9月ももうすぐ終わる。
暦のうえで行くと、時期的には秋のような気がするが……全然涼しくもならない。やや日が落ちるのが早くなったかな、というぐらいだ。
10月の最初の週に、ゼミの発表の順番が巡ってくる。
澁谷先生のところに行かないとならないなぁ……。
僕がため息をついた。
発表に際して必ず先生に相談や報告をする必要があるわけではないが、まあ一応。でもまだ資料をつくってないから「これこれこういう発表をするつもりです」という話だけで終わるだろう。
僕は重い足取りで研究室に向かっていた。
話は早く切り上げて、とっとと帰ろう。
研究室の前で足を止め、二回深呼吸をしてからドアをノックした。
……返事がない。
僕はもう少し強くノックした。
やはり返事がない。
いないのかな。
そう思っていると、
「……どうぞ」
中から声がした。澁谷先生の声だった。
「失礼します」
僕がドアを開けると、先生は右手に受話器をもっていた。
どうやら電話中らしい。
間の悪いところに来てしまったかな。
退出しようか迷っていると、
「ごめんなさい、もう終わるから」
先生は受話器を押さえて僕にそう言った。そしてまた電話相手と会話を始めたのだが……フランス語だった。発音の感じでそれとわかるものの、早くて何を言ってるのかわからない。そうして話している先生を見ていると、まるで日本人でないようにも思えてくる。
それから2分と経たないうちに電話を終え、先生は受話器を置いた。
「ごめんなさいね、お待たせして」
艶やかな笑みを見せて、先生は言った。
「どうぞ、座って」
「失礼します」
僕はさりげなく先生の机から距離をとった位置に椅子を置いて座った。
「あら……佳月君、気のせいか……ちょっと太った?」
そう言われて、僕は苦笑して流した。
「今日は何の御用かしら」
「ゼミの発表のことですが」
「佳月君は……再来週だったかしら?」
先生は机の脇の棚に置かれていたバインダーを取り上げた。ゼミの面談で見たときと同じバインダーだったが、以前より厚さが増していた。各学生の発表資料が一緒に閉じられているらしい。
「で、なんについて発表するのかしら」
「えーと、『美術に描かれている悪魔について』とでも言いますか」
「あら、美術なの」
先生は驚いたように目をみはった。
僕も当初は美術関係について発表しようなんて思ってはいなかったんだが、夏休み中、たまたま母親の本棚を見ていて見つけた『悪魔の美術と物語』という本を読んでこれにしようと思ったのだ。
「ふふ、偶然て面白いわね」
先生がそんなことを言いながら微笑した。
「次に発表する宮下さんは、『天使の美術』についてなのよ」
え。
「芳峰さんが?」
「あら、お知り合いなの。そう、芳峰さん」
先生は言った。
あぁ……先生は、彼女が養子にいった話とか知ってるんだな。
「天使の次は悪魔の話がきけるなんてとても面白いと思うわ。絵画における天使と悪魔の違いみたいなのもわかるでしょうし」
……あぁ俺の発表にあまり期待しないでくれー。
僕は心の中でそう思いつつ、顔では笑ってごまかした。
「……佳月君は、悪魔ってどんな存在だと思ってるの?」
そんなことを聞かれて、僕はちょっと考えて答えた。
「え……と、人を惑わす存在ですかね。欲望の実現を取引材料として、人間を落としいれようとすると」
「つまり、人間にとっては負の存在ね」
「そうですね」
僕は先生の言葉を肯定した。
「人間は神によって正しい道に導かれ、悪によって堕落の道を歩む、と」
彼女は笑みを崩さず続ける。
「どうしても手に入れたいものがあったら……悪魔にすがりたいと思うんじゃないかしら」
「どうしても手に入れたいもの……ですか? 悪魔にすがってまで欲しいものは、別にないですね」
僕の返事に、先生はくすくす笑った。
「優等生な答え方ね」
少しだけ皮肉をまぶした口調だった。
「それじゃ、先生はあるみたいですね」
「ない、とは言い切れないわ」
僕の言葉をやんわりと流すように答える。
「お金で買えないものって、たくさんあるもの」
お金で買えないものって、大体愛情とかそういうものを引き合いに出すものだが……そういう解釈でいくと、先生の欲しいものって……まさかね。
「……そういや、フランスはどうでした?」
僕がそう言うと、先生は話をそらされたことを何とも思わないようで、
「あまり天候がよくなくて、出歩くことが少なかったわ。向こうの友達とお茶したり音楽をきいたり……ルーブル美術館に行ってみたり」
と、返事をした。
ルーブルか。夕佳里さんがきいたら羨ましがるだろうなぁ。
「佳月君は海外に行ったことがあるって言ってたかしら?」
そう聞かれて、僕は大真面目に言った。
「北海道と九州ぐらいです」
「それは海外じゃなくて、本州を出ただけでしょ」
先生は呆れたような顔をした。
……とりあえずボケとこうと思っただけなのに。まぁ先生相手にボケたのが間違いか。それとも僕のボケが甘いのか。
「じゃあ、まだ海外の美術館とか行ったことないのね」
「まぁ、機会があれば行ってみたいですけど」
僕がそう言うと、先生はにっこりした。
「そうね、機会があれば、北海道と九州以外の海外にも行ってみるといいわ」
先生……意外とシニカルなとこあるんだな。
僕はそう思いながら、「そうですね」とだけ答えた。
「ルーブルなんか行って、たくさんの美術品に囲まれてると……変な気分よ。ダ・ヴィンチが若い頃工房で描いた絵を目の前にすると……もう何百年も昔の絵が、今目の前にあるんだって思うと、その年月の長さにぞくぞくしてしまうわ」
「芸術品は、大切に保管されますしね。まあ全然痛まないわけでもないですが」
「そう、私たちが死んでも、ずっと残るものなのよね」
先生はぽつりとつぶやくように言った。
「名画と言われるものは大切にケースの中に保管されて、きっとあと何百年も美術館に飾られたままなんでしょうね。作曲家の生み出した名曲は楽譜になって、多くの演奏家に愛されて……でも人間は死んでしまうのよね」
「まぁ、人間には寿命ってものがありますから」
僕は適当な返事を返した。
「よく芸術家って、死んでから認められる人間っているでしょう? 画家とか作曲家とか……でも彼らは作品が残っているからいいわよね。本当に実力があるのに認められない……例えばピアニストとか、そんな人が誰にも評価されずに……ううん、評価の問題じゃなくて、その人の演奏を知る人があまりに少ないなんて、もったいないと思わない?」
「……そうですね」
先生の口調は、どこか熱っぽいものになっていく。
「世間に……ううん、世界に知ってほしい、でも自分だけが知ってる、そんな存在であってほしい……もしその人が世界に出てしまったら、もう手の届かない存在になってしまうっていう矛盾……わかる?」
気持ちとしては、アマチュアの頃から応援していたバンドがメジャーデビューしてしまい、世間に認められて嬉しい反面遠くにいってしまうような寂しさを抱くファンの女の子のような気持ちだろうか。
僕はそう考えたが、先生に言ったら「そういうのと一緒にしないで」と怒られそうな気がしたのでやめた。
「そんな人が、いるんですか? もしかして知り合いに」
なんとなく聞いてみると、
「例えば、の話」
先生は一転して冷めた口調になった。
「才能があるのに認められない人も多いってことよ。世界に知られて然るべき人が無名なんて、珍しいことじゃないのよね、今も昔も」
そう言って、本棚に目をやった。僕もつられてそちらに視線をやる。そこに並ぶ本の作者か、あるいは研究対象とされている芸術家のことを思っているのか僕にはよくわからなかったが、先生が妙にその「認められない人」の肩を持つので、僕は言い返したくなった。
「でもその人に才能があるかなんて、先生は本当に言い切れるんですか? 見込み違いとかじゃなくて?」
そう言うと、先生はにっこりした。
「あら、そんなことないわ。だって私、自分の感性を信じてるもの。間違いないわ」
さらりと言い切る先生に、僕はたじろいでしまう。
「……そ、そうなんですか」
「当たり前よ。こうして人に教える立場にいるのに、確たるものが自分の中になかったら何も人に伝えることができないわ」
「はぁ……」
僕の返事に、先生はわずかに目を細めた。
「もしかして佳月君、自分の感性に自信もってないの?」
「別に……自信があるとまでは……」
「それはいけないわ」
先生は笑みを浮かべたまま、シビアな言葉を口にした。
「創作のために芸大にやってきたのに自分の感性に自信がないなんて、そんな人が一体どの程度の作品を創り上げることができるのかしら?」
……うっ。
思わず先生から視線を外してしまう。
「まぁ自信たっぷりな学生なんて、滅多にいないものだけれど」
先生は「たまに例外もいるけど」と付け足した。
「自信って、大切よ。それがなければ、作品を完成させることなんてできないと思うわ。自分を知ることって、重要だってよく言うでしょう? それって欠点だけを知ることじゃない、自分の美点だとか長所を知ることも含まれてると思うの。自信喪失は創作活動を妨げるもの、ね?」
「……そうですね」
「どうして下向いてるの?」
僕が顔を上げると、先生の艶やかな笑みがあった。
「佳月君て、人と話をするときはちゃんと顔を見る人だと思ってたけど」
「いや、耳に痛い話なんで」
「あら、私お説教なんてしてないわよ」
にこにこと笑いながら、
「私、講師になって誰かに説教したことなんて一度もないもの。怒ったこともないわよ」
へぇ……。
確かに、先生が怒るところなんて想像がつかない。彼女はいつも微笑しているから『芸大のモナリザ』なんて言われてるわけだが……あまり感情を露わにしないように見える。
「佳月君は……自分の何かを後世に残したいとか、そんなことを考えたことがある?」
急にそんなことを言われてもなぁ。
そもそも、僕には後に残したくなるような作品はないんだが。
「所詮、人間は歴史という流れの傍に転がる小石ですよ」
僕がそう言うと、先生は意外そうな顔をした。
「あら、あまり未来のことは考えないの?」
「先生の言う未来って、数百年単位の話でしょう? その頃俺のことを知ってる人がいなくても、一向に気にはしませんが」
「寂しくない?」
「浦島太郎になったら、僕も入水自殺するでしょうね」
僕の返事に、先生は口元に笑みを浮かべた。
「どんな人でも死んでしまえば過去になるわ。よく、死んでも心の中で生き続けるって、そういうじゃない。でもそうやって思い出の中で生き続けることができても、知る人が同じように死んでしまえば……心の中に生き続けていた人はもう行き場がないわ。それって、二度目の死……ううん、消滅にあたるのかしら。それって、とても寂しいことじゃない? 私たち、生きていた証が何も残らないのよ」
………………。
なんかえらく話のテーマがあっちこっち飛んでるけど……。
先生って、思っていたよりロマンチストなタイプなんだな。もっとシビアな観点の持ち主かと思っていたけど。僕なんてわりと刹那主義的なとこがあったりするんだが……。
「……で、そう、発表の話ね」
先生が元のところにまで話を戻した。
「資料はもう出来ているのかしら?」
聞かれて、僕はちょっと慌てた。
「あ、いや……まだまとめる前です」
「そうなの? まぁまだ時間はあるものね。じっくり仕上げてください」
「ありがとうございました。では、失礼します」
僕は椅子から立ち、礼をした。
そのまま部屋を出ようときびすを返したとき、
「佳月君て、夜は遊び歩く人なの?」
先生が声をかけてきた。
また何を聞いてくるのやら。
「貧乏なんとやらで」
振り向き、僕は答えた。
「夜もバイトしてるの?」
「日にもよりますが」
決して「夜のバイト」ではない。
「そうなの」
先生は表情を和らげ、軽く手をあげた。
「じゃあね」
「失礼します」
僕は研究室を出ると、ふーっとため息をついた。
……なんか、不必要なエネルギーを使った気がする……。
先生と話してると、何か焦らされてる気がするのだ。何かしないと、何か見つけないと、何か創り出さないと……そういう気持ちにさせられる。相手が先生だからだろうか。日々のほほんと生きている自分に「このままじゃいけない」と言う警鐘を鳴らされているような……。
僕だって、ただ安穏と生きているだけで満足はしたくない。何か創りたい。でも、その「何か」が「何なのか」掴めないから何も創れない……。
どうすれば、何処にいけば、気づくことができるんだろう。
昔から、こんな思いにとらわれることがたまにあった。
今、この場所にいていいのだろうか……どこかへ行かなければならないような、そんな気持ち。わけのわからない喪失感。
そんなとき、谷川俊太郎の『かなしみ』という詩を思い出す。その詩を読んだときに、誰でもこんな思いを抱くものなんだと、妙に納得したのを覚えている。細かい部分までは覚えていないが、『透明な過去の駅で』という言葉だけ、はっきりと記憶に残っている。きれいな、でもどこか寂しさのある詩だった。
……その詩のことを考えると、一緒に思い出されるのが『I was born』という詩だ。こちらはあまり僕の気持ちとは関係なくただ一緒の教科書に載っていたというだけで、『人間は生まれるのではなく、生まれさせられるんだ』というような言葉が印象的だった。僕ら人間は、自分たちの意志とは無関係に生まれてくるのだと……。
そんなことをつらつらと思っていると、ふとどこかへ行きたくなってきた。
旅行にでも、行こうかな。ふらっと……。
僕は空を仰ぎ、息をついた。
視線を戻したとき、視界に見覚えのある鞄と髪型の人物が入った。
あ、夕佳里さん。
彼女は長い髪を揺らしながら歩いていた。
そうだ、彼女にゼミの発表のことを聞こう。
「おーい」
声をかけると、彼女はこちらに気づいた。立ち止まり、頭をかしげるように僕を見る。
「やあ」
僕が近寄ると、
「あぁ……佳月君」
彼女は途方にくれたような表情を見せた。両手を胸にあて、わすかに顔を傾け、上目遣いにじっと僕を見る。
「私ね……すごくショックなことがあったの……きいてくれる?」
どき。
一瞬、動揺した。
彼女が自分からそんなことを言うのは初めてだ。いったい何があったのだろう。
もしかして、俺を頼ってくれるんだろうか。
……と思っていると、夕佳里さんの様子が真剣なものでなく、どこか芝居がかっていることに気づいた。
彼女はうつむいてふーっとため息をついた。
「今日ね……私、紅8号に乗ったの」
は?
「なに? その紅8号って」
僕が言うと、彼女は顔をあげて言った。
「知らないの? いつも食堂前にきてる献血車、紅何号って名前書いてあるの。私今日献血してきたの」
あ……あぁ、何かと思った。
献血車って、紅何号とかって言うのか。そういや俺、献血したことないや。徳田なんかは結構やってるらしいけど。
「そう、初めて献血をしたのよ、私。そしたらね……」
彼女は両手で頬をおさえた。
「産まれてこの方A型だと信じてきた血液型が、実はAB型だったの……」
へぇ。
自分の血液型を知らないっていう奴もいたけど、ずっと違う血液型だと思っていたのは珍しいかも。
「まぁいいんじゃないの? まだ入院とか怪我とかしたことないんだろ?」
僕が言うと、彼女は首を振った。
「よくないよ。今までおうし座A型で占いとかしてきたのに、ぜーんぶ結果違うじゃない。なんかショック」
あぁ、女の子って占いとかよくするもんな。
「あ、でもAB型って、俺と同じだね」
「そうなんだ」
夕佳里さんは芝居がかった態度を改め、真顔で言った。
「佳月君て、二重人格って言われたことある?」
「え……いや」
「ABって、二重人格って言うよね。A型とB型という対照的な両面を持っているせいなんだろうね」
その話はきいたことがあるが……自分がそうだとは思ったことはないけどな。
「君は、自分でそう思う?」
「二重人格と言い切りはしないけどね……人間は多面性をもっていて当たり前じゃない。それは別にAB型に限ったことじゃないでしょ」
夕佳里さんは髪を耳にかけながら答えた。
「そういえば私、A型の知り合いは多いんだけど、B型の人ってあまり知らないんだ。B型ってタイプ的にどんな人なの?」
「さぁ……よく知らないけど」
僕の知り合いでは、B型って今のとこ一人しか知らない。中岡さんが確かBだった。でも彼の性格を引き合いにだして『B型の男は女好き』というレッテルを貼るのは、他のB型さんに対し失礼だろうし。
「そういや献血って、何かもらえるんだろ? 何もらったの」
「ん? 歯磨き粉もらった」
……なんかえらく実用的だな。まぁ彼女は一人暮らしだから、歯磨き粉もらって嬉しいかもしれないが。
「あとジュースね。はちみつレモンなんて飲んだの数年ぶり」
彼女はそう言ってにこっとした。どうやらその久しぶりのはちみつレモンがおいしかったようだ。
そうそう、ゼミの発表の話を聞いておこう。
「俺、さっき澁谷先生のところに行ったんだけど」
「うん」
夕佳里さんは相槌をうった。
「君、発表の時に、天使関連の美術について発表するんだろ?」
僕の言葉に、夕佳里さんは頷いた。
「あ……うん、そうだけど」
「俺、悪魔関連でいく予定なんだ」
「あ、そうなんだ」
大きな目を瞬かせ、彼女は「偶然だねぇ」と言った。
「で、どういう観点で天使の美術をとらえるのか教えてほしいと思って」
「いいよ。でも……資料が手元にあったら詳しく言えるんだけど、今日でなければダメ? 今言ったほうがいい?」
「いや、今日でなくてもいいよ」
僕の返事に、彼女は「わかった」と答えた。
あ、ついでに……先の話だけど、映画にも誘っておこう。この前観た『ディープ・インパクト』に似た設定の映画。
「そうそう、正月映画になるのかな、今度またSFものの映画をするんだけど、一緒に観にいかない? まだまだ先のことだけど」
「え」
「リブ・タイラーが出演してる映画。エアロが主題歌歌う『アルマゲドン』てやつだけど……知ってる?」
「あ……うん、知ってる、けど」
そこまで言ったとき、僕はなにか彼女の様子がおかしいのに気づいた。
驚いたというか、慌てているというか……。
「……どう? この前の『ディープ・インパクト』と筋は似てるらしいけどまた少し違うようだし、エアロの歌もなかなかいいし」
「あ……うん」
彼女は足元に視線を落としていたが、顔をあげて僕を見た。
「それって……年末に返事するんじゃダメ?」
「え……あぁ、俺も来年の予定なんて今からわかるわけないから、すぐに返事くれとは言わないけど……」
僕がそう答えると、夕佳里さんは、
「じゃあ、それは保留ってことにしておいて」
と言った。
「まぁ、先のことだけど頭に入れといてよ」
「あ、うん、うん……わかった」
夕佳里さんはその話題を早く終わらせたいかのような口調で答えた。
……?
その態度に不審なものを感じつつ、僕はその話題を続けるのを止めた。
彼女は視線をずっと遠くにさ迷わせていたが、
「……ごめん、私用事を思い出した」
突然そう言った。
「え?」
彼女は鞄をかつぎなおすと、僕に向かってにこりとした。
「今度資料持ってくるからね」
「あ……うん」
彼女が急いでいるようなので、僕はそれ以上何も言えなかった。
「じゃあ」
彼女は微笑と共にそう言って、急いで立ち去っていった。
なんか慌しい……というか、変な感じだったな。
そんなことを思いながら僕もこの場を立ち去ろうと思った時、
「おはよう、佳月君」
後ろから声をかけてきたのは、清水さんだった。
なんとも微妙なタイミングで来るものだ。
「あぁ、おはよう」
僕は彼女のほうに向き直った。
やや伸びかけた髪をいくつもの飾りのついたピンでうまくまとめた頭をしているのが、なかなかお洒落だった。紫も髪が短いからって放置せず、こんな感じにしたらもっと女の子らしくなるのになぁ。
「……なんか、久しぶりやね」
そう言って、彼女はにっこりとした。
「あぁ、ほんとだね。夏休みあけてからは……」
そう言いながら、休み明けの最初のゼミの日はさぼったということを思い出した。
そっか……あの日本当は清水さんに会うはずだったのが、ゼミ抜けたから会わなかったんだ。
「ね、佳月君てさ」
清水さんは話しながらうつむき、足元の石を靴先で転がしていた。
「仲、いいんだ? ……宮下さんと」
「え……あ、あぁ」
一瞬誰の話をしているのかよくわからなかった。
僕と夕佳里さんが話していたのを、彼女は見ていたらしい。
清水さんは、夕佳里さんのことを、宮下って呼ぶのか。苗字変わったこと知っていそうな気もするけど、誰が知ってて誰が知らないのかわからないや。まぁいろんな人と彼女のことを話題にするわけじゃないからいいけど。
「ゲーム仲間だし」
僕がそう言うと、清水さんはつぶやくように言った。
「あぁ、そうか……そうだっけ……」
「え?」
「あ、ううん」
彼女は首を振った。
そのまま彼女が黙ってしまうと、なにやら気まずい沈黙が漂った。
……なんか、調子狂うな。
「この前、瀬戸さんに写真をもらったよ」
僕が何気なくそう言うと、
「え、え? なんの写真?」
清水さんは驚いたような声をあげたので、その反応に、僕の方も驚かされた。
「あの……海遊館の前で、4人で撮った写真だけど」
そう言うと、彼女ははっとしたように口元を手で押さえた。
「あ、あぁ……ごめん。あはは、勘違いしちゃった」
何と勘違いしたんだろう。
僕がさりげなく彼女の様子を伺うと、清水さんはうつむいたり僕の方をたまに見上げたりと、視線の定まらない落ちつかない様子を見せている。
そうだ……思い出した。
僕はこの前清水さんの表情を、どこかで見たような気がした時のことを。
愛子だ。
あいつに似てるんだ。
清水さんが僕に対して見せる一瞬の目つきや表情が、僕と付き合う前の愛子を彷彿とさせるものあるのだ。
……今まで全然考えもしなかったけど、そういうふうに意識すると見えてくるものに僕は気づいてしまった。
まさか、まさかだよな……。
いや、でも否定できない。ゼロじゃない。
清水さんが、僕のことを……。
「あのさ、今から言うのもなんやけど」
清水さんが話を切り出したので、僕の考えは中断されてしまった。
「あ、うん……なに?」
「年末の映画の話なんてするのもなんやけど、一緒に行かへんかなー、と思って」
「え……なんて映画?」
年末の映画なんて、一つしか知らんぞ。
「えーと、ブルース・ウィリス主演の映画」
……ぎく。
「もしかして……『アルマゲドン』のこと?」
僕が言うと、清水さんはちょっと上を向いて思い出そうとする仕草を見せた。
「えーと……あ、そうかな。そうそう」
タイミング悪いと言うか、なんと言うか……たった今、夕佳里さんを誘ったばかりだと言うのに。
「あ……俺……」
僕はなんて答えようか戸惑った。
「ごめん、俺夕佳里さんと行く約束したから」
って、そんなこと言っていいのだろうか。
でも、とりあえず断らないとダメだよな。違う人と約束したんだから。
「……ごめん、その映画は先約あるから」
そう言うと、清水さんは驚いたように目を見張った。
「そう、なんだ……」
彼女は視線をそらし、それからまたこちらを向いた。
そして僕の顔を見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「もしかして、その先約って……宮下さんと?」
……………………。
ここで選択はたった二つ。つまり、イエスかノー。どちらかだ。
そう思いながら、僕はつい……つい、答えてしまったのであった。
「いや、あの、母親と」
あああ〜、俺のあほーう!!
僕は心の中で自分を罵った。
こんな返事って、普通アリか?
「え……お母さんと?」
清水さんが驚いたように言うのに、僕は必死で言いつくろった。
「あ、うちの親もSF映画大好きでさ……その映画の主題歌歌ってるエアロスミスも好きだし、俺に連れて行けってうるさくて……父親は観に行かないっていってるらしくて、俺が付き添い」
嘘は嘘を呼ぶ。
嘘を繕うためにさらに嘘をつく羽目になっていく、無間地獄にはまったような感じだった。
「あぁ、そういやエアロスミスが主題歌歌うって……へえ、佳月君のお母さんもロック好きなんや」
「あ、うん……母親に影響されて、俺も聴くようになったから。俺より詳しいよ」
これは嘘じゃないから、後ろめたさを覚えずに口にすることができた。
「そっか……ざーんねん」
彼女は天を仰いで、おどけたように言った。
「せっかく誘ったのに……先約だなんて」
顔は笑っていたが、どこか寂しさのにじんだ声だった。
「あ……うん、ごめん」
い……痛い。嘘で誘いを断って、相手の残念そうな顔見るのって、こんなに痛いことだとは……。
その罪悪感から、僕はまたとんでもないことを口走ってしまうのであった。
「『アルマゲドン』は無理だけど、違う映画なら……行けないでもないし」
「あ、そう? ほんと?」
彼女の表情がぱっと明るいものになる。
「え……と、今なにやってたかな……」
今……なんだろ……何が……。
テレビ見ないからよくわからないが……えーと。
「俺が覚えてるのは……『シティ・オブ・エンジェル』かな」
ラジオで紹介していた気が、する。
「え、それ……って、ニコラス・ケイジが天使役のやつじゃない?」
清水さんが声のトーンをあげた。
「私観たいと思ってたやつだと思う。珠ちゃん誘ったら、彼と行くって断られたやつやわ。それ、観たい観たい」
そのすがるような目つきに、僕は断ることもできずに一緒に行くことになった。
……いいのかなぁ。
なんかためらいを覚えてしまう。
本当に彼女が僕のことを好きなら、僕がこうして一緒に映画に行くことって、妙な期待を抱かせることになるんじゃないだろうか。もちろんそれは僕の推測でしかないんだけど、もし、もし本当だったら……一緒に映画に行くのは、一度だけで止めよう。
「じゃあさ、いつ行くのか今度決めよっ。『関西ウォーカー』でも持ってくるし」
彼女は嬉しそうに……本当に嬉しそうに、そう言った。
「あ……うん」
「私これからサークルやから、じゃっ」
僕は立ち去る彼女の後ろ姿を眺めた。
……僕も僕だが清水さんにしても、正月映画の誘いなんてまだまだ先の話をするのは妙な感じだな。気が早いと言うか、なんというか……。
にしても。
高崎が言ってた『清水さんの好きな相手』が僕だとしたら……うーん、ちょっと態度を改めないと、あまり無神経にしてるとどんなことになるかわからないしなぁ……なにせ前歴があるから……。
清水さんの僕に対する気持ちの真偽について考えているうちに、僕はさっきの夕佳里さんの不審な態度を忘れてしまった。その二つに微妙なつながりがあるとも考えずに……。