昼食を終えると、授業の違う彼とは途中で別れた。
ゼミの教室のある3階まで上がりきったところで、渡り廊下の方から僕に声をかけた女の子が一人。
「おーい、佳月君」
ん?
振り返り、相手をまじまじと見て、僕は思わず声をあげた。
「うわ」
「なにが『うわ』なんよ」
相手は穂積さんだったが、休みに入る前は黒くストレートだった髪は、毛先だけウェーブのある褐色の髪になっていた。髪の色を変えたせいか全体の雰囲気は前より柔らかな感じで、その髪型も彼女によく似合っていた。
「いや、穂積さん……全然印象が違うから、ちょっと驚いて」
「やろ? 似合う?」
頭をかしげるようにして、彼女は言った。
僕は頷いて答える。
「似合うよ。可愛いね」
言ってから、またやってしまった……と僕は後悔した。
「佳月君の得意技やな、それ。ほんとに誰にでも言ってそう」
穂積さんは少し目を細めた。
「夕佳里にも言ったやろ。『可愛い』って」
あーあ、突っ込まれると思ってたんだよな。
僕は言い訳のように言い返した。
「いや、別に……下心があって言ってるわけじゃないよ。もちろんお世辞でもないけど」
「やろうなぁ。もし下心があったとしても、私には効果的なセリフじゃないから、覚えとってね」
きつい言葉だったが、冷たい言い方ではなかった。
僕は苦笑して言った。
「じゃ、穂積さんに効果的な言葉って何か、後学のために教えてもらおうかな」
「んー、言葉じゃなくて、美味しいものを死ぬほど食べさせてくれたら嬉しいかな」
死ぬほどって……彼女が大食なのは知っているが、本気で食べたらどれぐらい食べるんだろう。想像がつかないなぁ……しかし、食べても太らない人っていいな。穂積さんの顔の輪郭なんかは夏休み前と変わっていない。
僕と穂積さんはゼミの教室に入った。まだ早いせいか、僕ら二人だけだった。真中ほどの席に、僕が前、穂積さんが後ろの列に鞄を置いた。
「そういや夕佳里さんは一緒じゃなかった?」
「あぁ、あの子は渋谷先生のとこに寄るって言ってたから、教室で待つことにしてん。夕佳里は来週ゼミの発表やしな」
あ、そうなんだ。
「佳月君は発表のネタ考えた? 私はまだ先やけど、佳月君はそろそろやろ」
「一応、考えたけど……」
僕も渋谷先生のとこ行って、資料を見せて相談もしたいんだが……あまり二人きりで会いたくないんだよな。あの先生の僕に対する態度が謎だし。
「あ、ちょっとお手洗い行ってくる」
彼女はそう言って席をたち、教室を出て行った。
えーと……今日は誰の発表だったかな。
僕は手帳をめくって調べた。
浅井、菅本……ゼミコンで見たかなぁ。確か茶髪の二人だったような。わからん。
その時ドアが開いたのでそちらを見ると、入ってきたのは前倉だった。
なんでこいつ、いっつも教室に来るのが早いんだろう。
僕と目が合うと、前倉はわずかに顎を動かして見せた。どうやらそれが無言の挨拶だったらしい。なんとも偉そうな挨拶があったもんだ。
このまま無視してしまうのもなんか嫌な感じだしな。
「先日はご来店いただき、ありがとうございました」
嫌みったらしく言ってやると、前倉も負けじと言い返してきた。
「店員のガラが悪いと、客のガラも悪いって本当やな。あぁ、客というより妹か。兄と似て口が悪いようやな」
へぇ、わりとノリやすいんだな。
そう思いながら僕は言った。
「顔・性格が悪い奴よりマシだと思うがな」
そう言うと、彼はむっとした顔つきをした。
「俺を馬鹿にしてるんか」
「誰もお前のことだと言った覚えはないが。あぁ、身に覚えがあって、耳が痛かったのかな。そりゃ悪かった」
僕も紫のことを悪く言えないな。まぁ口が悪いのは親譲りか。
前倉は形勢が不利と見て、忌々しそうに黙り込んだ。
だがそれも僅かなことで、彼は狡猾そうな顔で、
「面白いことを教えてやろうか」
そう言い出したので僕は胡散臭いな、と思わずにいられなかった。
彼が僕が喜ぶようなことを言うだろうか。
「面白いって、思わず笑ってしまう類のことか」
こいつにどんなギャグを言われようと、せいぜい嘲笑ぐらいしかできんぞ。
「お前が興味があるんじゃないかってことや」
いかにも僕がその話をききたがるような口ぶりだった。
彼が僕に対して優位にたてるような情報が何かあったかなぁ。新作のゲームの情報なんてものじゃないだろうし。
「宮下……じゃない、芳峰夕佳里と仲がいいんやろ? お前」
そこで夕佳里さんの名前が出てきたのは意外だった。驚きはしたものの表情には出さず、僕は無言で彼の顔を見ていた。
「俺、お前よりいろいろ知ってるんやで?」
優越感を漂わせたその言い方に、僕は少々嫌悪感を感じた。これが紫だったら「えらそうに言うな」と癇癪を起こしているかもしれない。
のせられるのも嫌だし、何分相手が相手なので、僕は興味のある態度を見せなかった。
「へぇ、興味ないんか」
ことさら挑発するように、彼は続けた。
「せっかく教えてやろうと思ったのに、残念やなぁ」
「じゃあ教えてくれ」
僕はいい加減うんざりして言った。
「彼女の視力と足のサイズ」
前倉は一瞬ぎょっとしたような顔をした。僕がこういう返事をするとは思ってなかったようで、なんか間が抜けていた。言った自分も馬鹿らしいとは思ったが、彼を黙らせるには効果はあったらしい。まぁここで前倉があっさりと答えていたら、僕もかなりの精神的疲労を負ったことだろうが。
その時ドアが開いて、穂積さんが帰ってきた。
僕が前倉と話しているのを少し意外そうに見たが、自分は関係ない、というように鞄のある席に近づいてきた。
だが穂積さんを見たとき、前倉の表情をかすめたのは、さっき見せたずるそうな表情だった。
「今、佳月に何を話していたか、教えてやろうか」
穂積さんは立ち止まった。ちらりと僕に視線を投げかけたので、僕は目配せをした。通じたかどうかはわかなかったが、穂積さんはなんとかわかってくれたらしい。余裕のある表情で前倉に向き直る。
「適当なこと言って、人を惑わせるのが相変わらず得意みたいやね。そんなんやから女の子に逃げられるんよ」
辛辣な言葉に、前倉の方が動揺した。
うーん、徳田VS前倉はなかなかだったが、穂積さんVS前倉もいい勝負だな。
僕は一応穂積さんを庇える位置にさりげなく移動した。
教卓の近くに前倉、それから少ししたところに僕が机にもたれて立っていて、僕の後ろあたりに穂積さんがいる。そんな位置関係。
「ご苦労やな、穂積さん」
前倉は意外なことに、穂積さんに言い返した。
「そうやって俺みたいな男を追い払うので忙しいやろ。佳月も気をつけないと、この女に邪魔されるで」
……邪魔?
「お生憎さま。あんたと佳月君は違うしな、自分が普通やと思わんとってね。私やって人を見る目はあんのよ」
「ふぅん」
前倉は馬鹿にしたような口調で応えた。
「あんたはそうでも、お友達は二年前から変わらんみたいやな」
その言葉で、穂積さんはすっと青ざめた。
友達ってのは……まぁ、おそらく夕佳里さんのことだよな。
「相変わらず自分を守ることに精一杯と見えるし。お守りも楽じゃないやろ」
「あんたみたいな男がいるからじゃない」
穂積さんは吐き捨てるように言った。真っ向から前倉をにらみつける。その視線を受けながら前倉は平然としている。
すでに面白がっている状況じゃないのはわかるんだが、どうやって口をはさめば終わるのか……誰かきてくれれば終わるんだろうけど……困った。
「鬱陶しいわ」
前倉は嘲るように言い捨てた。
「自分は弱者だって態度見せつけて、まるで悲劇のヒロイン気取りやな。本当に死にたいなら手首じゃなくて」
穂積さんは最後まで言わせなかった。彼女は自分の鞄をつかみ、前倉の顔に投げつけた。とっさにかばうこともできず、前倉は顔面に鞄の一撃を食らった。彼は低くうめいて顔を押さえる。
穂積さん、やるなぁ。
僕はこんな状況だというのに感心してしまった。
穂積さんから前倉までの距離は決して近くはない。その距離を避けさせずに鞄を投げつけるって……これはなかなかできるものじゃない。
「……ってぇ……この」
前倉は鞄をつかんで投げ返そうと一歩踏み出したが、僕は足をのばして彼の足を払ってやった。無様に転ぶことはなかったものの、前倉は体勢を崩してよろめいた。
「……のやろう」
彼は激昂して僕に殴りかかってきたが、僕はその手を払って避けた。昔やりあったことのある奴に比べたら、前倉の攻撃は可愛いものだった。
「頭冷やせよ。学内で殴りあいもないだろ」
前倉は舌打ちすると「ほらよ」と僕に穂積さんの鞄を投げつけた。逆さまになった鞄からペンケース、ポーチがこぼれ落ちた。
彼としてもこれ以上騒ぎを大きくする気はないようだった。とりあえずは矛をおさめる気になったらしい。そこまで短絡的な奴でなくてよかったというべきか。
彼はそのまま、前のドアから出て行った。
僕は鞄から落ちたものを拾い集めて、穂積さんに渡そうと振り返った。
彼女は変わらず血の気のない顔をしていたが。それでも「ありがとう」とかすれた声で言って鞄を受け取った。
後ろのドアが開き、渡里さんや他の子が入ってくる。
そろそろ徳田や夕佳里さんも来るだろう。
「大丈夫?」
僕が尋ねると、穂積さんは微笑を浮かべた。
「うん……」
言いながら、その表情が崩れた。一瞬泣きそうにゆがんだ顔を、なんとか笑いに戻してから、穂積さんは顔をそむけた。ウェーブのかかった髪が、その表情を隠す。
「だめ……みたい」
彼女は鞄を手にして、身をひるがえした。後ろのドアから外に飛び出してしまう。
僕も鞄を手に、穂積さんを追った。
教室を出たところで、ドアの近くにいた徳田と夕佳里さんに出くわした。間の悪いことこの上ない。
「佳月……穂積さんは……」
徳田が走っていく穂積さんの背を振り返りつつ言った。言葉がそれ以上続かないのは、穂積さんのただならぬ様子に動揺したせいらしい。呆然と立ち尽くす、という言葉を彼に当てはめることになるのはこれが初めてだった。夕佳里さんの方は何も言わず、ただ去っていく穂積さんの姿を見つめているだけだった。その顔は強張り、怯えているようにさえ見えた。
僕は再び穂積さんを追おうとしたが、徳田になんと言おうか躊躇した。
うー、どうする。いっそ穂積さんを慰める役は徳田に振るか……しかし……話がこじれる可能性もある。
「悪い、あとで」
僕は徳田に振るのを諦めた。手短に説明している時間はない。二人を置いて、穂積さんの後を追った。
穂積さんは8号館から7号館へ渡り、4階の誰もいない小さな教室へ入った。僕も続いて入ろうと思ったが、穂積さんはたぶん泣いていると思われるから、そんなところへ入るのはどうかと思われた。
とりあえず、僕は一度一階に下り、缶の紅茶と、アクエリアスを買ってもう一度穂積さんのところへ戻った。
そっとドアを開けて入り、彼女が突っ伏している机の上に、買ってきた缶飲料を両方置いた。
「飲む?」
穂積さんは顔をあげた。頬を伝う涙を拭ってから、僕と缶を見て小さく「気が利くね」と言った。
「気の利いた言葉は持ち合わせてないけど……」
僕の言葉に、彼女はちょっとだけ、笑った。
「ありがたくもらうわ。紅茶にする」
彼女は缶を開けず、目元に押し当てた。渇きを癒すよりもその冷たさが欲しかったらしい。
「……しいわ」
「え?」
かすかな声に顔をあげると、穂積さんは表情を隠すようにしたまま言った。
「あんな奴に好き勝手言われて、すぐ泣いてしまうなんて悔しいわ……泣きたくなんかないのに……」
いつも勝気な彼女の本当の姿が見えた気がした。
穂積さんは強い人じゃない。本当は弱いのに、それを隠すために攻撃的な外面を装って……それでも強くあろうとしている人だ。
徳田が彼女に惹かれた理由がわかる気がする。二人はどこか似ているのだ。
強い自分を装いながら、その鎧が剥がれ落ちないように、苦しみに近いものを自分に強いている。
僕は彼女から少し離れた席に座って、アクエリアスの缶をあけた。プルトップの外れる音が、妙に大きく響いた気がした。
「穂積さん、何か……悩み、抱えているんだよね」
穂積さんは持っていた缶を僅かにずらした。わずかに見える彼女の視線が僕の様子をうかがう。
「それって、どうしても人には言えないことかな」
「……なんで?」
「もし……俺に何かできるなら、力になりたいと思うし……徳田だって、助けてくれると思う。穂積さん、自分で背負いすぎじゃないか?」
別に僕に打ち明けてくれなくても、彼女が徳田に頼ろうという気になってくれれば、それでよかった。彼に打ち明けたら、彼も応えて彼女を支えようとするだろうし。
だが彼女は首を振った。
「私たちは、誰かに助けて欲しいなんて少しも思ってない」
穂積さんは缶を下ろした。まだ目は赤いが、涙は止まっていた。
「なにもしてくれなくていい……放っておいてくれれば、それでいいんよ」
僕は彼女が「私たち」という複数形を使ったことに気づいていた。そしてそれが誰であるかも、わかった。
穂積さんと、夕佳里さんだ。
断片から推測するに……夕佳里さんが何か秘密を抱えていて、穂積さんはそれが露見することを恐れている……という感じだろうか。でもそれだけだとしたら、穂積さんの夕佳里さんを庇おうとする姿勢が普通じゃないような……夕佳里さんの秘密に、なんらかの形で穂積さんが関わっているという考え方が正しい気がする。だから彼女は夕佳里さんを庇わずにはいられない……というところか。
で、問題は……どうしてそこらへんを前倉が知っているかだな。これがちょっと気に食わない点でもあるが……。
「佳月君」
僕が黙り込んだのを見て、穂積さんが言った。
「余計なこと、考えんとってね」
「え?」
僕が聞き返すと、穂積さんは缶をあけた。
「私、佳月君のことは信用してるよ。徳田君の友達やし、夕佳里の話も聞いてるし。だけど」
穂積さんは一度言葉を区切った。一口紅茶を飲んでから、また口を開く。
「……その気がなくても、結果的に人を追い詰めてしまうことって、あるやろ? 良かれと思ってしたことが、裏目にでることだって……佳月君がもし好意でしてくれたことでも、それが全く逆の結果になったら……私、佳月君のことを憎むかもしれへん」
憎むと言う言葉がするりと彼女の口から出たのに少し驚いた。
そんなことにはなってほしくないんやけどね、と彼女は付け加えた。
「もちろん……佳月君も聞きたいことがあるとは思うけど、聞かないでほしいん。お願い」
……お願いとまで言われると、さすがにそれ以上は何も言えなかった。
「ごめんね」
確かに……僕には聞きたいことはたくさんあった。
前倉の言ったことは……どこまで本当なのか。
抽象的ではあったが、彼は夕佳里さんのことを言っていた。……気にならないといえば嘘になる。僕も多少疑問に思っていたことだったからだ。
やっぱり、夕佳里さんと前倉は以前なにかあったんだろうか。でもなんかそうじゃないような気もする。二年前夕佳里さんに何かあったことを、前倉が知っている。そういう感じか。でも彼女は前倉のことも怖がっていた。それだとやはり、何かあったのかな……。
『あんたはそうでも、お友達は二年前から変わらんみたいやな』
前倉は、二年前の夕佳里さんのことを知っている。
二年前夕佳里さんに何かあって、その何かってのがおそらく、異性との間のことで……それで夕佳里さんは異性に対してある種の恐怖を抱くようになった。それで僕とどこかに出かけても、一定の距離を保とうとしている。
穂積さんの方は、夕佳里さんに近づく異性に対しては警戒心を抱くようになってしまった。それが前倉の言う『お守りも大変だな』という言葉につながるんだろう。まぁ僕は徳田の友達だったから、さして警戒はしていなかった……ということかな。それでも全面的な信頼は得てないんだろうなぁ……おそらく。
……それだけだろうか。
パズルのピースは、まだそれだけではないような気がした。まだ全体がつかめない、そんな状態だ。
そういや、高崎が前にちらっと夕佳里さんのことを言っていた気がする。なにか噂があったとか……僕の知らないあたりでの話だろうけど、それがどんなものかも気になる。
それに、さっき前倉は触れていなかったが……彼はもしかしたら知っているんじゃないだろうか。
夕佳里さんが長袖を着ている理由。
可能性がないわけじゃないが、あえて否定していた一つの考え。
もしかしたら、その下には傷があるんじゃないかと。
もちろん傷を負う理由なんて様々だから、勝手な憶測で決め付けることは出来ない。何かのはずみで傷を負ったのかもしれないし、事故にあったのかも知れない。それで傷跡をさらしたくないという理由で長袖を着ているとか。うーん、そもそも傷があるんじゃないかということだって、僕の勝手な想像にすぎないことなんだが……。
『本当に死にたいなら手首じゃなくて』
前倉が言ってた、あの言葉。
もしそれが本当なら、夕佳里さんは死にたがっていて……つまり長袖に隠れた手首には、彼女の自傷行為によってつけられた傷跡があるという結論になる。
……そこまで持っていっていいのだろうか。全部推測でしかない。
しかしそれについて穂積さんに聞けない。聞けば、彼女は僕を敵とみなすだろう。もしかしたら夕佳里さんを傷つけてしまう存在として。
聞いて確かめたいのは、信じたくないせいもあった。
どこか影があっても、ゲームをしたり絵画について楽しそうに語っていた夕佳里さんが、自分を傷つけずにはいられない人だとは……考えたくなかった。
もちろん世の中には人には言えない悩みを抱えていて、一見普通に日常を過ごしながらも精神に死を孕んでいる人もいるだろう。世の中にいる、と言っても僕の近くには今までそれらしき人はいなくて……でももし彼女がそういう人なら……放ってはおけない。
「……もし」
穂積さんは僕の方を向いた。
「もし俺になにかできることがあれば、言ってくれたら……俺にできることなら、なんでもするよ」
僕がそう言うと、穂積さんは、知り合ってから見せた中で一番優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう」
彼女は目の際を指で拭った。
「今日は、庇ってもらったしね。お礼言うの忘れてたわ」
「あぁ、あれぐらい……」
「ううん……ありがとう」
いつになく素直な彼女の態度に、僕は妙に照れてしまった。
「……徳田には、なんて言おう」
そらすつもりでふっと口にした話題だったが、よく考えたら忘れてはいけない重要なことだった。僕は徳田に何があったか話す必要がある。
「きっと、すごく気にしていると思う。授業さぼって、俺と君が出て行ったから」
「そうやね……」
穂積さんは天井を仰いだ。
「ちょっと二人でエスケープしてました、って言っても通じへんかな」
……そんなことを言えば、僕が徳田に芸池に突き落とされる。
「それはちょっと……」
「私がうまく言っておくから、佳月君は気にせんでいいよ?」
彼女は2、3度咳払いして、声の調子を確かめ、鏡を覗いた。
「んー、ん……ちょっと嗄れてるかな……ま、これぐらいは大丈夫か」
彼女は僕の方を向いて、少しおどけたように言った。
「泣くって……結構体力使うことやってんね。なんかお腹空いてきたわ」
少し雰囲気を明るくしようという彼女の気遣いに報いるべく「さっきお昼食べたんじゃないの」と僕は笑って返した。
「あぁ、俺……今日夕佳里さんをゲーセンに誘ってたんだ……」
ふっと思い出して口にすると「あ、そうなんや」と穂積さんは特になんの感情もこもらない声で返した。
「やめておいたほうが、いいかな……今日は」
僕が言うと、
「それを決めるのは、佳月君と夕佳里やし。私はなんとも言われへんわ」
穂積さんは紅茶に口をつけた。
「私……今日はサークルに行くって約束してるし、練習に行かなかったら徳田君も気にすると思うから、夕佳里は佳月君に任せるわ」
僕はてっきり、穂積さんは今日はもうサークルに行かずに夕佳里さんと帰ると言い出すのではないかと考えていたのだが……彼女がそういうなら、予定通り僕は夕佳里さんと帰ることになる。
「……それで、構わない?」
「そうやね、夕佳里に手紙書いておくから、佳月君あの子に渡しておいてよ」
穂積さんはそう言って、鞄からペンケースと手帳を取り出した。どんな長い手紙になるのかと思えば、それは10分と待たずに書き終わった。
「はい」
彼女が僕に渡したのは、やっこさんに姿を変えた手帳の切れ端だった。わざわざ紙を正方形に成形し直してから折ったようだ。
「……これ?」
僕が確認のためにきくと、穂積さんは頷いた。
「うん、渡しといて」
女の子って、よく手紙をハート型とか封筒みたいに器用に折るもんだけど、穂積さんはあえてやっこさんなのだろうか。もしかしてすぐ開けるように折っていたら、僕が勝手に開けて見るとか思っているのか……いや、それはないにしても、受け取った夕佳里さんが読みにくくて仕方ないと思うが……まぁ僕が口をはさむことじゃないな。
僕は鞄の中にやっこさんをしまった。
「……これ渡したら、俺は夕佳里さんに何も言わなくてもいいのかな」
「いいよ、それ読んだらわかるから」
そう彼女は言い切った。
短い手紙でも、言いたいことが伝わる手紙なのか。何が書いてあるのだろう。
そんな僕の考えを見透かしたように、
「……何が書いてあるか、知りたい?」
穂積さんがきいてきた。
僕が否定も肯定もせずにいると、穂積さんは「読んでもいいよ」とぽつりと言った。
「夕佳里がいいって言ったら」
僕が穂積さんを見ると、彼女は僕から視線を外し、紅茶の缶に口をつけた。
もう彼女の声はかすれていなかった。
僕は授業が終わる時間に、ボックスへ行く穂積さんと別れた。
彼女は「紅茶、ご馳走様」と言って去っていった。まるで何事もなかったかのような笑みを浮かべて。
僕の方はゼミの教室の方へと向かったが、同じゼミの学生だって僕と穂積さんが出て行くのを見た人がいるだろうし、また前倉と顔合わせるのは御免だった。
だが、夕佳里さんを置いて帰れない。ゲーセンに行く、行かないはともかくとして。
確か彼女はゼミの後はなにも授業はなかったはずだからそのまま帰るはずだし、絶対通るであろう場所で待っていれば会えるだろう。
果たして、その予想はあたっていた。
僕は一人歩いてきた夕佳里さんの姿を見つけ、近寄った。なにも気のきいた言葉が浮かばず、僕はとりあえず「やあ」と声をかけた。
彼女は僕を見て、立ち止まった。
その大きな目でじっと僕を見る。
彼女を見ていると、前倉の言葉はすべて嘘のような気がしてきた。
夕佳里さんはまったく普通に見える。死にたがっているようにはとても見えない。
次に何を言おうか考えあぐねていると、彼女の方から口を開いた。
「……今日、ゲーセン、行くの?」
彼女の言葉に、僕は「うん……」と言いながら、彼女の表情をうかがった。
「いい?」
「別に、いいよ」
おそらく「今日はやめようか」と言っても「いいよ」と同じ調子で答えるであろうことは予想がついた。彼女の口調からは、どちらでもいいよ、という響きが感じられた。
僕はとりあえず穂積さんから受け取ったやっこさんを夕佳里さんに渡すことにした。
「手、出して」
僕が言うと、夕佳里さんは「なんで?」といった。
「いや、渡すものがあるから」
そう言うと、彼女はすぐには手を出さずに、
「なにを?」
と重ねて聞いてきた。
「穂積さんから預かった手紙」
僕の言葉に、夕佳里さんは右手を出した。僕はその彼女の手の平の上に、やっこさんを落とした。
「……なんで、それやっこさんなのかな。ハートとか封筒の形とか、折り方あると思うけど」
僕がきくと、夕佳里さんはちょっと笑った。
「あぁ、圭ちゃんは手紙の折り方知らないのね。だからやっこさんにしてるわけ」
あぁ、なるほど。
僕は納得している横で、夕佳里さんは紙を開こうとしたが、失敗したらしく端が破けた。
「……うーん、やっこさんを開くのも面倒だわ」
彼女はぼやきながら、どうにか手紙を開いた。
僕はもちろん手紙は見なかったが、彼女の表情を見ていた。
だが手紙を読む彼女の表情はまったく変わらず、何もうかがうことができなかった。
彼女は手紙を読み終わると鞄に入れ、そして僕の方を見た。
「行こうか」
夕佳里さんは顔をあげると、僕に向かって言った。先に歩き出そうとする。
もしかしたら、彼女に何か聞かれるのかもしれないと思っていた。
前倉に何を言われたのかとか、穂積さんが何を言ったのかとか。
だが彼女には穂積さんの手紙で十分だったらしく、僕にはそれについては何も言う気はないようだった。
「……穂積さんに言われたけど」
「え?」
彼女は振り向いた。
「聞きたいことがあっても、何もきかないでほしいって、そう言ってた」
夕佳里さんはこちらに向き直り、じっと僕を見つめた。
「……君も、そう思ってる?」
もし肯定の返事が返ってきたら、僕はこれ以上何も言わないつもりだった。
ただ彼女にも、聞いておきたかった。
何かできることがあるなら、してあげたいと思っていたから。
彼女はその質問には答えず、逆に聞いてきた。
「ききたいこと、あるんだ?」
「そりゃね」
「圭ちゃんが手紙になんて書いたか、気になる?」
「気にならないと言えば嘘になる」
僕もいつのまにか夕佳里さん流の曖昧な受け答えが身についたらしい。
その返事に、夕佳里さんは微笑した。その笑みに、いつもと違う冷ややかさを感じたのは気のせいだろうか……。
彼女は鞄をあけ、穂積さんの手紙を取り出した。
「はい」
「え?」
僕は彼女の顔を見た。夕佳里さんは僕の視線を受けて言った。
「佳月君の聞きたいことに関する答えは書いてないけど……」
答えを口にすることはできなくても、僕に手紙を見せてくれるのか……。
僕は彼女から手紙を受け取った。
まさか穂積さんの手紙を読ませてもらえるとは思わなかった。確かに穂積さんは読んでも構わないと言ったが、まさか夕佳里さんが見せる気になるなんて考えもしなかっただろう。穂積さんの予想は裏切られたわけだ。
僕は緊張しながら手紙を開いた。
そこにどんな秘密が書いてあるのか、僕が知っていいことなのか……少しは、夕佳里さんのことがわかるのか。
しかしそれを読んだ僕は、さらに困惑することになった。
そこにはさらに疑問を増やすだけの言葉しかなかったからだ。
ある意味、穂積さんは人に読まれても平気な手紙を書いたのだ。抽象的な、わかる人にはわかる意味の手紙。だからこそ穂積さんは僕に読んでも構わないと言い、夕佳里さんもこの手紙を僕に見せたのだ。
手紙には、たった1行しか書かれていなかった。
『大丈夫。この程度で日常は壊れないから』