Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  24
 …………。
 …………。
 頭ががくりと前に揺れた瞬間、僕は意識を取り戻した。
 あ、やべ、寝てた。
 僕は姿勢を正した。
特に眠いとは思っていなかったが、スライドの鑑賞のため教室が暗くなったせいで( 、)つい眠ってしまったらしい。周りの目を気にしてふと横を見たが、薄暗いために見咎める人は誰もいなかった。もっと大胆に机の上に突っ伏して寝ている学生までいた。
「ダヴィットの描いたこのナポレオンの戴冠式の光景は……」
 この授業は説明を聞いてなくても、教材になっている野村先生の本を読めばレポートは余裕で書けるらしい。僕は買ってないが、去年この授業をとっていたという夕佳里さんが本を貸してくれるというので、レポートを書く時は困らなくて済みそうだ。
 とは言っても、野村先生の授業を聞く気がないわけじゃない。結構面白くて好きだ。スライドで絵画を鑑賞しながら、野村先生が絵にまつわるエピソードや、時代背景について話してくれる。
「ナポレオンは戴冠式で、教皇にかぶせて貰うべき冠を自分で被ったという有名なエピソードがあり、その様子を描いた絵画も残っています」
 戴冠式の絵からスライドは変わり、ナポレオンの肖像になる。前足を浮かせた馬の上で右手を挙げている、誰もが一度は見たことのある有名な絵だ。
「ナポレオンは身長が低く、155センチほどしかなかったとか、または165センチとも言われていて……」
 仮に160センチだったとして、僕と20センチの差か。紫より低いということになる。
思えばナポレオンって、ちょっと太り気味だよな。顔丸いし。なんとなく、パタリロを彷彿とさせる。いや、もしかしたら、これでも控え気味に描かれているのかもしれない。彼なら画家を丸め込んで、自分をかっこよく描いてもらうなんて簡単なことだし。
 絵画から横道それたことを考えている間に、授業は終った。
 僕は教室を出ると、本屋へ向かった。今日はもう履修している授業はないのだが、授業が終ってすぐバス停へ向かうと下校しようとしている多くの学生でバスが混んでいるので、少し時間をずらすためだ。
 本屋へ行く途中で、清水さんに出会った。
「久しぶり、やね」
 清水さんはやや伸びかけた髪にパーマをあてたらしく、緩やかなウェーブヘアを後ろに流して耳の上でピンで留めていた。そのカールの具合は明るい髪の色と相まって、西洋絵画の天使のようにも見えた。もっとも、天使はジーンズをはいたりしないが。
 僕は彼女の登場に、天使の降臨のように感激を覚えることができなかった。同時に、僕はそんな風に感じた自身を嫌悪し――笑顔を返すのがワンテンポ遅れた。
「授業?」
「うん、授業は終ったけど、これからサークル」
「高崎に会った?」
 聞くと、彼女は首を振った。
「今日はまだ会ってへんわ。でも今週は絶対来るって言ってたから、たぶん来ると思う」
「ったく、サークルはちゃんと来るんだな」
 友人への愚痴を清水さんに言うと、彼女はくすりと笑った。
「いつもはバイトが忙しいって言って、顔見せるだけですぐ帰るんよ。でももうすぐ学祭やん? それでいろいろ話があるから、今の時期は頻繁にサークルに来るわけ。3、4回生があんまり来なかったら下の子に悪いやん」
「あぁ、そういや、サークル、今年の学祭でなにするの?」
「うちのとこ? えっと、タコス売んねん」
 タコス……売れるんかな。まぁ他人のサークルの出し物に、ケチはつけるまい。誰が考えたのか知らないが。
「あと、珠ちゃんが気に入った女の子を見つけて、メイクしたりするって」
「あぁ、そういやそんなことを高崎が言ってたな」
「これが結構好評やねんよ。その後も珠ちゃんにメイクのアドバイスしてもらってる女の子もいるって」
「そりゃすごいな」
 瀬戸さんはよほどテクがあるに違いない。やってもらいたいとは思わないが、普通の人との違いを見てみたい気が。
「そだ、佳月君に妹がいるって聞いて、珠ちゃんが会いたがってたわ」
 きっと僕にしたように、紫にもビューラーを持ってせまるんだろう。まぁあいつなら、逃げることもないだろうけど。
「うちの妹ねぇ。まぁもう少し可愛げがあるようにしてやってくれたら、兄としても嬉しいけど」
「え、でも高崎君、佳月君の妹は可愛いって言ってたで」
「顔の造作はともかくね……」
 性格が。
「あ、そういやさ、佳月君は今年の学祭、来るん?」
「さて……わからないけど」
 1回生の時は来たが、去年はずっとバイトしてたな。
「よかったら、うちのサークルのチケット買ってくれへん?」
「え」
「店来たらサービスさせてもらうし、お願いっ」
 手を合わせて拝むような仕草を見せ、清水さんは言った。
「うーん……」
 でも、ほんとに学祭に行くかわからない。というか、行かない可能性の方がかなり高い。
 僕がいい返事を返さないので、清水さんは拝むポーズを止め、じっと僕の顔を見上げた。
「なんか、予定あるん?」
「うん、まぁ……」
 バイト行くから、とか言ったら友達甲斐ないと思われるな。清水さんのためだけに学祭に来るというのも……だが彼女の目に期待が見えるから、無下に断るのもなぁ……。
 そうだ。一応買っておいて、僕が来られなかったら紫にやろう。あいつ、今年相本さんと一緒に芸大の学祭に来たいとか言っていたし。
 とりあえずチケットを買うことを約束すると、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「絶対来てね」
 ……辛いな。
 なんか何があっても学祭にこなければならないような気がしてきた……。
 清水さんの笑顔から目をそらした僕の視界に、見慣れた姿が横切った。
「あ、徳田」
 僕のつぶやきを聞いた清水さんは、僕と同じ方を向いた。
「あ、徳田君と待ち合わせしてたん?」
 そう言われて、僕はとっさに「あぁ、うん」と返してしまった。
「じゃあ悪いね」
 彼女は笑顔を見せ「またね」と去っていた。
 ……徳田をダシにしてしまった。
 そう思った瞬間、重いものが胸にのしかかるような、暗い気持ちに襲われた。
 罪悪感だった。
 彼女が僕のことをどう思っているか知ってるくせに、はぐらかすような態度をとって……。
 いやだな、こういうの。
 自分の中途半端さが嫌になる。鈍感なら、他人の傷に気付けずに生きられる。けど、僕はそれほど鈍い人間でもない。気付かないフリもできない。かと言って、人を傷つけずにうまく立ち回れるほど要領がいい人間でもない。
 これから、彼女にどんな態度をとっていけばいいんだろう。
 …………はぁ。
 吐息をつくと僕は考えを中断し、徳田に近寄って声をかけた。
「よう」
 徳田は何か物思いにとらわれていたらしいが、僕が声をかけると顔をあげてこちらを向いた。
「あぁ、佳月」
「今日は練習はないのか?」
 僕がそう言うと、徳田はふっと息をついた。
「いや、それが……練習場所に使用する教室が、大学側の都合で使えなくなったんでな。おまけに団員の大半が体調不良という状態で、今日の練習は休みになった。まゆちゃん達数人はボックスに残っているが……俺は今日は帰ることにしたよ」
「なんで大学側の都合で教室が使えないんだ? こんな時期に。練習させてくれたっていいのに」
「ま、そういうこともあるんだ」
 徳田の返事は淡々としていた。これが初めてというわけではなく、以前にも同じことが何度もあったらしい。文句を言ったところで仕方がないことを承知しているようだった。
「そういや高崎を最近見ないが、あいつはちゃんと大学に来ているのか?」
「あぁ、この前会ったよ。今日も来るらしい」
 授業に出ているのかはよく知らないが。
「俺と選択している授業があまりかぶってないからな……また親の具合が悪いとか、そういうことじゃないならいいんだが」
「今のところ、おばさんの体調は悪くないらしい。そろそろ勉強に力入れるように、伊藤さんからも言ってもら」
 ……あ、そういや徳田にはまだ高崎と伊藤さんの話をしていなかった。
「そうそう、言うのを忘れていたが」
 僕が高崎と彼女の馴れ初めを話すと、「そりゃ、すごいな」と徳田は感嘆を口調ににじませて言った。
「そんなドラマのような話が」
 その場でひとしきり高崎の話題で盛り上がったが、そのまま立ち止まっているわけにも行かず、僕らはもう帰ることにした。
「一緒に帰るのは久しぶりだな」
 徳田の言葉に、僕は頷いた。彼がサークルに入ってから一緒に帰ったことはほとんどなかった。
 歩きながら、風に乱された前髪を軽くなおした。また横の髪が耳にかかるぐらいに伸びてきている。サブマネになってから滅多に店長とシフト重ならないから気にしてなかったが、そろそろ切りに行かないとまずいかな。
 僕が耳もとの髪を触っていたのを徳田は見ていたらしい。
「なんだ、髪が気になるのか」
「あぁ、そろそろ切りに行かないとな」
 僕はふと、遠い過去を思い出した。
「そういや俺、昔高崎に鬼太郎って言われたんだ」
「鬼太郎って、妖怪のか?」
 徳田が言った。
「そうそう。俺、昔前髪長かったから」
「目が隠れるぐらいか?」
「そうだな、隠れていたかも」
 確かに、今思えばあの頃の僕はかなり髪長かったなぁ……よく耐えられたもんだ。
「なんでそんなに長かったんだ? 伸ばしてたわけか?」
 徳田が怪訝そうな口調で言った。
「いや、散髪代をけちっていただけ」
 僕の返事に、徳田はやや呆れたような笑みをみせた。
「ゲーム代のためにか?」
「はは」
 ……図星。
「確かに散髪代も馬鹿にはならんしな。その金で文庫が数冊買えるってのに」
 彼らしいぼやきだった。だがその言葉で、僕はあることを思い出した。
「そういや、前から気になってたんだが……」
「なんだ」
 僕は徳田の方へ向き直った。
「お前、いつも文庫本持ち歩いてるだろ……なにを読んでるんだ? いつもカバーかけてるから、全然わからないんだが」
 僕がそう言うと、徳田は口元に笑みを浮かべた。
「知りたいか」
 徳田がそう言ったので僕は「知りたい」と答えた。彼は高崎ほどもったいぶることもなく、口を開いた。
「これはだな」
 徳田がそう言いかけた時、
「徳田くーん、佳月くーん」
 声が聞こえたと思ったら、いきなり後ろから誰かがぶつかってきた。
「うわ」
 突然だったので受身をとるどころではなかったが、相手が小柄だったので大した衝撃でもなく、一瞬よろめいた程度ですんだ。
 穂積さんだった。
「ごめん、走ってきてさりげなーくぶつかるつもりが、勢いが止まらんかったわ」
 彼女はそう言って、あははと笑った。
 なんでぶつかろうなんて思ったんだか……。
 僕はそう思いながら顔をあげ、少し離れたところで苦笑している夕佳里さんを見つけた。
 ……どうせぶつかるなら、彼女の方がよかったな。
「まゆちゃん達とボックスに残っていたと思ったが」
 徳田が穂積さんに言った。彼がボックスを後にしたときは、穂積さんはまだまゆちゃん達といたようだ。
「今日は久しぶりに夕佳里と食事でもして帰ろうかと思って。あ、そうだ。よかったら、一緒になんか食べに行く?」 
「いいのかな、俺たちも一緒で」
 穂積さんの言葉に、徳田が夕佳里さんに尋ねた。
「いいよ、全然」
「じゃあ、行くか?」
 徳田がこちらを向いたので、僕は「いいよ」と答えた。
 喫茶店ならともかく、この4人で夕食って珍しいし。
「今日、俺金持ってたかな……」
 徳田がつぶやきながら、財布を取り出して中を覗いた。
「まぁ、大丈夫か」
 徳田のそんなセリフを聞くと僕も自分の所持金が気になってきて、リュックの中を探るふりをして財布の中身を確認した。何を食いに行くかは知らんが、1万円あれば十分だろう。
「それにしても、なんか……佳月君に会うの、めっちゃ久しぶりな感じするわぁ」
 穂積さんの言葉に、夕佳里さんが「そう?」と言った。夕佳里さんには週に3日は会っている。姿を見かけたら、追いかけてでも話し掛けてるし。
 とりあえず天王寺へ出ることになり、バスで駅まで出て電車に乗った。
 すぐ食事というにはまだ早い時間だったので、本屋に行って時間をつぶすことにした。
 本を読んでいる最中、さっき穂積さんに体当たりを食らった時に途切れた「徳田が何の本を読んでいるのか」という会話を思い出し、僕は後で改めて徳田に聞こうと思った(……が、結局そのまま忘れてしまうことになる)。
 4人とも違うコーナーでそれぞれに立ち読みに夢中になっていたので、穂積さんが「お腹空いたー」と探しにきた頃には6時を過ぎていた。 
「さて、どこへ行こうか」
 JR天王寺駅の構内の隅で、僕らは店の相談を始めた。
「どこがいいかなぁ?」
「アポロの方の居酒屋行く?」
「そうだな……」
 いくつか店の名前を出したものの、一番こだわりそうな穂積さんが「うーん」と難色を示した。
「あと知ってる店は……」
「あ、そーだ。『カイト』行こうか」
 穂積さんが手をぽんと叩いて言った。
「え……あそこかぁ」
「料理美味しいし、わりと好きなんだよね。うん、あそこがいい」
 彼女がそう主張したので、目的地は決まった。
「あの店だと……混んでないかな。いい時間だし」
 徳田が腕時計を見た。僕も時計を見る。6時半すぎ……か。
 行くだけ行ってみようということになって、僕らは店の方へと歩き出した。僕にとっては、ゼミコン以来になる。
 店までの道中、穂積さんがしきりと「お腹すいた」と口にした。噂でしか聞いてないが、彼女はいったいどれぐらい食べるのか……今日その噂の実体が明らかになる。
 『カイト』の前につくと、幸い店の前には誰も並んでいなかった。だが予約が入ってる可能性もあるし、店の中はすでに客であふれていて、空席があるかどうかもよくわからなかった。 
「どうだろう」
「別にちょっとぐらいやったら待ってもいいよ」
「そうだな。今の時間だったら、どこに行っても混んでるのは一緒だろうし」
 店内を覗くと、近くに店員らしき一人の女性が立っていた。店員とわかったのは名札とエプロンを付けていたからだが、他の店員とはちょっとデザインの違う制服を着ていた。30代前半と思しき外見の、背の高いきれいな女性で、どうやらマネージャー、もしくは責任者クラスの店員らしい。
「空いてます?」
 その女性に話し掛けると、彼女は店内を見まわし、次いでカウンターにあった予約名簿か何かを眺め、そして顔を上げて微笑んだ。
「ラッキーね。一件予約がキャンセルになって、ちょうど席が空いてるわよ」
 立山香衣という名札をつけたその店員は、窓際のテーブルへ案内してくれた。窓際に夕佳里さん、その隣に穂積さんと並び、夕佳里さんの向かいの窓際に僕、そして徳田という席順で座る。
「お飲み物を先にお伺いしますが」
「あ、決まったら呼びます」
 そう店員さんに告げると、彼女は「かしこまりました」と立ち去った。
「じゃ、何にするかな」
 徳田が2人で見られるようにと広げたドリンクメニューを、僕は彼の方へ押しやった。
「あぁ、俺はウーロン茶でいいから」
「一杯ぐらい飲まないのか」
 徳田に続いて、穂積さんが言う。
「そうやん。一杯ぐらい飲んだら?」
 ……そう言われると、何か飲もうかと言う気になるな。
「んー、じゃあ、なに飲もうかな……」
「ロングアイランド・アイスティなんてどうだ」
 徳田はメニューを眺めて言った。
「俺は結構好きなんだが」
「あぁ、じゃあそれにしようかな」
 たまには飲んだことないのに挑戦してみよう。
 飲み物が決まったところで、穂積さんが「すみません」と手をあげた。来たのはさっき席に案内してくれた女性だった。
「あ、私カシス・オレンジ」
「ウーロン茶と、アプリコットフィズと、あ、すみません、あと空のグラス一つ」
「あと、俺はOLD PALを。佳月はロングアイランド・アイスティ、でよかったよな」
「あぁ」
 僕らが注文し、店員さんが復唱した後、
「ね、あなたたち、芸大生よね?」
 店員さんが親しげに話し掛けてきた。
徳田が「そうですが……未成年じゃないですよ」と答えた。
「あ、そういう意味じゃないんだけどぉ……ね、あなた達文芸学科じゃなぁい?」
「……そうですけど」
と代表して穂積さんが答えた。
芸大生とわかるのはともかく、学科まで当てられるってどういうことだ。
「もしかして、4月あたりにここでゼミコンしてなかった?」
「……は、はい」
 僕らはみな怪訝そうな表情で店員さんを見つめていた。
「あ、やっぱりぃ?」
 店員さんの声がワントーンほど上がった。
「ゼミの先生、澁谷雅美でしょ?」
「え?」
「もしかして、先生を知ってるんですか?」 
 夕佳里さんの言葉に、相手は「ふふふ」と笑顔で答えた。
「私、雅美の大学時代の友達なのぉ。聞いてないかな。私店長兼オーナーなの」
 そういうば、そんなことを聞いたような気がする。ここの店長は、先生の知り合いだって。
「よくわかりましたね、私達が芸大生で、さらに澁谷ゼミって」
「君に見覚えがあったのよ」
 彼女は徳田の方を向いて言った。
「ゼミコンの時、文芸学科生なのに楽器ケース持ってるな、と印象に残ってだんだぁ。サークルが音楽なのぉ?」
 聞かれて、徳田は「はぁ」と答えた。
 夕佳里さんが嬉しそうに店員さんに話し掛けた。
「話には聞いたことありますよ。ここの店長は先生の知り合いだって……大学時代のお友達だったんですか」
「雅美はね、私の親友なのっ」
 彼女はにっこりと笑った。
親友と言っても、全然先生とタイプが違う。先生が知的なお嬢様タイプなら、こちらは快活そうな、言葉が独特のリズムを伴っている、そんな雰囲気の持ち主だ。語尾を延ばすようなどこか甘えた口調なのに、嫌らしさがない。
そういえば、前に先生に見せてもらった大学時代の写真に先生と映っていたのは、この人ではなかろうか。容貌に見覚えがあった。店員としてすました顔をしていると美人なのだが、笑顔だと「可愛い」という感じに一変して、人懐こさも感じられる。
「ゆっくりしてってね〜ん」
 そう言い、ウィンク一つして彼女は立ち去った。
「あの人の名前、カイって言うのかなぁ……香りの衣って書いてあったけど」
 夕佳里さんの言葉に、徳田が答えた。
「そうだろうな。カエとも読めないでもないが……」
「変わった名前やね」
 穂積さんはこう答えたが、視線はメニューに釘付けになっている。
「どうしよっかなー、このカルパッチョもいいんやけど、こっちのオードブル盛り合わせも美味しそう……」
「両方頼んだらいいんじゃないの? 4人もいるんだから」
 僕が言うと、穂積さんは「それもそうやね」と顔を上げた。
「ここに来ると、なんかベジタリアンな気分になるわ」
「そう言えば、この店ではサラダとか野菜ものを頼むことが多いよね」
 夕佳里さんと穂積さんは、何度かこの店に来た事があるらしい。
「で、他に何頼もうか。徳田君と佳月君も、好きなん何か言って」
 穂積さんはメニューをこちらへ向けた。
「俺はなんでもいいよ。特に好き嫌いはないから」
「そうだな……俺はちょっと辛いものを頼もうかな」
 徳田はメニューを眺め、穂積さんと相談していた。何を頼むかは、もう2人に任せてしまおう。
 僕が向かいの席を見ると、夕佳里さんは窓の外の景色を眺めていた。隣の2人を視界から締め出せば、まるで彼女と2人だけで夕食を食べに来ているようだった。
「夕佳里さんて、お酒飲めるんだっけ?」
「え?」
 話し掛けると、夕佳里さんは僕の方を向いた。
「前にも言ったかもしれないけど、私はそんなに強くないよ」
「そういやさっき、空のグラスを頼んでいたけど、なんで?」
「あぁ、あれはね」
 彼女はちょっと笑って答えた。
「いつも私、お酒を注文したら半分圭ちゃんに飲んでもらってるんだ。飲み物一つ多かったでしょ? お酒はグラス半分だけで、あとはウーロン茶にしてるの」
 あぁ、それで彼女は一人でお酒とウーロン茶を頼んでいたのか。しかし酒は半分しか飲まないって……。
「すいませーん」
 穂積さんが近くの店員を呼んだ。食べ物のオーダーが決まったらしい。
「えっと、海老の生春巻きぴり辛ソースと、サラダ仕立てのオードブルと、オリジナルフライドチキンと」
 ……と、彼女が一度に注文したのは、なんと7種。
「どうせ全部一緒に来るわけないし、いいんちゃうの」
 穂積さんはしれっと言った。
 そう言われたら、確かにそうだけどな。
「……まぁ、お前は知らないだろうけど……彼女の食欲は、普通じゃないから驚くなよ」
「あ、今日は飲む方優先でいくから、あんまり食べへんって」
 徳田の囁きを聞きつけた穂積さんはにっこり笑ってそう言った。が、横で夕佳里さんが苦笑したのを見ると、穂積さんの食欲は飲む方優先でも並よりはすごそうだ。まぁ大食の女の子なら家にもいるから、いまさら驚きはしないが。
「お先にお飲み物お持ちしましたー」
 今度はさっきの店員さんではなく、バイトの若い子がやってきた。飲み物を5つと、空のグラスを1つ置いて去っていった。
「ロングアイランド・アイスティだっけ? それ、色きれいね」
 夕佳里さんが僕の手元のグラスを眺めて言った。
「ね、ちょっともらっていい?」
「え……あぁ、いいけど」
 僕はグラスを彼女の方へ寄せた。
「いや、これはアイスティじゃないから、やめといた方が」
 徳田がそう言ったが、夕佳里さんは空のコップの高さ2センチほど移し入れ、縁から垂れた雫をペーパーで拭った。
「じゃ、とりあえず……」
「かんぱーい」
 グラスを触れ合わせてから、それぞれグラスに口をつける。
 アイスティとは名前と色だけで、全然紅茶の味はしなかった。コーラの炭酸と甘さが一番強く、後はいろんな酒の味が混ざっているという感じだった。
 向かいの夕佳里さんが、複雑な表情でグラスを見つめているのがなんか面白かった。
「どう?」
 僕が聞くと、彼女は視線をあげた。
「うん、なんか、コーラの味がするけど……強いね」
 彼女は平然と飲んでいる僕を見て、僅かに目を丸くした。
「ほんと、佳月君お酒強いんだ……」
「それほどでもないけど」
「えー、徳田君とはるなら、強いよねぇ」
 夕佳里さんはロングアイランド・アイスティがまだ残っているグラスを、持て余すように揺らした。
「後飲める? 私が飲もうか?」
 穂積さんが夕佳里さんの手元のグラスを見て言った。
「ん……うん、そうだね、飲んでもらおうかな」
 穂積さんはグラスを受け取り、まず少しだけ口にした。
「ちょっと強いやん。でもまぁ、これぐらいなら大丈夫か」
 そう言って、残りをぐいと一気に飲み干した。
「おぉ、さすが圭ちゃん」
 夕佳里さんがぱちぱちと手を鳴らした。
「あんたが弱すぎんの!」
穂積さんはそう言って、空にしたグラスに夕佳里さんのアプリコットフィズを半分ほど移し入れて返した。
「はい」
「あ、ありがとう」
 夕佳里さんはグラスを受けとり、口をつけた。が、その様子は飲むと言うよりも舐めて味を見ていると言った方が正しく……マジに弱いんだな、夕佳里さん。今まで酒に強い知り合いが多かったので、彼女のような人は新鮮だった。あ、でも高崎もそんなに強くなかったな。
「佳月君は、結構飲みに行くこと多いん?」
 穂積さんの質問に、僕は「いや」と答えた。
「あまり外では飲まない」
「じゃ、家で?」
 家でもそんなに飲まないんだが。
「この前、高崎の家に行った時、2人でナポレオンを空けたっけな」
「うわ、すごい」
 徳田がそう言うと、穂積さんが声をあげた。
「めちゃ強いやん」
「最後意識なかったよな。さすがに」
「俺はかろうじて、3時ぐらいまで時計を見た記憶がある」
 徳田が答えた。
「百人一首の話してて……」
「そうそう、80番台ぐらいまで言ってた気が」
「70番台じゃなかったか?」
「崇徳院までは覚えてるぞ」
「そうだっけ」
 さすがに細かいとこまでは覚えていない。
「崇徳院て、瀬をはやみ……ってやつだったかな」
 夕佳里さんの言葉に、徳田が頷いた。
「作者から歌がすぐ出てくるとは、芳峰さんも百人一首好きな方なんだな」
「この子、中学校の時、学年一位だったんよ」
 穂積さんが言った。
「百人一首で?」
「学年で百人一首の大会があってね、それに参加して、一位だった」
 夕佳里さんは少し照れたような笑みを浮かべた。
「そりゃ、すごいな」
「じゃ、あれか。あの札を吹っ飛ばすやつ、できるわけ」
 僕が手でその仕草を真似ると、彼女は首を振った。
「いやぁ、そこまではさすがに」
「でも、早いんだよね。百人一首なら、俺も自信あるよ」
 僕がそう言うと、徳田がからかうように「なんせ、名前は歌人紀友則からもらってるしな」と言った。
いや、それは百人一首の札取りの早さとは関係が……。
「わかってるって。言ってみただけだ」
「へーぇ、そこまで言うなら、機会があれば手合わせしてみたいね」
 夕佳里さんは自信ありげな笑みを浮かべた。
「その時は俺が札を詠んでやるよ」
 徳田が言うと、穂積さんが「じゃ、私審判したるわ」と言った。まぁ実現するかわからないけどやってみたいものだ。
「でも夕佳里さん、ほんとに自信ありそうだね」
「そりゃ、私は少年探偵団を志してたから、記憶力も鍛えておこうと思ってて。万葉集は途中で挫折したけど、百人一首ぐらいならね」
 僕の言葉に、夕佳里さんはおどけた口調でそう言った。万葉集まで覚えようとしていたのか。でもさすがに、あれを全部覚えるのは無理だろう。僕も万葉集の歌はいくつか覚えているけど、歌はともかく詠み手までは覚えていない。
「あと息を3分ほど止めていられたら、ばっちり?」
 僕がからかうと、彼女は「それはどうやっても私には無理かな」と答えた。
「なんで息を止めるのが関係あるんだ?」
 徳田が聞いた。
「少年探偵団のリーダー小林少年はね、敵がクロロホルムで眠らせて拉致しようとしても、3分息を止めていられるから、眠らずにすむんだよ。そうして敵の本拠地へ侵入して、活躍するの」
 夕佳里さんの答えに、徳田は僅かに眼を細めた。
「3分か……クロロホルムは確かに麻酔性はあるが即効性はないらしい」
「え?」
「ドラマで見るほど、簡単に人を眠らせるのは無理だそうだ。知ってる人が薬品関係の仕事をしていて、教えてくれた」
 徳田の説明に、夕佳里さんは腕組みをして考え込むような表情を見せた。
 そこで料理が到着したので、僕らは会話を中断し、店員さんが皿を置いて去るまで待った。
「ねぇ、クロロホルムって、どんな匂いなのかなぁ」
「え」
 徳田は袋から割り箸を出す手を止めた。
「どんな匂いって……俺は嗅いだことないから」
「乱歩が書いてるの読むとね、なんか甘酸っぱいような匂いって書いてあった気がするんだよね……本当のところはどうなのかなぁ。催眠作用があるんだから、いい匂いのような気がするけど」
夕佳里さんの言葉に、穂積さんが小皿に料理をよそいながら「うんうん」と相槌を打った。
「でもあれって、劇薬だったと思ったけど」
「劇薬って、刺激臭があるよな、たぶん」
 僕と徳田の言葉に、穂積さんが眉をひそめた。
「硫黄みたいに、卵が腐った臭いとか? いややわぁ、そんな薬を浸した布で口を押さえられんの? 麻酔よりも臭いで気が遠くなりそう」
 そう言ってから、箸ではさんでいた春巻きをぱくりと食べた。
 ……大食と聞いたせいか、彼女の食べ方を観察してしまう。いや、あんまりじろじろ見るのはよくないな。
「麻酔……と言えば、『華岡青州の妻たち』を思い出すな」
 徳田がそう言ったので、僕は口に入れていたものを飲み込んでから言った。
「あぁ、知ってる。自分の母親と妻を、麻酔の実験台に使う医者の話だろ」
 小さい頃、映画をちらっと見た記憶が……。
「医者といえば」
 穂積さんが言った。
「河村先生の授業の、テキストの泉鏡花の短編集。あの本に『外科室』ってあったやん。あれ、読んだ?」
「俺は『海城発電』を読んでいたから、『外科室』はまだ読んでない」
 うわ、徳田は『海城発電』かよ。あれ読みにくいから、僕は真っ先に候補から除外したのに。
 穂積さんは徳田から僕の方へ視線を移した。
「俺は、『夜行巡査』ってやつ」
 『夜行巡査』が一番短くて読みやすかったし……。
「『外科室』って、あれ、麻酔なしで手術してくれって、女の人が言うんよ」
「いたそーだよねぇ」
 夕佳里さんが自分の肩を抱きしめ、身を震わせた。
「なんで麻酔なしで手術してくれって言うんだっけ」
「麻酔をかけると、人はうわごとを言ってしまうものらしい。こんなに強く思っていたら、絶対言ってしまうはずだから、今麻酔をかけられたくない……とか言ってたような」
「そこまでして、何を知られたくなかったんだっけ……」
 徳田も覚えていないらしく、穂積さんに言った。
「手術をする医者のことを、昔好きだったってこと」
「それも、10年も前にちょっとすれ違った一目ぼれの恋のことやねんで」
 夕佳里さんと穂積さんが交互に言った。
「でもね、やっぱ面白いのは『義血侠血』とかいうやつじゃない?」
「え、あれって面白かった?」
 主人公の女性が強盗に入って、人殺しするような内容なのに。
「ううん、面白い箇所があんねん」
 穂積さんが夕佳里さんと顔を見合わせた。
「女性がね、男性に資金の援助を申し出るんだけど、その見返りの話をするとき」
「『私を可愛がってほしいの』とか言うんだよ。で、男性の返事が」
「あぁ、俺も知ってるよ。『よろしい、もう他人ではない』だろ」
 徳田がそう言ったので、皆で爆笑した。徳田がそんなセリフ言うと、おかしい。
「そうそう、おっかしくない? 『もう他人ではない』ってさ」
「真顔で言うんだもんねー。どういう意味にとっていいんかなぁ」
「その日から、恋人ってこと?」
「それはないだろう。義兄弟とか、そういう意味の『他人ではない』かも」
「でもそれだと、可愛がるって言葉は?」
 微妙な表現だな。
「あ、でもあんまり鏡花のこと深く話してると、ちょっと食事向きな会話じゃなくなってくるね。やめようか」
 そこからはしばらく、黙々と食べることに専念していた。頼んだ料理が次々に来たので、片付けるのに忙しかったからだ。
 ふっと夕佳里さんの方を向いた僕は、少し驚いた。
「大丈夫? 顔が赤い」
「……うん、なんか、ちょっと熱いかな」
 夕佳里さんは自分の両頬を押さえた。
「ほんと、すぐ酔うんやから。ほら、ウーロン茶飲んどき」
 穂積さんに促されて、夕佳里さんはウーロン茶に口をつけた。
 ……めちゃくちゃ弱いんだな。たったコップ半分で、この状態なんて。
 夕佳里さんは頬を染め、やや潤んだ瞳をしていた。
 うわ……酔わせてみたい……って、思ったり。
 最近やばいなぁ、俺。
「大丈夫か? 頭でも痛いのか」
 額を押さえていた僕に、徳田が声をかけた。
「いや、ちょっと……」
「?」
 徳田の怪訝そうな眼差しに、僕は手を振って「なんでもない」と答えた。
「やっぱここのドレッシングはおいしーい。ほどよい酸味と濃厚な味……」
 穂積さんはふっと吐息をついた。
「うん、美味」
 穂積さん、料理番組のリポーターみたいだ……。
 飲む方優先と言っても、穂積さんの箸さばきは鮮やかだった。
 一気にたくさん取るわけでも、せかせか食べているわけでもないのに、気付くと彼女の皿は空になっている。
「あ、この最後のチキン、もらっていいんかな」
 そう言いながらすでに箸を構えている彼女を見て、誰が否と返せるというのだろう……。
「あぁ、どうぞ」
 あのチキン、一個しか食べてなかったけど……まぁいいか。明日店がつぶれるわけでもないし。
 ゼミコンの時も料理を食べたが、実はあの時の料理の味はあんまり覚えてない。が、またこうしてじっくり料理を食べてみると、この店の料理が結構美味しいのがよくわかった。
 僕は最初の一杯だけで酒は止めたが、徳田と穂積さんはその後も何杯か注文していた。が、2人とも全然顔に出ないタイプだ。比べてコップ半分の夕佳里さんは、しばらくたってやっと頬の赤みが治まったところだった。これほど弱い人といくら飲んでも酔えない人と、どっちが不幸なんだろうか。
「そろそろ、お開きにしよう」
 徳田が時計を見て言った。つられて僕も時計を見た。9時前だった。2時間ほどこの店にいたことになる。
 会計はとりあえず徳田が済ませることにして、後は飲み物は各自、食べ物は割り勘。電卓がないので、僕の携帯で計算することになった。
「佳月君、その画面、なんか貼ってるん? 妙に光ってるけど」
 穂積さんが僕の携帯を覗き込んだ。
「あぁ、これ? 保護シール」
 穂積さんはまじまじと携帯を眺め、「あ」と声を上げた。
「もしかしてキティちゃん?」
「そう」
 この前紫が「保護シールあまったから兄貴の携帯にも貼ってあげる」と半ば強引に僕の携帯を持っていき、キティちゃんの保護シールを貼って返してきたのだ。しかも普通のキティちゃんではない。制服にルーズソックスをはいた女子高生スタイルのキティちゃんだった。僕は紫に礼を言う気になれなかったが、紫は僕が買い置きしていた缶コーヒーを報酬として勝手に飲んでしまった。咎める気力さえ失せてしまう、そんな力を持っている女子高生キティちゃんである。
 僕は一応自分の意志で貼ったわけではないことを、穂積さんに伝えた。
「ふぅん、妹かぁ」
 穂積さんは僕の携帯を眺めつつ、眼を細めた。
「……美也子かと思った」
「え?」
 穂積さんのつぶやきは、はっきりと聞くことができなかった。
「ありがとうございましたー」
 レジの方を向くと、立山さんがこちらへ笑顔を向けて、手まで振っていた。
「また来てねー」
 会計を終えた徳田が、レシートを穂積さんに渡した。
「じゃ、チェックするわ」 
 ペンを持ってレシートを見ていた穂積さんが声をあげた。
「なんか、妙に安くない?」
「えーと……あれ、なんか割引入ってる」
 夕佳里さんが声をあげた。
「え?」
「ほら、みて」 
 僕はレシートを受け取り、徳田と覗き込んだ。
 確かに、一番最後の欄に『チケット割引』と書いてあった。代表して会計した徳田がチケットなんて出していないことから結論として、
「……もしかして、サービスしてくれたのかな」
「かも、ね」
「澁谷ゼミだからかな」
「かも」
 今度澁谷先生伝で礼を言ってもらおうということになった。
 精算を終え、ビルのエレベーターを出て駅の方へ向かおうとした時、
「あ」
 不意に、夕佳里さんがよろめいた。
「大丈夫?」
「酔ってんの?」
 穂積さんが手を伸ばそうとしたが、夕佳里さんは壁に手をついて一人で体勢をたてなおした
「ううん、ちょっとつまずいただけ」
「つまずいたって、足元になんもないのに。やだ、あんたほんとに酔ってない?」
 たったコップ半分の酒で、足元がおぼつかないほど酔っ払う人なんているんだろうか……。
「大丈夫だってば、ほんとに。ちょっとふらっとしただけだよ」
「私、送ろうか?」
 穂積さんの言葉に、夕佳里さんは笑って首を振った。
「そんな、大げさだよ。大丈夫って」
「佳月、送ってやれよ」
 唐突にそんなことを徳田が言った。
「え」
 一同、一斉に徳田へ向き直った。
「穂積さんも俺も遠いし、ここは佳月に任せて芳峰さんを送ってもらった方がいいと思う。確か佳月は、彼女の隣の駅だったよな?」
「あ、俺はいいけど……」
 夕佳里さんの方を見ると、彼女はぶんぶんと首を振った。
「え、いいって。そんな」
「そんなん……いいよ、私が送るわ」
 穂積さんが言ったが、それを夕佳里さんが止めた。
「圭ちゃん、明日1限目、司書の授業じゃなかった?」
「そうやけど……」
「いいよ、私、一人で帰るから」
 夕佳里さんはそう言ったが、この機会を逃さないよう、僕は「いいよ、送るよ」と言った。
「そんなの、悪いよ」
「いや、何かあってからじゃ遅いから」
 僕がそう言うと、穂積さんは僕の方へ……顔を向けたらしいが、僕はいかにも自然に眼をそらし、彼女の視線を避けた。もし彼女が目から冷凍ビームを出せたなら、僕は凍っていたに違いない。それぐらい、冷たい視線を感じた。
「穂積さんも結構飲んでるし、今日は佳月に任せて早く帰った方がいい」
 徳田にそう言われて、穂積さんは自分の飲酒量を思い出したらしい。カクテルを5杯というのは多くはないにしろ、素面とはとても言えない量だ。夕佳里さんを送って行くと遅くなるし、彼女だって危険なことには変わりない。
 そんなことで、僕が夕佳里さんを送ることになった。
 僕と夕佳里さんがJR、徳田は同じくJRだが僕らと違う方向、穂積さんだけ地下鉄なので、駅の手前で別れることになった。
「佳月君」
 穂積さんがにっこりして言った。
「くれぐれも、送り狼になんてならないよーに」
 口調は冗談めかしているが、眼は笑っていない。……こわ。
「わかってるって」
 僕は至極真面目に答えた。ここで冗談にしてもよからぬことを言ったら、穂積さんは今度こそ、徳田がなんと言おうと夕佳里さんを送ろうとするだろうな。
「じゃあ、気をつけて」
 違うホームへ向かう徳田に、僕は心の中で彼に感謝しながら手を振った。
 彼女と一緒に帰っても、いつも降りる駅は違っていた。だが今日は彼女を家へ送り届けると言う大義名分のため、同じ駅で降りることになる。
 改札を出ると僕は立ち止まって、数歩遅れてやってくる夕佳里さんを待った。
「駅からどのぐらい?」
「15分ぐらいかな」
 夕佳里さんは定期を鞄に納めると、顔をあげて僕の方を向いた。
「ありがとう、佳月君。もういいよ、ここまでで」 
 そう言われても……。
「いや、せっかくだしもう少し、送るよ」
 じっと見つめると、彼女は困惑の笑みを浮かべた。
「いいの、ありがとう」
「ほんとに、何かあったら困るから」
 しばらくそんな会話を続けていたが、彼女はふっと表情を和らげて言った。
「じゃあ……途中に公園があるんだけど、そこまで送ってくれる?」
「わかった」
 ……って、公園、めちゃ近かった。歩いて3分とかかってない。 
 そこは小さな公園だったが、ブランコ、シーソー、ジャングルジムと揃っていて、そして子供が忘れたらしい、小さなプラスチックのバケツがぽつんとある砂場が隅の方にあった。
 すぐにさよならかと思っていたが、夕佳里さんは別れの挨拶を切り出すでもなく、
「私ね、ジャングルジム見ると、思い出す話があるんだ」
 と、ジャングルジムの鉄柵に触れた。
「なんかね、コバルト文庫の投稿作品の短編集で読んだ話だと思うんだけど」
 コバルト文庫……江戸川乱歩を読む人でも、コバルト読むのか。どういう読書傾向なんだろう。コバルト文庫の作家って、すぐに出てくるのは赤川次郎ぐらいだな。
「ある男が……酔っ払ってたのかな? 夜通りがかった公園で、遊具を乱暴に扱って、壊したりするの。最後にジャングルジムに登るんだけど、中に入ったまま出られなくなってしまうって話。ジャングルジムって、大抵一番下から出入りできるように、1本棒が外してあるでしょ? でもそれがどこからも出られなくなってしまうの。最後どうなるか忘れちゃったけど……」
「……それは怖いな」
 一生ジャングルジムの中で過ごすのか……。
「なかなか、シュールな話だね」
「でしょ」
 彼女は頷いた。
「最後、どうなったんだったけなぁ……反省して、出られたのか……」
「それとも、一生ジャングルジムの中で?」
 怖いなぁ……。
 ジャングルジムに手をかけると、夕佳里さんがいたずらっぽく笑った。
「……登る?」
「出られなくなったら、どうする?」
「そんな馬鹿な」
 僕と夕佳里さんは顔を見合わせ、一瞬笑った。
 僕の方が先に上に登り付き、外側を向いて体勢を整えた。遅れて夕佳里さんも一番上へやってきて、同じように外側を向いて座った。
 住宅に囲まれていて空も大して見えなかったが、風が涼しく心地よかった。
「……昔は随分高い気がしたなぁ」
「そうだね」
 下を向いても、高いなんて思わない。一番上からでも飛び降りることができそうだった。
「小さい時、ブランコに乗って靴飛ばしとかしたでしょ? 今だったら、かなりの距離を飛ばせると思う」
「今だったら、公園から飛び出してしまいそうだな」
 話しながら、ふと隣を見る。
 体を支えるために棒を握っている互いの手は、20センチほどの距離しか空いてない。もう少しそれをずらしてしまえば、もう彼女の手に触れられる近さだった。
 でも今触れたら……彼女が落ちてしまうかもしれない。それは怖いな。 
 ジャングルジムを降りると、僕と彼女はブランコにも乗った。鎖がきしむ音が思っていたより大きく公園に響き――夕佳里さんは油をさすべきだと文句を言った――長くはブランコに乗れなかった。
 彼女はブランコを囲んでいる鉄柵にもたれた。僕も倣って、同じような姿勢でもたれた。静かな夜に穏やかな風……と思っていたら、近くの団地から子供の泣き声が聞こえて、いっきに現実に引き戻された。うーん……。
「佳月君、覚えてるかな」
「え?」
「『ひとめあなたに……』読んだんだよね。あの作品の中で、主人公の圭子が夜の公園にいるシーンあったの覚えてる?」
「あぁ……うん」
 僕の返事に、彼女は微笑んだ。自分が好きだという作品について、誰かと語ることができるのが本当に嬉しいらしい。ふと、シューマンについて語っていた時の徳田の顔を思い出した。
「あれは特別なことが起きるわけじゃないんだけど……現代に生きてる人間が、いきなりファンタジーなことに巻き込まれたりするのって、夜とかじゃない? 
「例えば……『銀河鉄道の夜』みたいに?」
「そうそう」
 夜は、太陽の光の元では見えない扉が開くかのようだ。陽光よりも月光の方が魔力を持っている、そんな気がする。
 僕の言葉に、夕佳里さんは小さく頷いた。
 いつもよりも小さな声で、僕らは囁くような会話を交わした。そうすることが夜を語るのに相応しいように思えたからだ。
「……夜の、静かな時間が好き」
 彼女の髪を、風がなぶっていく。もう少し風が強かったら彼女の髪が僕の腕に触れる、そんな距離。微かな声でも届く、そんな近くに彼女はいた。
「ラジオを聴くのもいいけど、何もつけないで、電気も消して、壁にもたれてじっとしてみたり……私の家の方は大きな道路がないから、車があまり通らなくて夜は静かなの」
 羨ましいことだ。隣の区である僕の家の方では、未だに暴走族らしいのが夜中に近所を走っていることがある。
 そう思ったが、僕は彼女の言葉に口をはさむのは止めた。遠くを見つめているような彼女の横顔と、その向こうの夜空を眺めていた。
 たぶんこの時の彼女は、僕のことを、同じ感覚を共有できる相手として見てくれていたのかもしれない。そうでなければ、異性である僕といつまでも公園で話そうなんて思わなかったはずだ。いつもは微笑の裏に見え隠れしている不安を忘れたように、彼女は静かに言葉を継いだ。
「世界が眠っているのに自分だけが起きているような、そんな気持ちになれる時間が好き」
 なんで、こういう時に改めて思うんだろう。
 彼女が好きだって。
 彼女がふと笑顔を見せるだけで、彼女を好きだという気持ちが溢れてくる。ささいな仕草でさえ心を揺さぶり、わずかな表情の変化が感情を煽る。強いけれど、激しくはなく――むしろ、静かに、それは僕の中に染み入って僕の中を占めていく。もう他のことなんて考えられないぐらいに。いやもう、他のことは考えられない。
 好きだ。
 今すぐこの手をのばして、抱き寄せたい。
 そんな自分の想いに驚きながらも、その感情が偽りようのない真実だと改めて感じ、今すぐにその気持ちを伝えたいと切に思った。
 あぁやばい。
 僕はその感情を抑えようと思った。違うことを考えて気をそらそうとしたが、どうしても無理な話だった。
だって彼女が隣にいるんだから。その声が聞こえるから。じっとしていれば、彼女の息遣いすら聞こえそうな距離だったから。
「好きだ」 
「え?」
 彼女はこちらへ振り返った。ちょうど通りがかったバイクの音で、僕の言葉がよく聞こえなかったらしい。
 その時だったら、その一言はごまかすことも可能だった。が、僕はそんなことはしなかった。
 1度口にしてしまうと、2度目は思ったより簡単に言えた。
「……君が、好きだ」
 言えないと思っていた一言が、こんなにするりと言えてしまうなんて――。
 だが、言った後、高揚感は不思議と収まり、代わって心を支配し始めたのは妙な静けさだった。
 どんな言葉が返ってきても冷静に対応できるように、僕は無意識のうちに自分を落ち着かせようとしていた。ただそれは受け入れられた時の場合ではなく、断られた時の動揺に対してのものだった ただ、僕は伝えたかった。彼女に知って欲しかった。
 僕は君が好きなんだと。
 気持ちを言葉で表わす難しさは知っていた。……けれど、今はこの一言で足りた。だがその言葉に、相手が必ずしも笑顔で応えてくれるとは限らないことも、僕は知っていた。
 だけど、伝えたかった。
 僕は自分を見つめる彼女の眼を見つめ返し、初めて自分が口にした告白の言葉の余韻を味わっていた。
離れずに暖めて
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