数十分後、僕はとあるバーにいた。
「はい、じゃあかんぱーい」
「……何に乾杯するんですか?」
僕が少々呆れ気味に言うと、牧さんはにやりとして言った。
「トモの記念すべき初失恋にかんぱーい」
傷をえぐられる……僕は慰めてくれって言ったのに……。
無理やり僕のグラスを合わせて、牧さんは一気にジョッキの中身を空にした。
「あー、ビールがうまい。おねーさーん、ナマ中お代わり」
楽しんでるな、この人。
僕が憮然としていると、牧さんは僕の背中をばんばんと叩いた。手加減ナシの叩き方で、持っていたグラスが揺れて中身がこぼれそうになった。
「ま、男が一度や二度の失恋でくよくよすんなって。おごってやるから好きなだけ飲め」
「はぁ……」
もしかすると、今の僕にはこういう慰めの方があっているのかもしれない。
優しい友達はたくさんいる。けど、友達は気をつかって慰めの言葉を口にするか、無理に話をそらして場を明るく盛り上げようとするだろう。
牧さんだったら、さりげなく大人らしく慰めてくれるんじゃないか……なんて。
「泣きたいなら俺の胸で泣いてくれていいからな。存分に失恋の痛みにひたっとけ」
……いや、ここぞとばかりに僕をいじめているだけかもしれない。
牧さんと僕がいるのは、梅田の中心部から少し外れたビルの地下にある『ブルーフィッシュ』というバーだ。彼は最初、自分の行きつけの店に行こうと言い出したのだが、そこは静かに飲める店じゃないのでお断りした。こちらは店の中央に水槽があり、鮮やかな熱帯魚がゆったりと泳いでいる洒落た店だ。店内の照明も薄暗くどこか青みを帯びていて、海底を思わせる雰囲気がある。客はカップルや女性が多いが、僕らのように男同士という客もいないわけじゃない。席はほとんどカウンターで、僕らは牧さんを左側にしてカウンター席に並んで座っていた。でもここはカップル向けの席だと思うんだけどなぁ……椅子は2人用のベンチ風。長身のヤロウ2人が並んで座っているのも妙な感じだ。ちょっと狭いし。他に席が空いていなかったから仕方ないんだけど。
「でも牧さん、いきなり呼び出したのによかったんですか? 奥さんに何か言われませんでした?」
電話での誘いに「わかった、すぐ行く」と気軽に返事してくれた牧さんだったが、僕は既婚者である彼を夜遅くに呼び出すのは少々ためらいがあったのだ。ささいなことでも夫婦ゲンカのタネになってしまうということは、自分の親を見てよーくわかっている。
「あぁ、別に。俺って日頃の行いがいいから信用あるし」
……。
僕は付き出しの海草サラダを黙々と食べた。あ、このドレッシクング美味しいなぁ。
「おいおい、普通そこで『え、そうなんですか?』とか『はいはい』とか適当にツッコミいれるもんだろう、え? お前さん大阪人のくせに、基本がなってないぞ、基本が」
「どうせ俺は関西弁を話せないエセ関西人なんだから、放っておいてください」
……話がずれた。
僕は一息ついて、話を元のところへ戻した。
「で、真剣な話、奥さんは気にしてないんですか? 牧さんが遅くに出かけて」
「なんだよ、そんなこと気にしてるのか」
彼は笑いながら2杯目のビールに口をつけた。
「日頃の行いはともかく、こんな時間から旦那が出かけるなんて、あまりいい気持ちはしないんじゃないかと」
「麻子さんは、そんなこと気にはしないさ」
彼の奥さんは麻子さんと言うらしい。
「深夜だろうと俺が用事で外出しなきゃいけないって言ったら、ちゃんと玄関まで送ってくれる。そんな奥さんを裏切るような真似はしたことないし、できないよ」
牧さん……。
いい加減な人とか、女たらしとか思ったことあったけど……結婚したら誠実な人なんだな。
「ま、夜中の外出は、仕事に限ったことでもないけど」
がくっ。
……なんだよ、遊んでんじゃないか。
「ま、浮気じゃないんだし、夜遊びぐらいいいってこと」
いいのかなぁ。
話がそちらへ流れたついでに、僕は聞きたかったことを口にした。
「そうだ、奥さんとの馴れ初めを詳しく教えてくださいよ」
牧さんが見合い結婚することになったきっかけを知りたかったんだよな。
「馴れ初めぇ?」
彼は顎のあたりを掻いた。照れを隠すように、わざとらしく眉をしかめる。
「だーかーらー、見合いだよ」
「牧さんが見合いを受けることになった理由はなんですか?」
さらに突っ込むと、彼は気乗りがしなさそうではあったが教えてくれた。
「話の始まりは……叔母さんに、自分の友人の娘さんと見合いしろ、っていきなり言われてさぁ」
「いきなりですね」
「そう、いきなりだったんだよ。俺は思いつく限りの悪口雑言で叔母さんに文句いった挙句断ろうとしたんだが」
「したんだが?」
「断れなかったんだよ。その叔母さんに、300万ほど借金してた過去があってな」
「300万も……」
なんでそんな大金を……。
僕が呆れた表情を見せると、牧さんはむっとしたように言った。
「言っておくがな、その金はしっかり利息もつけてもう返してるんだ。だが事あるごとに『あの時私がお金を貸さなかったら、あんたはどうなっていたことか……』って脅してかかるんだぜ? まったく、借りる相手を間違ったよ。ともかくその結果として俺は見合いを引きうけることになったわけだ」
「でも、そのおかげで生涯の伴侶と出会えたんだから、叔母さんには感謝してるんですよね?」
僕が宥めるように言うと、牧さんはウンザリ顔で首を振った。
「かんしゃあ? 誰がだ。おかげで最近は『私が2人を引き合わせたのよ』とか言って嬉しそうに、前より調子に乗りだしたよ。なーにが『私はキューピッドね』だ。あんなババアの天使がいてたまるか。終わってるよ。世も末だな」
……そこまで言わなくても。
「でも結婚したってことは、見合いがうまくいったってことですよね。初対面から話が弾んだんですか?」
「見合いって言われても俺は向かい合ってうだうだ話すだけも嫌だったから、見合い場所のレストランから外へ彼女を連れ出したわけ」
……見合いでそれは反則プレーじゃあないだろうか。
「で、そっからどこへ行ったんですか?」
僕の質問に、牧さんは答えた。
「海遊館」
う、痛い思い出が……。
「それから?」
続きを促すと、牧さんは「それからなぁ」とグラスを置いた。
「南港に行って、ATCとかふらついて、夕食はワインミュージアムのレストランだった」
まぁ無難なデートコースで。ワインミュージアムかぁ……え、でも。
「それって車で行ったんですよね。ワインミュージアムのレストラン行って、ワイン飲まずに帰って来たんですか?」
「そりゃ飲まないのもなんだから、帰りは酒気帯び運転したよ」
「危ないなぁ」
僕が非難すると、牧さんはしれっと答えた。
「ハイアットリージェンシーの部屋とった方が良かったか? あそこのジュニアスイートルームは眺めがいいから、夜景でも見ながら酒でも飲んだらムード出るんだよなぁ」
ジュニアスイーツって高そうだな……って、そういう問題じゃないぞ、俺。
「で、そっからどうしてお付き合いに発展したんですか?」
「それがな、別れ際に『今日は楽しかったです。またどこか連れてってくださいね』って、無邪気ににっこりされたら、お前さん、その日だけで終われないだろ、男として」
「……はぁ」
牧さんは終われなかったんだな、それで。
でも俺も夕佳里さんにそんなセリフ言われたい……。
「今日は楽しかった」
彼女はにっこりと微笑む。しかしなぜか視線を落とし、なにか言いたいけれどうまく言えない、というような素振りを見せる。しばらく待っていても、なかなか言葉は出てこない。
「どうかした?」
声をかけると、彼女は一度顔をあげるが、またうつむいてそれから小さな声で言う。
「また……どこかへ連れてってくれる……?」
言い終わってから、視線を上げて僕の顔を見る。そして僕の返事を聞いて、嬉しそうに、控えめな微笑を浮かべる――――
……と、彼女だったらこんな感じかな。
「おいおい、トモ、目が虚ろになってるぞ。どうした」
「え、いや、なんでもないです」
ちょっと夢見てただけで。
「そういや、結婚式は挙げたんですよね? どんな感じだったんですか? 牧さんのことだから、きっと大人数呼んで派手に」
「と、思うだろ。そこが違うんだな。海外挙式だったんだ」
おっと、なんか意外。牧さんはリッツとか高級ホテルでハデな演出の披露宴をしそうなイメージがあったんだが。
「普通に挙式やって普通に披露宴するならお前さんも呼ぶつもりだったんだけど、外野がうるさくてな、もう鬱陶しくなって国外脱出して2人だけで挙式することにしたんだ」
結婚式って、両親が口出しして本人達の希望が通らない部分とかあるって言うしなぁ。牧さんはうるさく言われるの嫌うから、きっと一悶着あったんだろう。
「まったく本人たちの好きにさせてくれりゃいいのにさ、あーだこーだうるさいんだよ。結婚式だけじゃなくて新居にしたってなんにしたってさ。ガキじゃないんだからてめえで考える頭ぐらいあるっつーの」
……よほど腹立たしいことがあったらしい。
「それで海外って、どこで挙式したんですか?」
「俺もどうせ海外行くならハンパなことはしたくなかったんでな。城の中のチャペルで挙式できるってあるんだよ。ドイツのルード……なんだっけか、ルードヴィヒじゃないな、ルード……うーん、自分が挙式した場所忘れちまった。はは、まぁいいや。そのなんとか城のチャペルで2人だけで挙式したんだ」
さすが牧さん……今度写真見せてもらおう。城の中のチャペルなんて、きっとすごい広くて豪奢なんだろう。バージンロードも20メートルぐらいあったりして……。
「スタッフも中世の衣装着ててさ、演出も凝ってて面白かったぞ。麻子さんもお姫様気分味わえたとか言ってたし、俺もなかなか楽しかったよ。ドレスのまま馬車乗ったりしてな。お前さんもそこで挙式したら。あ、そういやふられたばっかりだったな」
…………。
「あ、ついでにプロポーズの言葉なんて教えてくれたら嬉しいです」
僕は牧さんの皮肉を流して、強引に話の方向を変えた。
「プロポーズの言葉ねぇ……まぁ、それはいいじゃないか」
牧さんは顔を背けてしまった。これはさすがに恥ずかしいらしい。ここが反撃のチャンスらしい。
「いいじゃないですか、牧さんは僕の師匠なんだから、秘伝を授けてください」
我ながら、意味不明な説得だ。酔っているのかもしれない。
「えー、うーん……」
「いいじゃないですか、ぜひ! ぜひ聞きたいです。牧さんのプロポーズのセリフ、聞かせてくださいよ」
そうやって10分ぐらい粘っていると、牧さんは渋々と口を開いた。
「今まで小説の中でたくさんのヒロインを書いてきたが、俺にとってのヒロインは君だけだ……と」
……。
「え?」
「二度も言わすな、阿呆」
牧さんは少し照れたように視線をそらした。乱暴な仕草でグラスをあおる。
意外と、照れ屋なところあるんだ。
僕は緩んだ口元を牧さんに見られないよう、グラスに口をつけて隠した。と、牧さんがメニューを僕の方へ突き出した。
「なに水なんか飲んでるんだよ。ほら、遠慮せずになんか頼めよ。せっかくおごってやるってのに」
「いや、そんな……」
いつもいつもおごってもらっているから、あんまり飲むのは気が引けるんだよな。
「いいんだって、経費で落とすから」
「経費で?」
僕が聞き返すと、
「接待交際費ってやつだよ」
牧さんは平然とした顔で答えた。
「え、でも……」
僕は接待されるような立場にはないぞ。
「後で巧と口裏合わせて、巧を接待してたってことにするんだよ」
そりゃ瀬川さんはイラストレーターだから、牧さんとはビジネスの関係で接待もあり得るけど……。
「大丈夫なんですか? そんなことして」
さすがに不安を感じて、僕は声をひそめて聞いた。
「巧の次に、巧の奥さんを買収しなきゃならんけどな」
へ?
「巧の奥さん……碧ちゃんて子が経理やっててさ、税理士に出す書類とか全部書いてくれてるからなぁ。その子に頼んで」
……いいのかなぁ。
そうは思ったが、僕が口出しできる範囲のことではないし、経費で落ちなくても牧さんはおごってくれようとするだろう。一杯ぐらい飲むか。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
僕はメニューを開いた。
注文したマティーニは、驚くほどすぐにやってきた。他のテーブルの注文を間違えたのでなければいいけど。
「お前さんも、やっと合法的に酒が飲める年になったんだよな」
牧さんはどこか嬉しそうに言った。弟の成長を喜ぶお兄さんみたいな感じだった。
「じゃ、遅れたけどお前さんの成人を祝って」
「どうも」
グラスを合わせる。徳田や高崎と飲むとき特に意味もなく乾杯することもあるが、今回は久々に意味のある乾杯だった。牧さんと出会った頃はまだ高校生で……その頃からすでに飲酒していたけど、堂々と酒を飲めるってのはいいことだ、うん。
「あ、そうだそうだ。他にも祝うことがあったな」
牧さんが笑顔で言ったので、てっきりまた何か皮肉を言われるのかと思い、僕は内心身構えた。が、彼が口にしたのは予想外の言葉だった。
「俺の小説登場キャラ300人達成記念にかんぱ〜い」
牧さんはまた自分のグラスを僕のグラスにぶつけてきた。乾杯って……グラスをゴンゴンぶつけるもんじゃないだろ、普通。
「……まだ、カウントしていたんですか」
僕は口調が呆れ気味になるのを抑える事が出来なかった。
「おう、ずっとするさ。いい加減名前考えるのも面倒になってきたんだが」
彼は自分の小説の登場人物の数をずっと数えつづけている。主要人物、友人脇役はもちろん、道ですれ違うだけの存在の人物も、ちゃんと名前をつけてカウントしているのだ。ある作品ではエキストラ的な存在の人物が、他の作品で主人公の友人であったり身内であったりする。そんなことを考えるのが楽しいらしい。
「脇役って名前の人間はいないんだよ」
牧さんは手にしているグラスをまわした。カラカラと氷の音がする。
「それって、雑草という名前の草はないってのと似たようなものですか」
「ま、自分の人生にとって脇役やエキストラでしかない人物も、彼ら自身の人生では主役……で、そこが面白いんだよな。そんな風に考えていると、どんどん話が広がってきて、いっつも収拾がつかなくなっちまうんだ」
牧さんは楽しそうに笑った。
「最近はさ、仕事関係でいろんな人間に会うことが多くて、それもすごく楽しいんだ。
お前さんと知り合ったのも、何かの縁だと思うよ。そういや朗がお前さんを連れてきたんだっけな。朗と出会った時も面白かったよ。前にも言ったよな。俺が梅田のバス停付近でギター弾いていたら、あいつがふらっとやって来て、横に座って俺と一緒に歌いだしたんだ。最初変なヤツだと思ってたけどさ」
「……懐かしいですね、朗の話」
あの頃、僕は同い年の朗と言う少年と牧さんとよく飲んだものだった。
朗は―――山原朗は僕と同い年で、ゲームセンターで出会って意気投合した。少し複雑な家庭環境とかなり変わった感性の持ち主だった。彼は当時高校に通わずバイトしていて、牧さんの家に居候していた。
とても懐かしかった。思い返していると、妙に彼に会いたくなった。しかし彼が今何処でなにをしているのか僕はまったく知らない。彼は別れ際に「縁があれば、世界のどこかでまた会えるさ」と言って去っていった。再会の約束などしていないが、それでも僕はいつかまた彼とどこかで会えるような気がしている。
「朗からあれ以後何か連絡ありました?」
僕の質問に、牧さんは「あぁ」と声をあげた。
「そういや去年、朗から電話があったんだよな。なんでも、アメリカに行くって」
「アメリカへ? 兄貴探しはどうなったんですか?」
朗は幼い頃生き別れになった双子の兄を捜して旅していたのだが。
「いや、兄には会えたみたいだ。恋人に会いにアメリカへ行くと言っていた。外国人の恋人かもしれんなぁ。あいつ、結構面食いだったし、かなりの美人とみた。兄貴とはもう再会できたしこれでなんの未練もなく渡米するから、いつ日本に帰ってくるかわからんだと」
さすが朗だ。無計画で行き当たりばったりなヤツ……まぁ朗なら、どこででも生きていけそうな気がする。
「そうだ、高崎は最近どうなんだ? この前会えなかったが。同じ大学だったよな」
「あぁ、あいつも牧さんに会いたがってましたよ。そうそう、高崎は最近彼女ができて」
「おっ、先越されたな」
牧さんはにやりとした。
「あいつも20歳か……でもなんか、まだまだガキって感じがするな、お前さんもだが」
「そりゃ、30歳の人から見れば20歳のボクなんてガキでしょうけど」
「だーかーらー、俺はまだ29歳! 30にはなってない!!」
思わず声を大きくしてしまった牧さんは、周りの視線に気付いて僕を軽く睨んだ。僕はそれを無視して店員さんに声をかけた。
「あ、すみません、シーザーサラダお願いします」
「あっと、牛すじのねぎ焼きも」
酒を飲みだすと食欲も出てきたらしく、牧さんも料理を注文した。しかし……おそらく牧さんもだろうけど、僕はしっかり夕食を食べてるんだよな。また太らないといいが。おまけに最近お酒を飲む機会も増えてきているし、気をつけなければ。
久しぶりに語り合うせいなのか牧さんのキャラのせいなのか、話題が全然尽きない。話題が尽きないということで、どんどん盛り上がってしまい……次から次へとグラスを空けることになってしまう。
……次の一杯で、終ろう。
そう思いながら、牧さんが飲み物を注文するのに合わせてつい一緒に頼んでしまう。
「ジョンコリンズ一つ」
「あ、それとアレキサンダー」
……ダメだ、勢いが止まらない。家には「今日は帰らない」と連絡を入れたから、気にすることは何もないし。時計を見るとすでに日付が変わっていた。牧さんとは一体何時から飲んでたっけ? ていうか、今何杯目だ?
「あれ、お前さん、結構飲んでるけど全然顔に出ないな。こんなに強かったっけ」
「僕はもともと、お酒はキライじゃないんですよ」
高崎や徳田と飲むと控えようという意識があるのだが、今日はもう家には帰らないし牧さんも一緒なので、後の心配をしていないせいかペースが落ちない。
「若いうちだけだぞ、無理できるの」
「それは経験から出たお言葉ですか」
「あーのーなー。俺をいつまでも年齢ネタでいじめられると思うなよ、まったく」
牧さんはぶつぶつと文句を言いながら、もう何杯目か忘れてしまったそのグラスを空にした。僕もつられて手にしていたグラスの中身を飲み干した。
逃避できないとわかっていながらアルコールに溺れようとするのは、思っていたより楽なことではなかった……。
そこは宮殿の大広間だった。見上げると、高い天井からは豪奢なシャンデリアが下がっていて眩いばかりだった。広間の中央から二階へ続く階段があり、そこを華やかな衣装を身に着けた踊子や道化師が踊りながら何人も降りてくる。広間には着飾った人々が大勢いた。身なりからするとヨーロッパ貴族といった感じで、おまけに仮面をつけている。マスカレードというやつだろうか。皆仮面で顔が隠れているが、不思議なことに僕にはそれぞれ誰なのかがわかった。高崎や川口、愛子や三田さんといった高校の同級生から、穂積さんや清水さんといったゼミのメンバーだけでなく、鈴木さんや佐藤を始めとするバイト仲間、牧さんや瀬川さんもいた。皆僕が知っている人達で、僕が知らない人は1人もいなかった。僕は彼らに囲まれるようにして、広間の中央に立っていた。
彼らは踊るでもなく談笑するでもなく、どういうわけかただ突っ立ってじっと僕の方を見ていた。僕はその視線の意図がつかめず、戸惑っていた。
僕だけが普通の格好をして浮いているのだろうか。
そう思って自分の姿を見たが、一応タキシードを身につけていることに安心した。一体彼らはなぜ僕を見ているのだろう。もしかして僕はタキシードを来た怪物だとか、招かれざる客だとか、そういうことだろうか。だが彼らの視線は、嘲笑の類を含んだ蔑視ではなかった。割り振られた役割を果たさない者に対する苛立ち―――例えるなら、手際の悪い店員に向ける眼差し。
僕は今何をすべきなのか、まったくわからない。彼らが僕に求めているものが何か、わからない。
「なんだよ、いったい――」
高崎に近寄って声をかけたようとした時、僕は後ろからぐいと腕をつかまれてよろめいた。振り返ると坂田さんだった。彼はそのまま僕の腕を引っ張った。驚くほどの力強さだった。
抗議の言葉を口にしようとしたが、次々と手がのびてきて、僕を引張り、突き飛ばした。そうして無理やり歩かされた先には、1台のグランドピアノが置かれていた。
……まさか、俺が弾くのか?
よくよく見れば、こういった催しに不可欠な楽隊の姿は見えない。楽器はこのピアノだけらしい。彼らは僕にピアノを弾けと、そう言いたいのか?
僕はそっと人々を見たが、彼らはただじっと、僕を見ているだけだった。責めるような視線が痛い。
一体何を弾けって言うんだ。弾けないぞ……。
僕は逃げ出したい衝動を押さえながら、椅子に腰をかけた。深呼吸してから、両手をそっと鍵盤に乗せる。
次の瞬間、指は意識せずとも勝手に動き出した。ぎこちなさなんて欠片もなく、僕はアーケードゲームをしている時のボタン操作さながらに、軽やかなタッチで鍵盤を叩いていた。
しかし僕が弾いている曲は『軍隊行進曲』……。ダンスに合うとは思えない曲なのに、皆は一斉に踊り始めた。たんにくるくる回っているだけのようなダンスだったが、それでも衣装の豪華さと場の雰囲気で「これでいいんじゃないの?」と言ってしまえる感じだった。まぁ誰かが文句をつけてきても、これ以外の他の曲を弾けるかわからない。その時はなんとかして逃げよう。
しばらくして一瞬の気の緩みから指が鍵盤から離れてしまったが、だが、それでも音楽は止まなかった。楽器店で展示用に自動演奏設定がされているピアノのように、鍵盤が勝手に上下して音を奏でている。
よし、今のうちにピアノから遠ざかろう。
そのままピアノを離れて逃げようとして、僕は思い直した。なんか楽しそうだし、僕も踊りに加わろう。が、彼らは男女一組で踊っているわけで……僕も相手が必要だ。
夕佳里さんはどこにいるんだろう。
僕は彼女を捜した。一緒に踊ってくれなくてもいい。彼女も着飾っているなら、その姿を見たい。会いたい。
だが彼女の姿はどこにもなかった。
僕は壁際に立ち、踊っている人たちを眺めていた。その中に夕佳里さんの姿を捜してみたが、やはり彼女はいなかった。そうしている間、何度か踊子や道化師が僕の前を通り過ぎ、『なぜアナタは踊らないのか』と問い掛けるような視線を投げかけてきた。僕は行き場もなく、手持ち無沙汰の状態で立っているしかなかった。
突然広間の壁にすえつけられた大時計の鐘が鳴った。12時だった。窓には分厚いカーテンが掛かっているので外の様子はわからないが、真昼間の12時ではなく深夜だろう。どれぐらいの時間が過ぎたのかはわからないが、人々はまだ踊りつづけている。いや、回り続けているといった方が正しいのかもしれない。
ふと視界の隅に動く黒い影を認めて、僕は視線をそちらへ向けた。上のフロアに黒衣の人物がいた。距離はあったが、その時の僕にはそれが誰なのかわかった。徳田だった。彼は仮面をつけていない。そしてスーツでもタキシードでもなく、黒いマントを身につけ手にはトランペットを持っていた。
ここで何か彼が演奏してくれるなら、こんな広間だったら音も響くし観客は多いし、結構なことだ。
そう思って見ていると、彼はトランペットを構えず、低い声で告げた。
「終末の時が来た」
その声は囁くような響きだったにも関わらず、はっきりと聞こえた。
終末の時、天使がラッパを吹くと、死者は甦る……って、徳田が持っているのはトランペットでは。
ペットとラッパの違いもよく知らないくせに内心突っ込みを入れていると、彼はマントを翻し、奥へ姿を消した。僕は彼を追いかけようと、階段を駆け上がった。振り返ってみると、下の広間では、まだダンスが続いていた。だがいつの間にかピアノの音色は暗い響きを帯び、さっきまでの活気や華やかさは失せ、人々の顔には表情なく、まるで機械仕掛けの人形のようで不気味だった。顔が仮面で隠されていることもあり、マネキンが回っているような、そんな冷たさが漂っている。
僕は逃げるようにして長い階段を上った。
階段を上り切ったところに、棺があった。細かな美しい彫刻が施された石の棺だった。ミケランジェロがなんとかいう貴族に依頼されて造ったものを彷彿とさせる見事な棺だった。だが問題は、なぜ棺がこんなところに置いてあるのかということだ。
通路は狭く、棺をまたいで越えないと向こう側には行けそうにない。徳田が行ってしまった方へ行くには、この棺の向こうへ行かなければならないのだが……しかし棺をまたぐってのは、なんか罰当たりな行為だよな。そもそもこの棺の中に横たわっているのは一体誰なんだろう。
そう思って、僕は自分の考えにぞくりとした。
棺の中に生者が横たわることはまずない。つまり誰かが中に寝ているということは、それは死人ということで……階下で姿を見なかった人物こそが、この中に眠っているのだという結論にたどり着くのに、それほど時間は要しなかった。ここに眠っているのは、彼女かもしれない。そうだ、そうでなければ、彼女が階下にいなかった説明がつかない。彼女はずっとここにいたのだ。
手を伸ばしかけ、指が棺に触れる前に止めるという行為を何度か繰り返した後、僕は棺の蓋に手をかけた。重そうな
外観のわりに、それはするすると動いた。
棺の間から、青ざめた彼女の顔が見えることを想像していた。だがそこに眠っていたのは―――僕だった。
死者である僕を、覗き込んでいる僕……背筋をぞわぞわと悪寒が走る。誰かが仕組んだタチの悪い冗談だろうか。だが人形と本当の人間ぐらいの見分けはつく。髪とか眉の体毛をこれほど精密に造ることはできまい。胸の上に組まれた手には、バイトで負った小さな火傷まであった。
これは、まぎれもなく『僕』だ……。
顔をあげると、徳田がいた。
彼は棺の中の僕が視界に入っているはずなのに、その眼には友人に対する親愛の情は欠片ほども浮かんでいなかった。森羅万象をそのまま受け入れるような静かな顔で、低く何かをつぶやいていた。そのつぶやきに呪文のような魔力を感じ、僕は身動きができなくなった。
彼はトランペットを構えた。
音が空気を揺らし、それに「何か」が共鳴した。耳をふさぎたかったが、その音を捉えているのは耳ではなく感覚だった。耳をふさいだところで、その「音」から逃れようがないことが僕にはわかった。
その時気付いた。彼は死者が眠りから目覚めるための演奏をするのだ。彼が音を出したら、『僕』が目覚めてしまう。……もし死者が目覚めるのなら……この棺の中の僕が目覚めるのなら……この『僕』はどうなるんだろう……僕は……。
不意に、何かが全身にのしかかるような感触を覚えた。空気が鉛ほどの質量を持ち、僕を押しつぶそうとしているみたいだった。息苦しく、周りの空気が熱を帯びているように暑い。身体がじっとりと汗ばんでくるのがわかった。うまく呼吸ができず、僕は喉を押さえた。なんとか身体を支えようとしたが、次第に力が抜けていく。棺の傍らに膝をついて喘ぐことしかできない。顔をあげることもできなかったが、僕にはそれがわかった。
棺の中の僕が、目を開いた―――。
視界は真っ白だった。一瞬自分がどこにいるのかわからず、僕は声をあげそうになった。何かが自分の上にのしかかっているような感触は夢のままだったが、その正体が何なのかわかってしまえばなんていうことはなかった。
「えい」
僕は自分の上にかけられていた布団を払いのけた。布団はそのままベッドの脇へ滑り落ちる。
息苦しさと暑さの正体はこれか。誰だよ、人の頭の上にまで布団をのっけたのは。おまけに3枚も。牧さんだな。おかげで変な夢見たぞ。
僕は大きく息をつき、額の汗を拭った。
その時、部屋のドアが開いた。入ってきたのは牧さんの奥さん、麻子さんだった。
「あら、起きてた?」
柔らかい笑みを浮かべ、僕に声をかけてきた。
朝子さんは瀬川さんが描いたイラストのイメージそのままの柔らかい印象の笑顔の主で、ややおっとりした口調が優しく響く。お姉さんに欲しいタイプだ。
「あ……はい、おはようございます」
笑顔で応えたものの、寝る前にズボンをハンガーにかけてから寝た僕は、麻子さんの前では布団から出られない格好だったりする。いくら布団かぶっててもこの状態はちょっと……もぞもぞと布団の中にもぐりなおす僕であった。
彼女はふとベッドの脇に目をやった。
「佳月君寒がりって聞いてたからお布団出したんだけど……要らなかった?」
「この布団かけてくれたのは……」
「泰之さんよ」
やっぱり……。
麻子さんは持っていた服をベッド脇の椅子の上に置いた。
「泰之さんのシャツ、よかったら着てね。サイズは同じようなものよね」
「あ、はい……」
「朝食の用意できてるから、どうぞ」
麻子さんが出て行った後も僕は少しの間布団の中にいて、寝る前のことを思い返してみた。
昨日僕は牧さんの家までやってきて、来客用の部屋をお借りすることになったんだったな。麻子さんとは寝る前に「お邪魔します」ぐらいの言葉を交わしたような気がするが、それ以上のことはあまり覚えていない。なにせひどく眠かったので。
昨日は結局何杯飲んだんだろう。自分の金じゃないからって、調子に乗って飲んでたような気がする。飲んだカクテルの名前を指折り思い出してみたが、どうも自信が持てずに途中で放棄した。まぁ、結構飲んだ割には目覚めは悪くない。今のところ、二日酔いに苦しめられた経験のない僕であった。
来客用のベッドといっても、僕が借りていたのはソファベッドだ。この部屋は普段は応接間として使われているらしく、室内の調度品もそれなりに洒落たものが置かれている。ソファベッドの横には大理石のテーブル、サイドボードは高級感のある木製で、中にはウィスキーのミニボトル、外国の民芸品らしい人形、おそらくスワロフスキーと思われるガラス細工の踊子。ザイドボードの上には、陶磁器製の花。確かロイヤルドルトン。これ結構高いんだよな……うちの母親が前に欲しがっていたから知っているけど。カーテンも厚みのある生地の上品な花柄、見上げれば可愛い花形のランプシェードが5つ下がった電灯……お金に換算するのはよそう。
僕はベッドから抜け出して着替えた。着替えながら、夢のことを思い返す。なんだってあんな夢を見たんだろう。夕佳里さんはどこにもいなかったし……って、もし出会っても夢の中でまでふられそうだ。せめて夢でぐらい、いい思いをさせてほしいもんだ。もちろんそれは自己満足に過ぎないのだが。
それから夢全体に漂っていた異様な雰囲気を思い出し、僕はさらに暗い気持ちに捕らわれた。表情のない人々の不気味なダンスといい、死神の役を振られたような徳田の存在といい、海外のホラーファンタジーのパロディのようだったが……あの棺の中の『僕』は、この『僕』とは違うのだろうか。彼が目覚めて僕が倒れるなら、この僕自身は……。
…………やめたやめた。
考えるべきなのは、夢のことじゃない。現実のことだ。逃避はやめ!
僕は自己暗示のように自らに言い聞かせ、気分を落ち着かせた。とりあえず、朝食をいただこう。あんまり遅くなると迷惑かけるし。
僕は布団を整えて部屋を出た。
リビングにあたる広い部屋に椅子4つのダイニングテーブルが置いてあり、その椅子の1つに牧さんが座っていた。
「よ、おはようさん」
牧さんは新聞を広げていたが、僕の登場にこちらを向いた。歯磨き粉のCMタレントのようなさわやかなその笑みを見ると、とても過激なポルノを書いている人とは思えない。夢見る少女小説を書いているようにも見えないけど。彼は外見はとってもさわやかで端整な顔立ちをしているのだ。作家としてデビューできなかったらモデルになると言っていたが、そうなっていたらきっと人気モデルになれたに違いない。口を開かなければ100点満点つけられるんだけど……。
「人を布団蒸しにしておいて、よくそんなさわやかに挨拶できますね」
僕は冷たい視線とともにそう言ったが、牧さんは蚊ほどにも感じなかったらしい。
「いや、失恋後だし心が寒いだろうと思って、せめて身体が冷えないようにという俺のささやかな気遣いだよ」
……。
「佳月君、トーストパンとバターロール、どっち焼きましょうか?」
麻子さんの優しい声に癒されて、僕は気を取り直した。
「あ、トーストの方でお願いします」
新婚夫婦の家にお邪魔してるって……不思議な気分だ。友達の家に行って友達の彼女に会ったことはあるが、それとは全然空気が違うのだ。居心地が悪いわけじゃないんだけど、2人の間にどうしても割り込めないというか……なんというか、複雑な感じ。
とりあえずコーヒーにミルクを……って、このカップよく見たらロイヤルコペンハーゲンでは……ダイヤモンド地下街にブランド食器の店があって、以前ふらっと入ったとき見た覚えがある。さすが牧さん、趣味がいいのかわからんが、買う物が半端じゃない。カップを受け皿に戻そうとして視線を落とすと、テーブルクロスはロイヤルドルトン……思わず冷や汗。パンくずを落とすのでさえ気を使ってしまう。パン皿はブランドではなさそうだが、ノリタケかナルミか。いや、そう見えてウェッジウッドかもしれん。皿をひっくり返して裏のロゴを確かめてみたいが、そんなことしたらいやらしいよな。
「なんだ、皿を凝視して。見てたってパンは出てこないぞ。足りないならもう一枚食うか?」
「え、いや、その」
僕はもう一枚パンを食べることになった……。
麻子さんは朝食を終えるとぱたぱたとスリッパの音を立てて、慌しく出かける支度をしていた。牧さんの方はのんびりとコーヒーを飲んでいる。
「なんか、ほのぼのとしていいですねぇ」
僕がつぶやくと、牧さんは新聞から眼を離さず言った。
「お前さんも結婚したら」
「あのぉ……」
「あぁ、すまん、相手がいなかったな。そもそもお前さんはふられたばっかりだっけか。悪い悪い」
……くそ、昨日年齢のネタでいじめた仕返しだな。
「じゃ、行って来るわね」
麻子さんがそう声をかけると、牧さんは新聞を置いて立ち上がった。
「はいはい、いってらっしゃい」
玄関まで奥さんを見送る牧さん……って、普通は奥さんが旦那を見送るもんだけど、牧さんは会社勤めじゃないもんな。牧さんが昼間家事をしているとは思えないが。どちらにしろ、いい感じの夫婦だ。
「おいおい、待てよ」
あれ、なんか忘れものかな。
僕が振り返ると、靴を履いて出て行こうとする奥さんを、牧さんが腕をつかんで引き止めていた。
「え、でも……」
奥さんがちらっと僕のほうを見た。
……?
「トモ、向こうむいとけ」
牧さんがそう言うので、僕はそれと察して新聞を読むことにした。
なんだ、可愛いなぁ……お出かけのキスってやつかぁ。牧さんも微笑ましい新婚生活してんだな。
そうしてテレビ欄を一通り眺めたが、奥さんが出て行くドアの音がいっこうにしない。
僕が振り返ると、まだ二人は抱き合ってキスしていた。思わず顔を赤らめてしまうぐらい、朝っぱらから濃厚な……って、おいおい、あれからどのぐらい経ったんだ?
僕は三面記事を隅まで目を通し、読者の投稿欄も読んだ。さらに今日の首相の予定だの、ラジオ番組の特集、観にいく訳でもない映画の時間までチェックした。
それから振り返ってみると、ようやく牧さんが奥さんを離したところだった。
「じゃあ、行ってくるね」
奥さんは牧さんを見上げてにっこりしてから、ふっと僕の方を向いた。目があった瞬間、顔を真っ赤にして彼女は家を飛び出していった。勢いよくしまったドアが大きな音をたてる。
「ったく、見せもんじゃないぞ。見物代とってやろうか」
牧さんが戻ってきてそう言った。
「いや、見たくて見てたわけでもないんですが……」
僕までつられて赤くなってしまったというのに、牧さんの方は平然とした顔をしている。面の皮の厚さはかなりものだ。昨日バーでプロポーズのセリフを教えてくれた時の照れ屋な面はどこへいったんだか。
「毎日、あの長さですか」
「おうよ」
…………。
「奥さん、よく遅刻しませんね」
「1回、そのまま休ませちまったこともあったなぁ、あっはっは」
脱力感に襲われた僕を放って、牧さんは食器を片付け始めた。
あ、待っている間に僕がしておけばよかった。
「俺やりますよ」
「いいよ」
「でも」
「じゃ、テーブルの上拭いといてくれ」
牧さんが投げてよこした布巾で、僕はテーブルの上を拭いた。牧さんの方は慣れた手つきで皿やカップを洗っている。そういや何も考えずに洗おうかなんて言ったけど、マイセンのカップは洗いたくないなぁ……阪急百貨店にマイセンのティーサロンがあるけど、あそこで働いている人たちはびくびくしないんだろうか。
「さて」
片付けも終り、椅子に座って向かい合ってから、牧さんはおもむろに口を開いた。
「お前さん、今日は大学へ行くのかい?」
「今日は……」
大学という単語を聞いて急に現実に引き戻され、僕は昨夜のことを思い出して口をつぐんだ。別にケンカしたわけじゃないし、後ろめたいこともない。けど彼女に会って自然な態度でふるまえる自信はなかった。
正直なところ、平気なふりをする彼女に気づかぬふりをするのが苦痛だった。気にしないで、と言われた。だが気にしないではいられない。僕がそう思っているのをわかっていて、彼女はなんでもない表情を繕う。けれどそれで隠し切れるものじゃない。仕草に、視線に、僅かに現れる。それに気づかないフリをするのは、辛い。
そう考えながら、僕は昨日の出来事を夢か何かのように思い込もうとしている自分に気付いていた。創作するようになってから身についた悪い癖だ。自分が受けたダメージを、もう一つの世界の自分に押し付けようとしている。彼女に告白したのは、空想世界の中の僕であって、現実の僕ではない。だから現実世界の僕は、傷を負うことはないのだと……。
はっきり言えば現実逃避だ。まったく、こんなことを言ったら牧さんに笑われてしまいそうだな。彼も創作をしているが、僕のようにもう一つの世界に逃げたりはしないだろう。
僕が黙っていると、牧さんは「さぼりたいって面してるな」と笑った。
「どっか遊びに行くか」
「え、でも牧さん……仕事は」
「仕事? 俺は気楽な個人作業だから、一日ぐらいのんびりしても平気だよ」
「締め切りとか、大丈夫なんですか?」
僕の言葉に、牧さんはふふんと笑った。
「お前さん、俺が締め切り前に大慌てで書くタイプだと思ってるだろ。甘いよ。俺は出版社の間でも、優良作家として知られてるぐらいで」
きっと、僕に気を遣わせまいとしてるんだな……。
僕は牧さんの心遣いに感動しながらも、口では生意気なことを言ってみた。
「ありがとうございます。真偽の程は定かではないですが、今日はお言葉に甘えさせていただきます」
「……て、お前さん、信じてないだろ。いや、ホントだって。俺はなぁ」
それから僕らは瀬川さんの家に行くことになった。
牧さんはいいとしても、瀬川さんだって仕事があるんじゃあ……まぁ牧さんが「いいからいいから」と言うのを信用してきたけど、邪魔なようだったらすぐ退散しようと僕は考えていた。
瀬川さんの家は閑静な住宅街の一角にある6階建てのマンションで、3階の角部屋だった。牧さんの家からは車で20分という距離にある。瀬川さんが新居を捜しているとき牧さんが同じマンションにしないかと誘ったのだが、瀬川さんは不必要に広い家には住みたくないと言って断ったらしい。牧さんの家は僕の家と同じく4LDKだが、専有面積は全然違う。部屋の一つ一つも広いし、バルコニーも収納スペースも広い。2人で住むには確かに広すぎる。
インターフォンを押して『はい』と返事が返って来ると「あ、俺」と声をかけた牧さんも牧さんだが、それに「開いてますよ」と返した瀬川さんも妙だった。牧さんは慣れているらしく何の遠慮もなくドアを開けた。僕も「お邪魔します」と言いながら牧さんに続いて中へ入る。
瀬川さんはスリッパを二つ揃えて僕らを迎えてくれた。
「今日は来そうな予感がしてましたよ」
皮肉げな口調だったが、顔には柔らかな笑みを浮かべていた。僕の不思議そうな表情に応える。
「佳月君が牧さんのところに泊まったって聞いてたしね」
どうしてそこから僕がここに来ると予想がつくんだろう。そう思ったものの、口にはしなかった。僕も機会があればもう一度彼に会いたいと思っていたのだ。
どうぞ、と促されて僕はスリッパに足を入れた。
3LDKの間取りで、室内はどこか殺風景なほど片付いていた。女性が好みそうな雑貨とか小物の類がほとんどない。瀬川さんと奥さんらしい女性の写真が入っている写真立てが、棚や壁に1つ2つと飾られているぐらいだった。あと目立つものと言えば、部屋の中にいくつか置かれている観葉植物。ベランダ近くにベンジャミン、テーブルの上にはドラセナ属と思われる小さめの鉢。サイドボードの上には細長い数枚の葉が天に向かって伸びているような植物が……。
「それはサンスベリアだよ」
瀬川さんが言った。振り向くと、彼は僕が見ていた植物を指した。
「マイナスイオンを発生させたり電磁波を中和させるらしいんだけどね、さて、どれぐらいの効果があるのやら」
へぇ……これがねぇ。ただの葉っぱみたいな植物なのに。
「また植物ばっかり増やして」
牧さんは言葉とは違いどこか楽しそうな口調で言った。
「少しは可愛げのあるものを置いたらどうなんだ。新婚家庭の甘さの欠片もないな」
「牧さんの家と比べないで下さいよ」
牧さんの言葉に、瀬川さんは苦笑して答えた。確かに牧さんの家は、麻子さんの趣味なのか動物や天使の置物がいたるところにあり、カーテンもテーブルクロスもレースだった。うちの母親も天使の雑貨だの可愛いものを集めるのが好きだが、麻子さんもなかなかいい勝負だ。しかし瀬川さんの奥さんは対照的な人のようだ。瀬川さんのように穏やかで、それでいて可愛い人なのかと想像していたが……違うみたいだな。一体どんな女性なんだろう。男勝りでさばさばしている人とか……想像がつかない。
「佳月君、今日は学校はいいの?」
瀬川さんに聞かれて僕は「はは」と笑ってごまかした。
「トモは失恋のショックで、大学どころじゃないってさ」
牧さんが何でもないことのようにさらりと言ったのに対し、瀬川さんの方は「そうなんだ……」と言葉を途切れさせたまま続きが出てこない。適当な励ましの言葉や社交辞令が言えずにただ気遣うような表情を見せているところが、人はいいが不器用な性格を思わせる。
「佳月がふられた相手って、お前さんも知ってる子なんだぜ」
「?」
瀬川さんは僅かな間考えていたが、やがて僕の方を向いて言った。
「もしかして、夕佳里ちゃん?」
「はぁ……」
僕の返事に、瀬川さんは優しい笑みを浮かべた。
「そうなんだ……いや、なんとなくそうは思っていたんだけど、そうなんだ……」
なんとなく、そう思ってた? 本当かよ。僕はあの時大学で、そんな嫉妬まるだしの視線で瀬川さんを見ていたんだろうか。牧さんだけでなく彼にまで気付かれていたとは。瀬川さんは牧さんと比べると、そういうことには疎そうに見えたんだが。
瀬川さんは隣の部屋に入ると、一冊のスケッチブックを手にして戻ってきた。そしてページをめくり、僕の前に差し出した。
「2年前になるかな」
ラフではあるものの、優しいタッチで描かれた一枚の絵だった。そこには、はにかんだようにこちらへ笑いかけている彼女がいた。髪はまだ肩ぐらいまでで、表情にはまだ幼さが漂っていて――僕がまだ知らない頃の、彼女の姿だった。
何て言うか、出会いとか別れのタイミングというのは時々不思議に思うのだけど、どうしてこの頃の僕は彼女の存在に気付かなかったのだろう。まぁ学籍番号が離れているせいもあるだろうけど。もしかしたらもっと早くからゲーム仲間として親しく付き合えていたかもしれないのに。
「しかし巧、お前さん結構この子と親しそうだったでないの、なぁ」
牧さんがからかうように瀬川さんを肘でこづいた。瀬川さんは僕を安心させるためか、こちらを向いて言う。
「ムンクの美術展に行った話で盛り上がってただけで、特別なことは何もないから」
「本当にそれだけか?」
牧さんが突っ込んで言うと、瀬川さんは肩をすくめ、僕の方を見て同意を求めるような視線を送ってきた。
「僕は牧さんとは違うので」
瀬川さんのことは良く知らないけど、比べたら確かに牧さんの方が遊んでいそうなイメージがあるのは否定できん。
「あ、誤解を生むようなことを言いやがって」
牧さんの愚痴をよそに、僕は紙をめくった。夕佳里さんの絵は3枚あり、1枚だけカラーで……これは水彩色鉛筆ってやつかな。淡い色使いで着色してあった。今の絵と少し違う感じがする。輪郭の書き方かなぁ……。
「なんか飲み物でも入れようか。佳月君、コーヒーで構わないかな」
「あ、はい、お願いします」
瀬川さんが台所の方へ行ってしまうと、牧さんは勝手に隣の部屋へ入って行ってしまった。僕も追いかけて付いていくと、そこは瀬川さんの仕事部屋のようだった。6畳ほどの部屋に大きな机が置いてあり、その上にスケッチブックや紙束、イラストボードが雑然と置かれている。傍に画材が入っているらしいチェストがあったが、全ての引出しが中途半端に開けられたままで、絵の具やパステルが覗いていた。少し離れてパソコンデスクがあり、そこにはMACのデスクトップが置いてある。パソコンデスクと並んで壁際に本棚があり、棚にはスケッチブックが並んでいた。さっき持ってきてくれたスケッチブックは、ここから取り出したものらしい。
「あぁ、足元気をつけて歩けよ」
牧さんの言葉にふと足元に目をやると、カーペットはところどころが絵の具で汚れていた。絵の具はすでに乾いていたが、鉛筆やパステルの欠片のようなものも転がっている。スリッパを借りてなかったら、靴下が汚れていたかも。
瀬川さんて……意外と、片付け苦手なタイプなんだな……。
牧さんは机の椅子に座り、机の上に置かれた描きかけのイラストを眺めていた。
「へぇ、あいつこのシーンこんなふうに描いたのか……」
そんな独り言を言っているところを見ると、牧さんの小説のイラストらしい。そういや、瀬川さんは牧さんの「専属」って言ってたな。牧さん以外の作家のイラストを描いたりはしないんだろうか。ほんとのところは、他の作家さんの仕事も受けようとか思っていないのかな。
挿絵はさておき、僕は昔の瀬川さんの絵が見たかった。最初はどんな絵を描いていたんだろう。興味がある。
「ここの見ても、構わないですかね」
「いいんじゃないの? 俺もたまに見てるよ」
牧さんがそう言ったので、僕は本棚のスケッチブックを見せてもらうことにした。背表紙が色あせ、少し傷んだようなものが古いやつだな。
僕は一冊のスケッチブックを本棚から引っ張り出した。表紙には日付が書いてあった。1994年2月〜1994年4月……大体4年半前か。ということは、瀬川さんがまだ大学生の頃の絵になるのかな。
開いて最初に描かれていたのは、若い女性だった。
年は20歳を過ぎたばかりと思われ、美人……というより、可愛い人だった。ややふっくらした頬と長い髪と丸っこい大きな目をしていて、その笑顔は人懐っこそうな雰囲気を漂わせている。絵のタッチは今よりやや線が多いという感じだろうか。今の絵の方が、無駄な線がなくすっきりと描かれている感じがする。
そのスケッチブックは、その女性がモデルになっている絵ばかりだった。数枚はヌードのものもあった。場所は屋内屋外、果てはその女性が天使の翼を生やしたファンタジー調のものまで。この人は職業モデルさんなのか……いや、これらの絵からは、瀬川さんの女性に対する愛情すら感じられた。彼女は瀬川さんと親しい間柄だった女性に違いない。もしかすると、今の奥さんと言うのがこの女性なのかな。裏側には名前はなく、日付だけが書いてある。
「そりゃあ……羽嘉さんだな」
いつのまにかやってきた牧さんが、横からスケッチブックを覗いてそうつぶやいた。
「ワカさん?」
瀬川さんの奥さんの名前は確か碧。ということは、この女性は過去の恋人……?
「巧の昔の恋人だよ」
そこまでは想像の範囲内だったが、牧さんの次の一言が紙をめくる僕の手を止めた。
「事故で亡くなってしまったけど……」
え……。
僕はもう一度スケッチブックに描かれた絵を見た。
明るい笑顔を見せ、こちらを見ている女性。もうこの世にはいない人だと思うと、その笑顔を見るのが辛くなった。
僕は瀬川さんが戻ってくる前に、そのスケッチブックをしまった。それを僕が見ていたと知っても、彼は咎めたりしなかっただろう。目に付くこの場所に並べているところを見ると、彼が恋人の死を過去として受け入れているであろうことはわかる。
けれど、その時彼がこの女性に対して抱いていた愛情が絵から感じ取れるから、それが辛かった。彼は事故の後、このスケッチブックをどんな思いで見たのだろう。数年前のことになってしまっても、辛い記憶は簡単には消えたりしないだろう。まして死別であったなら。
彼は、どんなふうに恋人の死を乗り越えたんだろう。ふと、そんなことを思った。
瀬川さんは、昔僕が書いた小説の主人公に似ている。美術専攻の学生で、恋人に死なれてしまう物語だ。僕の物語は、恋人を失った主人公が街をさまようシーンで終っている。あの主人公は、どうなったのだろう。
あの物語はもう完結していたと思っていた。清水さんにも「続きは書かない」と言った。が、僕が書かないだけで、『彼』の物語は続くのだ。『彼女』が死んだ後も、『彼』が生きている限り。瀬川さんが恋人を失っても生き続け、新たな出会いを経て、碧さんと結婚し、イラストレーターとして生活しているように。
『彼』のその後は? 彼女を失って、街をさ迷い……それから?
ふと、背中がぞくっとした。
恐怖とか不安とか、そんなものじゃなくて……衝動。あの物語の続きは、どうなるのだろうか。誰かが書いてくれるわけじゃない。僕が書くしかない。
主人公が生きている限り、物語は続いていく。
そのことが、妙に頭にひっかかっていた。
まだ、物語が続いている……僕の中で。