 僕はリュックを肩にかけながら答えた。
「そっかー、じゃあまたよろしく」
「じゃあなー」
 西川と南出が愛想よく手を振ってきたので、僕も手を振り返した。今度機会があれば、2翻以上の役教えてやろ。
 僕は教室を出た。
 高崎はバイト、徳田は午後からずっとサークルだって言ってたな。そういや今日も夕佳里さんには会えずじまいか。同じ授業はなくても、月曜日以外は大抵会えたんだけど。
 このまま家に帰るのもなんだし、天王寺でゲーセンに寄るかな。
 掲示板で休講や課題をチェックし、僕はバス停の方へと歩き出した。今からだとバスは10分後か。ゆっくり行っても余裕で間に合うだろう。
 のんびり歩いていると、リュックの中で携帯電話が鳴りだした。
やばっ。授業中マナーモードにしてなかった。よかったよ授業中に電話ならなくて。
携帯電話を取り出して見ると、ディスプレイには見覚えのない携帯電話の番号が表示されていた。誰だろう。
 立ち止まり、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、佳月君?』
 少しばかり遠慮がちな、穏やかな男性の声。この声は……。
「あれ、瀬川さん?」
 意外な人物からの電話に少々驚いた。
 なんだろう、瀬川さんが電話してくるって……牧さんに何かあったのかな。
『佳月君さ、今日ちょっと空いてるかな?』
「これからですか? いや、空いてますけど……」
『お茶に誘いたいんだけど、どうかな。話があるんだ』
 なんだ、何の話だ。わざわざ会って話そうなんて……。
「はい、じゃあ梅田で……わかりました。それじゃ」
 瀬川さんとお茶。まぁ、彼とゆっくり話すのも悪くないな。どんな話なんだろう。
 僕は瀬川さんの携帯番号をアドレス帳に登録しておいた。この前名刺もらったのに、登録してなかったな。
「佳月君、佳月君」 
 呼ばれて振りかえると、右手を軽く上げた清水さんが2メートルほど離れたところで微笑んでいた。
清水さんの服はこの前穂積さんが着ていたのと同じ柄のブラウスで、彼女は赤色だった。もしかしたら夕佳里さんや瀬戸さんも、同じブラウスの色違いを持っているかもしれない。清水さんはそのブラウスにスタイルの良さを強調するかのような細身のジーンズを合わせ、二重になった細い革のベルトを巻いていた。左肩から帆布製の鞄を下げている。いかにも学生らしいありふれた組み合わせではあったが、彼女が身につけるとまるで雑誌のモデルのように粋だった。
 前倉が口説きたい気持ちはわかる。何着ても似合うし、可愛い。澁谷先生が薔薇なら、清水さんはネモフィラというところだろうか。
「それ、どこで買ったブラウス?」
「え?」
 彼女は首元を手で押さえながら自分のブラウスを見た。
「あ、これー? この前天王寺でセールやってた時買ってん」
「文芸内での新流行かと思った」
「あぁ、圭ちゃんが着てたから?」
 清水さんは笑った。
「珠ちゃんと夕佳里ちゃんも持ってるん。色違いやねんけど」
 僕の予想どおり、お揃いで買ったらしい。
 女の子同士だから揃いの服を着ていても微笑ましいけど、僕が高崎や徳田と揃いの服にしたらどんな感じだろう。どの服を買うかで好みが分かれそうだから実現されることはまずないと思うが。
「ね、今日これから珠ちゃんと一緒にカラオケ行くんだけど、佳月君も行かへん?」
「あ、ごめん。今日は用事があるから」
「あー、そうなんや。ざーんねん」
 清水さんは右手で髪をいじった。夏前に短くした彼女の髪も、今は大分伸びて横は耳を隠すほどの長さだった。
「佳月君のアニメソングメドレー、また聞けると思ったのに」
 ……それは忘れてくれ。酔ってたんだ。
「前に高崎君が言ってた、佳月君のとっておきの歌も聞いてみたかったわぁ」
「古い歌だから、あんまり入ってないんだ。マイナーな歌だし」
「うーん、じゃ、また今度」
「あぁ、うん」
 軽く返事を返すと、清水さんは言った。
「絶対ね」
 僕が返事につまっていると、清水さんはにっこりしてもう一度「ね」と繰り返した。
「あ、うん」
 ……。
 こういうとこがダメなんだろうな、俺。

 清水さんと別れ、僕はJRで大阪まで出てから瀬川さんに電話した。彼はJR大阪駅構内の本屋にいたらしく、すぐに合流することができた。
 瀬川さんはブルーのシャツにジーンズというラフな格好で、肩から鞄をさげていた。
「今日はスケッチブックは持ってないんですか」
 尋ねると、彼はちょっと笑った。
「小さいのを持ってるよ。一応、いつも持ち歩いているから」
 とりあえずどこか喫茶店に行こうということになった。
「瀬川さんはどういう店が好きですか」  
「どういう店? どこでもいいよ。僕が行ったことない店だと嬉しいけど」
「怪しい店か、コーヒーの美味しい店か、どっちがいいですか」
「なに、その怪しい店って。気になるね」
 珈琲の辞書かジャマイカに行こうと思ったのだが、珈琲の辞書はいつも混んでいるしジャマイカはマスターに話を聞かれてしまう可能性があったので、無難にビルの地下にあるドトールにした。
 僕と瀬川さんはアイスコーヒーを注文し、隅の禁煙側のテーブルに座った。
「で、話ってなんでしょう」
 気楽に切り出した僕の前で、瀬川さんはテーブルの上で組み合わせた手をじっと見つめていた。
「あの……瀬川さん?」
「え、あぁ……そうだね」
 なんだなんだ、その間は。そんなに言いにくいことか? あんまり深刻な問題だったら、僕に相談しなくても牧さんに……って、牧さんと何かあったとかか? 
 グラスにミルクを入れストローでかき混ぜながら、僕はこっそり瀬川さんの表情をうかがった。
「僕さ……実は、その、佳月君に言っておかないといけないことがあるんだ」
「……はい?」
 彼は歯切れの悪い口調で続けた。
「この前……君が僕の家に来た時、牧さんがさ、僕と夕佳里ちゃんの関係について……聞いたときね」
「……はい」
 なんだ、なんか嫌な予感がする。
 僕は瀬川さんの言葉の続きを待った。
「僕……彼女とは何の関係もないって言ったけどさ」
 ごくん、と口の中のコーヒーを飲み込んだ。
 …………なんだ、一体何を言い出す気だ? まさか……。
 僕の表情を見て、瀬川さんは慌てて言い足した。
「いや、違う違う、ごめん、そういう意味じゃないんだ」
「は?」
「えーと、あのさ、僕と彼女は、なんていうか、友達というよりは、兄妹みたいな……と言ったほうがいいのかな。そんな関係だったんだ」
「兄妹……ですか?」
 拍子抜けして、僕は椅子にずるずるともたれかかった。
 あんまり勿体つけた話し方するから、てっきり夕佳里さんと瀬川さんが昔付き合っていたとかそういうことかと思った……。
「こういう言い方をすると佳月君が気を悪くするかもしれないんだけどね。なんていうか、あの頃彼女が頼れる異性って、僕ぐらいのものだったんじゃないかと思うんだ」
 彼の言葉に僕はそれほどショックを受けなかった。彼女が瀬川さんに対して、顔見知り以上の気持ちを抱いているであろうことは感じ取っていた。
「はっきりは聞いていないけど、あの子は随分前に実のお父さんとはもう縁が切れてるようなことを言っていたし、積極的に異性の友達をつくるタイプでもなさそうだし……一番身近な異性と言えば僕しかいなかったんじゃないかと思うんだ」
 瀬川さんは言葉を捜すように視線をさ迷わせた。
「まぁこれだけは言っておくけど、僕は夕佳里ちゃんに対して妹以上の感情はもってなかったし、向こうも同じようなものだったと思う」
 彼がそう言い切ったので、僕は問わずにはいられなかった。
「瀬川さんの気持ちはともかく、夕佳里さんのことをなぜそう言い切れるんですか」
「まぁ、そりゃ、僕もそれなりに恋愛経験があるからなんとなく、としか言えないけど、それじゃ理由にならないかな?」
「いえ……」
 ここで「はい」って答えたら瀬川さんはどう反論してくれるんだろう。
 そう思いながら、僕は彼の言葉を信じた。現在進行形でなけりゃ別にいいや。
「……で、とりあえずこの前適当にごまかして、本当のことを言っていなかったことについて訂正しに来ただけなんだ。あの時牧さんがいたから曖昧になってしまったけど、別に隠すつもりはなかった。やましいことは何もないから」
「あ、はい……」
 わざわざ梅田まで出向いて釈明してくれるとは、瀬川さんも人がいいというかなんというか。
「で、何か、僕に聞きたいことある?」
 瀬川さんの口調がさきほどまでのためらいがちなものではなく、通常の落ち着きと穏やかさを取り戻した。
「え、はい?」
「夕佳里ちゃんのことで、何か聞きたいことはない? 僕が知っていることで教えられることは教えてあげるよ。もっとも、僕が知っているのは2年前の3月から9月ぐらいまでの間の彼女だから、参考になるかはわからないけどね」
「あ、はぁ……」
 突然言われても、すぐ思いつくことって……。
「一回生の……2年前の夕佳里さんて、どんな感じでした?」
 とりあえず、瀬川さんの記憶にある2年前の夕佳里さんについて聞いてみた。
「そうだねぇ、普通の、内気そうな女の子に見えた。けど絵のことを話すと、嬉しそうに話に乗ってきたね。僕が絵を描いてたから、親しくなれたんだと思う」
 確かに、ゲームと絵の話だとすぐのってきてくれるな。
「そういや、どうして付き合いが途絶えたんですか?」
 僕は気になっていた点について問いかけた。
「あぁ、僕が引っ越したからね」
 瀬川さんは答えた。
「奥さん……碧と結婚して一緒に住むことになったから」
 へぇ、瀬川さんは2年前に結婚したのかな。
「別に引っ越すから付き合いは終わり、って思ってたわけじゃない。9月頃に引越しして、月が変わってから何回か彼女に電話した。でもいつかけても、1度も電話には出てくれなかった。そのうち電話番号変わったか引っ越したかで『この番号は現在は使われておりません』ってアナウンスになってしまってからは、まったく電話はしてなかったのだけど……引っ越したのかと思っていたら、住所は以前のままみたいだね。イタズラ電話が多かったから、電話番号を変えたと言っていたけど」
 そう言えば、夕佳里さんは1度電話番号を変えたことがあると言っていた。瀬川さんが電話をしていた10月頃にイタズラ電話が多かったから、瀬川さんの電話もイタズラだと思ってだから1度も出なかった……?
 だから、夕佳里さんと瀬川さんの付き合いは途絶えてしまったのか……。
「最後に会った頃の……9月頃の彼女は、何か言ってました? もしくは態度がおかしいとか、何か変わったことは」
「変わったことねぇ」
「その……大学でなにか、とか」
「えーとねぇ……僕は人の顔を覚えるのは得意だけど、2年前になにを話したかまでは、細かく覚えてないなぁ」
 そうだよなぁ。
 僕が半ば諦めてアイスコーヒーを飲んでいる間に、瀬川さんはうつむいてこめかみに指をあて、一生懸命思い出そうとしてくれた。
「夏ぐらいかな、最近は友達といろんなところに行くことが多いとか……そういう話をしていたと思う。そうそう、白浜に行くって言っていたかな。それは8月の後半ぐらいだったはず。水着を買いに行くって言っていた」
 瀬川さんは顔を上げて僕を見た。
「佳月君が求めているのは、そういう情報じゃないんだよね。もっとこう……夕佳里ちゃんの心情についてわかりそうな情報なんだよね」
「えぇ、まぁ……」
彼女がどんな水着を買ったか知ってたら教えてほしいとも思うけど。
 ……とは言っても、夕佳里さんの胸のうちについてとか、そういう情報を瀬川さんから聞くことに少々もどかしさを覚えた。瀬川さんの記憶の中に、2年前の夕佳里さんがいる。僕が知らなかった、僕が人から聞くしか知りえない2年前の彼女。彼が一生懸命協力してくれているのはわかっている。でも僕はその情報を得るために、彼が思い出すのをじっと座って待つしかないのだ。僕に出来るのは、ただ待つことだった。
 どうして僕は、一回生の頃彼女と知り合うことができなかったんだろう。4月じゃなくていい。夏休みあけでもよかった。同じ学科で、徳田という接点があったのに、すれ違い続けてすでに2年が経ってしまった。
 取り戻すことのできないその2年という時間の流れを、僕は後悔することにならなければいいのだが……。
「……あぁ、そうだ」
 瀬川さんは顔を上げた。
「友達が『あの人はいい人だよ』って言うのを、信用すべきかどうか、とか」
「え?」
「自分はあんまりよく知らない人なんだけど、友達はいい人だって言うから、信用してもいいのかな……というような話だったかな」
「それって……誰のこととか、わかりませんよね。名前、とか」
 身を乗り出して聞いてみたが、彼は申し訳なさそうに首を振った。
「彼女の口から固有名刺を聞いたことはあまりないね。僕が覚えているのは、ケイちゃんていう夕佳里ちゃんの小学校からの友達の名前ぐらいかな」
 穂積さんか。
「その友達って言うのは、ケイちゃんて人……ですか?」
「う―――ん」
 瀬川さんは再び頭に手をあててうつむいた。いい人だ。真剣に思い出そうとしてくれてる。
「いや、それは違うような気がする。ケイちゃんて子は逆に『信用しないほうがいい』とか言っていたとか、そんなんだったかな……それで、信用していいのかしないほうがいいのかという話だったと思う。僕は実際相手のことを知らないから、差し障りのない程度のアドバイスしかできなかったけど」
「そのいい人かどうかって対象は、何者だったんですか?」
「えーとね……同じ大学の男子学生だったはず」
「…………」
 友達はいい人だと言った。穂積さんは信用するな、と言った(らしい)。『いい人らしい』人物は、同じ大学の……男?
 誰のことだろう。一回生の時彼女と付き合いのあった異性……夕佳里さんは自分から異性に声をかけるタイプじゃないと思うが、異性の友達が徳田以外にいたなんて……。
 ……って、一回生の時夕佳里さんと何か関わりのあった男が同じ大学のやつなら、今でも学内にいる可能性があるじゃないか。自主退学する学生もいるから確実ではないが。彼女と多少関わりのある男って言ったら僕の知っている中では、徳田を覗いたとしたら……前倉。
 まさか、『いい人らしい』人物っていうのは、前倉のことか? その友達っていうのは例えば……清水さんとか。
 清水さんは前倉がいい人だと夕佳里さんに言った。でも穂積さんは逆のことを言った。夕佳里さんはどちらの言葉を信じようか悩む。後に夕佳里さんと前倉の間で何かあった。それで穂積さんは前倉を毛嫌いし、清水さんと仲違いした。
 ……………… 。
 で、夕佳里さんと前倉の間にあった「何か」って何だよ。穂積さんが清水さんと仲違いするほどの「何か」って? 実際2人の間で何か問題があったら、清水さんや瀬戸さんが前倉と今でも同じサークルで、付き合いがあるのはおかしいよな。前倉じゃない誰か……でも夕佳里さんは前倉のことが苦手みたいだし、穂積さんに至っては敵意すら抱いているようだった。たぶん前倉も無関係じゃない……でも、前倉は当事者じゃない……。
そういや以前夕佳里さんの話をしたとき、高崎の反応も少しおかしかった。まさか、高崎が……。
って、高崎と夕佳里さんの間に何かあったとか? いや、高崎はそんなやつじゃないし、一時期付き合っていた女子高生の話だっていろいろ聞かされたから、何かあったら僕に話すだろう。
でも高崎も完全に無関係というわけでもない……のかな。夕佳里さんについてあまり良くない噂を聞いているようなことをちらっと言っていた。でも高崎は誰からそんな噂を聞ける? 高崎は夕佳里さんや穂積さんとは付き合いがないし、清水さんや瀬戸さんもそんな話をしないだろう。そうすると前倉つながりで……でも別の誰か……例えば、高崎、前倉と同じサークルの誰かとか。
 誰だろう……しかし、バイク同好会のメンバーなんてほとんど知らない。そもそも一回生の頃夕佳里さんの存在すら知らなかった僕に、当時彼女の近くにいた男のことなんてわかるわけがない。
「……佳月君?」
 僕が黙り込んでいたせいか、瀬川さんが不思議そうな顔で声をかけてきた。
「どうかした?」
「いえ……」
 頭の中で組み立てようとしたが、肝心の男の存在がよくわからないせいか、考えが行き詰まってしまう。
 他に瀬川さんに聞いておいたほうがいいことって何か……あ。
「そういや瀬川さんは、夕佳里さんがいつも長袖を着ている理由を知ってました?」
 僕の言葉に、彼は驚いたような顔を見せた。
「え? いつも長袖ってことはなかったけれど」
 その返事に、今度は僕が驚いた。
「あ、そうなんですか」
「そう、だね……長袖の割合は多かったけど、いつもいつも長袖ってわけじゃなかったと思う。時々は、5分丈の袖のブラウスとか着ていたような……スケッチしたから覚えているよ。彼女がよく着ていたのは、紺のジーンズと黄色地に花柄のTシャツだったかな。あれは長袖じゃなかったね。でもTシャツの上に薄手の上着を着ていたことが多かったと思う」
 そのときのスケッチの感じを思い出そうとしているのか、彼は空で右手を動かした。
「でも、いつも長袖っていうぐらいじゃ、別に珍しくもないよ。芸大にはいつも黒服だったりスーツで通う学生もいたし。今でも変わった格好の人、1人や2人いるでしょう」
 瀬川さんの指摘は間違ってはいないが……。 
「いや……その話題に触れた時の、本人やその友達の反応がおかしかったから、ちょっと気になっていて」
 瀬川さんはいつも穏やかなその顔に、僅かに違う表情を滲ませた。僕にはその表情が何か、うまくつかむことができなかった。
「例えば、隠したい傷でもあるとか?」
 彼はコーヒーカップに視線を落とした。
「でも僕が証言するけど、彼女の腕に傷はなかったよ。少なくとも2年前はね。見られたくない傷があったら嬉しそうに水着を買いに行くこともないと思うし」
 あ、そっか……そうだよな。
 僕は瀬川さんの指摘に納得せざるを得なかった。
「で、佳月君は、彼女の腕に傷があるんじゃないかなんてどうしてそんなことを思ったのかな」
「……聞いたことあるんですよ、1度。どうして長袖を着ているのかって」
「彼女は答えてくれたの?」
「昔、痴漢に遭ったことがあって、それから電車内とかで人に触れたり触れられたりするのが嫌だから、ということでしたが」
「その答えで、佳月君は納得できなかったんだ」
「まぁ、さっきも言ったように、その話題に触れた時の反応がちょっと変だったので」
 夕佳里さんはともかく、穂積さんの反応は過剰だったし。
 瀬川さんが少し戸惑うような表情を見せたので、僕は「本人がそう言ってるから、気にしないほうがいいですかね」とその話題についてはこれで終り、という態度を示した。この話題に固執して瀬川さんに気を使わせることになっても困る。
「……あ」
 不意に瀬川さんは鞄を探り、携帯を取り出した。画面を見て「非通知か……」とつぶやき、携帯をテーブルの上に置いた。またかかってきたら、すぐ出ようと考えなのだろう。かけてきた相手に心当たりがあるのかもしれない。
「あれ、プリクラですか」
 この前は見なかったが、彼は携帯にプリクラを入れるキーホルダーをつけていた。電車内で女子高生が鞄に着けてるのをよく見かける。
「あぁ、これね。奥さんとおそろいなんだ」
 プリクラの写真はあまり写りがよくなくて、瀬川さんの奥さんの顔がはっきりとわからなかった。それでも2人が寄り添う姿が仲の良さをうかがわせた。
「ペアですか。可愛いことしますね」
 僕が軽くからかいをこめて言った時、瀬川さんは表情を変えた。 
「……瀬川さん?」
 なんか気分を害したんだろうか。
 僕がそう思って 瀬川さんは「そうだ」と声をあげた。
「そうだ、思い出した。そうそう、今の佳月君の言葉で思い出した」
「え?」
「その……友達が『いい人』って言ってる相手のこと。その男が、夕佳里ちゃんのことをやたら『可愛い』って言うんだけど、あんまり素直に喜べないって……そう言ってた。男の人って誰にでも可愛いって言うんですか、みたいなセリフを聞いた覚えがある」
可愛いという言葉に、どこか嫌そうな反応を見せた夕佳里さんと穂積さん。悪い反応を返すということは、その言葉にいい思い出がないからだ。過去にその言葉を言った人物に対して、いい思い出がない……それを思い出すから、僕が「可愛い」と口にした時、複雑な表情をのぞかせたのかもしれない。
「でも、可愛い子を前にしたら、つい言ってしまうよね」
「まぁ、言いますねぇ……」
「乱用禁止用語だとは思うんだけど、身近によく口にする人がいるとねぇ……」
 乱用禁止用語って……面白い言い方だ。
「身近に、すぐ言う人がいるんですか」
「知ってるでしょ、佳月君も」
「あ、そうですね」
 牧さんか。
 僕は少しためらいながらも、一応聞いておくことにした。
「……で、夕佳里さんはその相手のことが好きかもしれないとか、そういう類のことは言ってました?」
「それは聞いてないなぁ」
 瀬川さんの返事を聞いて、僕は内心ほっとした。
「その頃の彼女って、別に好きな人はいなかったんですね」
「そうだねぇ……いなかったと思うけど。1度彼女に『彼氏つくらないの』って聞いたことあるんだけど」 
「……なんて答えてました?」
「『私は理想が高いから難しいです』って笑ってたね」
 どんな理想だろう。気になる。
「どんな男が理想って言ってました?」
 瀬川さんはそのことについてはよく覚えているらしく、すらすらと答えてくれた。
「えーとね、彼女の好みはね、背が180センチ以上で二重でまつげが長くて切れ長の目の美形で、ケンカとお酒に強くて……」
 俺……少しかすってるけど、微妙。
「誕生日には抱え切れないほどのバラの花束をもらいたいとか。そうそう、バラの指定もあったよ。真っ赤とかピンクじゃなくて、花びらの縁だけに色がついてるなんとかって種類のバラがいいと主張してた」
 ……。
「まぁそんな感じで、美形とロマンチックな恋愛がしたいって言ってたよ。佳月君もいいセン言ってると思ってたんだけどな」
「でも振られましたけど……」
「そうなんだよねぇ。牧さんとも言ってたんだけど、それが意外でね。佳月君、夕佳里ちゃんに何かした?」
「まだ、してないです」
「あ、そう、まだ、ね」
「……」
「……ともかく、彼女はかなりの少女趣味だったよ。今はどうかわからないけどね」
「少女趣味、ですか……?」
「そう。ピンクハウスの服着てみたいとか、髪にウェーブパーマかけてお姫様みたいにしたいとか。僕は彼女に頼まれて、2、3枚書いたことあるんだよ。ひらひらの服を着てパーマかけた夕佳里ちゃんの姿をね」
 この前家に行った時見せてもらえたらよかった。
「あぁ、その絵は全部本人に渡してしまったから手元にないんだ」
 それじゃ仕方ない。
 僕は夏、夕佳里さんと交わした会話を思い出した。その時の彼女はカーキ色の上着に迷彩色のシャツとジーンズで、髪をポニーテールにしていた。 
ね、この格好に帽子を足したら、ラスト・ブロンクスのヨーコっぽくない? ヨーコってカッコいいよねぇ。トンファーってどれぐらい練習したら上達するかなぁ。私護身術身につけたいんだ。あ、でも、いつも棒状のものを持ち歩かないと戦えないね。そうなると、やっぱテコンドーを習得した方がいいのかなぁ。
 そう言ってた人が、ピンクハウス……夕佳里さんには似合うだろうけど、ラスブロのヨーコとピンクハウスは全然世界違うが……少年探偵団に憧れて、七つ道具を持ち歩くようなところもあるし。でも、彼女のそういうとこ、好きだと思う俺って……。
「でも、ピンクハウスとかが好きならなんでそういう格好をしないんでしょうね。夕佳里さんて普段は化粧もしないし……」
「あぁ、そういやこの前会ったときは、化粧してなかったね」
 ?
「一回生の時は、してました?」
「出会った頃は素顔だったけど、夏ぐらいには化粧してたよ。大学の友達でメイクが上手な子がいて、その子に教えてもらってるって言ってた。女の子って大学に入ると、周りの影響もあってほとんどの子が化粧を始めるものだな、って思ったよ。女の子って段々きれいになるもんだと感心したっけ」
 メイクが上手な友達というのは、たぶん瀬戸さんのことだろうな。
 一回生の時は化粧をしていて、三回生になって化粧をしなくなった……っていうのは珍しいな。普通逆だと思うけど。 
「他に、何かある?」 
 瀬川さんが促した。
 そうだなぁ……他に聞きたいこと……。
「瀬川さんから見て、夕佳里さん、どこか変わりました?」
 彼は僕の質問に、なぜか一瞬表情を曇らせた。
「そう、だね……どんなことでもいいのかな」
「構いませんけど」
 瀬川さんがあまり言いたくなさそうな口調だったのが気になり、断ることができなかった。
「……冷たい目をするようになったね」
 瀬川さんの言葉に、少しドキリとした。
「職業柄人の表情や眼はよく見るんだけど、なんとなく、暗いというか、冷たい感じになったね」
 そう言ってから、瀬川さんは僕の顔をじっと見た。
「佳月君さ、振られたって言ってたけど、諦めないの?」
「……諦めたほうがいいんですか」
 僕がそう問い返すと彼は微笑んだ。
「個人的には、応援してるけどね」
「個人的じゃなかったら……なんですか」
「男には思い切りのよさも必要な時があるからね」
 ……思いきり悪いって遠まわしに言われているような。
「でも、僕としては、僕の知っている誰かが彼女の近くにいてくれた方が嬉しいからね」
 そう言った瀬川さんは、本当に夕佳里さんのことを気にかけている兄か身内のような口調だった。
「もしかして、瀬川さん……彼女のこと気にしていたんですか」
「まぁね」
 彼は視線を外し、小さくため息をついた。
「僕は彼女が電話に出ない理由を、自分に都合のいいように考えていた。電話が通じなくなってから、僕は1度も彼女の家を尋ねようとはしなかった。もしかしたら彼女は引っ越してしまったのかもしれないとか、いろんな理由を考えて、かなり楽観的に構えていた。
でも実際はそうじゃなかった。電話番号を変えざるをえない状況にあって、いろいろ彼女も悩んでいたと思う。
僕の方は転居して落ち着いてから住所や電話番号を連絡するつもりだったから、彼女は僕の連絡先を知らずにいた。もっと早く連絡していたら連絡が途絶えることがなかったかもしれない……」
 瀬川さんの口調は自分を責めるような響きを帯びていた。が、彼は顔を上げ一転して明るい声を出した。
「ま、実際はどうかわからないから考え過ぎないようにしているけどね。でも何かあったら僕も助力は惜しまないから、よろしく頼むよ」
 真面目な顔で頼まれたので、僕は少々慌ててしまった。
「でも、瀬川さんはもともと夕佳里さんと仲が良かったんだから、またこれからも時々は電話したり会ったりするんでしょう?」
 そう言うと、瀬川さんはどこか寂しそうな顔で「どうかな」と言った。
「今の夕佳里ちゃんは、たぶん僕には会いたがらないと思うから」
 え?
 カタカタという音に視線を落とすと、テーブルの上に置かれた瀬川さんの携帯が震えていた。
「あ、ちょっとごめん」
 瀬川さんはそう断ると「もしもし……うん、わかった……今から……そうだね、15分ぐらいかな」と短い会話で電話を終えた。
「じゃ、そろそろ出ようか」
「すみません。今日用事があったんですか」
 トレイを持った瀬川さんに次いで僕も立ち上がる。
「いや、奥さんが仕事終ったから、迎えに行こうと思って」
 そういや牧さんが、瀬川さんの奥さんは経理をしているとかなんとか言ってたっけ。
「奥さんが専業主婦だったら、2人して1日中家の中にいることになってしまうからね」
 まぁ、そうだけど。
「仕事するときは、一人の方がいいってことですか」
「まぁ、そんなところかな」
 本屋に寄るつもりだった僕は、瀬川さんと店の前で別れた。
 歩きながらも、考えることは夕佳里さんのことだった。
 2年前、夕佳里さんに何かあったと思う。
 瀬川さんと夕佳里さんの連絡が途絶えた9月頃。誰かが夕佳里さんに近づいていた。前倉はそれを知ってる。高崎はそれを伝え聞きした可能性が高い。穂積さんと清水さんが仲たがいしたのもその頃なのかもしれない。
 でも清水さんが『あの人は信用できる』という言葉を夕佳里さんに言ったからって、それが原因で穂積さんが怒るってのもよくわからない。例えば、その『あの人』が実は信用に値しない人物だったとして、清水さんの言葉を信じた夕佳里さんが『あの人』と何かあったなら、穂積さんは清水さんに怒りをぶつけるかもしれないが……。
 で、なんで穂積さんと清水さんは、最近になってまた仲良くなったんだ? 穂積さんが考えを改めて清水さんを許そうという気になったとか? で、夕佳里さんと何かあったかもしれない『あの人』は今どうしてるんだ? そいつは今でも学内にいるのか?
 僕は瀬川さんに聞きそびれたことを思い出した。
家に帰ると話す時の彼女の様子に不審なものを感じなかったか。瀬川さんが引っ越したのが9月ぐらいだから、夕佳里さんはお母さんの命日に京都に帰る話をしていないかもしれない。けど彼女が瀬川さんと知り合ってから半年の間、1度も京都に戻らなかったことはないと思う。間にGWも夏休みもあるのだから。
 ……もしかして義理のお母さんとうまくいってないとか? それだったら彼女が京都に戻るのが嫌だという理由はわかるが、うまくいってない姪を養子にする人もいないよな。
 しかし夕佳里さんのことを誰かに聞こうにも、瀬川さん以外に気安く聞ける人はいない。一回生の時の夕佳里さんのことを知っていそうな人物といえば、穂積さん、清水さん、瀬戸さん、徳田……前倉。って、このうち誰に聞いてみたらいいんだろう。さりげなく聞くことができる相手なんていないな。穂積さんに聞くのは怖いし徳田に回りくどい聞き出し方はできないし、瀬戸さん清水さんとそんな話はできない。かと言って前倉に聞くのは嫌だな。
 瀬川さんのおかげで、夕佳里さんのことを少し知ることができた。しかし、彼女を理解するにはまだ足りない。
 僕はただ、夕佳里さんについて知りたい、それだけを考えていた。彼女に近づくための糸口が見つかるんじゃないかとか、そんな理由だった。

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