……………………。
僕はふっと顔をあげ、ぼんやりと時計を見た。
……え、え? えぇ?
時計は2時過ぎをさしていた。10分どころか3時間も寝てしまったらしい。コンタクトが乾いて目に不快感を感じてはいたが、今はそんなことに構っている余裕はなく、僕はすーっと血の気がひいていくような感覚に襲われた。
おいおい……いくらなんでも、このまま一泊かよ……うちが放任主義でよかったけど……けど、先生の家に泊まるのは……。
電車……は、ない。タクシー……こっからだと、家までいくらかかるかなぁ……高崎の家……うーん、こんな時間に行くのはとても不自然だ。
僕は携帯の電話帳を見ながら、誰か頼れそうな人物をさがした。
誰に頼るにしても、時間が時間だ。金もない。
僕はテーブルに突っ伏した。
落ち着け……もうこうなったらどうしようもない。
このまま始発まで待とう。それが一番楽だ。どうせ先生も起きてこないだろう。JRは始発が5時台だから、あと3時間ほどの辛抱だ。それぐらいすぐに経つだろう。
とりあえず目薬をさして、目の不快感を解消させる。
少し落ち着くと無性に喉が渇いてきて、僕はいそいそと外へ走り、自販機で缶コーヒーを買って戻った。
……はー、やっぱボスセブンだな。
ゆとりが出てくると、僕は部屋の中を見回した。
いかにも、品のいい先生らしい部屋だった。
カーテンは花柄のレース、壁は薄いクリーム色、食器棚と本棚は木製で物が良さそう。サイドボードの上にはレースのテーブルクロスがひかれて、アートフラワーをさした花瓶がおいてある。壁際に置かれたオーディオセットはすごく音の響きがいいという、高いやつではなかろうか。CD、レコード、MD、カセット、全部揃ってるやつだ……なんか聴いてみたい。聴いてみよう。
僕はオーディオセットの横の棚に並んだ大量のCDを眺めた。すごい量だ。軽く、100は超えてるな。
ナタリー・インブルービア、マルティカ、ホリー・コール、エンヤ、スティング、フィル・コリンズ……さすがに邦楽がないな。ロックもあまり好きじゃないみたいだ。あとはクラシックか……夜に似合うと言えば、やっぱこれだな。
僕はケニーGを選び出し、CDを取り出した。
えーと、電源を入れて……。
中に入っていたCDを取り出そうとして、僕は手を止めた。
それは、シンプルなデザインのCDだった。どうもクラシックのCDらしい。
何を聴いてたのかな……。
僕はそのCDに書かれた文字を読もうとしたが、タイトルはフランス語だったので読み飛ばし、その脇にかかれている演奏者らしい名前を見た。名前ならフランス語でもなんとか……。
Ryusuke・Katayama……りゅうすけ・かたやま(なんだ、フランス人じゃなくて日本人か)……かたやま、りゅうすけ……。
僕はその名前を繰り返した。
「……片山、龍介?」
その名前には、聞き覚えがあった。
僕はしばらく頭を悩ませたが、その名前の人物をどうにか思い出した。
そうだ、僕に似ているとかいう、芸大卒のピアニストの名前だ。徳田が穂積さんとリサイタルに行ったという……。
なんだ、しっかりCDなんてもの出しているピアニストだったのか。ちょっと意外。
僕はケニーGのCDをケースに戻した。
どこかに片山龍介のCDケースもあるだろうと思って探すと、オーディオセットの脇の小さなテーブルの上に置かれていた。僕がケースに手を伸ばしたとき、その下に置いてあったものに気づいた。
……手紙?
僕はその封筒を手にした。薄い青の封筒には、表にきれいな字で『片山龍介さま』と宛名が書かれていた。
……ファンレター?
僕はちょっとおかしくなった。
先生、結構ミーハーなとこあるんだな。好きなピアニストへファンレター書いてるなんて。どんなことが書いてあるのかすごく興味があるが、さすがに人の手紙は読めない。
その封筒をテーブルに置きなおし、CDケースを手に取って中のカードを取り出そうとしたが、手を滑らせてカードが床に落ちた。屈んで拾おうとしたとき、僕はテーブルの下のマガジンラックのような小さな箱に気づいた。
「あれ……」
そこから覗くものが気になり、僕はそのマガジンラックを引っ張り出した。
洒落たデザインの木製のそれは雑誌が数冊程度入るぐらいの大きさだったが、中には雑誌でなく封筒がたくさん入っていた。何気なくその封筒を一つ手にした時、僕は自分の目を疑った。
その封筒の宛名も、片山龍介だった。
他の封筒をいくつか引き出したが、どれも同じ人物への手紙だった。裏には先生のイニシャルであるM.Sと書かれている。
なんだよ、これじゃまるで片思いしてる女の子みたいだ。まるで好きな人に書いたラブレターを出せずに、大切にしまいこんでいる女の子……。
僕は意外と少女趣味な先生の行為に笑いそうになり、ふと気づいた。
片思い……?
僕に似ているピアニスト……。
芸大卒の、ピアニスト……。
先生も、芸大卒……。
僕はCDケースの中から出したカードを見たが、片山龍介のプロフィールらしきものはなかったので、悪いとは思いつつ、室内を見渡し、棚に並んでいた音楽雑誌やスクラップバインダーを抜き出した。
…………。
予想したとおり、バインダーには新聞や雑誌の切抜きがはさまれていて、そのすべてが片山龍介に関するものだった。
僕はとあるリサイタルのパンフレットに書かれた彼の経歴を見つけた。
『1989年O…芸術大学芸術学部演奏学科を首席で卒業。関西新人音楽会に出演した後、同年フランスに留学。
ピアノ教育の権威、J・F・グランテール氏に師事し……』
今の僕とさほど変わらない年齢の片山龍介の写真を、僕はまじまじと見つめた。それはこの前見たリサイタルの告知のポスターよりもずっと鮮明に彼の顔を表していた。
瓜二つとまではいかないが、目の感じが似ている。雰囲気は彼の方がややクールな感じだが、顔のつくりはさほど変わらない。ぱっと見ると、確かに似ているという印象を受ける。
『顔の輪郭が似ていると、声も似ているっていうよ』
『お前と声がそっくりだった』
夕佳里さんや徳田の言葉が脳裏をかすめた。
彼だ。
先生の好きな人は、間違いなく、彼だ。
僕は今までの違和感の正体を知った。
僕に顔と声が似ているピアニスト。そのピアニストに片思いしている先生が、僕に近づいたのは偶然じゃない。代償だ。彼への気持ちがかなわないから、似ている僕を利用した……。
僕の向こう側にいる『誰か』を見ているような先生の仕草。それはすべて、僕に似た彼へのものだ。あの口付けも、フランス語の言葉も……片山氏はフランスに留学していたから、フランス語で話しても本当の彼ならわかっただろう。あれは先生の遊びだったんだ。フランス語を理解できない、彼と似た僕に対する、ささやかな意地悪。
……でも、まだわからないことがある。
彼と先生の共通点は、芸大出身ということだけだ。だが学科が違う。年齢も違う。先生が彼に対して抱いているのは、ピアニストに対するファンという気持ちだけじゃないのは確実だが、意外と冷めてるあの人が、ピアノをきいただけでピアニストに恋するだろうか。どこかで実際に会ったことがあるとか、何らかの接点がありそうなものだが。
僕はオーディオに向き直った。
……聞いてやろうじゃないか。
先生が信じてる、そのピアノを。
間違いなく本物だって言い切れるその演奏を。
挑むような気持ちで、僕はCDプレイヤーのボタンを押した。
本当に彼のピアノが芸術なら、クラシックに関心のない僕の心も動かすはずだろう。なんたって、芸術は人の心を動かすものなんだから。
CDを読み込む音が小さく聞こえた。
僕は先生に気遣ってボリュームを絞りながらも、ちゃんと聞こえるよう椅子をオーディオのスピーカーの近くに移動させた。
ほどなく静かにピアノの音が流れ出した。
最初のそれは、どこかで聴いたことのある曲だった。だがそれは未知の感覚を僕に与えた。驚かされもした。
ピアノって、こんな音だったか? 弦と鍵盤から生み出される音は、こんなに美しく響くものだったのか?
その柔らかく途切れることのない音の奔流が、どこかへ僕を連れ去ろうとしているかのようだった。
その波に乗るのは、怖かった。知らないものを受け入れさせられようとしている恐怖感、反発心、そんなものが彼の音に抵抗した。
だがそれもつかの間だった。
不意に、僕は自分が涙を流しているのに気づいた。
僕は信じられない気持ちで頬をぬぐった。なぜ自分が泣いているのか……僕の中には、悲しみなどなかった。ピアノの曲も決して悲壮なものではない。なら、なぜ……。
しばらくうつむいて、静かにピアノを聴いていて、その答えがわかった。
このピアノの音が、僕の心を揺さぶっているのだ。音はまったく自然に僕の中に滑るように入り込み、僕を捕らえていた。目を閉じると、それはいっそう強く僕に呼びかけてきた。この音を拒絶するのは、もう無理だった。もう僕の奥まで入り込み、僕の中にある何かと共振しているかのようだった……。
徳田が言っていた。「言葉では表せない」と。どう言葉に表せばいい? これは聴いた人でしか共有できない感覚だろう。僕の持っている言葉を尽くしたところで、この感動を人に伝えることはできないだろう……。
僕はもう涙も流れるにまかせて、目を閉じてただ彼のピアノの音に耳を傾けていた。
演奏するということが、ただ楽譜をなぞるだけのものじゃないということを強く感じずにはいられなかった。
彼に会ってみたかった。こんなふうにピアノを弾くことができるなんて、どんな人なんだろう。彼がピアノに注ぐ情熱がどんなものか知りたかった。ピアニストとしての彼と、人間としての彼を知りたいと思った。こんな音を奏でることのできる人がどんな人間なのか……。
この音に込められたものを、わずかにでも『理解したい』とすら思った……。
しばらくそうしていると、いつのまにかCDが止まっていることに気づいた。
僕は体を起こした。
妙にぼんやりとした、夢から覚めたばかりのような気持ちだった。彼のピアノに誘われ違う世界を漂っていて、そこから現実に戻ってきたせいだろう。
僕は緩慢な仕草で頬に残っていた涙をぬぐった。涙とともに何かが流れ出たような、そんな感じだった。
どうして、先生が彼に惹かれるのか、わかった気がした。
僕と先生はこの瞬間には同士だった。
彼のピアノを聴いて感動した、同じものを感じ取った仲間だった。
ふと振り向くと、寝室のドアのところに先生が立っていた。髪は乱れて顔は青ざめていたが、それでも先生は美人だと思った。
なぜまだここにいるのかとか、先生は何も聞かなかった。
近づいてきた先生を、僕は避けなかった。両腕を僕の首に絡め、先生は僕に口付けた。それから、驚いたような瞳で僕の顔を覗き込んだ。
「……どうして?」
いつもの勝気な先生の口調ではなかった。まるで迷子の少女のような戸惑と、寂しげな微笑をたたえていた。
「避けないのね。私のこと、なんとも思ってないから?」
先生は傷ついていた。今はその理由がわかる。片山龍介に似た僕が、先生を拒むからだ。僕に彼を重ねようとしてる先生は、片山龍介に拒まれたように感じるのだろう。どうしたって、僕は彼ではないのに。
「先生の好きな人は、俺じゃないでしょう?」
僕の言葉に、先生は微かに笑って首を振った。そのまま僕の肩に頭をもたれかけさせた。
「先生が本気で俺のことを思っているなら、俺も本気で答えますけどね……でもそうじゃない。あなたは違う人を見てる。俺に似てて、まったく違う人物を」
先生は顔をうつむかせたまま首を振った。
僕は片山龍介のCDケースを手にとった。その仕草に先生は顔をあげ、そのケースがなんのCDのものかすぐに気付いたらしく僅かに顔を強張らせた。
「正直に、教えてください」
僕はCDケースを両手で持った。ケースはプラスチックだ。少しでも力をこめれば……。
CDのケースが、きしんだ音をたてた。
彼女を脅すには、それで十分だった。
「やめて」
先生は僕の手からケースをひったくった。床に座り込み、決して離すまいというように、しっかりと両手でケースを抱え込む。一瞬目に浮かんだ敵意が僕と視線を合わした途端に消え、彼女は即座に視線をそらした。
「彼、なんでしょう?」
僕の言葉に、先生は目を伏せた。
ためらいがちに開かれたその唇からは、やっと肯定の言葉が紡がれた。
「……そうよ。彼が、私が信じている至上のピアニストよ」
先生ははっきりとそう言ったあとに、やや声を抑えた。
「……そして、ずっと想っている人なの」
やはり、先生の想い人は彼だったのだ。
彼女はうつむいた。叱られた子供のような仕草だった。
夢は覚めたのだ。
だが彼女は、いつもの先生には戻れなかった。座り込んだまま、頼りなげな瞳で床を見つめているだけだった。
「どんな人なんですか?」
僕の問いに、彼女は顔をあげた。
「……え?」
「俺も、聴きました。彼のピアノを」
先生はオーディオに視線をやった。CDを聴いたのだとわかったらしい。
「先生がピアニストとしての彼に惹かれるのはわかります。でも、それだけじゃないんでしょう? ピアニストとしてだけでなくて、本気で彼のことを好きなんでしょう?」
彼女はCDケースを膝の上に置き、その表面を右手でなぜた。
「……私が彼に会ったのは、まだ高校生の時よ」
先生は静かに語りだした。
……小学生の時からの友達が進学した高校の文化祭で、サロンコンサートが催されたの。友達は幼少の頃からピアノを習っていて、サロンコンサートに出演することになったからと、私をその文化祭に誘ってくれた。
友達の発表が終わってしまった後も、私は惰性でそのサロンコンサートを最後まで見ていた。その一番最後で彼は現れたの。トランペットの伴奏者として。
その時にきいたのはグノーの『アヴェ・マリア』だった。
……何度も聞いて知っていたはずの曲は、彼の手でまったく違うものに変えられていた。彼が弾いたその音は、私が今まで抱いていた価値観を壊してしまった。
その年までに何度もピアノのソロコンサートに行ったことはあったけど、彼のような音を出す人はいなかった。
私は友達に頼んで彼について調べてもらったけど、彼が卒業後どこの大学に進学したまではわからなかった。でも、きっと音大にすすみ、そのうちピアニストとして世に知られるようになると信じていたから、その時まで待とうと思っていたの。
でも彼がピアニストになる前に、私はまた彼と偶然にも出会うことができた……。
「……芸大で」
僕が言うと、先生は頷いた。僅かに微笑みを浮かべる。
「そう、私は知らずに彼と同じ大学に進んでいたの」
学内で彼を見つけた私は、狂喜して彼の情報を集めた。
どこに住んでるかとか、どんな授業を選択しているかとか、小さなことまで……。
でもそんな情報よりも、私が求めていたのは、もう一度彼のピアノを聴く事……そう思っていたある日、これ以上ない情報を手に入れたの。彼がラウンジでピアノを弾くバイトを始めたということを。
それが、あのM…ホテルのラウンジか。
僕はつい数時間前にいたラウンジのことを思い返した。
彼がバイトをしていたのは、間違いなく9月のことだろう。だから先生は毎年9月にあの店を訪れるのだ。10年前にあのラウンジで、お酒を飲みながら片山氏のピアノに耳を傾けていたのと同じように一人で。
……私は、何度もそこに通った。一人で飲むお酒にもなれた頃、彼はバイトを辞めた。その後……しばらくして、彼が同じラウンジでバイトをしていた女性と付き合っていることを知ったの。偶然にも、その相手の女性は私と同じ文芸学科の人だった。
もちろん、嫉妬した。でもそれは彼の隣にいるのが私じゃないという理由ではなくて……彼が音楽以外に心に受け入れた存在が在るって、考えたくなかったから。
でも彼に恋人がいても、彼のピアノの音が変わってしまうわけじゃなければそれでいいと思ってた。逆に恋人の存在のために音がより優れるようになるなら、それは素敵だとも思っていた。でもやっぱり、彼の隣に私じゃない人がいるのは辛かった。そうなって初めて、私は彼をピアニストとしてだけではなく、一人の人間として愛してるんだって自覚したわ。
しばらくして二人が別れたことも知った……。
彼が卒業後フランスに留学したことまでは調べることができた。私はフランス語を習得して、何回もフランスに行ってみたわ。パリのカフェで彼と偶然会えるんじゃないかという期待さえ抱いて。結局その期待はかなわなかったけど……。
「そして、その数年後……私はあるCDショップの店頭のワゴンセールで、1枚のCDを見つけたの」
「そのCDを、見つけたんですね」
僕は先生の持っているケースを見た。
「そうよ。私、このCDを買って家に帰るまで、これほど興奮したことはないと思ったわ。しっかりと包みを抱きかかえて、まっすぐ家に帰ったから、その日の夕食の材料すら買うのも忘れてた。その晩は何も食べずに、ワインを飲みながらCDをずっと聴いてた……」
彼女は小さく笑った。
「私はそれから彼が帰国していることを知り、彼が関西で活動していることを調べたの。私は何度も彼のリサイタルに足を運んだわ。そのたびに花を贈り……でも、手紙は出すこともできずにいた」
先生はテーブルの下にあった箱に目をやった。
「ね、あの手紙にはなんて書いてあると思う? 短い手紙よ」
想像できなかったので、僕は首を振った。
「私はいつでもあなたの音を感じている……」
それが、ピアニストの彼に対する先生の想いを表していた。
いつでも。今この瞬間でも、先生の中には彼のピアノの音が感じられるのだ。聞こえるのではなく。
もし僕が彼女を愛していたら。言いようのない嫉妬感にすら襲われる言葉だっただろう。彼女の心を占めるものは、彼の音だけだなんて。
先生は立ち上がった。ケースをテーブルの上に置き、僕に近づいた。
「ごめんなさい、もう一度だけ……彼になってほしいの」
「え……?」
戸惑う僕に先生はためらいがちに言った。
「これで、終わりにするから……」
彼女が望んでいるのが何か、わかった。
ったく、俺のキスはタダだと思ってるな、先生。まぁ役得って気もしないでもないけど(こんな美人が相手で、あんなピアニストの代わりだし)。今僕に彼女がいなくてよかったよ。いたらとてもじゃないけど、できなかっただろうし。
……まぁ、仕方ない。これで最後だって言うのなら。
僕は割り切った。
今の僕は、片山龍介だ。佳月友則じゃない。俳優になったつもりで演じよう。
そう思って立ち上がり、目を閉じた先生の頬に手をあて、目を伏せてそっと唇を重ねた。
長すぎも、短すぎることもない口付けだった。
顔を離すと、先生は苦笑を浮かべて僕を見た。
「嫌だわ、佳月君て……キスがうまくて驚いたわ」
そんなことをいわれて、僕は赤面しそうになって慌てて顔をそむけた。
「へ、変なこと言わないでください」
……そんなことを言われたのは初めてだ。しかしそもそも、先生自身あまり恋愛経験がなさそうに思えるのは気のせいだろうか。こんな美人だけど、先生の頭の中は片山龍介でいっぱいだしなぁ。
「あの、俺は誰にでもこんなことをするわけじゃないですよ」
僕は誤解されないよう、言い訳しておいた。
「ただ、先生の気持ちがわかったから。先生がそれだけ想い続ける相手が、どんな人間なのかわかったから、応えただけで……」
「わかってるわ、ありがとう」
先生は素直に頷いた。
「……彼に、近づきたくないんですか? その気になったらリサイタルで会うことだって」
僕の言葉に、先生は首を振った。
「もし私が彼に近づくことによって、彼のピアノを惑わせるようなことになるのは絶対嫌なの。それぐらいなら、遠くから見てる方がずっとマシ。一生片思いで構わない。ううん、片思いのままでいたい」
先生は答えた。すっと僕から離れて、オーディオの方へ近づいた。
「そう……これを、徳田君に渡そうと思ってたの」
彼女はデッキの近くに置いてあった一本のテープを手にとった。
「それは?」
「彼のCDを収めたテープよ。徳田君も、きっと彼のピアノを気に入ってくれると思うの」
「徳田は、彼のピアノを聴きましたよ。この前のリサイタルで」
「え」
先生は驚いたような表情を見せた。先生のそんな顔を見るのは新鮮で、僕はちょっとおかしかった。
「そこで、先生らしき人の姿を見たらしいですよ」
泣いていたらしい、とは言わないでおこう。
「あら、そうだったの……」
先生は小さく笑った。
「俺から、渡しておきましょうか」
「そうね、そうしてもらおうかしら。お願い」
僕は先生からテープを受け取った。ふと思ったことを口にしてみる。
「……彼のCDは、もう手に入らないんですかね」
「ちょっと無理かもしれないわ。私もいろんなCDショップに行って見たけれど」
それは彼がいまだ世間に広く知られていない埋もれた存在であることを示していた。
「でも、きっと……いつか彼のピアノが世界に知られると信じてるんでしょう?」
「ええ」
僕の言葉に、先生はにっこりした。
「自信、あるわ」
それはいつもの先生らしい、華やかさのある笑みだった。
僕はそれからリビングの隅のソファで、3時間ほど眠らせてもらった。
起きた後はコーヒーをご馳走になってから先生の家を出て、天王寺駅から環状線に乗って帰った。
こんな朝に家に帰るのは、滅多にないことだな。
……眠い。寝たりない。早くベッドに入ろう。
僕はあくびを抑えつつ玄関の鍵を開けた。リビングに行くと、紫が朝食を食べていた。
そうか、高校生である紫がこれから家を出る時間に帰ってきてしまったのか。もう少しずらせばよかったか。
「なによぉ、こんな時間に帰ってきて」
思ったとおり、紫はいちゃもんをつけてきた。
「朝帰りしちゃって、やっらしー。どこにいたのよ」
「ばーか、高崎の家だって」
僕がそう言うと、紫は「なーんだ」とつまらなさそうにつぶやき、コーヒーカップに口をつけた。
部屋に入ろうと僕が紫の後ろを通り過ぎようとすると、紫がふっとこちらと向いた。
「ね、兄貴は昨日、高崎さんの家に泊まってたんだよね」
どことなく意味ありげな口調に、僕は一瞬不審なものを抱いた。
「何度も言わすなよ、高崎の家だって」
僕がそう答えると、紫は「ふぅん、そうなんだ」と意味ありげに笑った。
「なんだよ」
ちょっとむっとして言うと、紫はしれっとした顔で言った。
「高崎さんて香水かコロンか知らないけど、付けるようになったんだねぇ。でもちょっと男の人がつけるには甘い香りじゃないかな〜」
…………。
紫は立ち上がり、僕ににっこりしてみせた。
「じゃ、行って来まーす」
紫が出て行ってから、僕は思わず自分の服をかいで見たが、よくわからなかった。たぶん先生の香水がうつったのだろう。昨日抱きかかえたりしてたからなぁ……。
しかし、紫に突っ込まれるとは……嫌なやつに弱みを握られたような、そんな感じだ。すぐ忘れてくれればいいが。
僕が即座に服を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びたのは、言うまでもない。