Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  23
 彼女には言わなければいけないことがあった。
 いつ言おう。できたら二人だけの時がいい。でも学内でそんなタイミングがあるだろうか。
 僕は教室へ向かう階段の踊り場で立ち止まった。後ろからついてきていた夕佳里さんが、僕を不審そうに見上げてくる。
「あのさ」
「え?」
「君に、言っておきたいことがあるんだ」
 彼女の表情をかすめた不安の色を見て僕は焦り、率直に切り出すことにした。
「あの、この前の、電車の中で君に見せた本のことだけど」
 言葉が足りず、彼女は最初何の本のことかわかってくれなかった。
「……牧さんの、小説?」
 彼女は「あぁ、あれね」とつぶやくように言った。
「別に、俺……ああいうポルノ小説がすごく好きってわけじゃないから」
「え?」
 眼を瞬かせる彼女に、僕は言った。
「いや、本を渡したとき、てっきり少女小説のほうだと思ってて、間違えて違う方渡してて……牧さんは少女向けの小説と、ああいう系の小説の両方書いてるんだよ。あのとき、君に『こういうのが好きなのか』ってきかれて、俺『わりと好きだけど』なんて答えちゃったから……その」
「あぁ、別にそんなの」
 夕佳里さんはくすりと笑う。その笑顔が曲者だと、僕にはわかっていた。
「佳月君も男なんだし……そういうの読んでたって、別に不思議には思わないけど」
 あぁ……違う。違うんだ。そうじゃない。
「いや、だから……」
 そりゃ僕だって読んだことないとは言わないし、これからも絶対読まないとは言わないけど……。
「変な誤解されたくないから……君には」
「私……には?」
 彼女は言葉尻をとらえ、繰り返した。
「私には、って……どうして?」
 じっと見つめられて、僕はうろたえた。
「どうしてって……俺は……」
 彼女の目が、無言で続きを促していた。
「俺は……」
 喉まで出かかった言葉が、声にならない。
 あと、一言だった。
「俺は、君が」
 
 
 僕はベッドの上に起き上がり、呼吸を整えようと努めた。
 俺……夢の中で、夕佳里さんに告白しようとしてた。
 早鐘をつくような鼓動。早鐘がどんなものかは聞いたことないが、その形容にあてはまる鼓動ってこれなんだって実感するほど、心臓がばくばくいっていた。こんなにどきどきしてるのは、生まれて初めてだ。学園祭のクラスの演劇で舞台にあがったときだって、入試の合格発表だって、こんなに緊張しなかった。
 告白。あれって、かなりの勇気がいるんだ。
 20年生きてきて、告白されたことは数回あった。だけど無下に断っていた気がする。俺って結構嫌な男だったのかも知れない。あんなに勇気が必要な行為なら、断るにしてももう少し優しい態度で応えるべきだった。
 僕は夢の中で夕佳里さんに言おうとしていた言葉を言おうとした。
「俺は……」
 一呼吸ついて、続きを言おうとする。
「君が…………」
 そこまで言って、喉になにかがつかえたかのように、言葉は止まってしまった。
「…………」
 僕はもう一度ベットに倒れた。天井を仰いで、ため息をつく。
「言えないや……」
 もし、あれが夢の中だってわかってたら、彼女に好きだと言えただろうか。そして夢の中の彼女は、なんて答えてくれただろう。
 僕は眼を閉じて、しばらく考えてみた。
 ……だめだ、想像できん。
 あぁでも、夢の中ででも受け入れてもらえていたら……調子に乗って、キスの一度や二度はしていただろう。でももしそんなことになっていたら、目覚めた後に自己嫌悪に陥っていたかもしれないな。触れられるのすら嫌がっている彼女に、そんなことを強要はできないから。
 しかしそう考えると、夢の中でぐらいは……。
 …………。
 …………。
 …………………………。
 ……あかん、だめだ、起きよう。昨日読み終えた牧さんの小説が、僕の脳に悪影響を与えているらしい。
 思考がこれ以上やばい方向へ流れる前に、僕は起きあがって洗顔をすませた。
 時計を見ると、8時だった。中途半端な時間に起きてしまったもんだ。今日の授業は午後からだから、あと2時間は寝ていられたのに。
 紫が散らかしていったらしい新聞を広げ、観ないのにテレビ欄を一通りチェックした。だが新聞記事の文字を読みながらも、頭からさっきの夢のことが離れなかった。
 思い返せば、カラーの鮮明な夢だったな。場所が学校というのが色気がないが、一番ありそうなシチュエーションで、まるで現実に彼女に告白しようとしているみたいだった。
 ……告白、か。
 その結果は二つだけだ。そして結果によって、僕と彼女の関係は変わってしまうだろう。
 別に、今のままだって構わない。もう少し、彼女が警戒心を解いてくれるようになってからでもいい。
 そう思う反面、貪欲に求める自分の存在に気づいていた。
 自分の想いを知ってほしい。
 自分が相手の中で不動の位置を占める存在で在りたい。ただの友達から、当たり前に彼女のそばにいることのできる存在になりたい。
 そして、彼女に触れたい……欲望はつきない。美緒さんの時とは違う。あの時みたいな一瞬の衝動じゃない。今抱えている欲求は少しずつ増長し、どんどん強くなっていくだろう。
 ……ふと、清水さんのことを思い出した。
 彼女も、こんな気持ちを抱えているのだろうか。
 それは、本心で言うと、否定したい事実だった。
 できれば、彼女が僕に好意をもっているというのが嘘であればいいとさえ思った。それは自己中心的な願いだったが、そうでなければ……。
『選ばれない辛さって、結構大きいものよ』 
 澁谷先生の言葉が蘇る。
 僕は選ばれる立場であり、同時に選ばなければいけない立場にあった。
 僕に言えるだろうか。彼女を拒絶する言葉を。僕自身が、夕佳里さんに言われたくないと思っている言葉を、清水さんに言うことができるだろうか……。
 


 芸バスから降りると、僕はふっと息をついた。
電車もバス混んでいて、MDの音量にも気を使うほどだった。U2のバラード曲が全然聞こえなかった。もう一度聴こう。何曲目だったかな……。
 坂の手前で立ち止まってリモコンを操作していると、「おーい、かづきー」と僕を呼ぶ声がした。
 振り返ると、高崎が手を振りながらこっちへ走ってこようとしていた。僕が乗っていたバスに一緒に乗っていたらしい。ただ彼の方が後ろに乗っていたのか、出てくるのに時間がかかったようだ。
 なんか高崎に会うのは久しぶりだな。
 手を振り返し、僕はその場で高崎が来るのを待とうとしたが……不意にいたずらっ気を起こした。
 僕は素早くMDのヘッドホンを鞄に押し込み、目の前の芸坂を頂上目指して駆け出した。ちょっと急な坂だが、過去に走って登っている人を見たことがあるから僕も走りきることができるだろう。
「あ、おい、待てや」
 案の定、高崎は僕を追って坂を走ってきた。ここで「自分はのんびり追いつこう」と思わないところが高崎なのだ。
 周囲の奇特なものを見るような視線を気にせず、僕は登り切ったところで息をついて、高崎が来るのを待った。さすがに坂を駆け上がるのは楽ではなかったが、まだまだ体力は落ちていないようだ。
 しばらくして、高崎がやってきた。彼の方は運動不足らしく、荒い息をついていた。コンビニ店員よりファーストフード店員の方が運動量は多いってことか。
「な、なんで……なんで走んねん……」
「いや……なんとなく」
 10月に入ったとはいえ、まだまだ暑い。高崎は鞄から出したタオルで額の汗を拭った。
「あーもう、あっついわ。なんか冷たいもん、飲もう」
 僕と高崎は一番近くの食堂である1食に入った。
 それぞれに飲み物を買って、隣り合った椅子に座る。
「そうそう、佳月」
 高崎は急に真面目な顔をした。
「俺は、お前に言わなあかんことがあんねん」
「……え」
 僕は彼の改まった口調に、どういうリアクションを返そうか咄嗟に考えた。冗談で返すか、真面目に返すか……うーん、迷うな。
 茶化そうかとも思ったが、今回はノーマルでいこう。
「なんだよ」
 そう言うと、高崎は真面目な顔をもう崩して、照れたような表情を見せた。
「……っと、俺さ、最近、彼女できてん」
 あぁ、その話か。
 僕は前に清水さんに聞いていたのであまり動揺はしなかったが、表情は「驚きました」という顔を見せた。
「本当はもっと早く言おうと思っててんけど……なんか、うまくいってから報告したくってさ」
「で、相手は誰なんだよ」
 僕はからかうように、高崎に言った。
 すでに清水さんに聞いて予想はついているが、ここは高崎の口から言わせてやろう。
「佳月も知ってる子やねん。誰やと思う?」
 逆に、高崎に質問される。
「俺も知ってる子? えーと……」
 しばらく考える。すぐに正解を言うのはつまらんから、最初は外していく必要があるよな。
 同じ学科の知人、サークルで名前を聞いたことのある子と名前をあげると、それに高崎が「はずれ」と返す。
「わからん。降参。教えてくれ」
 そう言うと、高崎は笑いながら「そうか、わからんか」と勿体つけてみせた。
「なんだよ、早く言えよ」
「んー、どうしよっかなー、やっぱ言うのやめとこっかなー」
 高崎は調子にのって、じらす作戦に出たらしい。
「早く言えって」
 僕は彼の脇をくすぐってやった。少ししかくすぐってないのに、彼は息も絶え絶えに笑い声をあげた。
「や、やめろ、やめろって……わかった、言うから」
「最初から素直にそう言えばいいんだよ」
 僕が手を離すと、高崎は何度か深呼吸して「伊藤さん」と言った。
「伊藤さんて、あのアパートの下の伊藤さんか」
「そう、下の伊藤さん」
 彼がそう答えたので、
「伊藤さんて呼んでんの?」
 僕が聞くと、高崎は少し頬を赤らめ「いや、ともかって」ともごもご答えた。
「一緒に大学に通ったりしないのか?」
 僕がそう言うと、高崎は首を振った。
「ま、まぁそういう話もあったけど授業の時間結構ずれてるし……ま、家が上と下やから、いつでも会えるしな」
「そうだな」
 高崎は照れくさいらしく、髪をかきまわしたりふっと天井を見上げたりと落ち着きない仕草を見せた。
「ま、よかったな。伊藤さん面白いし可愛いし」
 僕がそう言うと、高崎は僕の顔を見た。
「佳月の方は?」
「へ?」
「彼女」
 彼は僕の方へ身を乗り出した。 
「なんか、佳月って、個人的なこと隠すタイプやし……俺の知らんとこで、誰かと付き合っててもおかしくなさそう」
「そんなことしてない」
 僕の返事に、高崎は「そうか……」と缶に口をつけた。
「じゃ、好きな子とか、は」
 そう聞かれたので、ごまかすこともないかと僕は素直に答えた。
「まぁ……好きな子は、いる」
 僕の返事に、高崎は心底驚いたような顔をして、僕の服をつかんだ。そのまま揺すりかねない勢いだった。
「え、誰、誰やねん、教えろ。教えてくれ」
「まだ言えない」
 高崎は手を離したが、なおも食い下がった。
「じゃ、これだけ教えてくれ」
「なんだよ」
「学内の子?」
「秘密」
「俺の知ってる子?」
「秘密」
「えー」
 続けてはぐらかすと高崎は不満そうな声を上げたものの、「うまくいったら、すぐに教える」という言葉に渋々引き下がった。
「しかし、佳月いつの間に」
「それはこっちのセリフだよ。いつの間に伊藤さんと。お前から告白したのか?」
 僕が軽く肘で小突くと、高崎は真っ赤になった。
「あ、うん、それは、まぁ」
 その態度があんまり妙だったので、僕はもう少し突っ込んで聞いてみた。
「いや、それが……」
 それから彼がどもりながら教えてくれたのは、まるでドラマのような話だった。
 先月高崎が深夜のバイトの後、駅前のローソンに寄って(ローソンにしか売っていないデザートを買いたかったらしい)帰宅途中、終電で帰ってきたらしい伊藤さんを見かけた。高崎が彼女に追いつこうとする前に、不審な人物が伊藤さんに声をかけ、強引に車の中へ引き入れようと腕を引っ張っていたのを、
「お前なにしてんねん」
 と体当たりを食らわせて、伊藤さんの手をとって逃げた。
 その後伊藤さんが(彼女は実は前から高崎のことが好きだったようで)「これからも私を守って!」と告白し、やはり伊藤さんに好意を抱いていた高崎が断るはずもなく……めでたしめでたし、と。
「わーぉ、かっこいいー」
 僕が言うと、高崎は照れまくった。
「いや、俺、もうそん時は夢中やって……」
「いや、すげぇ、かっこいいよ」
「あ、うん、はは……サンキュ」
「これは徳田にも報告しとかないと」
「あぁ〜、恥ずかしい。言うんやったらストレートに、さらっと伝えといてくれ」
 いいな。
 まだ照れている高崎を見て、そう思った。
 もし僕が夕佳里さんのことを好きだと思っていなければ、「俺もそのうち」とか気楽なことを考えただけだったかもしれない。
 だけど、今好きな人がいる身としては……彼が羨ましかった。
 もし高崎と同じような場面に出くわしたら、僕だって迷わず彼女を助けるだろう。もちろん多少腕に覚えがあるという強みがあるから言えることだが……彼女が危機に瀕していたら、僕にできることならしてあげたい。でもそういうきっかけを望むってことは彼女がそういう危険にあうことを望むってことで……それはいただけないな。まぁそんなことはないに越したことはないが、もしもの時、彼女の近くにいられたらいいのに。他の誰でもなく、この僕が。
「……っと、この前牧さん来たんやんな」
 気恥ずかしくてしょうがなかったらしく、高崎は話を変えた。
「そうそう。あ、これ牧さんにもらったんだ」
 僕が牧さんの名刺を出すと、高崎はそれをしげしげと眺めた。
「肩書きは別にないんやな……牧、泰之。へぇ……ペンネームじゃなくて、本名書いてるんか?」
「みたいだな。ペンネームで自己紹介するの、気恥ずかしいようなことを前に言ってたし」
「ペンネーム……なんて名前か忘れたわ。なんやったっけ」
「……俺も記憶があやしい」
 昨日読んだとこだったのに、そこはよく見てなかったな。少女小説の方は、なんか女性的ともとれるような名前だった気がするんだが。
「今でも少女小説とポルノ、両方書いてんのかなぁ」
「そうらしい」
 ポルノで思い出し、僕は高崎に愚痴ろうと口を開いた
「そうだ、俺は牧さんの小説のおかげでひどい目に……」
 言いかけて、言葉を切った。
 この話を全部彼に話そうとしたら、夕佳里さんの名前が出てくるわけだが……あ、でも別に僕が夕佳里さんを好きだということを省いたところで、おかしなことはないな。
「なんや、ひどい目って」
「それがさ」
 僕は牧さんに小説をもらったこと、帰りの電車の中で、夕佳里さんに少女向け小説とポルノを間違えて渡したこと、おそらく勘違いされているだろうということを話した。
「うーん、あれは女の子に見せるには、ちょっときついかもなぁ……」
 高崎が苦笑した。
「うん……ちょっと、きつかったかも」
 描写が半端じゃないだけに……しかも調教……。
「ま、今度貸してくれ」
 高崎が僕の肩にぽんと手を置いた。
「え、はぁ、いいけど……」
「けど?」
「伊藤さんに見つからないようにしとけよ」
 僕が言うと、高崎はちょっと笑った。
「見つけたら喜んで読むかも知れん」
 ……そうかい。
「あ、そういや、牧さん結婚してたって?」
「見合い結婚て聞いたけど」
「あの牧さんが見合いかぁ……相手がよほどの美人だったか、騙されて結婚することになったか……」
 僕は例の名前も何も書いていない、牧さんの奥さんが描かれているカードを取りだした。
「なんや、これ?」
「この女性が牧さんの奥さんらしくて……あ、これはこすったら名前が出てくる特殊加工だってさ」
 僕が牧さんに言われた冗談を、高崎は真面目に受け取ったらしい。
「へーえ、どれどれ」
 高崎はカードの裏表を返して眺めていたが、テーブルの上にカードを置くと、勢いよく親指でこすり出した。
 びりっ。
「あ」
 勢いが良すぎたらしく、カードの端が1センチほど破れた。
「すまん、破れた」
「なんでそんな強くこするんだよ」
 僕は呆れながら、高崎からカードを取り返した。
「悪い、そんなに強くしなくてもよかったか」
「お前なぁ、スクラッチカードじゃないんだから」
「でも、なんも出てけぇへんな。こすり方が悪かったんかな」
 僕は真実を言う気をそがれ、カードをしまった。彼にはこの話題は忘れてもらおう。
「そろそろ授業、行くか」
 食堂の時計に視線をやると、高崎も同じ方を向いた。
「あ、もうこんな時間か」
 缶をゴミ箱に捨て、僕と高崎は食堂を出た。
「……な、佳月」
「は?」
 僕が振り返ると、高崎が遠慮がちに切り出した。
「さっきの話……その佳月の好きな子、名前はいいからイニシャルだけでも教えてくれ」
「イヤだ」 
 素気無く答えると、高崎は
「じゃ、1つだけ、教えてくれ」
「なんだよ」
 高崎はしばらく考えていたが、やがて
「その子……髪長い?」
 僕はすぐには答えなかった。
 ……嘘をつくのは簡単だった。ただ、それがどんな結果に結びつくのかが怖くて、僕は結局こう答えた。
「長いよ」
 そう答えると、高崎は「……そうか」とつぶやくように言った。
「佳月って、長髪好みやもんな」
 笑いに紛らわしてそう言うので、
「……別に、その子が長髪だから好きになったわけじゃない」
 僕はそう言い返した。
「あ、そりゃ、もちろん、わかってる、わかってるって」
 高崎は頷いてみせた。
 しかし、よく考えると、これってかなり核心的な質問のような……学内で僕と親しくて、髪の長い女の子っていったら夕佳里さんぐらいしかいない。ほとんどの女の子は肩ぐらいまでだし、瀬戸さんも長髪だが彼女は除外されるだろうし……まぁいいか。
 僕は高崎と一緒に一般教養の授業を受けたが、その後「サークルに顔出すわ」と高崎はボックスの方へ行ってしまった。
 この次の授業は休講だったから……1つ空いて、もう1つ授業がある。専攻の授業で、徳田や夕佳里さん達が来るはずだ。ということで……今日は彼女に会えるな。
 しかし次の授業までの1時間強……どうやって時間をつぶすかな。今日はゲームボーイ持ってきてないから、本屋で立ち読みでもするか。
 ……っと、そうそう、文房具屋でシャーペンの芯を買わないと。
 進行方向を文房具屋の方へ変え、歩き出す前に僕はMDのヘッドホンを付けた。
 今度こそU2のバラードを聞きなおそう。えーと、確か最初の方で……3曲目だったかな……。
「佳月君」
 もう、他の誰とも間違うことのない声が、僕を呼んだ。
 リモコンから手を離し、僕は振り向く。
「おはよう」
 夕佳里さんは数歩離れた場所に立ち、僕に向かって笑いかけた。
 長い髪を風にゆらし、薄手の上着とタンクトップ、ジーパンという組み合わせの格好は、昨日の夢に出てきた彼女の姿と似ていた。きっと彼女は、自分が俺の夢に出てきてるなんて少しも思ってないだろう。
 夢の中に異性が出てきたら、それは相手が自分に想いを寄せているからだ。
 ……なんて、大昔の解釈を当てはめられるなら嬉しいんだけど。そんなの万葉集の時代だな。彼女の夢の中に俺が出るなんてこともなさそうだし……はは。思わず心の中で苦笑。
 僕はヘッドホンを外して鞄の中にしまった。U2のバラードはまたの機会だな。 
「掲示板見た? 次、休講だったね」
 僕がそう言うと、夕佳里さんは眼を瞬かせた。
「あ、そうなんだ。これから掲示板見に行こうと思ってたんだけど。そうか、次休講なんだ……間が空いちゃったなぁ」
 んー……。
「君は、穂積さんと待ち合わせ?」
 僕が聞くと、夕佳里さんは首を振った。
「ううん、今日は別に、待ち合わせはしてない」
「俺文房具買いに行くんだけど、付き合ってよ」
 僕がそう誘うと、夕佳里さんは「いいよ」と応じてくれた。よし、言ってみるもんだ。
 文房具屋は、芸坂のそばの1食の前にある。夕佳里さんにすると、今来た道をまた歩くことになる。
「じゃ、行こうか」
 僕が促すと夕佳里さんは頷いたが、「あ」と声をあげた。
「ごめん、靴紐結ぶから待って」
 そう言って彼女は屈みこんだが、その前屈みになった一瞬、僕は彼女のシャツの襟元からのぞいた胸の谷間を見てしまった。
「……」
 今まで全然気にしてなかったけど……夕佳里さんて、結構胸あるんだ。美緒さんといい勝負かも……。
 慌てて視線をそらしたが、思考はどうしてもそっちに偏ってしまう。
 ……あ、やばいやばい。一度意識しだしたら止まらない。落ち着け、落ち着け。えーと……こういう時は……。
 荒咬、九傷、八錆、七瀬……立ち強パンチ、屑風、もう一回立ち強パンチで八稚女……。
「……ね」
 立ち上がった夕佳里さんが何か言ったので、僕は慌てて「え?」と聞き返した。一生懸命ゲームの連続技を思い出して気をそらしていたのが、また彼女の顔(というか胸元)を見てしまい、再び焦る。
 まったく……しっかりしろ、俺。真昼間から何考えてるんだ。そもそも……そう、牧さんの小説が悪い。そうだ、あの人があんな小説をよこすから……と責任転嫁。
 夕佳里さんは僕の顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「……いや」
 彼女は「?」という顔をしながらも、それ以上追求しては来なかった。
「じゃ、行こうか」
 歩き出してからしばらく、互いに何も言わず無言だった。
 ……この前の言い訳をしておくべきなんだろうか。
 僕は夢のことを思い出してから、それが気になっていた。下手に話題に出して彼女に思い出させるのは嫌だが、勘違いされたままというのも嫌だ。
 どうしたものかな……。
「あ、私ね、最近絵を描き始めたんだ」
 夕佳里さんがそんなことを言い出したので、僕は言い訳についての思考を中断した。言い訳……まぁいいや、今のとこは。
「絵……って、イラストじゃなくて、本格的な絵?」
 イラストを描くのは知っていたが、まさか油絵を始めたとか……。
「本格的というわけでもないけど、パステル画とか水彩絵の具とかね」
 彼女はどこか嬉しそうな顔をして続けた。
「この前瀬川さんに会って、以前に描いてもらった絵を出してみて……なんか自分も描きたくなってね、ちょっと始めてみたの」
 ……なんか嫌な予感。
 絵を始めるにあたって、瀬川さんに教えてもらうことにしたとか、なんかいらんオチがつきそうな気がする。
「……それって、独学?」
 一応確認しておこうと聞いてみると、夕佳里さんは頷いた。
「うん、絵を習ったことなんてないし」
「これから習いたいとかは思わない?」
「うーん、習うつもりはないなぁ」
 ……考えすぎたか。
「今、部屋中に描いたスケッチが散らばってるんだ」
 彼女は幸せそうな顔で言った。
「そうやってると描くってことで頭の中も部屋もいっぱいで、他の余計なことが入ってこないような気がして、ちょっといい気分なの」
 だからといって、部屋中に描いた紙を散らかすのも珍しいが……そこが、彼女らしいところなのかもしれない。どんな絵なんだろう。好きだと言っていたムンクのような絵なんだろうか。
「君は、どんな絵を描くの?」
「どんなって……まぁ写実主義ではないことは確かだね。見たままを描くのは苦手だから。言うなれば印象派っぽいかも」
 モネとかルノワールみたいな感じだろうか。はっきりした感じではなく、抽象的な絵かな。
「本当は、前から絵を描きたいと思ってた」
 彼女はそう言った。
「でもね、絵の描き方がわからなかったから、描くことができなかった」
「描き方?」
「えーと……なんていうのかな。演奏するのと同じようなものかなぁ」
「え?」
 急に畑違いな話になったので、僕は聞き返した。
「ただ楽器を演奏するだけなら、練習すれば誰にもできることだよね。でも、叙情的にとか、心をこめて演奏するって、言うのは簡単だけど、実際にするのはなかなかできないと思うの。というか……私には、できなかった。ピアノをずっと続けてきて、何度もテストを受けて、それなりのランクまでいったけど、心をこめて弾くってことがよくわからなかった。いくら楽譜のとおりに上手に弾いても……演奏って、それだけじゃないでしょ?」
「そうだね」
 片山氏のピアノを聴いた後だと、よくわかる。ただ楽譜をなぞるだけで、誰かの真似をするだけで、同じ音が出せるってわけじゃない。
 夕佳里さんは風にあおられた髪をかきあげ、耳にかけた。
「絵もこう描きたい、という思いはあるんだけど、それは自分の中にあるものじゃなくて、他人の絵を見たときにそう思うのね。『自分もこんな絵が描けたらいいな』とか。だけど自分の中にある感情とかいろんな抱えているものを絵に表現する方法が、わからなかった」
「それが、文章だったらできた……ってわけか」 
「うん……小説を書いたときに、自分の表現方法はこれだ、って。別に自分の書いた作品が特別いい出来だったというわけじゃないんだけど、一番私らしいと、そう思えたから。自分のスタイルが確立できてるな、って」
 自分のスタイルか……。
 僕はふと、自分自身の創作について考えた。
 今まで僕が作品として完成させたものは、1つ2つぐらいしかない。果たしてそれらには、僕らしさというものが表れていたのだろうか。僕の考えとか、何か僕でしか表せないようなもの……。書きたいから、書いた。もちろんそれだけでも作品になるけれど……そんな観点で、自分の作品を見直したことはなかった。
「ただ、欲張りだっただけなのかもしれない。絵も、音楽も、自分がいいと思うものは全部やってみたかった。全部自分の思うように表現できたならよかったけど……そんなマルチな才能はなかったみたい。ただ美術も音楽も好きだったし……1人で複数の芸術表現を選択してもいいと思わない? 自分と違う表現方法を選択している人を軽蔑する人もいるけど、それっておかしいと思うの。いろんなことをして、それぞれの良さを知ることって大事じゃないかな」
 夕佳里さんの熱っぽい口調が、なんか面白かった。
「そうだね」
 僕の同意に力を得たように、さらに彼女は続ける。
「徳田君もそうでしょ? 文芸にいるけど、演奏もしてる。私の場合、ピアノは練習不足だったこともあるんだけど……彼は一生懸命練習してるし、たくさん本も読んで表現について勉強したりして……尊敬しちゃうよねぇ」
 ……これなのかな。
 僕は彼女の顔を見ながら考えた。
 徳田は、彼女に尊敬されている。瀬川さんも、絵を描けることで尊敬されている。それが信用につながっているのかもしれない。僕は、彼女に尊敬されるようなことを何もできない。
 そう考えて、少しだけ寂しさを感じた。
 文房具屋について話は中断されたが、僕は買い物を済ませた後、夕佳里さんに尋ねた。
「ピアノは、どうしてやめたんだっけ?」
「うーん……まぁ、いろいろと」
 彼女は曖昧な笑みで答えた。
「練習が辛かったから?」
「辛いというほど、練習してなかったよ。本当に趣味でやってたからね。将来音大に入ろうとか目指していたら、もっと大変だっただろうけど」
 ……ま、そのおかげで彼女は芸大に来ることになり、僕は彼女と知り合えたわけだが。
 僕と夕佳里さんは日差しを避け、校舎の中を通って食堂へ向かった。
「ピアノを弾くのは楽しかったよ。自分の好きな曲が弾けるから」
 彼女がそう言ったので、僕は「君の好きな曲って、なに?」と尋ねた。彼女が答えるまでは、少し時間がかかった。
「『トロイメライ』とか『トルコ行進曲』かなぁ……ベートーヴェンじゃなくて、モーツァルトの方ね。『トルコ行進曲』は一番最後に習っていたんだけど、弾けるようになる前にピアノ辞めちゃって……盛り上がりの部分がなんか好きでね、そこだけ頑張ってたんだけど」
  『トロイメライ』……曲名からだとわからん。『トルコ行進曲』は、名前は聞いたような気がする。こっちは知っているかもしれない。
「『トルコ行進曲』って、どんな曲?」
 そう言うと、夕佳里さんは少し困ったように答えた。
「……どんな曲と言われても」
「ちょっと鼻歌で歌ってみてよ」
 夕佳里さんは「やだ」と笑って拒んだ。だが、
「……あ、ちょっと待って」
 そう言って、彼女は通り過ぎたばかりの教室を覗き、「あ、空いてる」とつぶやいて僕を教室の中へ招いた。誰一人いない教室に入り、一番前に置いてあったピアノへ近寄る。ピアノがある教室は他にもいくつかあるが、授業のない時は大抵音楽関係の学科の学生が練習に使用している。だがここはたまたま空いていたようだ。
 彼女は椅子に座って蓋を開け、鍵盤の上に敷いてあった布を取った。
「両手だったら間違えそうだから……右手だけね」
 そう言いながら、右手を鍵盤に乗せた。
 その『トルコ行進曲』は、確かに聞いた覚えがあった。出だしも盛り上がりの個所も、どこかで聞いたことがある気がしたのだが……。
「有名……だよね」
 僕の言葉に、彼女は頷いた。
「うん、有名だと思う。CMとかで使われていたかも」
「いや。CMじゃなくて……違うとこで聴いた覚えがある気が……」
 ……どこで聴いたんだろう。すごく懐かしい感じがした。出だしじゃなくて、同じようなフレーズを二度繰り返すあの個所が……。
「私手が小さくて1オクターブがやっとだから……これ弾くのが大変だったんだ」
「1オクターブ……あぁ、ドからドまで?」
 僕は夕佳里さんに倣って、右手を鍵盤の上に置いた。左側に避けてそれを見ていた夕佳里さんは「すごい、余裕だね」と声をあげた。
「そりゃ、俺は君より手が大きいから」
 僕はさっき夕佳里さんが弾いていたように鍵盤を鳴らしてみた。リズムや強さは彼女と同じように弾いているつもりだったが、出てる音は全然違った。僕の方はなんか頼りない音だ。まぁ初めて触るんだから仕方ないんだろうけど。
「次の音は……なんだっけ」
「えっとね、ドシラソ……あ、ドとソはシャープだから、黒鍵」
 僕はぎこちない手つきながらも、夕佳里さんの言うように弾いてみた。
「で、次が……」
「ちょっとややこしいけど……あ、そうそう、上手い上手い」
 僕が弾くのに合わせて、夕佳里さんは左手を弾きながらペダルを踏んでくれた。そうしていると、自分のたどたどしい演奏もそれなりに(?)聞こえるのが面白い。間違えずにそのフレーズを弾ききった後、僕と彼女は笑い声をあげた。
 その時急に教室のドアが空いたので、僕と夕佳里さんは振りかえった。
 入ってきたのは徳田だった。
「よう」
 別にやましいことなどしていなかったが、夕佳里さんと2人でピアノを弾いていたのを見られたかと思うと、急に恥ずかしくなってきた。
「どうだよ、俺の演奏。上手いだろ」
 ごまかすように冗談めかして言うと、徳田は苦笑した。
「上手いもなにも……左手より右手の方が下手って珍しいんじゃないか? 普通は逆だ。音楽系ではないと思ったが、まさか佳月が弾いてるとはね」」
「初めて弾いたにしては、上手いよ」
 夕佳里さんがフォローを入れてくれた。
 僕はピアノから離れ、一番前の机にもたれた徳田の隣で同じような体勢をとった。
「なんか弾いてよ」
 そう言うと、夕佳里さんは笑って首を振った。
「やだ」
「どうして?」
「もう何年も鍵盤に触ってないもの。そうだね、弾けるとしたら……『猫ふんじゃった』ぐらいかな」
「それでもいいよ」
「えー?」
 彼女のピアノが聴きたいというのももちろんだったが、ピアノを弾く彼女の姿も見たかった。もっと、いろんな彼女の姿が見たい。
「あ、俺あれが聴いてみたい。君弾けるかな」
「え?」
「ほら、えーと……ファミコンの『チャレンジャー』の一面で使われているあの軽快な曲……あれもピアノ曲だって昔聞いた覚えが」
「『チャレンジャー』……というと、あれは……『軍隊行進曲』だったかなぁ」
 夕佳里さんの言葉に徳田が続けた。
「シューベルトか」
 夕佳里さんは「ちょっと難しいな」と笑って答えた。
「でもあの音楽は良かったね」
「そうそう、ノリが良くて」
 夕佳里さんは右手だけでその『軍隊行進曲』の出だしを弾いてくれた。
「懐かしいな。『チャレンジャー』で、音楽に合わせてナイフ投げたらくじらが飛んでくる裏技、知ってる?」
「知ってる知ってる。一定時間無敵になるやつね」
「俺も知ってるぞ」
 徳田がそう言ったので、僕と夕佳里さんは驚いた表情を見せた。
「徳田もファミコンしてたのか?」
「俺だって、普通の子供と同じような遊びをして大きくなったんだよ」
 彼はちょっと笑って答えた。
「小学生時代、従弟と一緒にドラクエをしたりとか」
 ……うーん、あんまり想像できん。でも徳田も全然ゲームをしないわけじゃないしな。高崎と3人でゲーセンに行ったとき、レーシングや銃の体感ゲーム系は一緒にやったこともあったし。
「ま、今は家でゲームをするなんてことはないけどな」
 徳田は鞄からスキットルを取り出し、口をつけた。
「いいよね、それ。かっこいい」
 夕佳里さんは徳田のスキットルを見て言った。
「7つ道具の1つとして持ち歩きたいなぁ……」
「俺のこれは、7つ道具じゃないぞ」
 徳田は笑って答えた。
「俺は少年探偵団のメンバーじゃないし」
 徳田も夕佳里さんの小学生時代の話を知ってるらしい。
「いつもお茶? お酒、入れないんだ」
 夕佳里さんの言葉に、徳田は「まぁ、そのうちに」と言った。スキットルを本来の用途で使うことがあっても、さすがに大学に酒は持ってこないだろう。
「じゃ、しまうね」
 夕佳里さんは鍵盤の上に布をかけ、蓋を閉めた。
「さてと。食堂でも行く?」
「そうだな。語学の予習もしておきたいし」
 徳田を加えて3人で食堂へ向かう。混んではいなかったが、昼食をとっている学生は多かった。
 お茶を入れ、4人がけのテーブルについた。夕佳里さん、徳田、僕という順で、正方形のテーブルなので夕佳里さんは僕の向かい側になる。
 徳田はテーブルの上にノートを広げ、辞書を開いた。どうやらイタリア語らしく、ノートにはよくわからん単語が並んでいた。もしかしたらドイツ語なのかもしれない。だがあまりじろじろ見るのもなんなので、結局どちらなのか確かめはしなかった。 
「あぁ、そういや、この前澁谷先生に大学時代の写真を見せてもらったよ」
 僕がそう言うと、夕佳里さんは嬉しそうな顔をした。
「ねぇ、美人だったでしょ?」
「確かに」
 外見は。
「そんなに美人だったのか」
 そこで徳田が口を挟んだので、僕は少々意外に思った。
「徳田は興味ないんじゃなかったのか。前に先生のこと散々に言ってたし。覚えてるぞ。『美人だけどそれだけだな』とかって」
「確かに先生は美人だ。それに俺は澁谷先生を尊敬してないわけじゃない。音楽についても造詣が深いし、俺のゼミの選択は間違いではなかったと思っている」
 彼の口調は、妙に早口だった。
「なんだよ、前と違うこと言って」
「いや、その……」
 徳田が言葉に詰まるなんて、なんか珍しい反応だ。なんだろう。
「つーまーりー、あれでしょ」
 夕佳里さんがからかうように言った。
「最初にあんな素っ気無く言い捨てちゃったから、後でいい方に評価を変えるのが気恥ずかしいだけでしょ?」
 夕佳里さんの言葉に、徳田は眼鏡を押し上げ「はは」と苦笑した。どうやら図星らしい。
「確かにそう思っていたが……美人か否かと言われたらそりゃ美人の先生の方が嬉しいが、中身が伴わなければ授業を受ける意味がないからな。教師ばっかりは、顔の造作で決めるもんじゃない」
 澁谷ゼミを切望していた頃の高崎に聞かせてやりたいセリフだな。
 僕は湯呑みに口をつけた。
「ほんと、素敵だよね」
 夕佳里さんは手を組んでにこやかに言った。
「私もあんなふうに『大人のオンナ』って感じになりたいなぁ」
「ごほっ、ごほっ……」
 僕は激しく咳き込んだ。 
 お、お茶が気管に……。
「おい、大丈夫か」
「やだ、大丈夫?」
 徳田が腰を浮かせたが、僕はそれを抑えるように手を振って「だ……大丈夫」と答えた。
「落ち着いて飲まないとー」
 夕佳里さんが諭すような口調でそう言ったが、言えるなら『君が妙なことを言うからだ』と言ってやりたかった。
 頼むから、先生のようにだけはならないでほしい……。
 僕はなんとか咳を抑えて、もう一度湯呑みを手にした。
「そだ、そう言えば、この前先生に面白いこと聞いたんだ」
 夕佳里さんは僕の顔を見ながら、思わせぶりな口調で言った。
 ……なんか嫌な予感。
「なんだ?」
 徳田の言葉に促され、彼女は次の言葉を口にした。
「佳月君て、昔澁谷先生が好きだった人に似てるんだって」
 ごん。
「うわ」
 徳田が悲鳴をあげた。
「わっ、悪いっ」
「何してるんだ、お前」
 僕は手をすべらせ、湯のみをテーブルの上に転がしてしまったのだ。湯のみと中のお茶は、テーブルの傾きもあって隣の徳田の方へと向かった。幸い中身はあまり入ってなかったので、徳田がテーブルの上に出していたノートに被害はなかった。
「まったく……」
「いや、ほんとに悪かった」
 僕は夕佳里さんが出してくれたティッシュでテーブルを拭いた。
「入れなおしてくるよ」
 徳田が自分のと僕の湯のみを手に立ち上がった。
「あ、俺が……」
「いや、いいよ。ついでだ」
 徳田は二つの湯のみを手に、カウンターの方へ向かった。
 僕がゴミを捨て椅子に座ると、夕佳里さんが頬杖をついた姿勢で僕を見ていた。
 なんだろ、こっちをじっと見て。
「佳月君……さっきから澁谷先生の話で、妙に動揺してるよね」
 ……なにを言い出すんだ、彼女は。
「いや、そんなことないって」
 別に僕は先生とイケナイ関係でもなんでもないのだが、キスした仲であることは事実だし、あんまり突っ込まれたくない……。
「もしかして」
 彼女は一旦言葉を区切り、そして続きを言った。
「佳月君て……澁谷先生が好きなの?」
 ちが―――う!!
 一体どこからそんな誤解が生まれるんだ? 
「違うよ」
 焦って否定するとますます誤解されそうだから、僕は冷静に答えた。
「ほんとに?」
 目を細めて疑わしそうに言った彼女に、僕は「ほんとだって」と返した。
 ここで「俺の好きなのは君だ」って、そう言ったら……彼女はどんな言葉を口にして、どんな態度を見せるのだろう。
 そんなことを考えている間に、徳田が戻ってきた。
「ほら」
 彼は僕の前に湯のみを置いた。
「あぁ、サンキュ」
「もうこぼすなよ」
 まるで年下に対するかのような徳田の言葉に、少し情けなくなる。夕佳里さんが妙なことさえ言わなければ、僕だって湯のみを落としたりしなかったんだが。他の誰が言っても大して気にはしなかったかもしれないが、彼女にだけは先生のこと言われたくないんだよな。
 僕は徳田が入れてきてくれたお茶を一口すすった。……熱。
「そういや、さっき面白いことを言ってたな」
 徳田が夕佳里さんの方を向いて言った。
「澁谷先生が昔好きだった相手が、佳月に似てるって?」
 もうその話は終わったものだと思っていたのに……。
「そうそう、そう言ってたよ」
 徳田はしばらく黙ってお茶をすすったが、ふっと口を開いた。
「世界には似た顔の人間が3人いるというが……もしそれが本当なら、佳月の場合はこの前のピアニストと、その先生が好きだったという男性の3人になるのかもな」
 僕は徳田の説については、意見を言わないことにした。この前のピアニスト当人が先生の片思いの相手だと、僕がここで言うわけにもいかない。先生の想い人が片山氏だとばれるのはともかくとして、どうして僕がそれを知っているかが問題だし。
「この前のピアニストって……片山龍之介とか言う人?」
「うーん、ちょっと違う。片山龍介だよ」
 夕佳里さんの言葉に、徳田が訂正を入れた。そのまま、彼は独りつぶやくように続けた。
「でも先生は片山龍介を知っているんだよな? リサイタルにも来ていたし、この前佳月からもらった片山龍介のカセットも元は先生からもらったものなんだから……」
 僕はひたすら素知らぬ振りを決め込んだ。
「まさかなぁ……先生の昔好きだった相手が、片山龍介ってことは……ないか。考えすぎか」
 彼のつぶやきは本当に微かなものだったので、夕佳里さんさえ何気なく聞き流していた。徳田も自分で言ったもののその説に確信を持っていたわけではないらしく、それ以上は何も言わなかった。 
 そのまま授業の課題の話題へと話は移り、気がつくとそろそろ教室へ向かう時間になっていた。
「さて、行くか」
「そうだな」
 僕らは湯のみをカウンターへ返し、食堂を出た。
 教室へ向かう途中で僕が何気なく『軍隊行進曲』を口笛で吹いていると
「佳月君て、口笛上手だね」
 先に歩いていた夕佳里さんが振り向き、そう言った。
「いや、それほどでも」
「それだけ口笛が上手かったら、呼子の代わりになるかな」
 ……よ、ヨブコ?
「なに、それ」
 僕が聞くと、夕佳里さんは笑って答えた。
「少年探偵団が、他のメンバーとの連絡手段に使っている小さい笛」
 …………。
「彼女は、今度『芸大探偵団』というような作品の構想を練っているらしい」
 徳田が夕佳里さんに聞こえないほどの声で言った。
 きっとその作品には、スキットルを持ち歩く奴や、口笛で仲間と連絡を取る奴が出てくるに違いない……。


 今日は夕佳里さんとゲーセンに寄らず、まっすぐ家に帰った。できたら一緒に遊びたいとは思ったが、夕佳里さんは一人暮しだから、あんまりお金遣うことばかり誘っても悪い。
 家には誰もいなかったので、僕は口笛を吹きながらお湯をわかしてコーヒーを入れた。母親は僕や紫が口笛を拭くのを嫌う。紫の場合には「女の子なのに」と叱りもする。その母親がいないのをいいことに、僕は今日夕佳里さんに教えてもらった『トルコ行進曲』のフレーズを何度も繰り返して吹いた。
音は確か……ラシド、ラシドシラソ……。
 口笛でその部分だけを繰り返していると、不意に違うメロディーが思い浮かんだ。
 あれ……。
 夕佳里さんが弾いてくれたのと、今思い出したメロディと、続けて吹いているうちに……思い出した。
 どこかで聴いた覚えがあると思ったら……TMネットワークの歌で同じメロディーがあったんだ。僕が思い出したのは、『Human System』のイントロだ。懐かしいのも道理だよ。もう10年も前の歌なんだから。
 僕は部屋に戻ると、TMネットワークのCDを探した。最近はほとんど洋楽しか聴いてなかったので、邦楽のCDは棚の奥に追いやられたようにひっそりと並んでいた。その中から目当てのCDケースを取り出す。
「あ」
 ケースの裏にヒビが……震災の時に割れたやつだな。まぁCDには傷入ってないし、大丈夫か。
 CDをセットし、4曲目まで飛ばす。記憶の通り、夕佳里さんの弾いていたメロディーがイントロ部分に使用されていた。
 懐かしくどこか優しいそのメロディーを聴いているうちに、このCDを買った当時のことを思い出した。その頃僕はまだ小学生だった。自分の小遣いで安くはないそのCDを買い、親のオーディオでカセットにダビングし、自分のカセットデッキで聴いていた。僕がCDラジカセを手に入れたのは、中学校の入学祝だった……。
 ベッドに横になり、僕は目を閉じてその歌を聴いていた。
『I am here and you are there…… 街のどこかで確かめたい……』
 出会い、別れ、すれ違い、日常、偶然の出来事……。
 そんなことを考えていると、唐突に自分の意識を占めていく不思議な感覚――――。
 何かに突き動かされるような、何かしなければ、という気持ち。焦りにも似た、緊張感と高揚感が入り混じったような……なんだろう、なんていうか……。
 創作がしたくなってきた。
 なんか気持ちはめちゃくちゃなんだけど……たどり着いた結論は、「創作をしたい」だった。
 書きたい。書かなければ。
 僕は起き上がった。と言っても次にすべき行為は何も思いつかない。ともかく、書きたいという気持ちに動かされて、起き上がってしまっただけだった。
 輪郭の見えない、漠然としたその気持ちだけが僕の意識を満たしていく。形にしたい。言葉に……一つの物語として、作品という形に表したい……何を? どんなことを? 
何だろう……まだわからない。でもそれは、すごく近くにあるような気がする。懐かしく、優しく、どこか切ないその感覚……なんだろう、それを僕は知っているように思うのだ。書きたいことの欠片が、僕のそばに散らばっているようで、それがつかめないもどかしさ。
 僕はもう一度横になり、そのままCDを聴き続けていた。
懐かしい……『Resistance』すごく好きだった。そのままリピートでかけていると、1曲目に戻り……『Children of the New Century』が流れる。歌詞の中の『1999 君はどこにいる』というフレーズに、僕はおかしいものを覚えた。
来年だよ……1999年は。この頃には、1999年の自分なんて想像もつかなかった。それがもう、来年の話になったなんて。
 僕はあやふやな気持ちをもてあましながら、エンドレスでCDを聴き続けた。まるでこのCDを聴いていれば、この曖昧なものの正体がつかめるとでもいうように……。
離れずに暖めて
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