Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  17
 僕は湿った髪をドライヤーで完全に乾かして整えてから、コーヒーを入れて冷凍庫にあったドリアをトースターに放り込んだ。
 コーヒーのカップを片手にのんびりと新聞を読んでいると、紫がやってきた。
「あぁもう、邪魔だよ邪魔。テーブルの上で新聞広げられたら、私が食事できないじゃない」
 うるさいなぁ……後からきたくせに。
 僕は新聞をたたんだ。
「お兄ちゃん、どっか行くの」
 紫は僕の向かい側の椅子に座った。
「あぁ」
「高崎さんと遊びに?」
「ん」
 しばらく紫と話している間に、トースターに入れたドリアが出来た。
 僕はトースターからドリアを出し、鍋敷きに乗せてテーブルに置いた。
 紫もなにか食べるのかと思っていたら、洗面所の方に走っていった。狭い家の中を走ることもないのに、まったく。
 チラシを眺めながら食事をしていると、いきなり紫が後ろから僕の髪を両手でがしがしとかきまわした。
「わっ……って、何してんだ、紫!」
 僕は驚いて、手にしていたフォークを落とした。紫の方は「わーい、お兄ちゃん庵、庵ー」とはしゃいでいる。
 はぁ?
 思わず髪に触ると、何かが指に付着した。驚いて手を見ると……指が赤く染まっていた。
 慌てて洗面所に行って鏡を見ると、前髪から横にかけて、髪の半分ほどが赤くなっていた。さっき紫が僕の髪をかきまわしたのは、染髪料をつけるためだったらしい。
「思ったとおり、似合うなぁ。ほら、早く整えないと、固まっちゃうよ」
 紫がやってきて、水を出して手を洗った。
「……あのなぁ。俺はさっき髪を洗ったばっかりなんだが」
「そのままで行けばいいじゃない。遊びに行くんでしょ?」
 にっこりと罪のない笑顔を見せ、紫は言った。
「ほらほら、右手をあげて、決めゼリフ言って」
…………………………。
「ねぇ? 言って言って」
 …………これも妹に対するサービスだな。
 僕は心の中でため息をついた。
「『月を見るたび思い出せ』」
 リクエストに答えてやると、紫は「わーい」と声をあげてはしゃいだ。
 僕はお返しに紫の髪をかきまわしてやった。
 ったく、勝手なことを……。
 今からもう一度髪を洗って乾かしたりしていたら間に合わない。高崎だけなら連絡つけて時間をずらすんだが……やれやれ。この頭で海遊館にいくのか。
 


「おう、佳月。一瞬誰かと思ったわ」
 高崎がそう言って、僕の格好をじろじろ見た。
 前髪から横にかけて半分ほど赤く染め、色の薄いサングラス(実はブランド品)をかけ、これまた紫に「似合うって」と押し付けられた長いチェーンの銀のプレートがついたネックレスをつけ、麻のシャツの下にTシャツという重ね着に黒いズボン。父親から黙って借りたショルダーバック。
 確かにいつもの僕とはちょっと違う雰囲気に見えるだろう。
「その頭、どういう心境の変化なん?」
「紫にやられた」
「……紫ちゃん、すごいことすんな」
「今度、あいつの髪を紫に染めてやる」
「名前のとおりにってか」
 高崎は苦笑した。
 彼の方はジーンズに綿のシャツというラフな格好だ。背中にリュックを背負っている。
 場所は、この前夕佳里さんと待ち合わせたのと同じ地下鉄の弁天町の改札前だ。(おそらく)僕たちと同じく海遊館に行くのか、家族連れが何組も目の前を通り過ぎていく。もしかすると大阪プールに行くのかもしれない。小学生ぐらいの子供がはしゃぎながら駆けていくのを、僕は壁にもたれてぼんやりと眺めていた。
「……遅れてるな」
 高崎がつぶやいた。
 時計を見ると、待ち合わせの2時を15分ほどまわっていた。清水さん、瀬戸さんが待ち合わせに遅れるタイプだとは思えない。
「……なんか連絡手段は?」
「瀬戸さんは携帯持ってるはずやけど」
「俺がかけようか」
 僕は携帯を取り出し、高崎が手帳を見ながら読み上げる番号をプッシュした。
 二回目のコールの半ばで、瀬戸さんが出た。
『あれ? もしもし?』
「もしもし? 佳月ですが」
『えー? 佳月君? どこにおんの? 高崎君も一緒なん?』
 瀬戸さんの口調は疑問符が飛びまくっているような感じだった。僕も同じことをそっくり彼女に聞き返したい気分だった。
「……弁天町の改札の前にいるけど」
『え? 改札の中で待ち合わせちゃうかった?』
 え?
「いや、確かに外だと」
「瀬戸さんらはどこにおんの?」
 高崎が横から言ってきたので、僕は「改札の中」と答えた。
「今から行くから」
 僕と高崎は切符を買うと、改札を抜けて急いでホームへの階段を上った。
「あ、おった」
 高崎が先に、ホームにある待合室の中に座っている清水さんと瀬戸さんを見つけた。
「高崎君……あれぇ、佳月君?」
 二人は出てきて、僕の姿を見て驚いたような顔をした。
「別人かと思ったわ」
「どうしたん?」
 僕はサングラスを外して、シャツの胸ポケットに収めた。
「妹にいたずらされて、髪を赤く染められた」
「佳月君て妹いたんやったっけ」
 清水さんが言った。
「4つ下やったやんな。紫ちゃんは」
 高崎の言葉に、僕は「あぁ」と返事をした。
「でも待ち合わせ、確かに中やと思ってたのに、おかしいなぁ……」
 瀬戸さんが額に手を当てた。
「私、高崎君に電話もらった時ちゃんと確認したと思ったけど」
「珠ちゃんの聞き違いちゃう?」
「そうかなぁ。ま、無事に会えたってことで、いいとしよっか」
 僕らはホームに入ってきた電車に乗った。
「あーもう、今日もあっついわぁ」
 瀬戸さんが手で仰いだ。
 彼女はジーンズにTシャツとサンダルという極めてシンプルな服装をしているが、手足の爪にはお揃いのネイルアートを施し、アイシャドウはラメ入りという部分的に凝った格好をしている。清水さんの方は赤を主にしたどこかの民族衣装のような柄の長いスカートに白いオーバーブラウスを着て、手にしているのは籠を編んだような小さな鞄だった。瀬戸さんのさっぱりとした華やかさと清水さんの快活な可愛らしさは意外といい組み合わせに見える。
「その爪、きれいなもんだね」
 僕が言うと、瀬戸さんは僕の方に爪を向けるようにして手をあげた。シルバーの地に可愛らしい花の絵が描かれている。
「あぁこれ? ネイルアーティスト見習の友達にやってもらってんよ」
「へぇ」 
「で、私はお礼にメイクをしてあげるというわけやねんけど」
「あぁ、瀬戸さん化粧うまいから」
 僕の言葉に、清水さんが「珠ちゃんはメイクの学校にいってたから」と言った。
「メイクの学校? 学校って」
「あ、知らんかったっけ。瀬戸さんは二つ年上やねんで」
 高崎がそう言った。
 え……。
「瀬戸さんて年上だったのか」
 僕は驚いた。全然そんな雰囲気には見えなかった。タメ年のノリでいってた。
「うん、高校卒業後にメイクの学校行っててんけど、その道で就職する前にいろんな人と会ってみたいと思って」
 瀬戸さんはちょっと照れたように笑って答えた。
「K…学園デザイン専門学校って、二年制のとこね」
 へぇ。
 そこから文芸って、えらく離れている気もするけど。
「な、聞きたかってんけど、佳月くんて変身願望あるやんな?」
 そうきかれて、僕はボケで返すことにした。
「変身願望って……こうポーズとって『へーんしん』て」
「ちゃうわ! それは特撮とかの変身やろ。あたしが言ってんのは、いつもの自分と違う自分を発見したくないか、ってこと」
「いや、別にないよ」
 僕が答えると、瀬戸さんはじーっと僕を見た。
「そうかなぁ? 今日は赤くしたその髪を見ると、絶対ありそうな感じすんねんけど」 
 これは僕じゃなくて、紫がやったんだけどな。
瀬戸さんはにっこりした。
「な、前に見たときから思っててんけど、佳月君て化粧映えしそうな顔しとるよね」
「……は?」
「その長い睫……ビューラーでくるっとさせたら、さぞぱっちりおめめができるやろうなぁ……」
 瀬戸さんはどこか陶酔したような顔で、両手を頬にあてた。そして一言「やらせて」と言った。
「はい?」
 僕はうろたえた。
「な、何を?」
 瀬戸さんは鞄から小さなポーチを取り出し、その中から銀色の小さな器具を取り出した。
「これビューラーって言って、睫をくるんとさせる道具な。で、ちょっとやらせて欲しいねん」
「それ……どう使うわけ」
 僕がきくと、彼女は自分の睫をはさんで上に持ち上げるように手を動かした。
「こうやって、睫をはさんでくるんとさせるわけやねん。佳月君、やらせて」
 というか、俺の睫をカールさせてどうしようというんだ彼女は。
「ごめん、俺ちょっとパス」
 僕が高崎の後ろに逃げようとすると、瀬戸さんは僕の腕にしがみついた。
「お願い、させて。痛くないから、ね?」
 うわーマジかよ。
「頼む、勘弁してくれ」
「優しくしてあげるから、やらせてーやー」
 隣の高崎がぼそっと「あやしい会話やなぁ……」と言った。清水さんは苦笑している。
「珠ちゃんて、気に入った人みつけると、すぐこれやもんなぁ」
 僕は瀬戸さんの腕をどうにか引き離した。
「俺そんな趣味はないって」
「あん、ちょっとだけやから、一回だけ。な、おーねーがーいー」
 周囲の人は何事かとこちらを見ている。
 ……ちょっと恥ずかしい。
「嫌だ、絶対断る」
 僕がきっぱりと言いつづけると、瀬戸さんはなんとか諦めてくれた。
 しかし、
「やりたくなったら、いつでも言って。私腕によりをかけて佳月君を変身させるから」
いや、おそらくその日は来ないかと。
「勘違いせんとってね。私、佳月君に女装させる気はないん。佳月君の中性的な魅力を引き出そうと思ってるだけやの。佳月君なら絶対イザムとかビジュアル系の歌手よりずっと綺麗になれるって私が保証したげるから」
 ……はあ。
「私も見てみたいなぁ、佳月君の化粧したとこ」
 清水さんがそう言って、高崎に「ねぇ」と同意を求めた。
「そうやなぁ……まぁ、俺の知ってる男の中では一番似合いそうな気がするけど」 他人事だと思って呑気なことを。
「お前がやってもらえ、高崎」
「俺がやっても気持ち悪いだけやろ」
 ……まぁそうだな。
 そんなことを言っている間に、電車は大阪港に着いた。
 海遊館まで歩いている途中で、瀬戸さんが観覧車を見上げて声をあげた。
「な、な、これ、後で乗ろう」
 ……本当に年上かと思ってしまうほどのはしゃぎようだ。
 海遊館の入り口で、入館料を払った。海遊館の入館料は2千円なのだが、観覧車と合わせて2千6百円というチケットがあったので、瀬戸さんの強い要望で(本当に観覧車乗りたいんだな……)そちらを買うことになった。観覧車が確か7百円だから百円しか安くなっていないが……ゼロよりはマシというものか。これぐらいとらないと水族館というものは維持していけないんだろう。
「うわぁ、すごい……」
 瀬戸さんが天井を見上げてつぶやいた。館内の構造としては、最初に水槽のトンネル『アクアゲート』を通り抜けて長いエレベーターで最上階にあがり、そこからゆるやかな坂を下るようにして見ていくのだ。
 僕は以前きたことがあるので新鮮には思わなかったが、瀬戸さんはきょろきょろしながら歩いて、時に人にぶつかりそうな勢いだった。
 その後を、高崎、そして僕と清水さんがついていく。
「珠ちゃんてば、子供みたいやわ……」
 清水さんが苦笑した。
「でもあれだけ楽しそうにしてもらえるなら、来た甲斐があったというもんだな」
 僕がそう言うと、清水さんは振り向いて僕の方を見た。
「佳月君は、水族館とかはあまり好きじゃないん?」
「そういうわけじゃないけど、前に一度きているからなぁ……」
「前って、いつぐらい?」
 ……話が前の夕佳里さんと似たような方向に流れていくなぁ。
「高校の時にね」
 頼むから、次に「誰と?」と聞くのだけはやめてくれ。
 僕のその願いが届いたか、清水さんは「そうなんや」と答えただけだった。
 海遊館は僕が今までに行った鳥羽や須磨の水族館とは違い、水槽のすべてが屋内にあり冷房もよく効いていて、むっとするような湿気とはまったく無縁だ。まさに「展示してある魚を観に来た」という気持ちにさせられる。
 本当かは知らないが、昔読んだ何かの記事で「最近の子供は魚と言えばスーパーで売っている切り身をパックにしたものだと思い込んでいて、魚の絵を書きなさいといわれると切り身の絵を書く子もいる」というのがあったような覚えがある。もしそんな子供が水族館にきたとき、どれだけ驚くことだろう。
「きれいな魚……」
 水槽を覗き込んで感動したようなつぶやきをもらす清水さんの隣で、
「あー、見てたらなんか刺身食いたくなってきたわ」
 高崎がそんなことをつぶやいた。
「マグロ、ハマチを、わさび醤油つけて……あと『いいちこ』があったら文句ないな」  水族館にきて刺身の話題を出すとは……。
「そういや佳月、お前この前徳田とナポレオン空けとったな」
 高崎が水槽から僕の方に向き直った。
 あぁ、空のボトルを始末してなかったな。
「お前がとっとと寝てしまったんだから、仕方ないだろ」
 こいつ、弱いくせに飲みたがるからな。
僕の言葉に、高崎は不服そうに返した。
「それにしたって、俺が寝る前に出してくれてもよかったのに。ほんと、お前らうわばみだよな」
うわばみ……えらい言われようだ。
「俺だけのけ者にして……冷たいよなぁ」
「別にのけ者になんてしてないさ」
 僕は高崎の肩にそっと手を置き、清水さんに聞こえないよう彼の耳元で囁いた。「なんせ、俺たちはキスまでした仲だろ」
 そう言うと、高崎は深いため息をついた。
「お前、言ってて寂しくならんか?」
 ……ほっとけや。
 僕は苦笑で返した。
「まぁ、彼女がいたら絶対言わないけどな、こんなセリフ」
「そうやろなぁ……お互い早く可愛い彼女つくろうぜ」
「なーに、こそこそ話してんの?」
 先を歩いていた瀬戸さんが戻ってきた。
「なぁ、ジンベイザメってまだ見られへんの?」
「まだ先のほうだと思うよ」
「海遊館ってめっちゃ長いやーん。なんか迷路に入った気分やわ」
「珠ちゃん……長いって、まだここ半分ほどみたいやで?」
 清水さんがパンフを見ながら言った。
「うーむ、先は長いのか。なかなか見ごたえがあるってことやねぇ」
 ……って、距離にするとまだそんなに歩いてないんだがな。
「しかし、海遊館て大きな水槽ばっかやなぁ」
 高崎が歩きながら言った。
「もし割れたらどうなるんやろう。やっぱ溺れるかな」
「怖いこと言わんとってよ、高崎君」
 瀬戸さんが肩をすくめた。
「こんな大きな水槽の水があふれてきたら、ものすごいことになってまうやん」
「そんなことないって。水槽のガラスはめっちゃ厚いから」
 ……僕も昔同じようなことを考えた気がする。
 歩きながら、つい非常口を探してしまうあたり、小心者かも。
 それからペンギンのいる南極大陸のゾーンなどを通り抜けた後、ジンベイザメのいる水槽にたどり着いた。
「どこ? 海君はどこにおんの?」
 瀬戸さんはガラスにひたっと張り付くように水槽を覗き込んだ。
「あぁ、今は遠いとこにいるわ」
「もー、早くこっち来てくれへんかなぁ」   
 瀬戸さんのつぶやきをよそに、サメはゆったりと水槽を泳いでいる。こちらへ来るのはあと5分ほどはかかりそうだった。 
「ちゃんと写真撮るつもりで、カメラも持ってきたんやから」
 瀬戸さんは鞄から出したカメラの電源を入れた。小型の可愛らしいカメラだ。
「外出たら、みんなで撮ろう。後5枚ほどで終わるからさ」
 ……この格好で写真撮られるのはなんか嬉しくないな……仕方ないけど。
 僕はふらりと近くのマンボウがいる水槽に近づいた。
 ふと見ると、なにやら注意書きが書いてある。
 えーと……マンボウは驚くとすごいスピードで泳ぎだしてガラスにぶつかるので、フラッシュ撮影はしないように……って、本当だろうか。
「なぁに? あ、マンボウかぁ」
 清水さんが隣に立っていた。
「俺、マンボウってわりと好きだけどな。可愛くない?」
「そうやね……なんか、ほわ?って感じする」
「とぼけた感じがするよね」
 ゆったりと泳ぐ魚を見ながら、僕はどこか羨ましさを感じていた。
 なんか、のほほんとしているよなぁ……。
 そんなことを考えながらみていると。
 ……なんかマンボウの雰囲気にあてられたのかもしれない。唐突に襲ってくる、現実逃避願望。遠くへ行って、何も考えずに過ごしたいという、そんな感覚に襲われて、僕は一瞬自分がどこにいるのか見失いかけた。
「佳月君?」
 ……おっと、やばい。
 僕はなんとか現実に戻ってきた。
「そんな見とれるほど、マンボウ好きなんやね」
 彼女はくすくす笑った。
 いや……別にそういうわけではないんだが。
「おーい、海君来たよ」
 瀬戸さんの声に、僕と清水さんは大きな水槽の前に戻った。

「うーん、やっぱり海君は可愛かったわぁ」
 瀬戸さんは満足そうな笑みを浮かべて言った。
 出口を出ると、彼女は僕らの方を向いて「本日はお付き合いくださいまして」と頭をさげた。
「いや、水族館なんて久しぶりやったけど、たまにはいいもんやな。次があるか知らんけど」
 高崎がのびをしながら言った。
「じゃ、今度は可愛い彼女と来たら」
「そうやな」
 清水さんの言葉に、高崎は苦笑した。
 下の土産屋に入ると、瀬戸さんはまた嬉しそうにはしゃぎだした。 
 彼女が特に気にいって、絶対買うと主張したのは……ビニール製のジンベイザメにガスをいれて、部屋の天井あたりでぷかぷかと浮かばせるやつだった。言うなればヘリウム風船のジンベイザメ版だ。
「これめっちゃ欲しいわぁ。可愛いし、部屋のインテリアになりそう」
「珠ちゃん……よした方がいいと思うけど」
「なんで? ええやん」
 彼女はそのジンベイザメ風船とヘリウムの缶をカゴに放り込んだ。清水さんが反対しても買う気らしい。
「あーぁ……本気で買うんだ」
 清水さんがため息とともにつぶやいた。
「なんか問題でもあるわけ」
 僕がきくと、清水さんは僕の方を向いて小声で言った。
「珠ちゃんは気にいったものがあるとすぐ買ってしまうとこがあって、部屋はめっちゃ散らかってんの。一人暮らしなんやけどね。珠ちゃんの彼は年上で珠ちゃんと同棲したいらしいんやけど、彼女が荷物を増やして散らかすから、一緒に暮らそうって言い出せないでいて……私、前に相談されたことがあるん」
 瀬戸さんの部屋が散らかっているというのは意外だった。イメージとしては片付いてそうなのに。彼氏も気の毒なことだ。
 僕らは別に買うものはなかったので、瀬戸さんだけジンベイザメ風船を買った。
「さて、誰か捕まえて写真撮ってもらおう」
 瀬戸さんは近くにいた男性をつかまえて、写真を撮ってもらうよう頼んだ。
 高崎、僕、清水さん、瀬戸さんと並んで海遊館を背にして写真を撮ってもらう。
「ありがとうございまーす」
 瀬戸さんはフィルムの残りを確かめた。
「あと何撮ろうかなー」
「観覧車撮ったら」
「あー、観覧車の中で撮ろっかな」
 そんなことを言いながら。
 観覧車は帰りがけに乗るということで、みんなで海の方へ行ってみた。
 海遊館から少し歩いて、階段を下りるとちょっとした広場。そこから右へ行くとマーケットプレースの裏側(前僕と夕佳里さんが歩いたところ)で、左に行くと、人魚の銅像がある場所に行き着く。
 僕が階段を降りる後ろを、清水さんがついてきた。
「海遊館、楽しかったね」
 そう言って、目を細めた。今はまだ、日差しがまぶしい時間帯だ。僕はまたサングラスをかけて、いつもと違う自分を装っていた。
「結局、瀬戸さんはあの風船を買ったね」
「うん……今度珠ちゃんち行ったときどうなってることやら。なんか怖いわ」
 彼女はちょっと笑った。
「女の子なのに、部屋が片付いてない人もいるんだ」
「あ、そんな女の子、珍しくもない。結構おるよ?」
 そういや紫もそうだ。あいつの部屋もすごいからな。そもそもあいつを女扱いしていいのか悩むこともあるが。
 ふと後ろを向くと、瀬戸さんと高崎は階段の上のほうでなにやら話していた。降りてこないのかな。
「今日の佳月君……なんか、いつもと違うね」
 そう言われて僕は清水さんを振り返った。
「あぁ、髪の色が違うからかな。俺も自分で変な感じがするよ」 
 僕は前髪に触った。もう指は赤くはならないが、何か粉っぽいものがついたような感じがした。
 清水さんは視線をこちらに向け、心持ち顔を傾けるようにして言った。
「でも……かっこいいね」
 その表情をどこかで見たような気がして、僕は一瞬言葉を返すのを忘れた。
 どこかで、誰かが同じような顔をして、僕に何か言ったような覚えがある。
 いつ? 誰が? どこで? 
 記憶を辿ろうとした時に、清水さんは階段を一番下まで降りた。後をついて僕も降りる。
 海に面したところに手すりはあるが、波を防ぐ対策はされていない。海面の高さと地面の高さの差が殆どないので、地面は海水で濡れていた。時々波が靴を濡らしていく。
「すごい、ゴミばっかやね」
 清水さんは呆れたような声をあげた。
 厳密に言うとゴミだけでなく、流れ着いた木片が散らばっている状態だ。
「あぁ、足元気をつけて。濡れてるから」
 僕が言うと、清水さんは「うん」と頷いた。
 彼女が履いているのはミュールだった。日頃うちの母親が紫に「あんなの履くのはやめなさい」と言っているやつだ。うちの母親は『厚底靴、ストレッチブーツ、ミュール』を嫌っている。紫の方は流行にまったく興味がないせいか、そういった靴を買う気はまったくないようだが(あいつが厚底靴なんて履いても可愛くもないだろうけど)。
 僕の方は多少濡れようが気にするほどのことはない靴なので、波が来ても逃げるつもりは少しもなかった。
 だが清水さんはミュールで    つまり波が来たら足がモロに濡れてしまうわけで    思っていたより強い波が打ち寄せてきたために、慌てて階段をあがって逃げようとした。
「ひゃあ」
 彼女は声をあげた。段差につまずいたらしい。
傾いだ彼女を支えるべく、僕は手をのばした。
幸い彼女が踏み外したのは二段目の階段でそれほど高い位置ではなかったため、清水さんを助けるのは難しくなかった。僕はよろけることなく清水さんを抱きとめた。
「あぁ……びっくりした。びっくりしたぁ」
 彼女はひたすら「びっくりした」と繰り返し、落ちかけた時に咄嗟につかんだ僕の腕を放した。
「大丈夫?」
「うん……あぁ、ごめん。ありがと」
 清水さんは胸に手をあて、何回か深呼吸した。顔が真っ赤になっている。
「……ありがとうね」
 顔をあげて、もう一度繰り返す。
「美也子ぉ、大丈夫?」
 瀬戸さんが走ってきた。階段を二段飛ばしでやってくる。
 思わず僕は彼女まで転ぶのではないかと身構えてしまったが、彼女は無事に清水さんの隣まで降りてきた。
「もー、びっくりしたやん。こっち来てみたら階段から落ちかけてるし……気ぃつけなあかんやん」
「うん、まさか滑るなんて思えへんかったから」
「あれ、高崎は」
 僕が瀬戸さんに言うと、彼女はこちらに向き直った。
「高崎君なら、パフォーマンス見とったよ。私だけこっちに来たん」
 あぁ、広場の方のパフォーマンスね。
「佳月君、ほんとにありがと」
「あ、うん」
 清水さんの言葉に、僕は答えた。
「しっかし、佳月君。ファインプレーって感じやったわ」
 瀬戸さんが茶化すように言った。
「その調子で、また美也子のこと受け止めてあげたって」
「は?」
 ……そんなに彼女はよく転ぶのか?
「珠ちゃん!!」
 清水さんが叫んだ。そのまま瀬戸さんの腕を引っ張って、少し離れたところへ行ってしまう。なんか僕は蚊帳の外状態だな。
「おーい、佳月」
 高崎がやってきた。のんびりと階段を降りてきて僕と並ぶ。
「あぁ、パフォーマンスは終わったのか」
「いやいや、めっちゃすごいよなぁ、ああいうの」
 高崎は広場の方を振り返り言った。
「一輪車乗りながら火のついた棒を振り回したりするしな。俺一輪車すら乗れへんのに」
 一輪車ねぇ……昔家にあったが、僕も乗られなかったような。
「女二人はなにをしてんの」
 高崎は清水さんたちの方を見た。
「さぁ……なんだろな」
「この後どうすんのかと思ったのに」
「この後って……どっか行くのか」
 観覧車乗ったらもうお開きかと思ってた。
「せっかく出てきたことだし、もうちょっと付き合えよ。たまにはいいやろ、こういうの」
 ……まぁね。
「あ、高崎君」
 瀬戸さんが清水さんを引っ張って戻ってきた。
「あぁ、これからどうすんの」 
 高崎の言葉に、瀬戸さんは力強く「カラオケ!!」と叫んだ。
「これしかないでしょ」
 ……まじかよ。
「カラオケって言えば、ゼミコンの日……徳田君が佳月君の歌は聴いたら気が狂うって言ってたっけ……」
 清水さんが言った。
「あれ、どうして?」
 あぁ、そういやそんなこと言ってたな。
「俺がアニメソング歌うからだろうな」
 僕が徳田の知らない歌ばかり歌うから。
「そうやわ、ゼミコンの時は佳月君帰ったけど、今回は逃がさへんよ」
 瀬戸さんは僕の腕をつかんで、ふふふと笑った。
「とりあえず次は観覧車やな。さー、行こう行こう」
 ……やれやれ。

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