Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  20
「じゃ、お先失礼します」
 僕がそう言って店長室を出たところへ、中岡さんがやってきた。
「なんだ、佳月君帰っちゃうの?」
 鞄をかついだ僕の姿を見て、不満そうな声をあげる。
「帰りますよ」
 僕が素っ気なく答えると、彼はふーっとため息をついた。
「てっきり閉店作業も手伝ってくれると思っていたよ」
「僕のシフトは8時半までになってますけど」
 僕がシフト表を示すと、彼は胸ポケットにさしていたペンを手にとった。
「そんなの、延ばしたらいいんじゃないか」
「だから、僕は帰りますって」
 誰が残るか。閉店作業って、10時からじゃないか。
「佳月君、ほんと冷たいよね」
 中岡さんの愚痴を無視して、僕は更衣室の鍵を借りてとっとと店を出た。
 今日は8時半までの女子が一人休んでしまい、穴埋めとして呼ばれたのが僕だった。男子が女子ラインに入ることを最近「おかまシフト」と呼ばれているあたりが嬉しくないが、ひたすらレジ打ちってのもたまには楽だ。延々とバーガー製作していると、たまに疲れてくる。
 ゲームでもして帰ろうかな。
 僕は着替えを済ませて更衣室の鍵を返したあと、ゲーセンに向かった。
 この前出たばかりのゲーム、対戦しに行こう。
 そう思いながら歩いていると、鞄の中からヴァン・ヘィレンの『Can’t stop loving you』が聞こえてきた。携帯の着信音だ。
 僕は携帯を取り出してディスプレイを確認したが、相手の番号が出ていない。
 ……公衆電話からかな。美緒さん……てわけじゃないよな。あの人はかけるなら携帯からかけてくるだろうし。 
「はい」
 僕が応えると、受話器の向こうから女性の笑い声がきこえた。
「……もしもし?」
 なんか嫌な感じがして、僕はもう一度呼びかけた。
『こんばんは』
 耳元に響く柔らかなその声に、僕は自分の嫌な予感があたったことを知った。
「……澁谷先生?」
 僕が呼ぶと、先生はふふ、と笑った。機嫌がいいのか知らないが笑ってばかりいる。
「もしもし? きりますよ」
 僕は半ば本気でそう言った。
『せっかちなのね。まだ話もしてないのに』
「用があるなら、早く言ってください」
 僕は素っ気無く答える。
 先生の後ろから人の話し声がきこえる。どうも賑やかな場所にいるらしい。
『ね、今から天王寺のM…ホテルの最上階のラウンジにきて』
「はあ?」
 僕は自分の耳を疑った。
「ラウンジ?」
『そ、一緒に飲みましょう。素敵なところよ』
 あまりに明るく能天気な口調に、僕は頭が痛くなってきた。
 なんなんだ……この人は。
「お断りします」
 僕はきっぱりと言った。これ以上先生に振り回されるつもりはなかった。
「俺は、先生と個人的に酒を飲むつもりはないんで」
『待ってるわ』
 先生は一転して、真剣な口調で言った。その変わりように、一瞬別人かとも思った。
「待つったって、俺は」
『待ってるから』
 電話は一方的に切れた。ツーツーと音の響く受話器を握ったまま、僕はしばらく立ち尽くしていた。
 ……誰がいくか。
 僕はそのままゲーセンに行き、さっそく対戦台に乱入した。
 使用キャラクターを選択する。
 相手は3回連勝しているらしい。まぁまぁの強さだろう。
 そう思いながら挑んだものの、結果は僕の負けだった。
 後ろで乱入待ちをしていたので、僕は立ち上がって席を譲った。
 ……ちょっとショック。でも今のは相手が強かったせいじゃない。僕がゲームに集中していなかったせいだ。
 それというのも……さっきから、先生の一言が頭を離れないせいだろう。
『待ってるから』
 その言葉が、頭の中で繰り返される。
 あの人は何を考えてるんだろう。言動が理解しがたい。先生の顔をして話すかと思えば、別人のような顔をして僕を誘うのはなぜだろう。
 本気なんだろうか。いや、そうとも思えないし……って、放ってもおけないんだよな。
 僕はため息をついた。 
 まっすぐJR大阪駅に向かい、環状線のホームで電車を待った。これから内回り線にのって4つ目で降りれば家に帰れる。降りずにそのまま半周まわれば天王寺……。
 今の自分の格好を確認する。幸いそれほどカジュアルでもない。なんとかラウンジに入っても咎められない服装だ。
 あの人は、たぶん本当に待っているだろう。そんな気がする。
 つくづく、俺はお人よしだ。
 僕は電車に乗って天王寺まで出た。
 M…ホテルはJR天王寺駅のすぐそばにあり、この辺では結構大きなホテルだ。そこの最上階のラウンジって……いや、あまり考えまい。僕は酒を飲む気はないし、先生がいなければすぐさま帰ればいいだけだし。
 エレベーターで最上階に上がると、その階はラウンジだけだった。入り口で一度深呼吸して、僕は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
 若いウェイターが近寄ってきた。若いと言っても、僕よりいくつか年上に見える。
「お一人ですか?」
「あの……待ち合わせを」
 僕がそう言うと、ウェイターは店内を振り返った。
 僕はその横から店内を覗き、窓際のカウンターに一人座っている、見覚えのある後姿を認めた。
「……あちらですか?」
 ウェイターに連れられて、僕はその席まで行く。
 なんと声をかけようかとためらったとき、相手は振り返った。
「こんばんは」
 先生はそう言って微笑した。
「待ってたわ」
 僕は無言で彼女をにらんだ。まったく、マイペースな人だ。
 彼女は僕の視線を気にせず「座って」と優しい口調で促した。その場に立ったままというのもなんなので、僕は仕方なく座る。
「お飲み物は」
 ウェイターが伝票を手に言ったので、僕は「水」とだけ言った。
「あの……」
「水道水で結構です」
 僕が言うと、メニューを見ていた先生が「ローザ・ロッサを」と答えた。
 ウェイターは注文を繰り返すと伝票を持って立ち去った。
「俺、飲まないですよ」
「私が飲むからいいのよ」
 先生はそう言って、置いてあったグラスを手にした。色からして、カシスソーダのようだった。
「……よくもまぁ、自分の生徒をこんなとこに呼び出しますね」
 皮肉と苛立ちのこもった言葉をぶつけると、先生は肩をすくめた。
「そうね……悪いとは思ってるの」
 言葉のわりに、先生は悪びれた様子もなく言った。 
「私ね、ここ数年、9月にはこのラウンジに来て飲むことにしてたの……これで4回目ね。でも今年は一人じゃ嫌だったの。誰か……ううん、佳月君に来て欲しかったの」
 先生は僕の顔を見て、微笑んだ。 
「来てくれて、嬉しいわ」 
 それは表面上の言葉ではなく本気で言っているように聞こえたので、僕は苛立ちを抑えた。
 僕は先生を見た。
 その顔は、いつもと化粧が違うみたいだった。学校にいるときは上品な講師の装いなのに、今はただの年上のOLみたいで……いや、格が落ちた、とかそういう意味じゃなくて……普通の、きれいなお姉さんというか……なんというか。  
 普段の先生と僕という組み合わせなら、とてもカップルには見えなかっただろう。でも今だったら、年下の彼を呼び出したOLという設定にできないでもない。まとっている雰囲気がどこか違うのだ。どこか可愛らしいとさえいえる、そんな雰囲気……。
「お待たせいたしました」 
 先生の注文したカクテルが運ばれてきた。
 グラスの中を満たしているのは、真紅のカクテルだった。
「……きれいな色ですね」
 僕が言うと、先生はグラスを手にして、透かして見せた。
「イタリアのディサローノ・アマレットというリキュールに、赤ワインとジンジャーエールを加えたものよ。『真紅のバラ』という意味なの」
 徳田なら詳しいだろうが、僕はあまりカクテルの種類は知らない。
「先生にはよくお似合いですよ」
 僕が言うと、先生は微笑した。
「まぁ、嬉しいわ」
「トゲもあるでしょう」
「あら」
 先生は空のグラスを脇に避けて、ローザ・ロッサのグラスを手にした。いつもの先生になら確かによく似合っただろうが、今日はちょっと雰囲気が違うのでぴったりとはいえないような気もした。
「私って、そういう女に見えるのね」
 少し寂しそうな顔をしてみせると、先生はグラスに口をつけた。
 そんなこと言って、自分がそういう行為をとってるじゃないか。
 僕はウェイターが親切に持ってきてくれた水のグラスに口をつけた。さすがに水道水ってわけじゃないらしい。当たり前か。
「清水さんと、最近どう?」
 突然そんなことをきかれて、僕はむせそうになった。
「え……」
「……清水さん、佳月君のことが好きなんでしょう?」
 そう言われて僕が口篭もっていると、先生は小さく笑った。
「知らないわけじゃないんでしょう? 彼女からは、何も言われてないの?」
 僕はため息をついた。
 忘れていたわけじゃない。できれば考えたくなかったことだ。
「……先生は、知ってたんですね」
「あら、ゼミのコンパの時から知ってるわ。彼女、ずーっと佳月君の方を見てたもの。だから、ちょっとからかいたくなって意地悪したけど」
 なんて人だ。
 女は怖い。まったく、徳田の言うとおりだ。
「よくそんなことを知ってますね。彼女が俺を見てたことなんて」
 僕がそう言うと、先生は何でもないというように笑って答えた。
「だって、私も佳月君のこと見てたから……」
 そう言って、グラスを傾ける。
 なんか、先生はお酒強そうだなぁ。
「佳月君て、お酒……いつから飲んでた?」
 先生の質問に、僕はなんと答えようか迷った。
 ビールは中学生の頃にはもう飲んでいたし、カクテル類は高1の時に牧さんに連れられて行ったバーで飲んでたし……とそのまま正直に言うわけにもいかないな。
「そうね……佳月君は飲まないんだったわね」
 以前僕がゼミコンで言った言葉を覚えていたらしい。何も言わないのを、そう解釈してくれた。
「先生は……いつから?」
 僕がきくと、彼女はグラスの縁を指でたどった。
「ワインは高校生の時から多少飲んでいたんだけれど、カクテルを初めて飲んだのは18歳……大学一回生の時よ。あの時もこうして一人で座って、わかりもしないお酒の味を楽しんでるような顔をしてた……」
 そう言う顔は懐かしさに浸っているようだった。
「そう、昔は飲めなかったけど……今は飲めるようになったの。大人になったからかしら」
 どこかおどけたような口調で言って、僕の顔を見る。
「大人になると、どこか昔とは変わるのよね。趣味も、服装も、味覚も。
 昔はすごく好きだったのに、今は全然、っていうもの、あるでしょう……?」
彼女の言葉に、僕は肯定の意を示した。
「こないだ、まだ学生の頃によくいった喫茶店に入ったの……昔よく食べたパフェが懐かしくて、さっそく注文して食べたんだけどね、甘ったるくて、とても食べられなかった。
食べきれなくて残して、別の店に入ってエスプレッソを飲んで一息ついて……思ったの。
 もう昔とは違うんだって。
  食べ物も着るものもどんどん変わって、もうあの頃の自分ではないって、そう思った。昔はちょっと大人ぶってエスプレッソ注文したことあったけど、ミルクと砂糖大量に入れなきゃ苦くて飲めなかったのよ。
 そうやって、気がつかないうちに人は変わっていくのよね」
 先生はかすれた声で笑った。
 この店に来ていったいどんな話を聞かされるのかと思っていたが、先生の思い出話とは……。
 僕は少し拍子抜けしつつ、彼女の話を聞いていた。
「そんなふうに、昔いいと思ったものが、今になって見るとたいした事がなかったり、つまらないものだと気づいたりすることがあるって思うと、本当は怖かった……思い出の中では美しいものでとどまっていたのに、もう一度よみがえらせようとすると、つまらないものになってしまう……失望。落胆。そんな気持ち、味わいたくなかった。怖かった。
 思い出なんて、きれいなままで残しておくのが1番いいんじゃないかって……そう思った」
 先生の言っていることは、わからないでもなかった。僕も似たような経験がないわけじゃない。でもそれを怖いと思ったことはなかった。時間が変えてしまうことを恐れていてもどうにもならないこともある。
「……だけどね、変わらないものも、あるって知ったの。
 私の中に、ずっと残っていた音……ううん、記憶の中に在るんだけど、もう薄れ掛けて輪郭もぼやけかけていたけど『確かにある』と自分の中にその存在を感じていたもの……『どんなものに感動したのか』ということは薄れかけているんだけど、『確かに感動した』という事実だけははっきり残っていたもの……。
 それとまた巡り合って、やっぱり昔のままに、ううん、昔以上に感動を呼び起こしてくれた時……私は間違ってなかったって、そう思った。私は正しかった。あれは、本当に……他の何かが代わることができるようなものじゃない、ただ一つのものなんだって……私が心の拠り所にしていたものは、本物だったって……。
 期待してたわけじゃない。でも、それ以上のものだった。
 きっと、また10年経っても、20年、例え50年後でも、その気持ちは薄れない。
 私の心をとらえて離さない、ただ一つのものは、きっとこのまま残るだろうって……そう信じてる。私が死んでも、きっと残るだろうって……」
 そう言って、先生は僕の顔を見て微笑した。
 その目は「私の言ってることがわかる?」と優しく問い掛けているかのようだった。
「……見込み違いじゃなくて」
 僕の言葉に対する彼女の返事はわかっていた。
「私……自信あるのよ。間違いないわ」
 彼女はそう答えた。
 その笑みはいつもの艶やかなものではなく、もっと優しげで温かみがあった。その笑みにふっと魅了されそうになり、僕は内心慌てた。いつもの先生と違いすぎて、調子が狂わされる。
「毎年、9月にはここに来てるんですよね」
 流れを変えようと、僕は最初の先生の言葉を思い出して言った。
「9月に……何かあるんですか」
 その質問に、先生は目を細めた。
「ふふ……ちょっとね」
 笑ってごまかすのが得意な人だな。
 僕はふっと店内を見回してみた。
 店内はわりと広い。席はかなりの数だ。だが平日のせいか、客はそれほどいない。今気づいたが、壁際に一台のグランドピアノが置かれている。
「へぇ……この店、ピアノがあるんですね」
 僕が言うと、先生はちらりとその方向を見た。
「そうよ」
 カクテルのグラスをそっとテーブルに置く。
「昔このお店には、とても素敵なピアノを弾く人がいたのよ」
「今日はもう演奏はないんですかね」
「さあ? どうかしらね」
 僕は腕時計で時間を確認した。
 うーん、もう10時半か。この時間だともう演奏やらないのかな。
「出ましょうか」
 先生は僕の方を向き直った。ふっと指で額に触れる仕草を見せた。 
「飲みすぎたかしら。ちょっと酔ったかも」
 そんなことを言うので、僕は彼女に何杯飲んだのかと聞いてみた。
「えっと、6杯かしら」
 …………。
「なんだってそんなに飲むんですか」
 僕が責めるように言うと、彼女は拗ねたような口ぶりで答えた。
「だって佳月君がなかなか来ないんですもの」
 俺が悪いんかい。
 僕は頭を抱えたくなったが、気を取り直した。
 今この人に何を言っても仕方あるまい。何しろ酔ってるし。顔に出ないタイプはこれだから怖い。
 僕は先に店を出て、先生が会計を済ますのを待った。
 ……とりあえず、このあと先生をタクシーに押し込んで帰ってもらうか。
「お待たせ」
 先生は店から出てくると、僕に笑いかけた。
「はいはい」
 僕は適当に答えて、エレベーターのボタンを押した。
 えーと、駅前でタクシーを拾って……。
「ふふ、ふふふっ」
 先生が楽しそうに声をあげた。振り返ると、彼女はエレベーターホールの窓から外を眺めていた。
「ね、見て、きれいよ。通天閣も見えるわ」
「はいはい」
 僕は無視した。
「ねぇ、見て」
 繰り返されて、僕も仕方なしに外を覗いた。
 確かに夜景はきれいだったが、残念ながらこの精神状態で感動できるほどでもなかった。
 一応見るだけ見たのでこれで先生も満足しただろうと横を向くと、先生が僕の方をにこにことして見ていた。
 ……ったく、タチの悪い酔っ払いだよ。
「ほら、行きますよ」
 エレベーターが来たので、僕は先生を引っ張った。
が、僕がつかんでいた手がするりと離れて、逆に僕の手をそっと握った。
「…………」 
 僕が声もなく先生を見ると、先生はわずかに頬を染めてうつむいた。まるで異性と生まれて初めて手をつないだ女の子のような顔をして。
 ちょ……ちょっと待ってくれ。
 僕は怖くてその手を振り解くことができなかったが、内心はかなり動揺していた。
 先生は、今まで僕のことをからかってばかりいるんだと思っていた。年上の狡猾さで、僕を弄ぼうと画策しているのだと思っていた。
 でもなんか……違う。先生の仕草は、からかっているようには見えなかった。これが演技なら、彼女は女優としてやっていけると思う。そう思えるほど自然で、先生の仕草は……片思いしている女の子みたいだった。
 で、その対象は、僕か? 
  本当に?
 僕が焦っていると、先生は頭を僕の肩にもたれかけさせた。やばいな、と思っていると、先生の足元が少しふらついているのに気付いた。
「……大丈夫ですか?」
 声をかけると、
「うん……ちょっと、眠くなって……」
 先生は小さくあくびをした。
 もしかして……酔うと眠くなるタイプなのか? そうだとしたら、このまま放って帰るのはかなり危険だ。いくらいい大人でも、こんな美人が酔ってふらふら歩いているのはあまり好ましくないな。
 僕は仕方なく、先生を家まで送る決心を固めた。
 まったく! 徳田のほうがずっといい。彼は酔ってもちゃんと家に帰り着くだけの意識はあるというのに。
 えーと……先生の家は天王寺からそう遠くない。タクシーで家に送り届けて、帰りは駅までさっさと歩いたら、終電にはまぁ間に合うだろう。
 僕は駅前でタクシーを拾い、仕方なく一緒に乗った。
 先生は目を閉じて僕に寄りかかっていた。意図的なものではなく、車の揺れにまかせていたらそうなってしまったのだ。かすかに先生の香水の香りがした。柔らかな、甘い感じの香りだった。
 あーぁ……。
 僕は背もたれに体を預けて、天を仰いだ。
 先生の家は、15分ほど走ったところだった。信号で結構ひっかかってこの時間だから、思ったとおり駅からそれほど距離はない。
「……ほら、起きて下さいよ」
 僕が揺すると先生は目を開けた。
「あ……うん」
 先生は鞄から財布を出して料金を払った。
「で、先生の家はどこですか?」
 僕が聞くと、先生は右手をあげて指差した。
「ここの4階……」
 それはまだ新しそうで、なかなかいい外観のマンションだった。女性が一人暮らしするにはいい感じみたいだ。
 僕は先生を半ば抱えるようにして歩かせた。さすがに相手が先生でも女性に触れるのはためらいがあったが、手を離せばたぶん転ぶであろうとはわかっていたから仕方なかった。
 先生はドアの前で僕に寄りかかった姿勢のまま鞄から鍵を取り出した。ドアを開けると乱暴に靴を放り出して玄関にあがったが、そこで力尽きて壁によりかかってしまう。
「しっかりしてくださいって」
 僕は強引に先生の腕を引っ張って立たせ、かつぎあげた。
  ……お、重い。
 昔愛子を抱えたことはあったが、これほど重いとは思わなかったぞ……いや、違う。別に先生が太っているというわけではなくて、身長があるせいだろう。
 僕はよろけつつ、彼女を抱えて寝室と思われる部屋のドアを開けた。予想通りそこは寝室で、僕は先生をベッドに半ば転がすようにして横たわらせた。
「あー……もう」
 僕は座り込み、ベッドにもたれた。
 なんだよ……なんで僕はこんなとこにいるんだよ……僕は思わず現実逃避に走りかけた。
 これが夢だったらどんなに嬉しかったか。しかしこれは現実で、僕は先生の家の、あろうことか寝室にいるのは夢じゃなかった。
 ……早く帰ろう。
 そんなことを考えていたとき、するりと首に絡められた……腕? 誰の腕といえば……先生!
「うわ」
 ベッドの上からのしかかるようにして、先生は僕によりかかってきた。その重みに耐えかねて僕は倒れそうになるのを、どうにかこらえた。ベッドから落ちそうな先生を抱きとめようとしたが、それが結果的にまるで抱き合ってるみたいな格好になってしまう。
「せ……せんせ……」
 体勢が悪かった。のしかかられた状態で、僕はついに後ろへ倒れる。床で頭を打たないよう避けるのが精一杯だった。先生のほうは僕に乗っかっているわけで、被害はないようだったが。
 僕は先生を突き放そうとしたが、できなかった。彼女はじっと僕の胸にすがりつくようにして身を寄せ、僕の手を探り当てて指を絡めて引き寄せ、僕の指に優しく口付けた。
 その仕草に、僕は彼女を突き放すことを忘れた。
「……」
 僕の手に口付けたその唇が、何かつぶやいたような気がした。
「先生?」
 僕が呼びかけながらそっと体を起こしても、先生は目を閉じて動こうとしなかった。
 ……寝てる。
 酔いがまわって、完全に寝てしまったらしい。
 そろそろと起き上がり、僕はまた先生をベッドに横たわらせると、傍らにあった毛布をかぶせて部屋を出た。
 ……早く帰ろう。先生が起きないうちに。 
 だが僕もいい加減疲れていた。バイトの後でこの労働……僕はリビングの椅子に座った。
 まだ電車はある。少しだけ……10分ほど、休んでいこう。
 うつむいて、僕は目を閉じた。
 10分……だけ……。
 ………。
 

 ……………………。
 僕はふっと顔をあげ、ぼんやりと時計を見た。
 ……え、え? えぇ?
 時計は2時過ぎをさしていた。10分どころか3時間も寝てしまったらしい。コンタクトが乾いて目に不快感を感じてはいたが、今はそんなことに構っている余裕はなく、僕はすーっと血の気がひいていくような感覚に襲われた。
 おいおい……いくらなんでも、このまま一泊かよ……うちが放任主義でよかったけど……けど、先生の家に泊まるのは……。
 電車……は、ない。タクシー……こっからだと、家までいくらかかるかなぁ……高崎の家……うーん、こんな時間に行くのはとても不自然だ。
 僕は携帯の電話帳を見ながら、誰か頼れそうな人物をさがした。
 誰に頼るにしても、時間が時間だ。金もない。 
 僕はテーブルに突っ伏した。
 落ち着け……もうこうなったらどうしようもない。
 このまま始発まで待とう。それが一番楽だ。どうせ先生も起きてこないだろう。JRは始発が5時台だから、あと3時間ほどの辛抱だ。それぐらいすぐに経つだろう。
 とりあえず目薬をさして、目の不快感を解消させる。
 少し落ち着くと無性に喉が渇いてきて、僕はいそいそと外へ走り、自販機で缶コーヒーを買って戻った。
 ……はー、やっぱボスセブンだな。
 ゆとりが出てくると、僕は部屋の中を見回した。
 いかにも、品のいい先生らしい部屋だった。
 カーテンは花柄のレース、壁は薄いクリーム色、食器棚と本棚は木製で物が良さそう。サイドボードの上にはレースのテーブルクロスがひかれて、アートフラワーをさした花瓶がおいてある。壁際に置かれたオーディオセットはすごく音の響きがいいという、高いやつではなかろうか。CD、レコード、MD、カセット、全部揃ってるやつだ……なんか聴いてみたい。聴いてみよう。
 僕はオーディオセットの横の棚に並んだ大量のCDを眺めた。すごい量だ。軽く、100は超えてるな。
 ナタリー・インブルービア、マルティカ、ホリー・コール、エンヤ、スティング、フィル・コリンズ……さすがに邦楽がないな。ロックもあまり好きじゃないみたいだ。あとはクラシックか……夜に似合うと言えば、やっぱこれだな。
 僕はケニーGを選び出し、CDを取り出した。
 えーと、電源を入れて……。
 中に入っていたCDを取り出そうとして、僕は手を止めた。
 それは、シンプルなデザインのCDだった。どうもクラシックのCDらしい。
 何を聴いてたのかな……。
 僕はそのCDに書かれた文字を読もうとしたが、タイトルはフランス語だったので読み飛ばし、その脇にかかれている演奏者らしい名前を見た。名前ならフランス語でもなんとか……。
 Ryusuke・Katayama……りゅうすけ・かたやま(なんだ、フランス人じゃなくて日本人か)……かたやま、りゅうすけ……。
 僕はその名前を繰り返した。
「……片山、龍介?」
 その名前には、聞き覚えがあった。
 僕はしばらく頭を悩ませたが、その名前の人物をどうにか思い出した。
そうだ、僕に似ているとかいう、芸大卒のピアニストの名前だ。徳田が穂積さんとリサイタルに行ったという……。
 なんだ、しっかりCDなんてもの出しているピアニストだったのか。ちょっと意外。
 僕はケニーGのCDをケースに戻した。
 どこかに片山龍介のCDケースもあるだろうと思って探すと、オーディオセットの脇の小さなテーブルの上に置かれていた。僕がケースに手を伸ばしたとき、その下に置いてあったものに気づいた。
 ……手紙? 
 僕はその封筒を手にした。薄い青の封筒には、表にきれいな字で『片山龍介さま』と宛名が書かれていた。
 ……ファンレター?
 僕はちょっとおかしくなった。
 先生、結構ミーハーなとこあるんだな。好きなピアニストへファンレター書いてるなんて。どんなことが書いてあるのかすごく興味があるが、さすがに人の手紙は読めない。
 その封筒をテーブルに置きなおし、CDケースを手に取って中のカードを取り出そうとしたが、手を滑らせてカードが床に落ちた。屈んで拾おうとしたとき、僕はテーブルの下のマガジンラックのような小さな箱に気づいた。
「あれ……」
 そこから覗くものが気になり、僕はそのマガジンラックを引っ張り出した。
  洒落たデザインの木製のそれは雑誌が数冊程度入るぐらいの大きさだったが、中には雑誌でなく封筒がたくさん入っていた。何気なくその封筒を一つ手にした時、僕は自分の目を疑った。
 その封筒の宛名も、片山龍介だった。
 他の封筒をいくつか引き出したが、どれも同じ人物への手紙だった。裏には先生のイニシャルであるM.Sと書かれている。
 なんだよ、これじゃまるで片思いしてる女の子みたいだ。まるで好きな人に書いたラブレターを出せずに、大切にしまいこんでいる女の子……。
 僕は意外と少女趣味な先生の行為に笑いそうになり、ふと気づいた。
 片思い……?
 僕に似ているピアニスト……。
 芸大卒の、ピアニスト……。
 先生も、芸大卒……。
 僕はCDケースの中から出したカードを見たが、片山龍介のプロフィールらしきものはなかったので、悪いとは思いつつ、室内を見渡し、棚に並んでいた音楽雑誌やスクラップバインダーを抜き出した。
 …………。
 予想したとおり、バインダーには新聞や雑誌の切抜きがはさまれていて、そのすべてが片山龍介に関するものだった。
 僕はとあるリサイタルのパンフレットに書かれた彼の経歴を見つけた。
『1989年O…芸術大学芸術学部演奏学科を首席で卒業。関西新人音楽会に出演した後、同年フランスに留学。
 ピアノ教育の権威、J・F・グランテール氏に師事し……』
 今の僕とさほど変わらない年齢の片山龍介の写真を、僕はまじまじと見つめた。それはこの前見たリサイタルの告知のポスターよりもずっと鮮明に彼の顔を表していた。
 瓜二つとまではいかないが、目の感じが似ている。雰囲気は彼の方がややクールな感じだが、顔のつくりはさほど変わらない。ぱっと見ると、確かに似ているという印象を受ける。
『顔の輪郭が似ていると、声も似ているっていうよ』
『お前と声がそっくりだった』
 夕佳里さんや徳田の言葉が脳裏をかすめた。
 彼だ。
 先生の好きな人は、間違いなく、彼だ。
 僕は今までの違和感の正体を知った。
  僕に顔と声が似ているピアニスト。そのピアニストに片思いしている先生が、僕に近づいたのは偶然じゃない。代償だ。彼への気持ちがかなわないから、似ている僕を利用した……。
 僕の向こう側にいる『誰か』を見ているような先生の仕草。それはすべて、僕に似た彼へのものだ。あの口付けも、フランス語の言葉も……片山氏はフランスに留学していたから、フランス語で話しても本当の彼ならわかっただろう。あれは先生の遊びだったんだ。フランス語を理解できない、彼と似た僕に対する、ささやかな意地悪。
 ……でも、まだわからないことがある。
 彼と先生の共通点は、芸大出身ということだけだ。だが学科が違う。年齢も違う。先生が彼に対して抱いているのは、ピアニストに対するファンという気持ちだけじゃないのは確実だが、意外と冷めてるあの人が、ピアノをきいただけでピアニストに恋するだろうか。どこかで実際に会ったことがあるとか、何らかの接点がありそうなものだが。
 僕はオーディオに向き直った。
 ……聞いてやろうじゃないか。
 先生が信じてる、そのピアノを。
 間違いなく本物だって言い切れるその演奏を。
 挑むような気持ちで、僕はCDプレイヤーのボタンを押した。
 本当に彼のピアノが芸術なら、クラシックに関心のない僕の心も動かすはずだろう。なんたって、芸術は人の心を動かすものなんだから。
 CDを読み込む音が小さく聞こえた。
 僕は先生に気遣ってボリュームを絞りながらも、ちゃんと聞こえるよう椅子をオーディオのスピーカーの近くに移動させた。
 ほどなく静かにピアノの音が流れ出した。
 最初のそれは、どこかで聴いたことのある曲だった。だがそれは未知の感覚を僕に与えた。驚かされもした。
 ピアノって、こんな音だったか? 弦と鍵盤から生み出される音は、こんなに美しく響くものだったのか?
 その柔らかく途切れることのない音の奔流が、どこかへ僕を連れ去ろうとしているかのようだった。
 その波に乗るのは、怖かった。知らないものを受け入れさせられようとしている恐怖感、反発心、そんなものが彼の音に抵抗した。
  だがそれもつかの間だった。
 不意に、僕は自分が涙を流しているのに気づいた。
  僕は信じられない気持ちで頬をぬぐった。なぜ自分が泣いているのか……僕の中には、悲しみなどなかった。ピアノの曲も決して悲壮なものではない。なら、なぜ……。
 しばらくうつむいて、静かにピアノを聴いていて、その答えがわかった。
 このピアノの音が、僕の心を揺さぶっているのだ。音はまったく自然に僕の中に滑るように入り込み、僕を捕らえていた。目を閉じると、それはいっそう強く僕に呼びかけてきた。この音を拒絶するのは、もう無理だった。もう僕の奥まで入り込み、僕の中にある何かと共振しているかのようだった……。 
 徳田が言っていた。「言葉では表せない」と。どう言葉に表せばいい? これは聴いた人でしか共有できない感覚だろう。僕の持っている言葉を尽くしたところで、この感動を人に伝えることはできないだろう……。
 僕はもう涙も流れるにまかせて、目を閉じてただ彼のピアノの音に耳を傾けていた。
 演奏するということが、ただ楽譜をなぞるだけのものじゃないということを強く感じずにはいられなかった。
 彼に会ってみたかった。こんなふうにピアノを弾くことができるなんて、どんな人なんだろう。彼がピアノに注ぐ情熱がどんなものか知りたかった。ピアニストとしての彼と、人間としての彼を知りたいと思った。こんな音を奏でることのできる人がどんな人間なのか……。
 この音に込められたものを、わずかにでも『理解したい』とすら思った……。

 しばらくそうしていると、いつのまにかCDが止まっていることに気づいた。
 僕は体を起こした。
  妙にぼんやりとした、夢から覚めたばかりのような気持ちだった。彼のピアノに誘われ違う世界を漂っていて、そこから現実に戻ってきたせいだろう。
僕は緩慢な仕草で頬に残っていた涙をぬぐった。涙とともに何かが流れ出たような、そんな感じだった。
  どうして、先生が彼に惹かれるのか、わかった気がした。
  僕と先生はこの瞬間には同士だった。
 彼のピアノを聴いて感動した、同じものを感じ取った仲間だった。
 ふと振り向くと、寝室のドアのところに先生が立っていた。髪は乱れて顔は青ざめていたが、それでも先生は美人だと思った。
 なぜまだここにいるのかとか、先生は何も聞かなかった。
 近づいてきた先生を、僕は避けなかった。両腕を僕の首に絡め、先生は僕に口付けた。それから、驚いたような瞳で僕の顔を覗き込んだ。
「……どうして?」
 いつもの勝気な先生の口調ではなかった。まるで迷子の少女のような戸惑と、寂しげな微笑をたたえていた。
「避けないのね。私のこと、なんとも思ってないから?」
 先生は傷ついていた。今はその理由がわかる。片山龍介に似た僕が、先生を拒むからだ。僕に彼を重ねようとしてる先生は、片山龍介に拒まれたように感じるのだろう。どうしたって、僕は彼ではないのに。
「先生の好きな人は、俺じゃないでしょう?」
 僕の言葉に、先生は微かに笑って首を振った。そのまま僕の肩に頭をもたれかけさせた。
「先生が本気で俺のことを思っているなら、俺も本気で答えますけどね……でもそうじゃない。あなたは違う人を見てる。俺に似てて、まったく違う人物を」
 先生は顔をうつむかせたまま首を振った。
 僕は片山龍介のCDケースを手にとった。その仕草に先生は顔をあげ、そのケースがなんのCDのものかすぐに気付いたらしく僅かに顔を強張らせた。
「正直に、教えてください」
 僕はCDケースを両手で持った。ケースはプラスチックだ。少しでも力をこめれば……。
 CDのケースが、きしんだ音をたてた。
 彼女を脅すには、それで十分だった。
「やめて」
 先生は僕の手からケースをひったくった。床に座り込み、決して離すまいというように、しっかりと両手でケースを抱え込む。一瞬目に浮かんだ敵意が僕と視線を合わした途端に消え、彼女は即座に視線をそらした。
「彼、なんでしょう?」
 僕の言葉に、先生は目を伏せた。
 ためらいがちに開かれたその唇からは、やっと肯定の言葉が紡がれた。
「……そうよ。彼が、私が信じている至上のピアニストよ」
 先生ははっきりとそう言ったあとに、やや声を抑えた。
「……そして、ずっと想っている人なの」
 やはり、先生の想い人は彼だったのだ。
 彼女はうつむいた。叱られた子供のような仕草だった。 
 夢は覚めたのだ。
 だが彼女は、いつもの先生には戻れなかった。座り込んだまま、頼りなげな瞳で床を見つめているだけだった。
「どんな人なんですか?」
 僕の問いに、彼女は顔をあげた。
「……え?」
「俺も、聴きました。彼のピアノを」
 先生はオーディオに視線をやった。CDを聴いたのだとわかったらしい。
「先生がピアニストとしての彼に惹かれるのはわかります。でも、それだけじゃないんでしょう? ピアニストとしてだけでなくて、本気で彼のことを好きなんでしょう?」
 彼女はCDケースを膝の上に置き、その表面を右手でなぜた。
「……私が彼に会ったのは、まだ高校生の時よ」 
 先生は静かに語りだした。
 

 ……小学生の時からの友達が進学した高校の文化祭で、サロンコンサートが催されたの。友達は幼少の頃からピアノを習っていて、サロンコンサートに出演することになったからと、私をその文化祭に誘ってくれた。
 友達の発表が終わってしまった後も、私は惰性でそのサロンコンサートを最後まで見ていた。その一番最後で彼は現れたの。トランペットの伴奏者として。
その時にきいたのはグノーの『アヴェ・マリア』だった。
 ……何度も聞いて知っていたはずの曲は、彼の手でまったく違うものに変えられていた。彼が弾いたその音は、私が今まで抱いていた価値観を壊してしまった。
その年までに何度もピアノのソロコンサートに行ったことはあったけど、彼のような音を出す人はいなかった。
 私は友達に頼んで彼について調べてもらったけど、彼が卒業後どこの大学に進学したまではわからなかった。でも、きっと音大にすすみ、そのうちピアニストとして世に知られるようになると信じていたから、その時まで待とうと思っていたの。
 でも彼がピアニストになる前に、私はまた彼と偶然にも出会うことができた……。
 

「……芸大で」
 僕が言うと、先生は頷いた。僅かに微笑みを浮かべる。
「そう、私は知らずに彼と同じ大学に進んでいたの」
 

 学内で彼を見つけた私は、狂喜して彼の情報を集めた。
 どこに住んでるかとか、どんな授業を選択しているかとか、小さなことまで……。
 でもそんな情報よりも、私が求めていたのは、もう一度彼のピアノを聴く事……そう思っていたある日、これ以上ない情報を手に入れたの。彼がラウンジでピアノを弾くバイトを始めたということを。
 

 それが、あのM…ホテルのラウンジか。
 僕はつい数時間前にいたラウンジのことを思い返した。
 彼がバイトをしていたのは、間違いなく9月のことだろう。だから先生は毎年9月にあの店を訪れるのだ。10年前にあのラウンジで、お酒を飲みながら片山氏のピアノに耳を傾けていたのと同じように一人で。
 

 ……私は、何度もそこに通った。一人で飲むお酒にもなれた頃、彼はバイトを辞めた。その後……しばらくして、彼が同じラウンジでバイトをしていた女性と付き合っていることを知ったの。偶然にも、その相手の女性は私と同じ文芸学科の人だった。
 もちろん、嫉妬した。でもそれは彼の隣にいるのが私じゃないという理由ではなくて……彼が音楽以外に心に受け入れた存在が在るって、考えたくなかったから。
 でも彼に恋人がいても、彼のピアノの音が変わってしまうわけじゃなければそれでいいと思ってた。逆に恋人の存在のために音がより優れるようになるなら、それは素敵だとも思っていた。でもやっぱり、彼の隣に私じゃない人がいるのは辛かった。そうなって初めて、私は彼をピアニストとしてだけではなく、一人の人間として愛してるんだって自覚したわ。
 しばらくして二人が別れたことも知った……。
 彼が卒業後フランスに留学したことまでは調べることができた。私はフランス語を習得して、何回もフランスに行ってみたわ。パリのカフェで彼と偶然会えるんじゃないかという期待さえ抱いて。結局その期待はかなわなかったけど……。 

「そして、その数年後……私はあるCDショップの店頭のワゴンセールで、1枚のCDを見つけたの」
「そのCDを、見つけたんですね」
 僕は先生の持っているケースを見た。
「そうよ。私、このCDを買って家に帰るまで、これほど興奮したことはないと思ったわ。しっかりと包みを抱きかかえて、まっすぐ家に帰ったから、その日の夕食の材料すら買うのも忘れてた。その晩は何も食べずに、ワインを飲みながらCDをずっと聴いてた……」
 彼女は小さく笑った。
「私はそれから彼が帰国していることを知り、彼が関西で活動していることを調べたの。私は何度も彼のリサイタルに足を運んだわ。そのたびに花を贈り……でも、手紙は出すこともできずにいた」
 先生はテーブルの下にあった箱に目をやった。
「ね、あの手紙にはなんて書いてあると思う? 短い手紙よ」
 想像できなかったので、僕は首を振った。
「私はいつでもあなたの音を感じている……」
 それが、ピアニストの彼に対する先生の想いを表していた。
 いつでも。今この瞬間でも、先生の中には彼のピアノの音が感じられるのだ。聞こえるのではなく。
 もし僕が彼女を愛していたら。言いようのない嫉妬感にすら襲われる言葉だっただろう。彼女の心を占めるものは、彼の音だけだなんて。
 先生は立ち上がった。ケースをテーブルの上に置き、僕に近づいた。
「ごめんなさい、もう一度だけ……彼になってほしいの」
「え……?」
 戸惑う僕に先生はためらいがちに言った。
「これで、終わりにするから……」
 彼女が望んでいるのが何か、わかった。
 ったく、俺のキスはタダだと思ってるな、先生。まぁ役得って気もしないでもないけど(こんな美人が相手で、あんなピアニストの代わりだし)。今僕に彼女がいなくてよかったよ。いたらとてもじゃないけど、できなかっただろうし。
 ……まぁ、仕方ない。これで最後だって言うのなら。
 僕は割り切った。
 今の僕は、片山龍介だ。佳月友則じゃない。俳優になったつもりで演じよう。
 そう思って立ち上がり、目を閉じた先生の頬に手をあて、目を伏せてそっと唇を重ねた。
 長すぎも、短すぎることもない口付けだった。
 顔を離すと、先生は苦笑を浮かべて僕を見た。
「嫌だわ、佳月君て……キスがうまくて驚いたわ」
 そんなことをいわれて、僕は赤面しそうになって慌てて顔をそむけた。
「へ、変なこと言わないでください」
 ……そんなことを言われたのは初めてだ。しかしそもそも、先生自身あまり恋愛経験がなさそうに思えるのは気のせいだろうか。こんな美人だけど、先生の頭の中は片山龍介でいっぱいだしなぁ。
「あの、俺は誰にでもこんなことをするわけじゃないですよ」
 僕は誤解されないよう、言い訳しておいた。
「ただ、先生の気持ちがわかったから。先生がそれだけ想い続ける相手が、どんな人間なのかわかったから、応えただけで……」
「わかってるわ、ありがとう」
 先生は素直に頷いた。
「……彼に、近づきたくないんですか? その気になったらリサイタルで会うことだって」
 僕の言葉に、先生は首を振った。
「もし私が彼に近づくことによって、彼のピアノを惑わせるようなことになるのは絶対嫌なの。それぐらいなら、遠くから見てる方がずっとマシ。一生片思いで構わない。ううん、片思いのままでいたい」
 先生は答えた。すっと僕から離れて、オーディオの方へ近づいた。
「そう……これを、徳田君に渡そうと思ってたの」
 彼女はデッキの近くに置いてあった一本のテープを手にとった。
「それは?」
「彼のCDを収めたテープよ。徳田君も、きっと彼のピアノを気に入ってくれると思うの」
「徳田は、彼のピアノを聴きましたよ。この前のリサイタルで」
「え」
 先生は驚いたような表情を見せた。先生のそんな顔を見るのは新鮮で、僕はちょっとおかしかった。
「そこで、先生らしき人の姿を見たらしいですよ」
 泣いていたらしい、とは言わないでおこう。
「あら、そうだったの……」
 先生は小さく笑った。 
「俺から、渡しておきましょうか」
「そうね、そうしてもらおうかしら。お願い」
僕は先生からテープを受け取った。ふと思ったことを口にしてみる。
「……彼のCDは、もう手に入らないんですかね」
「ちょっと無理かもしれないわ。私もいろんなCDショップに行って見たけれど」
 それは彼がいまだ世間に広く知られていない埋もれた存在であることを示していた。
「でも、きっと……いつか彼のピアノが世界に知られると信じてるんでしょう?」
「ええ」
 僕の言葉に、先生はにっこりした。
「自信、あるわ」
 それはいつもの先生らしい、華やかさのある笑みだった。 


 僕はそれからリビングの隅のソファで、3時間ほど眠らせてもらった。
 起きた後はコーヒーをご馳走になってから先生の家を出て、天王寺駅から環状線に乗って帰った。
 こんな朝に家に帰るのは、滅多にないことだな。
 ……眠い。寝たりない。早くベッドに入ろう。
 僕はあくびを抑えつつ玄関の鍵を開けた。リビングに行くと、紫が朝食を食べていた。
 そうか、高校生である紫がこれから家を出る時間に帰ってきてしまったのか。もう少しずらせばよかったか。
「なによぉ、こんな時間に帰ってきて」
 思ったとおり、紫はいちゃもんをつけてきた。
「朝帰りしちゃって、やっらしー。どこにいたのよ」
「ばーか、高崎の家だって」
 僕がそう言うと、紫は「なーんだ」とつまらなさそうにつぶやき、コーヒーカップに口をつけた。
 部屋に入ろうと僕が紫の後ろを通り過ぎようとすると、紫がふっとこちらと向いた。
「ね、兄貴は昨日、高崎さんの家に泊まってたんだよね」
 どことなく意味ありげな口調に、僕は一瞬不審なものを抱いた。
「何度も言わすなよ、高崎の家だって」
 僕がそう答えると、紫は「ふぅん、そうなんだ」と意味ありげに笑った。
「なんだよ」
 ちょっとむっとして言うと、紫はしれっとした顔で言った。
「高崎さんて香水かコロンか知らないけど、付けるようになったんだねぇ。でもちょっと男の人がつけるには甘い香りじゃないかな〜」
 …………。
 紫は立ち上がり、僕ににっこりしてみせた。
「じゃ、行って来まーす」
 紫が出て行ってから、僕は思わず自分の服をかいで見たが、よくわからなかった。たぶん先生の香水がうつったのだろう。昨日抱きかかえたりしてたからなぁ……。 
しかし、紫に突っ込まれるとは……嫌なやつに弱みを握られたような、そんな感じだ。すぐ忘れてくれればいいが。
 僕が即座に服を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びたのは、言うまでもない。

離れずに暖めて
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