「佳月君、もうあがるんだろ」
店長室から出ようとした僕に、安田マネージャーが声をかけた。なんかこの前中岡さんにも同じようなセリフを言われた気がする。彼らは僕が時間通りに帰るのが気に入らないのだろうか。
「はい、もうとっとと帰りますよ」
答える僕の言葉は、素っ気無い。安田マネージャーには最近都合よくシフトに入れられている恨みもあるが、彼は愚痴っぽいところがあり、以前つかまって彼の愚痴を聞かされて10分以上時間をとられてしまったこともあった。別に急ぎの用事はなかったが、何かを言われる前に逃げたほうが賢いというものだ。
「佳月君て、ゲーム好きなんだよね」
「……はぁ」
僕はよくわからない話の流れに戸惑いながらも、肯定した。だが油断せず、じりじりと店長室のドアまで後退して、いつでも「もうこんな時間なのか、急がねば」と言って逃げられる体勢を整えた。
「もちろん、このへんのゲーセンのことは詳しいんだよね」
「……はい」
否定はしない。けど、マネージャーの口からゲーセンの話が出るなんて、一体なんだろう。まさか以前休憩時間に制服のままゲーセン遊びに行った件だろうか……愚痴は逃げられても、お小言じゃ逃げられないぞ。
が、安田マネージャーはいつもの気さくな口調で言った。
「すぐ横のビルの地下1階のゲーセンに、コピー機あるの知ってる?」
僕は近くのビルのゲームセンターの位置を思い浮かべた。すぐ横……というと、チケットショップが多いあのビルか。地下1階というと僕がよく行くとこだな。コピー機なんて……あ、店の隅にあったような。「あぁ、はいはい、ありますね」
「そこ行ってさ、これコピーしてきてよ」
彼はそう言いながら、僕にクリアファイルに入った資料をよこした。
「領収書忘れずにもらってきてね」
よかった、小言や愚痴じゃなくて。
僕は千円を受け取り、バイトの制服の上にジャンバーをはおって厨房を通り、キャップを置いて店を出た。
「お兄さん、お兄さん」
相本さんが追いかけてきた。僕が立ち止まると、彼女は横に並んでにっこりした。
「ゲーセン、行くんでしょ? 私も行きます」
彼女もジャンバーを着ている。確か僕と一緒のあがりだったのは知ってるが……。
「いや、俺は遊びに行くわけじゃないんだよ」
「わかってますよぉ」
?
ともかく、僕は頼まれた仕事を片付けるべくゲームセンターに行った。
「あれ、今日はバーガー屋の制服でゲームですか」
顔見知りの店員さんが声をかけてきた。一応、ゲーム仲間とも言える仲の人だ。昔はよく対戦をしたが、僕が勝ってばかりいたので最近は勝負していない。僕と同い年ぐらいの人だが、高校を卒業してからずっとフリーターだと以前にきいたことがある。
「コピーしに来たんで、後で領収書ください」
「あ、じゃあそこらへん掃除してるんで、終わったら声かけてくださいよ」
僕がコピーしている間、相本さんはUFOキャッチャーの景品を見たり、対戦で盛り上がっているゲームを眺めていた。この前ゲーセンにいた僕を見つけたように、彼女自身はゲームをしないが、見物するのは嫌いじゃないらしい。まぁ普段から紫と一緒にゲーセンに行くこともあるからだろう。
僕がコピーを終え領収書をもらって帰ろうとしたとき、相本さんが駆け寄ってきた。
「お兄さん、プリクラ取りましょう」
え?
彼女は僕の腕をとって、プリクラ台の方へ引っ張っていく。
「いや、でも、制服だし」
そう言うと、相本さんは「制服だからいいんですよ」と答えた。
「最近制服で取るの流行ってるんですよー」
誰だ、そんなこと流行らせてるのは。まさか中岡さんではあるまい。
「いや、やめとこう、俺一応サブマネだし」
僕が店の方へ足を向けようとすると、相本さんはなんと僕のネクタイをつかんだ。
「お兄さん、お願い、一度だけ、一度だけでいいから、一緒に取りましょうよー」
首が絞まる……。
「ったく、仕方ないな」
僕は彼女に手を離してもらうと、もう一度ネクタイを締め直した。
「その代わり、1回だけだよ」
「はあい」
相本さんはポケットから財布を取り出して、お金を入れた。
「じゃ、お兄さん、どのフレームにしましょう」
「なんでもいいよ」
って、なんでハートのフレームにするんだよ……。
「ジャンバー脱いでくださいね」
「え、脱ぐの」
「当たり前じゃないですか」
僕はジャンバーを脱いで、コピーした資料とともに抱えた。
「ほら、ちゃんとお兄さんのクリーンキャップも持ってきました」
彼女がジャンバーの下から出したのは、まぎれもなく僕がさっき店を出るときに置いてきた青のクリーンキャップだった。
「キャップも?」
「そうですよ」
彼女も隠し持っていたサンバイザーをかぶった。僕も仕方なく持っていた資料を相本さんに持ってもらい、手早くキャップをかぶった。
……いいんかな、こんなことしてて。
「じゃ、取りますよん。お兄さん、笑ってください」
僕は接客スマイルを浮かべた。制服着てると、この笑顔つくるの楽だな。
「えーと、文字入れられるんですけど」
相本さんがペンを手にして、僕を見上げた。
へぇ、最近のは文字まで書けるのか。ゲーセンにはよく来るけど、プリクラなんて取らないからなぁ……。
「なんて書きます?」
「いや、好きにしていいよ」
って、なんでLOVELOVEって赤で書くんだよ……。
「わーい、できたできたっ」
出てきたプリクラを手にとり、相本さんははしゃいだ。
「いい写りですねっ」
……うーん、ラブラブって感じのプリクラだな。
僕は苦笑した。
「これ、半分にしましょうか」
「そうだね」
僕自身は何かにプリクラを貼ろうという気はなかったが、相本さんに渡してしまうと大勢の手に渡る可能性があるし、半分は手元に置いておくことにしよう。
借りてきたはさみで半分にすると、相本さんは一方を僕にくれた。
「頼むから、それマネージャーとかには見せないでね」
「わかってますよ。あ、でも鈴木さんにはあげていいですよね」
「鈴木さんならいいけど」
「あ、あと紫にもあげとこっと」
……まぁいいか。
「そうだ、この前、紫が彼ととったプリクラもらったんですよ、見ます?」
相本さんがそう言ったので、僕は「そうだね、見せてもらおうかな」と答えた。
「じゃ、着替えた後で見せますね」
僕は店に戻ってマネージャーにコピーした資料を渡し、着替えた後店の外で相本さんとおちあった。
同じ地下街にあるセルフサービスの喫茶店に入り、飲み物を買って席につくと、相本さんは鞄から手帳を取り出して「はい」と僕に見せてくれた。
「これです」
僕は彼女の手帳に張られたプリクラをまじまじと見た。
……うーん、ちょっと小さくてよくわからないな。紫の方は顔知ってるからわかるけど、彼氏の方はなんともわからん。なんとなくおとなしそうな顔立ちに見える。
「……彼氏、よくわかんないな」
「私、つい最近会いました、本人と」
相本さんが言った。
「美智子と紫のバイト先に行って、接客してもらいました」
美智子、美智子……あぁ、紫の友達のお嬢様っぽい子か。確か美智子さまから名前をもらったという子だったな。
「どんな感じ?」
「一見普通だけど、どこか違うような人でした」
…………。
まぁ、あの紫と付き合う男だから、ちょっと変わってるんだろうな。
「あ、さっきのプリクラ貼っておこっと」
相本さんは手帳をめくり、プリクラのページにさっき一緒に撮った分を貼った。女子高生らしく、友達と撮ったと思われるシールの貼られたページが何枚もあった。
「まぁ、俺も記念に手帳に貼っておくか」
僕も手帳を取り出して、一番後ろの紙に貼った。
「お兄さんは、紫と一緒にプリクラ撮ったりしないんですか?」
「そもそも、一緒に出かけないからね」
兄妹で出かけるなんて、滅多にないし。家族で揃って出かけることもないか。
「あいつも、俺と出かけるより彼氏と出かけたほうが楽しいんじゃないの」
「いいですよねぇ……私も彼氏がほしいです」
相本さんはそう言ってため息をついた。
「小説の主人公は高校で運命の出会いがあったりするのに……私はなんもないですもん〜」
相本さんの読む小説って、やっぱコバルトとか背表紙がピンクの少女小説なんだろうな。
「相本さんなら、焦らなくてもそのうちいい人が現れるよ」
「そうですかねぇ……私あんまり男運ないし」
高校生でそんなこと言ってても……まだ若いのにな。
僕はちょっとおかしくて笑った。
「告白されたことって、あるんだろ?」
「んー、ないわけじゃないですよ」
彼女はシロップを入れたアイスティーをストローでかき混ぜた。
「でもぉ、よく知らない人に告白されたって付き合う気になれないし……」
まぁ、そこらへんは否定できないな。僕も同じように思ったことあるし。
「で、お兄さんの方は、彼女できたんですか」
相本さんの質問に、僕はため息をついて答えた。
「いや、相変わらず寂しい独り身で」
「とかなんとか言って、寂しいなんて思ってないくせに」
はは。
「そうだ、大学の女の人って、どんな感じですか? やっぱ化粧してて、服装もセクシーで雰囲気も大人の女って感じなんですか?」
なんだ、そのセクシーな大人の女って。
「別に、すべての女の子が化粧してるわけじゃないし、服装だって普通だよ」
僕の言葉に、相本さんは眼を大きくした。
「そうなんですか?」
……彼女の頭の中では、女子大生ってみんなそんな感じなんだろうか。美緒さんがまだ店でバイトしてたら、相本さんの女子大生に対する印象はまたさらにすごいものになったことだろう。
「私も今はこんな童顔で子どもっぽいですけど、そのうちセクシーな熟女になれるのかなぁ」
セクシーな熟女ねぇ。イメージとしては、黒系の露出度の高い服を着こなす感じだろうか。残念ながら、今の相本さんには似合いそうにないな。
「まぁ、二十歳になる頃には、もう少し変わるよ。俺だって数年前はただの背が高いだけのガキだったんだから」
「そうですよねぇ……成長したら変わりますよねぇ」
でも彼女の場合は、外見が変わっても中身が変わらないような気がする……。
乗車率150%ほどのバスから降り、僕は芸坂を登った。
今日は夕方から雨が降るという予報で、少しじめっとしている。いっそ降ってくれたほうが涼しくなっていいかもしれないな。この服が張り付くような感覚はどうも苦手だ。
今日は……高崎は授業に来るのかな。あいつ、最近見てないぞ。徳田は間違いなく、大学のどこかにいるだろう。彼は携帯を持っていないので、待ち合わせをせずに捕まえることは難しいが。
そう思っていると、芸坂を登ってすぐの第1食堂の前で徳田が2人の男と立ち話をしているのに出くわした。相手の2人は、どうも年下のようだった。
「よう、徳田」
僕が声をかけると、徳田が振り返った。同時に、一緒にいた2人もこちらを向いた。
取り込み中なら通り過ぎようと思ったが、徳田は僕に「ちょっと待ってくれ」といって、また2人の方へ向き直った。
「まぁ、詳しいことは、皆で話しあうか」
「そうですね」
「じゃあ、後で」
話は終わったらしく、2人は徳田に頭を下げ、次に僕にまで頭を下げて去っていった。
「SWEの後輩、だよな」
僕がやってきた徳田に言うと、彼は頷いた。
「安倍と林という、2回生だ」
「礼儀正しい感じでいい子だな。徳田団長も、頼りにされてるんだろ」
徳田はちょっと笑った。
「まぁな……安倍のほうは、時々俺をからかってきて困るんだけどな……」
徳田が年下に?
「なにをからかわれてるんだよ」
気になってきくと、徳田はため息をついた。
「奴はちょっと霊感が強いという話で……いろいろと」
あぁ、徳田はそういう系は苦手だもんな。
「霊感が強いって、それにまつわるなにか面白い話はないのか?」
返事をそれほど期待してはいなかったが、徳田はしばらく考えてから口を開いた。
「男子団員の一人が、練習の後安倍と一緒に帰る途中、ふっと奴が『ついてますね、はらいますよ』と言ったそうだ」
「ふんふん」
「団員はゴミでもついてるのかと思って『頼むよ』と答えた」
「それで?」
「安倍はいきなり団員の肩に手をあて、なにやらぶつぶつとつぶやきだしたらしい。それが真言らしいと団員が気付いたとき、安倍は手を離して『もう大丈夫です』とにっこりしたそうだ」
「それって……」
『付いてますね、払いますよ』ではなく『憑いてますね、祓いますよ』という意味だったわけか。
「本当の話なのか?」
「わからん。団員が俺をからかうためにつくった話かも知れん。安倍は、どこかカンがいいというか……鋭いところがあるから、霊感かどうかはわからないが、第6感は優れていそうな感じがするな」
へーぇ。
僕と徳田は合同研究室へ向かった。掲示板のチェックに来たのだが、僕の選択している授業に関する掲示は何もなかった。一つぐらい休講があってもいいのにな……。
「そういやさっき、サークルの話をしてたんだろ、よかったのか」
そう言うと、徳田は掲示板から視線をこちらに向けた。
「今度、天王寺動物園に行く話だったから、別に後でも構わんさ」
徳田がそんなことを言い出したので、僕は聞き間違いかと思い「え?」と聞き返した。
「だから、今度天王寺動物園に行くんだ」
彼はぼそぼそと繰り返した。
「天王寺……公園でも、市立美術館でもなくて、動物園か」
「あぁ、動物園だ」
「…………なんで、動物園?」
徳田のマネをして僕がぼそぼそときくと、彼はため息とともに言葉を告いだ。
「サークルの懇親会……と言うのは表向きで、まゆちゃんの希望だ」
……あぁ、まゆちゃんか。
「でも彼女、彼氏がいるんだからその人といけば……」
「あぁ、三好さんか。おそらく三好さんに断られて、俺たちを巻き込むことにしたようだ」
……はぁ、なるほど。
「まぁまだ一回生との交流があまりとれてない面もあるから、今度学祭という発表の場もあることだし、せっかくの機会だから皆で行くことになった」
動物園か……小学校低学年か、幼稚園で行った記憶はあるけどなぁ。
「いいじゃん、童心にかえって楽しんでこいよ」
僕はそう言いながら、頭の中でパンダやコアラをみてはしゃぐ徳田を想像しようとしたが、無理だった。
そういや徳田がはしゃぐことってあるのかな。この前CD屋の店頭にあるワゴンで、廃盤になっていたなんとかいうCDが見つかったと興奮気味に言っていたことはあったけど……あ、そういや澁谷先生にもらったテープ、まだ徳田に渡してなかった。持ってこないと。片山龍介のテープ見たら、徳田驚くかな。
ふっとあの時のことを思い出すと、心のうちに静かな旋律が蘇る。どんな曲だったとか曲のタイトルもよく思い出せないのに、全身を満たした感動の余韻だけはまだ残っているような感覚だった。
それと同時に恥ずかしくもなる先生とのキスシーンまで思い出してしまうが……まぁ、あれは芝居だったということで、自分の中でケリをつけておこう。おかげさまで、あれから先生が僕にちょっかいを出すこともなくなったし。
掲示板の確認を終えると、僕と徳田は9号館へ向かった。まだ授業の合間なので、うろうろしている学生はそれほどいない。
教室前のベンチに座ると、徳田が鞄を開いてなにやら取り出した。それはよく西部劇とかで渋い男が持ち歩き酒を飲んでいる、小さな銀色のボトルだった。
「お、なんだよ、それ」
僕が言うと、徳田はにやっとした。
彼がこういう笑い方をするのは珍しい。よほどお気に入りのようだ。
「スキットルだよ、最近欲しくなってな」
彼はそのスキットルを振ってみせた。
「いいけど、そんなの大学にもってきてどうすんだよ。中身は?」
「もちろん、俺の喉を潤す琥珀色の液体が入っている」
……え、まさか。
「ルイボスティーだ」
がくっ。
「……驚かすなよ」
「まぁ俺のことだから、みんな酒だと勘違いしているようだけどな」
徳田は苦笑した。
「まゆちゃんにいたっては、俺が酒なしでは片時も落ち着いていられなくなったから、こんなものを買ったんだと信じていた」
……でもそんなもの持ってたら、酒が入ってるように思えるよな。本来は酒を入れるものだし。
「まぁ、冬には体を暖めるために酒を入れるってのもいいな。ウィスキーとか」
そんなセリフも彼が言うと冗談に聞こえない。
「でもいいな、かっこいいよ」
「ま、俺が持ってこそ様になるってもんだな」
……おいおい。
徳田はフタを開けて、ボトルに口をつけた。フタは本体と細いチェーンでつながっていて、無くさないようになっていた。言ったらなんだが、徳田がそうやっている仕草は、とてもお茶を飲んでいるようには見えなかった。
「あ、そういや、今日は火曜日だったな」
徳田の言葉に、僕は頷いた。
「ちょっと本屋に行ってくる。確か今日発売の本が……」
彼はそうつぶやきながら、鞄を背負った。
「すぐ戻る」
「へいへい」
僕は返事を返して、徳田を見送った。
時計を見ると、あと少しで今の授業が終わる。徳田もそれまでには帰ってくるだろう。
鞄の中からゲームボーイを出して、電源を入れた。ちょっと懐かしい『ボンバーマン』をやっているんだが、これがなかなか楽しい。
しばらくゲームに熱中していたが、眼の前に誰かが立っている気配にふと顔をあげると、夕佳里さんがいた。
「おはよう」
「おはよう」
彼女は僕の右隣に座った。クセになっているのか知らないが、座るときにはしっかり僕と自分の間に鞄を置いた。
僕はゲームボーイをしまっていると、夕佳里さんが「なんのゲームやってたの?」と聞いてきた。
「あぁ、『ボンバーマン』」
「懐かしー。ファミコン時代はまったよ。確かさ、パスワードを入力するときに『BABABA……』って入れていくと、ゼロ面から始まる裏技あったよね」
またマニアックなネタを、よく知ってるな。
「あったあった。ドアとアイテムが隠れているレンガが赤く表示されるんだっけ?」
「そうだったかなぁ……ともかく、なんかなるんだよね」
しばらく『ファミコンゲームの裏技ネタ』で盛り上がった。徳田は言うまでもなく高崎もゲームの話は全然だから、こういう話をできる相手って、今のところ夕佳里さんだけだな。
「あぁ、そういや、この前は本をありがとう」
僕が話を変えると、夕佳里さんは一瞬「?」という顔をした。
「本……あぁ、『天使の美術と物語』だっけ」
夕佳里さんは「どういたしまして」と軽く頭を下げた。今日は結んでいない髪が、動きに合わせて揺れた。
「天使をモチーフにした絵画って、ほんとにたくさんあるよね。名前知らない画家の方が多かったよ」
「うん、実は私もラファエロとか有名な人しか知らない」
彼女はちょっと笑った。僕の方はといえば、すぐに画家の名前が出てこなかった。
「天使とか……まぁ例えば、聖母子をモチーフにした絵はたくさんあるけど、人によって同じテーマでも全然違う絵になるから、面白いね」
「そうだね……多くの画家が聖書の物語を取り上げて描いてるけど、画家によって雰囲気全然違うからね」
ゼミでの『悪魔の美術と物語』という本に関する僕の発表はこの前終わったが、夕佳里さんの発表とは全然内容が違った。彼女の方は天使が絵画に取り上げられるときの決まりごと(天使ではないが、例えば聖母マリアの衣服は赤と青とか)や、画家に好まれて描かれる『受胎告知』の場面について。僕の方は悪を描いた絵画や、年代によって悪魔が絵画の中でどのように扱われていたかについて。澁谷先生が言ったような、天使と悪魔という対照的なテーマの比較にはならなかった。
「本は今度持ってくるよ」
「あ、別に急がなくてもいいよ」
「まぁ、早いうちに返すよ」
言いながら、飛んでいた虫を払おうとして僕は右手を振った。その手が思わず夕佳里さんの長い髪を払い肩に触れてしまった。
「……っ」
隣で夕佳里さんが、びくっとして腰を浮かした。その表情を見て、僕は彼女を驚かせたのではなく、怯えさせてしまったことに気付いた。無意識にとはいえ、僕は彼女に触ってしまったのだ。他人に触れられるのが嫌な彼女に。
「……ごめん」
僕は謝った。
「虫が、飛んでたから……」
「うん……」
彼女はかすれた声でそう言ってまた腰をおろした。だがそのままうつむいてしまったので、髪が彼女の顔を隠すように流れた。
僕が声をかけようとした時、夕佳里さんは勢いよく顔をあげた。僕の方を向いて、笑みを見せる。
「……ごめんね、気を使わせて」
「いや、俺も悪かったし」
僕の言葉に、彼女はわずかに目を伏せた。
「うん……佳月君だけがダメってわけじゃないから……気にしないでね」
「あ、うん……」
でもそこで「佳月君はダメなの」って暗に言ってるところがちょっと寂しいかも……。
「徳田君だけは……平気なんだけどな……」
その微かなつぶやきは、周りが騒がしかったわりには、僕にはしっかり聞こえた。
まぁ……徳田は、確かに別格かもしれないけど……確かに彼は信用のおける奴だし……彼女は僕よりも徳田と知り合ってからの方が長いわけだし……。
でも僕も彼女と何度もゲーセン行ったり映画も行ってて、おそらく学内では僕が徳田に次いで夕佳里さんと仲がいい異性だと思っているのは自信過剰ではないはずだ。大体徳田と夕佳里さんて、特に共通の話題があるわけでも……あ、芸術関係なら話があうのか。でも徳田が好きなのは多分穂積さんなんだろうし……って、別にそんな言い訳みたいなことをなんで考える必要があるんだ。別に恋愛感情がなくたって、二人が仲良くてもおかしくはないのに……。
……。
僕はふと自分の感情の動きに気付いて、焦った。
……俺、徳田に嫉妬してる。
この面白くない、苛立ちに似た感情がまぎれもなく嫉妬だと、それも徳田に対しての嫉妬だと理解して、僕はそんな自分の感情に戸惑った。
僕が徳田に嫉妬するなんて……。
落ち着きなく視線をさまよわせていたが、僕はどうにか平静を取り戻し、地面に視線を落とした。
彼女が信用できる、怯えることのない対象が、俺じゃないからだ。彼女が徳田に対して恋愛感情を抱いているわけじゃないのは、なんとなくわかってる。それでも、彼女が平気だと言うただ一人の異性が徳田だっていうのは……なんか、悔しかった。どんなに彼女が俺に笑いかけてくれても、それは一定の距離を保った状態でしかなくて……その壁を越えることは、難しい。だけど、例え友達としてでも、その距離を意にせず近づける徳田に、僕は嫉妬してる。
もし僕が徳田と同じぐらいの時期に彼女と知り合って、この大学3回生まで友達として付き合っていたら、彼女は僕を怖がることはなかっただろうか。……いや、そうは言い切れない。僕と徳田は違う。
もしくは僕が徳田の友達でなくて、ただのゼミ仲間として夕佳里さんと知り合っていたら……夕佳里さんは僕を信用してくれただろうか。もしかすると、僕と映画になんて行ってくれなかったかもしれない。僕は『徳田の友達』だから彼女に近づくことができたのだ。
そう考えると、ひどくもどかしい気持ちになった。僕はこのまま、この状態でしかいられないんだろうか。彼女の中でいつまでも僕は『徳田の友達』でしかなくて、一人の異性としては見てもらえないんだろうか。
……って、待て待て。
僕は内心焦った。隣にいる夕佳里さんに一瞬視線をやり、すぐに足元にそらした。
それじゃまるで……まるで俺、夕佳里さんと付き合いたいみたいじゃないか。このまま友達として大学生活を送るだけなら、今のままでも十分じゃないのか? 例え壁があったとしても、こうしてゲームネタで盛り上がることはできるんだし、それでいいんじゃないのか?
でもそれじゃ嫌だった。見えない壁の存在を受け入れることはできなかった。どうにかそれを乗り越えてしまいたかった。俺自身を、佳月友則という男を、彼女に受け入れてほしかった。
そこで、ようやく、僕は気付いたのだ。
自分が、彼女を好きだということに。
長い時間をかけてようやく方程式を解いたあとみたいに、やっと答えに、今の自分の気持ちにたどり着いた気がした。
そうか……俺、彼女が好きだったんだ。
自覚してしまうと、もどかしさとか徳田に対する嫉妬とか、そんな感情の理由がついた(最初からわかっていればこれ以上簡単な答えはないが)。
そのとき、よそを向いていた夕佳里さんが「ねぇ」と僕の顔を覗き込んできた。
うわっ。
僕は一瞬心臓が止まりそうなショックを受けたが、なんとか平静を保った。
別にやましいことも何かを口にしたわけでもないのに、なにを焦ってるんだよ、僕は。
「この前ね、98で、やっとラスボスまで行ったんだけど、やっぱルガール強くってダメだった」
「あ、そう?」
よかった……ゲームネタで。まだ会話がしやすい。
「私って、つい相手の上へジャンプしてしまうクセがあるから、そこへ『ジェノサイドカッター(技名です)』入れられたらもう体力すっごい減っちゃうじゃない、もうあっという間に3人ともやられちゃって」
「俺は、この前クリアしたよ」
「あ、そうなんだ。なんかコンピューター相手だとダメなんだよね」
ため息をつく彼女に、僕はからかうように言った。それぐらいの余裕はなんとか取り戻せていた。
「もう弱くなったんじゃないの。次は俺が楽勝かな」
「あ、ひど」
夕佳里さんはちょっと拗ねたような顔を見せた。
思えば、彼女は時折素直な表情を見せてくれるようになった気がする。最初は曖昧な微笑を浮かべていることが多かった彼女が。
「そんな大口叩いて、今度対戦したときに再起不能にしてやるんだから」
「それは楽しみだね」
軽口を叩きながら、僕は鞄から手帳を取り出した。彼女の顔をあまり見ていると、なんか照れてしまいそうな自分が怖かったからだ。
「あれ、佳月君、手帳にプリクラなんて貼ってるんだ」
夕佳里さんの言葉に、一瞬「俺、プリクラなんて貼ってたっけ」と思い、次の瞬間なんのことか思い出した。
あ、相本さんとのプリクラ! 今ページをめくっていたとき、夕佳里さんに見えたらしい。
「あ、うん、まぁ……」
僕はごまかしつつ、彼女の目からそのページを隠すように手帳を閉じた。
あまり僕のことに関心がなさそうな彼女なのに、こんなときに限ってこんなことを言い出す。
「見せて?」
僅かに頭をかしげて、夕佳里さんは言った。
「……ごめん、だめ」
別にやましいものじゃない。相本さんは妹の友達で……言わば義理の妹みたいなものだ。だけどプリクラはどう見てもバイト仲間というよりカップルにしか見えないフレームと文字……。
「へぇ、見せられないんだ?」
言って、彼女はくすりと笑った。
この笑みって……彼女はどう思ったのだろうか。
1.人に見せられないほど、写りが悪かった(っていうか、そんなプリクラ嬉しそうに手帳に貼らんよな)。
2.見せられない相手と写っている。
……どちらにしても、変な誤解を生むのは避けたい。
僕が弁解しようとしたとき、
「おはよう」
穂積さんが僕と夕佳里さんの前に立っていた。
「あ、圭ちゃん、おはよう」
彼女の接近に、全然気付かなかった……不覚。
「なんか今日は雨降りそうやね。嫌やわぁ、練習で遅くなる日やのに」
穂積さんの言葉に、夕佳里さんはやや目を大きく開いた。
「え、雨降るの? 今日。傘持ってないや」
「あんたねぇ……いくらテレビ見てないからって、天気予報ぐらいは出るとき調べなあかんわ」
夕佳里さんの言葉に、穂積さんが呆れたような口調で言った。
この二人って、夕佳里さんがボケで穂積さんがツッコミって感じだな。
僕がそんなことを思っていると、穂積さんがふっとこっちを向いた。
一瞬、穂積さんと、眼を合わすのが怖かった。もし彼女に僕が夕佳里さんを好きだってことを知られたら、なにかまずいような気がしたのだ。もちろん彼女がそれを知ってどうこうと言うことはないだろうけど……夕佳里さんのことを何かと気にかけている彼女には、まだ知られたくなかった。
そんなためらいのせいで、僕は穂積さんから視線をそらしてしまった。それがちょうど授業が終わって学生が教室から出てきて騒がしくなった時だったから、おそらく穂積さんには不審がられてはいないとは思うけど。
教室に入り、真中から後ろよりの席に、夕佳里さんと穂積さんが前、僕が後ろで座った。
「佳月君、徳田君と会った?」
穂積さんが振り返ってそう言ったので、僕は「あ、うん、会ったよ」と答えた。
「今度、天王寺動物園に行くんだって?」
僕が言うと、穂積さんは頷いた。
「徳田君に聞いたん?」
「さっき聞いた。まゆちゃんが言い出したらしいね」
「天王寺動物園て、30人おらんと団体料金にならへんのね。幽霊部員も合わせたら、それぐらい人数いそうなんやけど、ちょっと無理やったわ」
「でもあそこ、入園料そんなに高くないよね。500円ぐらいじゃない?」
「えー、でも10人以上やったら団体扱いにしてくれればいいのに」
僕は前の2人が会話をしているのを聞いていたが、眠いふりをして机に突っ伏した。
変な話だが……恥ずかしくなってきたのだ。
眼の前に彼女がいると、落ち着かない。もちろんそれは不快感とかじゃなくて……なんていうか、面映い。そう、その言葉がしっくりくる。
なんだよ、自覚した途端にこれって……まぁ、なんか新鮮な感覚で、悪くはないけど……。
そのまま、僕は夕佳里さんの声をきいていた。
そうだ、あんまりじっくり声をきいたことがなかったな。今度、彼女が僕のことを呼ぶときの口調、意識してきいてみよう……。
「なんだ、授業始まる前から居眠りか」
徳田の声がしたので、僕は顔をあげた。
彼は僕の隣の席に座り、机の上に買ってきたらしい本の包みを置いた。
「昨日、また遅くまでバイトでもしてたのか」
徳田の言葉に、僕はぼそっとつぶやいた。
「違うよ……」
「?」
訝しげな表情の徳田に、僕はそれ以上何も言えなかった。
聞いてみたかった。徳田に、彼も同じような気持ちを味わったことがあるのかと。 その人が近くにいると落ち着かなくて、自分の感情の動きすら予想がつかず……でもそんなことすら面白く新鮮に思えてしまうような、そんな感覚。
これが、恋ってやつなんだろうか。
………………。
僕は急に自分の考えが恥ずかしくなって、また顔を隠すように机に突っ伏した。
あぁ……俺、このままアホになりそう……。
「寝るなら、出席とってからにしろよ」
徳田の声を聞きながら、僕はため息をついた。
この恋が前途多難だと、それはわかっていた。
……理解しているつもりだった。
この時は。