大学に行ったら、彼女に会える。
だから「大学に行くのが楽しい」と感じてしまう自分は、結構単純だと思う。
もちろん大学には勉強をしに行っているわけで、彼女に会うために行っているわけじゃない。だけど、こういうプラスαがあるって、結構大きいと思う。電車に乗っている時間も坂を登る苦労も厭わない気持ちって、僕の中ではすごく新鮮で……世界観すら変わったように思えた。
世間一般には、おめでたい奴なのかもしれない、今の僕。
僕は自分をそんな気持ちにさせてくれる人と一緒に昼食を食べ、お茶を飲みながらたわいのない話をしていた。
夕佳里さんは妹の紫ほどではないが美形好みで……学内にいる美女、澁谷先生の話をしていた。
「微笑を浮かべてフランス語を話す先生って……ほんっとに、素敵なんだから」
彼女はそう力説した。
「徳田君はあんまり同意してくれないんだけど、佳月君だって先生のこと美人だと思うでしょ?」
「はあ」
僕は生返事でごまかしてお茶を飲んだ。ただの美人ではないということは、知りたくはないけど知っている。
「そう、この前澁谷先生の大学生の時の写真、見せてもらったんだ」
彼女は楽しそうに言った。
「もうね、すっごい美人なんだから。あ、今でも美人だけど。ちょうど20歳の頃の先生は、今のアイドルや女優なんか比較にならないぐらいだよ」
「……へぇ」
夕佳里さんが絶賛する先生の若かりし頃の美貌には多少関心はあったが、今時のアイドルだの女優だのには興味がない僕は、それ以上の美人だという先生の姿を想像することすらしなかった。
しかしその後渋谷先生の研究室へ資料をもらいに行った際に、僕は夕佳里さんの言葉を思い出して先生に言った。
「そういや、先生が大学時代の写真、芳峰さんが見たって言ってましたよ。すっごい美人だったって」
僕がそう言うと、先生はちょっと笑った。
「見たい?」
「今持ってるんですか?」
「あるわよ」
先生は机の一番下の引出しからバインダーを取り出し、そこにはさんでいた写真を取り出した。
「はい」
僕はひょいと写真を受け取って、驚いた。
栗色の波打つ髪の今とは違い、黒髪を胸のあたりまでのばした日本人形を思わせる髪型をしている。はっきりした端整な顔立ちは今よりややきつく冷ややかな感じもしたが、この歳にしてすでに艶やかさまでも併せ持っていて、確かに今時テレビに出ている女の子より間違いなく美人と言えた。ワンピースを着たその姿は本当にお嬢様というに相応しく……こんな人が芸大にいたら、かなり目立ったのではないだろうか。いや確実に目立っただろう。隣に立っている友人らしき女性も整った顔立ちをしてはいるが、先生の存在に霞んでしまっている。
「一つ、変なことを聞きますが」
僕は顔を上げ、先生を見た。先生はその視線を受け止め、柔らかく微笑んだ。
「なにかしら?」
「先生って、さぞもてたんでしょうね」
「付き合って欲しいと言ってきた相手は5人ぐらいだったかしら」
……意外と少ないな。2桁ぐらいはと思ったが。
「まぁ、私には一応お付き合いしていた人がいたからかしらね」
え―――――。
僕は声もなく驚いた。
先生、あれだけ片山龍介に入れ込んでいて、他の男の人とよく付き合えたな……相手の男がある意味気の毒な気がする。
「……ど、どんな人とお付き合いしていたんですか?」
好奇心を隠せず、僕は聞いた。
「頭が良くって、優しい人だったわ」
その頃を思い出しながら話すように、先生はゆったりした口調で言った。
「いろんなところへ連れていってくれたり、いろいろ教えてくれたり」
「いろいろ教えてもらったって……」
僕が言うと、先生はふふ、と意味ありげに笑みを浮かべた。
「そう、いろいろ、ね」
なんか、勉強を教えてもらったとかそういう意味合いのほかに、深読みOKな含みがあるように感じるのは、俺の気のせいだろうか……怖くて聞くに聞けない。先生の大学生時代は、今の僕らよりもずっと大人に思える……。
「でも、先生は、片山さんのことが好きだったんですよね」
僕がそう言うと、先生は「それが?」と言った。
「いや、その……好きな人がいるのに、よく他の人と付き合えたな、と」
「いけないかしら?」
微笑みながら聞かれて、僕の方がうろたえた。
「いや、誰と付き合おうと、先生の自由ですが……」
僕の言葉に、先生はおかしさを隠せない表情を見せた。
「片山さんに近づきたいとか思わなかったのかと」
「そうね、その気になって片山さんにアタックしていたら、今ごろピアニストの妻かもしれないわね」
前から思ってたけど、先生って……かなりの自信家で、皮肉屋だよな。
「付き合っていた彼は、知ってたわ。私に他に好きな人がいることを。また、自分がその存在を超えることができないということを」
「でもそれって……虚しくなかったんですかね、相手の男の人は」
「どうして?」
「だって、先生は片山さんのことを思ってたんだから……どうしたって自分が相手を超えられないなら、先生の中で一番になることができないってことで」
「虚しくなんかないわ」
珍しく、先生は僕の言葉を遮った。
「彼と、片山さんを比較さえしなければね。私の記憶の中に在る片山さんに、誰かが勝てるはずがない。当たり前でしょう? 私の中の片山さんを超えるには、それ以上のものを生み出せる人でなければならないんだから」
先生は前に言った。片山龍介は至高のピアニストだと。確かに彼を超えるのは無理だ。というより、彼が最高だと信じている先生の考えを変えさせることは不可能だ。……先生の相手は、たぶんそれをわかっていたんだろう。
「……で、その人とは結局どうなったんですか」
気になって聞くと、先生は
「それでも、卒業するまでお付き合いしていたわ。だけど、プロポーズされて、断った」
「……なぜ」
彼女は組んだ両手の上に顎を乗せ、ふっと吐息をついた。
「私は、まだやりたいことが山ほどあった。自分の好きな美学の研究や語学の勉強、留学だってしたかった。だけど結婚という未来を私の人生のどこかにおいてしまったら、私はそれまでに自分の好きなことを終わらせる必要があるわけでしょう? そんな、追い立てられるような時間の使い方は嫌だった。だから、私は彼のプロポーズを断ったの」
その口調には、後悔が微塵も感じられなかった。
ふっと思いついたことがあったので、僕はためらいつつも口にした。
「もし……もしもの話ですけど」
「なぁに?」
「片山さんにプロポーズされたら、先生はどう答えました?」
答えは、高らかな笑いだった。
「……佳月君て、突拍子もないことを言うのね。今年一番面白い出来事にあげてもいいぐらいのネタね」
そこまで面白いかい。
「で、どうなんですか? 片山さんが相手だったら、結婚してました?」
僕が重ねて問うと、先生はどこかいたずらめいた表情で答えた。
「それは秘密にしておくわ」
「ありゃ」
肩透かしをくらって、僕はがっかりした。ちょっと興味あったのに。
「独りで寂しくはないんですか。先生なら、引く手あまたでしょう」
からかいをこめて言うと、先生は艶やかな笑みで答えた。
「そうね、たまに……人恋しくなることも、あるわね」
先生は立ち上がり、僕の傍らに寄った。そばの本棚に手をかけて、僕の顔を見上げてくる。やや斜めから覗き込むその視線はとても甘やかだった。自分以外の誰かを好きだとわかっていて、それでも彼女を求めてしまう男がいたとしても少しも不思議じゃなかった。
「誰かの代わりとしてでなく、佳月君自身を見たら……応えてくれる?」
それは求愛の言葉だったが、彼女が真剣でなく冗談で言っているのがわかった。でも、もしそれが真剣なものだったとしても……。
「俺、好きな人いますから」
そう答えると、先生はわずかに眼を細めた。口元に笑みが浮かぶ。
「まぁ、好きな子できたの。誰? 学内の子?」
「それは秘密にしておきます」
僕が顔をそむけると、
「あら、仕返しされちゃったわね」
先生はくすくす笑いながら、僕のそばを離れた。
「学内の子だったら、邪魔しちゃおうかと思ったけど」
……なんて人だ。
「ね、それって、清水さん?」
僕は先生と視線を合わさずに返事した。
「秘密です」
「もし清水さんじゃないなら、彼女は傷つくわね」
先生は淡々とした口調で言った。
「自分が選ばれない辛さって、大きいのよ」
どこか責めるような響きに、僕は言い返さずにはいられなかった。
「先生だって、彼を選ばなかった」
彼女は苦笑した。机にもたれるようにして立つと、僕の方を向く。
「なんか、さっきから仕返しばかりされているわね」
「……すみません」
僕は急に自分の態度が先生に対する一線を越えていたことに気付いた。
「なんか、生意気なこと言って……」
「ううん、本当のことね。私は彼を選ばなかった。そして彼を傷つけたわ」
先生は指で髪を弄びながら言った。
「それで、私が少しも傷つかなかったといえばそうじゃない、私も傷ついたわ。彼を傷つけてしまったことに対して。だけど、後悔したくなかったの。その時彼を選んだら、私は自分のやりたいことができなかった。そうしたら、きっと一生悔やんだと思う。そんな人生の過ごし方は嫌。一度しかないなら、自分の好きなようにするわ。例え誰かを傷つけても自分が後悔しないと思える選択だったなら、それは間違いじゃないと信じているから」
その言葉は、強がりじゃなかった。
「後悔はしてないんですか」
「してないわよ」
先生は即答した。
「結婚していたら、きっと講師にはなってなかった。そうしたら、いろんな人に会うことも、勉強もできなかった……彼が今、素敵な女性と結婚して幸せな家庭を築いてくれていると嬉しいわ。そう思う」
先生はふっと息をつき、表情を変えて言った。
「……そういえば、徳田君に片山さんのテープ、渡してくれた?」
僕は頷いた。
「嬉しさのあまり、両の眼から涙を流していました」
僕の冗談に、先生は一瞬黙り、そして困ったような曖昧な笑みで言った。
「……佳月君て、時々なんて返事をしたらいいかわからないことを言うのね」
例え先生が10歳若くて本気で僕を好きになったとしても、ここまで冷めている人と付き合うのは難しいなぁ……それともまだどこかで、片山氏と僕を重ねているのだろうか。似た顔でしょうもないこと言うから、内心呆れられているのかもしれない。
「僕と先生の間に、時々天使が通るみたいですね」
「Un ange passe」
以前僕が言ったのと同じ言葉だったが、先生のそれは、フランス語は世界で一番響きが美しいという、その評価が間違いじゃないと思える発音だった。
「天使といっても、キューピッドではないみたいね」
「そうですね」
互いに苦笑する。
もし僕が先生に惚れていたらどうなっていたことやら。
「あ、先生の家にはCDがたくさんありましたね。クラシック以外にも。結構いろんな歌手の聴くんですね」
「そういえば佳月君、洋楽が好きだと言っていたわね。どういうのを聞くの?」
いくつか歌手の名前をあげると、そこから話がのってしまった。
僕と先生の洋楽の好みは似ていたらしい。
「U2もいいですよね、ベストなんか一週間エンドレスで聴いてしまって」
「ロッドの声もいいわよ。渋くって素敵」
「グラミー賞、最近かかさず見てるんですよね。衛星放送あるんで」
「前回のあのグル?プのパフォーマンス見た?」
ちょっと資料を取りに寄っただけだったのに、気づくと先生と1時間も話し込んでいた。
のってしまった……いや、意外と話せる人だ。音楽の話だけは……。
僕は次の授業のある教室へと向かった。
徳田とも高崎とも会わないなぁ……まぁ授業に出たら誰か知り合いはいるけど。
あ、掲示板。掲示板をチェックしよう。
そう思い、教室ではなく掲示板へ向かった。まだ授業が終わっていないせいか、掲示板の前には誰もいなかった。
……?
僕は辺りを見回したが、特に異変はなかった。
……気のせいかな。なんか、誰かの視線を感じた。まるで物陰に誰かが潜んでいるような、そんな気がする。
それは変な感覚だった。
例えばホラー映画とかで、霊とか怪物か出てくる前の、不安をあおるような予兆。そこまで不気味なものじゃないけど、誰かがいきなり驚かしに現れるんじゃないか、というような感覚。
……まぁ、いくらなんでも大学でそんなことはないよな。
僕は掲示板の前で立ち止まり、鞄から手帳を取り出した。結構休講のメモ貼ってある。
えーと、僕の授業は……。
その瞬間、ぞくぞくっと悪寒を感じた。
後ろにやってきた何者かが、僕のお尻から腰をなで上げたのだ。ちょっと触れただけ、とかぶつかっただけ、とかそんなもんじゃない。これが悪意のない行為なら、世間に痴漢はいないというぐらいの触りようだった。
僕は振り返らず、右手に持っていた鞄を相手にぶつけようと思い切り振った。――が、驚いたことにその動きは予測されていたかのように、僕の攻撃は空振りに終わった。
誰だ?
僕が振り返ると、すでに攻撃可能な範囲にない位置に一人の男が立っていた。僕の方を見てにやにやしているから間違いないが、その男は……。
「ま、牧さん?」
相手は――牧さんは、僕の呼びかけに「よう、久しぶり」と応えた。
背中の中ほどまであった髪はばっさりと切られていた。顔は会った当初の頃とは違って、年月の経過を刻んでいるものの、年よりはずっと若く見える(確かもう30歳ぐらいのはずだ)。精悍な顔立ちだが、人当たりのいい笑みを浮かべている。
彼は僕が高1の時、ゲーセンで知り合った同い年の朗という少年を自宅に居候させていた人で、その頃はまだ新人だったが、今では売れっ子の作家だ。夢見る少女に人気の恋愛小説と、高崎が鼻血を出してのけぞった過激なポルノ小説という方向性の違う作品を、別々のペンネームで書いている。気さくでいい人なのだが、欠点は好色家……というか、彼はバイセクシュアルなのだ。もちろん僕はその気がないから牧さんとは友達という関係でしかないが、牧さんに想いをよせる男性に嫉妬されたこともあった。特定の恋人を持たない気ままな生活をしていたが、しばらく連絡をとってなかったから、今の彼がどういう状態なのか僕は全然知らない。
「振り返りもせずに鞄をぶつけようとは、怖い奴だな」
彼の言葉に、僕は言い返した。
「そっちがいきなり痴漢まがいの行為にでるからでしょう」
「俺の気配ぐらい読めよ。危機感が足りんなぁ」
「普通いきなりお尻触るような変人が大学にいるなんて思いませんよ」
僕は軽く牧さんの肩をこづいた。
「いやぁ、思わず触りたくなるような腰だったんで」
…………。
僕がじとーっと見ると、牧さんはごほんと咳払いをした。
「ま、久しぶりだな。元気だったか」
「見てのとおりです」
落ち着いて挨拶を交わしたところで、僕は牧さんの傍らに立っている一人の男性に気付いた。
こちらは牧さんとは違い、高崎と同じぐらいの身長に穏やかそうな顔立ちをして、脇に薄いがやや大きめの鞄を抱えている。僕と牧さんの会話を、苦笑気味に見つめていた。「あ、紹介するよ」
牧さんはその男性を僕の前に立たせた。
「瀬川、巧。俺の小説のイラストを描いてくれているやつだ」
「瀬川です、よろしく」
彼 瀬川さんは、軽く頭を下げた。僕も応じて頭を下げる。
牧さんの小説のイラスト……見たような気もするが、どんな絵だったっけ……。
「で、こいつが佳月友則」
牧さんが僕を紹介してくれたので、僕も頭を下げた。
「佳月です」
「お噂は、かねがね」
瀬川さんがそんなことを言うので、僕は牧さんの顔を見た。
「噂って、どんな噂ですか」
なんとなく気になって聞くと、瀬川さんはいたって真面目な顔で答えた。
「15歳だった美少年佳月君と牧さんの禁断の関係とか」
牧さんへ蹴りを入れようとした僕を慌てて制し、瀬川さんは言った。
「……というのはもちろん冗談で、一時期同居していた少年のこととか、いろいろと」
「ちょうど、朗が出て行って少ししてから、こいつと知り合ったんだ」
牧さんは瀬川さんをさした。
「芸大で卒業制作展やっててさ、ふらっと来たら俺好みの絵を描く奴がいたから、スカウトしたんだ」
芸大で卒業制作展……って。
「……え、そういうことは、瀬川さんて」
「僕は芸大の卒業生で、学科は違うけど、佳月君の先輩になるね」
瀬川さんは僕を見て頷いた。
「美術学科、絵画コース、1994年度卒業生です」
4年前からだから……彼がイラストを描くようになったのは、僕が牧さんと知り合ってから少し後になるわけか。
えーと……瀬川さんて、僕より6歳年上で、今26歳か?
「そういや、牧さんてもう30歳になりましたっけ」
僕が牧さんの方を向くと、彼は実に嫌そうな顔をした。
「俺はまだ29だよ、29!」
「あと、数ヶ月は、ね」
瀬川さんがぼそっと付け足した。
穏やかそうに見えて、瀬川さんて結構言う人なんだな。
「で、30を目前にして、落ち着かれる予定はまだないんですか」
僕がからかうと、牧さんはふふんと笑った。
なんだ、この笑いは。
「見ろ、これを」
彼が突き出した左手を、僕はじっと見た。
「深爪ですね。気をつけたほうがいいですよ」
「お前なぁ……指を見ろ、指を」
僕は彼が左手にはめている指輪を見た。
「この指輪の幅と文字……もしかして、ブルガリですか」
「おうよ」
僕は恐る恐る尋ねた。
「もしかして……これ、結婚指輪ですか?」
「そのとーり! 今の俺には、可愛い嫁さんがいるのさ」
……信じられない。
特定の恋人は持たない主義だとか言っていたくせに……結婚していたとは。
「結婚詐欺を始めたわけじゃないですよね」
「詐欺なんざせんでも、日々の糧には苦労しとらんよ」
言いながら牧さんは鞄をあさり、一枚のカード……いや、名刺を取り出した。
「これやるよ。俺の名刺」
僕は名刺を受け取ってまじまじと見た。
おそらく鉛筆かなにかの筆記具でスケッチされたらしい、女性の絵が印刷されていた。可愛らしい女性だが、実在の人物かはわからない。右下には「T.Segawa」と書いてある。これは絵を描いた瀬川さんの署名として……。
僕は裏も返してみた。裏は真っ白だった。
「牧さんの名前どころか、何も書いてないですけど」
そう言うと、彼は笑った。
「それな、ちょっと特殊な作りにしてあるんだよ。こすると、摩擦で字が浮き出るって仕組みだ。ま、時間かかるけどヒマあったらやってみてくれ」
……へぇ、金かかってるな。変なとこに。
僕はその名刺を定期入れに入れた。後でこすってみよう。
「……で、いったいこの芸大に何をしに来たんですか」
僕が言うと、牧さんは周りを見回しながら答えた。
「いや、今度大学を舞台にした恋愛物でも書こうかと思って、ちょっと雰囲気をつかみに来たんだよ」
「はぁ……」
大学を舞台にした恋愛もの……芸大を参考にしたら、どんな物語になるんだろう。興味はあるが。
「そういや高崎も芸大じゃなかったか? あいつはどうしたんだ」
牧さんに言われ、僕は答えた。
「今日は見てないですよ。俺も毎日会うわけじゃないんで」
「あー、大学ってそういうもんなんだよな。まぁそのうち会えるか」
彼は独りつぶやくと、瀬川さんの方を向いた。
「そういうわけで、俺はちょっくら大学の雰囲気を味わってくる。巧、お前さんは適当に時間をつぶしておいてくれ。後で電話するから」
「はいはい」
瀬川さんは牧さんの言葉に返事を返した。
「あんまり目立つ行動をとらないようにしてくださいね」
「大丈夫、騒ぎなんか起こさないって」
「ナンパとかしないでくださいよ」
「お前なぁ……」
「もう三十路なんだから、騒ぎ起こしてから学生に紛れてようたってごまかせませんからね」
瀬川さんの言葉によろめきながら、牧さんはどこかへ行ってしまった。
「……で、瀬川さんはどうされるんですか」
尋ねると、彼は気にした風もなく、
「どこかで絵でも描くよ。芸池でも行こうかな」
そう言うので、僕も彼について池の方へ行くことにした。知り合いのいない授業だし、今日休んでも支障はないだろ。それに、彼がどんな絵を描くのか興味があった。
「佳月君、授業はないの?」
「あ、大丈夫です」
とか調子よく答えたりして。
僕と瀬川さんは並んで芸池まで歩いた。さすがに元芸大生だけあって、池への最短距離をわかっている。僕が何も言わなくても、彼は校舎の合間の道を迷うことなく進んでいった。
池の方へと歩くにつれ、少しずつ大きくなってくる管楽器の音……。
「あぁ、誰かがトランペットを吹いてるね」
瀬川さんがつぶやいた。
僕はその人物に心当たりがあった。果たして、その予想は当たっていた。芸池の近くで独りトランペットを吹いていたのは徳田だった。演奏しているのは、たぶん学祭での演奏曲だろう。
「いいね、池のほとりで独奏するというのも絵になるな」
瀬川さんは嬉しそうに言うと、道路わきの階段に腰をかけた。僕のいる場所は池と駐車場へいたる道路を挟む格好なので、この距離では徳田はこちらには気付かないだろう。まぁ練習を邪魔するのもなんだから、この曲が終わるまで声をかけないでおこう。
「彼、俺の友達なんですよ」
そう言うと、瀬川さんは僕の方を見上げた。
「演奏学科の友達?」
「いえ、文芸の友達ですが、トランペットをやってて、吹奏楽団の団長なんです」
「へぇ、そんな人もいるんだね」
彼はスケッチブックを広げると、鉛筆を手にしてさらさらと絵を描き始めた。
最初に大まかな全体図から、そして細かい描写へと、流れるようなタッチで一枚の絵が出来ていく。それは写実的というよりは印象派のスケッチに似ているような感じだった。そしてその描線で描かれた世界は、僕が知っている風景のはずなのに、僕の知らない優しさを孕んでいた。
その絵に、同じ物を見ても人によって感じ方は違うということを見せ付けられたような気がした。
僕の知らないものを僕の知っているものから感じ取れる瀬川さんが、凄いと思った。凄い……なんか、今ひとつしっくりこない形容だが。
黙っていることができず、僕は彼に話し掛けた。
「……慣れたもんですね」
「あぁ、風景を描くときはこんなもんだよ。人物画はもう少し違う描き方をするんだけど」
彼は描く手を休めずに言った。
「後で、佳月君もモデルになってくれる?」
「え、あ、俺ですか?」
いきなりそんなことを言われて、僕はどこかテンポのずれた返答をしてしまった。
「そう、君」
「俺、長いことじっとできる自信ないですよ」
「あぁ、そんなに長いことじっとしてくれなくてもいいから」
彼は新たなページをめくると、今度は徳田を描きはじめた。輪郭をとる細い線から始まり、そこへ少しずつ陰影をつけていく……。
「絵を描くのを見るのは、珍しい?」
瀬川さんがそう言ったので、僕は慌てた。
「あ、すいません……邪魔でしたか」
「いや、そうじゃないよ。あんまりじっと見ているようだから」
そのまま見ているのも気が引けたので、僕は時間つぶしに牧さんの名刺を取り出した。
本当に字が出てくるんだろうか。人差し指で表面をこすってみる。それから名刺を眺めたが、文字らしきものは全然出てこない。
……こすり方が甘いんだろうか。
再びこすってみる。
「佳月君、なにしてるの」
気付くと、瀬川さんが手を止めて僕を見上げていた。
「いや、牧さんの名刺、なかなか字がでてこないな、と……」
その返事に、瀬川さんは苦笑した。
「君も素直というか馬鹿正直というか……そのカードは、僕がパソコンで絵を取り込んで、普通の紙に印刷しただけのものだから、いくらこすっても文字は出てこないよ」
え……?
「って、それじゃ」
「牧さんのいたずらのためだけに、僕がつくったんだ」
…………。
「じゃ、名刺じゃないじゃないですか」
僕の言葉に、瀬川さんは頷いた。
「そう、ただのカード」
なんだ。
「いつまでたっても文字が出てこないと思った」
「まぁ道理だよね。そんなつくりにはなってないから」
瀬川さんは笑った。彼の笑い方は穏やかで、少しも嫌味な感じはなかった。
「あの絵の女性は、牧さんの小説の登場人物ですか?」
「あぁ、あの女性? モデルは牧さんの奥さんなんだ」
その言葉に、僕はもう一度カードをよく見た。
今しがたこちらを振り返ったような姿勢で、控えめな微笑をうかべている。20代半ばぐらいにみえるが……ともかく美人というよりは可愛い、という印象を受けた。
「可愛い人なんですね」
僕がそう言うと、瀬川さんは頷いた。
「僕も最初会ったとき驚いた」
彼は穏やかな顔をしたまま、言葉を続けた。
「この人は牧さんに騙されてるなって思ったぐらい」
……牧さんに関しての評価は僕も大概だけど、瀬川さんのほうがすごいような気がしてきた。
「でも話をきいてたら、牧さんがポルノ書いてるのも昔いろいろやってたのも知ってたし、まぁ二人が愛し合っているなら問題はないだろうと思って」
「はぁ……」
一体どんな展開があって、牧さんは結婚を決めたのだろう……もしかしてできちゃった結婚かな……。
しばらくすると、徳田が演奏を終え、トランペットを下ろして息をついていた。
「とくだー」
僕の呼びかけに、彼は気付いてこちらを向いた。
そして深々と一礼すると、またトランペットを構えた。
「……なにか、聴かせてくれるのかな」
瀬川さんのつぶやきは当たっていた。
彼はさっきとは違う曲を始めた。それはどこかで聴いたような曲だった。
僕がなんの曲だろうと考えていると、
「……オペラ『トゥーランドット』の中の『誰も寝てはならぬ』だね」
瀬川さんが言った。
「なんですか、その題名は」
僕の質問に、瀬川さんは答えてくれた。
「トゥーランドットという美しいお姫様がいた。彼女は求婚者に対して3つの謎を出し、相手が答えられたら結婚する、答えられなければ首をはねる、とそれで何人もの男が命を落としていた。だがある男がお姫様の謎にすべて答えた。結婚を嫌がるお姫様に、男はこう言うんだ。彼女が次の日の朝までに男の名前を答えられたら、結婚は取りやめ、男は死んでもいいと。お姫様は彼の名前を探らせるため、国中に『誰も寝てはいけない』というお触れを出す。そこで男がお触れの声を聞きながら『誰も寝てはならぬ』というアリアを歌うんだよ。その曲だ」
「へぇ……」
抑揚のはっきりした曲だった。歌詞は知らないが、男が歌っているのなら恋の歌だろうか。でも題名が『誰も寝てはならぬ』って……うーん、よくわからん。
それはさして長くはない曲だった。終わると徳田はもう一度礼をしてから足元に置いていたケースを持ち、ぱちぱちと拍手をしている僕らの方へやってきた。
彼が口ずさんでいるのは、今しがた演奏した曲の歌のようだった。
「Ma il mio mistero e chiuso in
me,
il nome mio nessun sapura!
No,
no, sulla tua bocca lo diro
quando la luce splendera!」
* 注釈
歌できくと、なかなか情熱的なものに聞こえた。徳田の歌い方のせいだろうか。
彼は「Ma il m
io
mistero e chiuso in me」という言葉を、今度は歌わず囁くようにして繰り返した。
「『しかし我が秘密は我が胸の内に秘められている』」
瀬川さんが言った。徳田が繰り返した言葉を訳してくれたらしい。気障な言葉だが、徳田が口にすると嫌らしさはなかった。僕がヒュウと尻上がりの口笛を吹くと、徳田は彼らしい笑みを浮かべて応えた。
「で、名前のわからない男は、どうなるんだ? 見事お姫様を手に入れるわけか」
僕が聞くと、徳田は言った。
「男はその情熱と口付けで、お姫様の氷のような心を溶かす……まぁ結果的には、男はお姫様と結婚してめでたしめでたし、だ」
よく考えると、最後男が殺されてしまったらどうにも救いようのない話だよな……。
「素敵な演奏を聞かせていただきました」
瀬川さんが微笑とともに徳田に話し掛けた。
徳田も笑みで答え、さりげなく目配せで「彼は?」と尋ねてきた。
「……と、彼は知り合いの作家の、専属イラストレーターをしている瀬川さん。美術学科の卒業生だって」
「瀬川です」
「佳月と同じ文芸学科の徳田です」
2人は挨拶を交わした。
「ちょっと一枚描かせてもらったよ」
瀬川さんが見せたスケッチブックを覗きこんだ徳田は「あれ」と声をあげた.
「この絵のタッチ、どこかで、見たことがあるような気が……」
徳田はそうつぶやいただけで、思い出せなかったようだ。しばらく絵を眺めていたものの、諦めて顔をあげた。
「ま、僕は全然有名人ではないからね」
瀬川さんはそう言って笑った。
「.いや、絶対見たことがあるんだが……」
徳田はそうつぶやいた。彼がそう言うのなら、きっと見たことがあるんだろう。ただ瀬川さんが書いているイラストは少女小説の方だから、徳田が見ているとしたら彼が本屋でそういう系統のコーナーに行ったということだ。それはありえないことのような気がする。
「俺はそろそろボックスの方へ行くから。またな」
「じゃあ」
徳田は鞄をかついで行ってしまった。
「じゃ、今度は佳月君を描かせてもらおうかな」
瀬川さんがそう言ったので、僕らは食堂へ移動した。
お茶を入れた湯のみを自分と瀬川さんの前に置くと、
「懐かしいなぁ、このプラスチックの湯のみ」
瀬川さんは本当に懐かしそうな口調で言って、「ありがとう」と湯飲みに口をつけた。
「僕の友達で、これを何個か家に持って帰って使ってた奴がいたよ。遊びに行ったらこれにお茶を入れて出してくれたりしたっけ」
そらあかんやろう……と内心突っ込む。まぁ瀬川さんに言っても仕方ないことだが。
「そういや聞こうと思ってたんだけど、佳月君て妹さんいない? なんだったっけ……色の名前だった気が……」
「紫を、知ってるんですか」
僕の返事に瀬川さんは頷いた。
「あ、そうそう、紫ちゃんか。カヅキって苗字はあまり聞かないし顔も似ているから、もしかしてと思ったんだ」
彼はぱらぱらとスケッチブックをめくり、一枚の絵を見せた。
そこに描かれていたのは、確かに紫だった。喫茶店のバイトをしているところなのか、手にお盆を持った姿だった。
「彼女がバイトしている店は、僕の友達の親がやってる喫茶店でね。何度か行ったことがあるから」
「そうなんですか……」
僕は相本さんの話を思い出して聞いてみた。
「その瀬川さんの友達って、美形ですか」
僕の言葉に、瀬川さんは頷いた。
「そうだね、なかなかの美形だよ」
僕は他の絵も見せてもらった。瀬川さんのスケッチブックは、風景よりも人物の絵が多かった。僕がその点を指摘すると、彼は「人物を描くの、結構好きなんだ」と答えた。
瀬川さんが楽な姿勢でいいと言うので、僕は椅子にもたれた格好でモデルを務めた。
「でも人の顔って、描くの難しくないですか?」
「最初はそう思っていたけどね……」
彼は僕とスケッチブックとに交互に視線をやりながら、手を動かした。
「顔ももちろん違うけど、表情も全然違う。同じ人物を何度描いても、その時々によって全然見せる顔が違うから、人間は描いていて飽きないよ」
彼は手を止め、僕を見てちょっと笑った。
「今の佳月君は、いい顔してるね。嬉しいことでもあったかな」
「はは……まぁ」
僕は笑って適当にごまかした。
初対面の人にそう言われるなんて、俺はそんなにわかりやすい顔をしているんだろうか。
「……さっき会ったとき変な冗談を言ってしまったけど、牧さんは本当に、時々君の話を聞かせてくれてたんだ」
瀬川さんは手を動かしながら話を続けた。
「あと、君の友達とか、居候していた少年の話とかね。今までに会った人のことを僕にいろいろ話してくれた」
「いろんなところへ行って、いろんな人と出会うのが好きなんだって……昔、聞きました」
一番初めに牧さんに会った時のことを思い出す。僕はゲーセンで知り合った朗に、牧さんを紹介してもらった。彼はその頃、よく梅田の路上でギターの弾き語りをしていた。
「なんで弾き語りをしているんですか?」
僕が聞くと、牧さんはこう答えた。
「俺に興味をもってくれた人が、話し掛けてきてくれるから」
事実、朗は弾き語りをしている牧さんに声をかけたのがきっかけで知り合った。
何かをして、誰かと知り合う。そのきっかけを自らつくりいろんな人と知り合うのが楽しいと、牧さんは言っていた。その頃の僕は人付き合いが苦手だったので、牧さんの言葉はあまり理解できなかった。
でも今は……。
「おっと」
瀬川さんが声をあげて、テーブルの上に鉛筆を置いた。隣の椅子の上に置いていた鞄から携帯を取り出した。バイブにしてあったらしい。
「はい、もしもし……あぁ、牧さん」
二言三言交わしてから「今ですか? 1食にいます」瀬川さんはそう答えたが、言ってから苦笑していた。よく考えたら、初めて芸大に来た牧さんに、第1食とか言ってもわからないよな。
「坂を登ったでしょう、そこから最初に通り過ぎた食堂です」
瀬川さんは1食の場所を説明していたが、ややしばらくして「いいですよ、そっちに行きます。わかりやすいところにいてくださいね」と電話を切った。
「牧さんはどこにいるんですか」
僕が聞くと、瀬川さんは筆記具やスケッチブックを鞄にしまいながら答えた。
「さぁ……どうも9号館の方みたいだけどね。いいよ、見つからなかったら、また携帯にかけるから」
そうは言っていたが意外とすんなり、9号館の掲示板を眺めている牧さんを見つけることができた。
「いやあ、最近の学生の課題って面白いな。俺も提出してみたいな」
牧さんのそんな言葉に、瀬川さんが答えた。
「じゃあ大学に通ったらいいじゃないですか」
「締め切りと課題の提出が重なったら、俺は死ぬかも知れん……」
2人の会話を聞きながらふっと振り返ったとき、僕はある人物を見つけた。それは昼過ぎに授業があるからと別れた夕佳里さんだった。
「夕佳里さん」
僕が声をかけると、彼女は振り返った。
が、彼女が視線を向けた先は、僕ではなかった。
「瀬川さん……? 瀬川さん」
夕佳里さんが言うと、瀬川さんも振り返って彼女を見た。
「あれ、夕佳里ちゃん」
瀬川さんの彼女に対する呼び方に、一瞬過敏に反応してしまった。
ちゃん付けって……2人は一体どういう関係なんだ?
「やだ、瀬川さん、どうして芸大に?」
「まさか、大学で会えるとは思ってなかったね」
笑みを見せた瀬川さんに、夕佳里さんも笑みで応える。
穏やかでない心中の僕の前で、2人は実に仲良さそうに喋っていた。
「どう? 部屋はもう片付いた?」
そんな瀬川さんのその言葉に、夕佳里さんはぱっと頬を赤くする。
「そんなのもう忘れてくださいよ、瀬川さん」
抗議の口調に、瀬川さんは笑って応えた。
「網膜に焼き付いて、忘れることができなくって」
「もう、そんな言い方しないでくださいよ。恥ずかしい……」
相手を叩くような素振りをして、夕佳里さんは言った。
……おいおい、僕が視界に入ってないよ。
一瞬、痛みに似た感覚を覚える。
もしかして、彼女は彼が好きなんだろうかと、そう思ってしまった。そう思えるぐらいに親しげで……しかも、彼女が家に招き入れるほどの関係なんだ……。
「もしもし」
牧さんが僕の耳元に口を寄せて、こそっと言った。
「彼女、お前さんの恋人とか?」
「違います」
僕が答えると、牧さんは「ふーん」と頷いた。
「なんだ、お前さんの片思いか」
………………。
僕が牧さんの顔を見ると、牧さんはにやりとした。
「わかりました?」
「わかるよ、それぐらい。俺をなめちゃいけない」
忍ぶれど、色に出にけり我が恋は……ってとこか。
「そうかー、片思いなのか。お前さんも意外と奥手だね」
「まぁ、そういうわけでは……」
自覚したのが最近だし。
「でも友達としての付き合いは長いんだろ? 言わないのか? 言っちゃえよ」
彼は僕を軽く肘でこづいた。
「いや……まぁ、いろいろと事情が」
僕がそう言うと、牧さんは少し不思議そうな顔をしたが、それについては追求してこなかった。
「ま、巧に妬く必要はないって教えておいてやるよ。あいつ、所帯持ちだから」
「あ、そうなんですか?」
僕は瀬川さんを見た。結婚しているという感じが全然しない。それを言えば牧さんも妻帯者というようには見えないけど。
「結婚指輪してないから、わからんかっただろ。あいつ、あんまり指輪はめるの好きじゃないらしくてさ」 へぇ。
「しかし、お前さんも以前よりは表情豊かになったもんだな。昔はなんかつまらなそうな顔ばっかしてたのに」
「別に……つまらないってことはなかったですよ」
「まぁ、歳月は人を変えるってことか」
そうつぶやいてから、牧さんは瀬川さんに声をかけた。
「おい、巧。2人だけで話してんじゃないって。可愛い子は俺にも紹介しろっていつも言ってるだろうが。どういう知り合いだよ」
僕もその点は知りたかったので、牧さんにちょっと感謝。
瀬川さんは苦笑して言った。
「昔弁天町のリサイクルショップで働いていた時に、彼女が客として店に来たんですよ」
隣で夕佳里さんが頷いた。
「そうなんだ」
僕が言うと、夕佳里さんは「棚を買ったの」と付け加えた。
「まぁその後ちょこちょこと、細かいものも買ったりして」
「リサイクルショップで?」
「リサイクルといっても、新品同様のものも結構扱っていたから」
瀬川さんが言った。
「一人暮らしに使うには、適当なものがいろいろあったからね」
「食べ物も売ってましたよね」
夕佳里さんの言葉に、瀬川さんが頷いた。
「そうそう、なんでも屋だったね」
……なんでもいいから二人だけの会話は止めてほしいな。
顔には出さなかったつもりだったが、牧さんがなだめるように僕の肩をぽんぽん叩いた。僕の心の内はしっかり彼にばれていたらしい。
「で、こちらの方は……」
夕佳里さんが牧さんを見た。
「俺? 俺は巧のご主人様で」
「雇い主って言ってくださいよ……」
頭が痛いというように額に手をやり、瀬川さんが言った。
「あぁ、悪い。最近調教もの書いてたから……ついつい」
調教ものって……またえぐいもの書いてるんだな、牧さん。
牧さんはごほんと咳払いし、真面目に言い直した。
「俺は、巧の雇い主の作家、牧です」
「作家さんなんですか……」
夕佳里さんは意外、という表情を見せた。僕も最初、牧さんが作家だと聞いても信じなかったから気持ちはわかる。
「調教って……ブリーダーとかの話でも書いてるんですか」
彼女は牧さんの言葉を間違えてとったらしい。
「いやね、お嬢さん。調教っていうのは」
僕は牧さんの足を軽く蹴って、無理やり話を途切れさせた。
「ペットと調教師の、感動ものですよね」
強引に言葉を割り込ませてから、こっそり牧さんに文句を言った。
「女の子の前でそんな話しないでくださいよ」
「別にいいだろうが。最近は女の子だってすごいもん読んでるんだし。知ったところで予備知識が増えるだけだって」
「彼女はそういうタイプじゃないんですから、変な知識を植え付けないでください」
「あぁ、そりゃ悪かったな」
僕と牧さんがぼそぼそ話している間に、夕佳里さんは瀬川さんと昔話を再開してしまった。そこへ無理やり割り込むのもなんなので、僕の方は牧さんとの会話を続けた。
「で、大学の物語は書けそうですか」
僕がきくと、牧さんはうーんと唸った。
「そうだなぁ……大体の話は考えたんだが、主人公像がまだつかめていないんだよな。女にするか、男にするか……男にしようとは思っているんだけど」
「恋愛ものですか?」
「別に恋愛ものにしようとは思わなくても、人間が複数出てきたらそういう関係にもなるさ。ちょっと高校生の恋愛とは一味違うものにしようとは思っているんだが……」
「一味違うって?」
「こう、心の傷とか、そういうテーマにしようと思ってて。シリアス、しかしギャグもありみたいな感じでさ」 ……って、あんたのギャグって親父ギャグじゃないんか?
僕のひそかな突込みをよそに、牧さんは続けた。
「そうだな、芸術系の話もたまにはいいな。創作活動に励む男と……まてよ、楽器もいいな。しかしそうなると、楽器についてちょっと勉強せねば……ピアノ弾く知り合いならいるんだけどなぁ。で、まぁお約束に可愛い女の子を出して、恋愛がらみにすると。どんなタイプの子がいいかな。この前までヒロインは活発なタイプでショートだったからなあ……今度はロングもいいかな」
そうつぶやく牧さんの視線の先には、夕佳里さんがいた。
「なんで彼女を見ながら言うんですか?」
「ん? 主人公の男はお前さんをモデルにするかな。芸術について語り合う2人に芽生える愛か……うーん、あとひとひねり欲しいかな」
…………。
「俺をからかってますね」
「そんなことない、そんなことない。俺はお前さんの恋を応援してるって。なにかあったらいつでも相談にのるから、遠慮せず電話してこいよ」
連絡という言葉で、僕は名刺のことを思い出した。
「ところで、名刺には電話番号どころか何もなかったようですが」
「あ、あれか。どうせ巧に聞いたろ? イタズラ用の名刺だって」
牧さんは悪びれもせずに笑った。
「あれな、俺の嫁さんて聞いたか? 美人だったろ? いやあ、本物はもっときれいなんだけどな。見たいか? 今度見に来るか? 見に来いよ」
牧さんはばんばんと僕の背中を叩いて言った。
……牧さんて、のろけるタイプだったんだな。知らなかった。
「じゃ、改めてまともな名刺を渡しておこう」
牧さんは鞄を開けた。洒落たセカンドバックを持ち歩く方だったのに、今日は珍しく大きな鞄だな。
「お、そうそう。今日会えたら渡そうと思ってたんだ。忘れないうちに渡しておくよ」 牧さんは名刺と一緒に本を取り出した。
「俺の小説、読んでくれ」
全部で5冊。全部本屋のブックカバーがかけてあった。本が傷まないようにという彼の気遣いらしい。 「これって、完結してるシリーズですか?」
「いや、完結はまだしていないが、話としては読みきりになっている」
「ありがたく、いただきます」
僕は本をリュックにしまった。今日は全然教科書を入れてないから、本はなんとかリュックに収まった。
「じゃ、巧。そろそろ帰るか」
「あ、もう帰ります?」
牧さんの呼びかけに瀬川さんは振り返った。
「今日は巧を早く帰せって、碧ちゃんに言われてるんだよ」
「あぁ、そうなんですか? まぁ牧さんと外出したら、その日には帰ってこないと思われていますからね、僕は」
牧さん……瀬川さんを引っ張りまわして遊んでるんかいな。
「そういうわけで、俺たちは帰るよ」
牧さんが僕に言った。
「ここまでどうやってきたんですか?」
「ん? 最寄駅のそばの駐車場に車置いてるんだ。あのバスたまに乗るには面白いが、毎日だとやってられないな。圧死するかと思ったぜ」
「たぶん一番混んでいる時間帯に乗ったからですね」
瀬川さんが苦笑した。
「じゃあな、トモ。なんかあったら電話しろよ」
「はいはい、じゃまた」
牧さんが去り際に投げキッスをよこしたのを、僕は手を振って払う仕草をした。
「トモって、呼ばれてるんだ?」
2人が去ってから、夕佳里さんが僕に言った。
「あ……うん」
僕は夕佳里さんの言葉に頷いた。
僕のことをそう呼ぶのは牧さんと朗ぐらいだ。昔はともかく今はちょっとガキっぽい感じがして、夕佳里さんの前でその名で呼ばれたのは恥ずかしかった。
「牧さんとは、昔からの知り合いだったの?」
「ん、高1の時に知り合ったから……わりと昔かな」
「なんか、面白そうな人だね」
彼女は「かっこいいし」と付け足した。
……まぁ否定はしないけど。
僕と夕佳里さんも帰ることにした。牧さんたちは先のバスに乗れたらしく、バス停にはもういなかった。
やってきた電車は空いていて、僕と夕佳里さんは並んで座った。夕佳里さんは左端で、少し間を空けて、僕。
「今日、瀬川さんが絵を描いてるの、見せてもらった」
僕がそう言うと、夕佳里さんはふっとため息をついた。
「そうなんだ。瀬川さんの絵って、すごく優しいよね」
……。
「あぁいう絵を描ける人って、好きだなぁ……」
どう解釈したらいいんだ、この「好きだなぁ」ってのは。言うなれば、「ああいう絵が好き」じゃないのか?
そんなことを考えながら、僕は彼女の話を聞いていた。
「私が観にいったムンクの美術展の話で盛り上がっちゃって……身近でそんなの語れる人いなかったから、すごく嬉しかったなぁ」
「……そうなんだ」
いくら僕から聞いたこととはいえ、彼女の口から自分以外の男の名前をきくのは嬉しくなかった。しかも彼女は実に楽しそうに話していて……。
牧さん、ダメだ。例え瀬川さんが妻帯者でも、嫉妬してしまうことには変わりない。もし……夕佳里さんが他人に僕の話をするとき、彼女はこんな顔をして僕の名前を口にしてくれるだろうか。そんなことも考えてしまう。
「あ、私も絵を描いてもらったことあるんだ。僕が有名になったら高く売れるよ、って言われたんだけど、どうかなぁ」
冗談めかして言われても、僕には気の利いた返事を返すことは出来なかった。
僕があまり気のない返事を返していたせいか、夕佳里さんが「なんか、さっきから私ばっかり喋ってるね」とぽつりと言った。
「ごめん、うるさかった?」
「いや……」
どうせ彼女の話を聞くんだったら、もっと違う話が聞きたかった。彼女自身のこととか……。
あ。
「そういや、瀬川さんて……君の家に行ったんだ?」
気になっていたことを思い切って聞くと、夕佳里さんは
「うん、買った棚を家に届けてくれた時にね。で、まだ引っ越してきたばかりで片付いてなかった荒れた部屋を見られてしまったというわけなんだ」
……なんだ、そういうことか。個人的に部屋に招いたってわけじゃないんだ。ちょっと安心。
そうなると、少し心の余裕を取り戻せた。
「瀬川さんて、会ったときはイラストレーターの卵とか言ってたけど……あの牧さんて人のイラストを描いてたんだね」
「牧さんが、瀬川さんの絵を見てスカウトしたんだって」
「へぇ、そうなんだ。でも私、牧さんの小説読んだことないかも……」
「あ、今持ってるけど、読む?」
僕はリュックの中から適当に1冊取り出して、夕佳里さんに渡した。
「うん、ありがと」
僕はリュックの中をあさり、本が傷まないように中身の場所を入れ替えたりしていた。
「よかったら、貸すよ」
顔をあげず、隣でページをめくっている彼女に言ったが、
「え、あ……ううん、いい」
夕佳里さんは本を閉じて、僕に押し付けるように返してきた。
「面白くなかった?」
僕が聞くと、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。
「う……ん、ちょっと、苦手かなぁ。佳月君は、こういうの、好きなの?」
「まぁ、わりと好きなほうだけど」
ハッピーエンドがお決まりの少女小説だが、読んでいて疲れないし。
僕の返事に、夕佳里さんは驚いたようにわずかに目を大きくしたが、何も言わなかった。
彼女の方は、あまり恋愛ものが好きじゃないらしい。
「……そう、牧さん大学に来ててさ。お前にも会いたがってた。……それがさ、結婚したって。そう、驚きだろ。俺も驚いた」
僕は高崎に電話で今日の出来事を報告した。高崎も牧さんに会えなかったことを惜しがっていた。
「奥さん見に来いって。今度遊びに行ってみようか……いや、何区だったかな……ともかく大阪だった……そう遠くない。うん、じゃあ、そのうち。あ、携帯鳴ってる? じゃ切るよ。じゃあな」
電話を切ると、僕は牧さんの本のことを思い出した。
傷まないうちにリュックから出しておこう。
僕はリュックから本を出した。
うん、大丈夫。カバーのおかげで傷んでいない。そういやこのシリーズも、全部瀬川さんがイラストを描いているんだろうな。どんな感じだろう。
僕は表紙の絵を見るために全部の本のカバーを外してみた。
そしてその時、恐るべき事実を知り、思わず声をあげてしまうぐらい、驚いた。
確かに、その本は全部牧さんの本だった。が、5冊のうち4冊は少女向け小説で、あと1冊はポルノ小説だった。また過激そうなタイトルついてるし……表紙が正視できん。タイトルから察すると、これが最近書いていたという調教ものの話だろうか。
「こんなの混ぜるなって……」
僕はその本にカバーをかけながら、いやーな想像にいきあたった。
もしや……今日僕が電車の中で夕佳里さんに渡した本は……たった1冊混じっていたこのポルノだったのでは……だから夕佳里さんはほとんど読まずに本を閉じ、僕に返したのでは……。
もしそうだとしたら、なんて間抜けなことだろう。しかも僕は、彼女の『こういうの好きなの?』という質問に『わりと好きなほう』と答えてしまった。この想像があたっているなら、彼女は僕がこういう本を愛読しているなんて勘違いしているのでは……。
って、それはまずい。そんなふうに彼女に思われていたら……サイアクだ。
僕はなんとか訂正したい気持ちにかられたが、そんなのどうしたらいいんだろう。
電話をかけて言うか? 『俺はポルノなんて愛読してない』……って、そんな言い方したら、逆に怪しいような気もする。
はぁ……。
僕はため息をついた。
今日はなんてついてないんだ……。