Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  16
 僕が力をこめてクッションを引っ張ると、高崎も負けじと力をこめた。しばらく引っ張り合いをしていたところで、高崎がクッションを放り出して逃げた。高崎のほうも僕が本気だとは思っていないようだが、追いかけられると反射的に逃げてしまうらしく、僕の方も高崎が逃げるものだからつい追いかけてしまう。
「なんやねん、追ってくんなよ」
「お前こそ逃げんなよ」
 といっても広くはない部屋の中だから、逃げられる範囲が限られている。二人してテーブルの周りを回るようにしてどたばたした。巻き添えを恐れた徳田は早々に隣の台所の方へ避難している。台所に行ったついでに、使った食器を洗っているらしい。
「うわっ」
 高崎が足をすべらせてこけた……と、その後にいた僕は、高崎の足につまずいて転び、高崎にのしかかるようにして倒れ……って、あ。
 ごん。
「いっ……」
「あたた……」
 僕らは二人して口元を押さえた。
 なんてこった……転げた拍子に僕は高崎とキスしてしまった。それも歯をぶつけて。
痛い……。
「おいおい、大丈夫か」
 徳田が帰ってきた。
「最悪やわ……」
 高崎が涙目で訴えた。僕とのキスが泣くほど嫌だったのか、歯をぶつけた痛みのせいかはわからない。
「佳月には襲われるし、痛い思いはさせられるし……」
 ……………………。
「なぁ、高崎」
 僕が声をかけると、高崎は口元を押さえたままこっちを向いた。
「もう一回、改めてしないか」
「はぁ?」
 高崎は呆気にとられたように僕を見つめた。
「おいおい、佳月、正気かい」
「俺とお前のキスの思い出が、こんな形で残るのはどうかと思うのだが……」
「ちょっと……おい」
「やり直しを要求する」
 僕は高崎の頬に手をかけた。高崎はその手を必死ではがそうとする。
「ま、待てって、佳月」
「一度も二度も一緒だって」
「同じちゃうって!」
 高崎はわめいた。
「おいおい、高崎が気の毒だ」
 徳田が僕の肩に手をかけた。
「ほら、徳田も呆れとるやん。ふざけるのはこのへんにして」
「まぁ、見ている分には楽しいがな」
「徳田?」
 僕もわりと本気だったんだが。
 まぁいつまでもそんなことをしているのもなんなので、僕らはまた座った。心なしか、高崎は僕から離れた位置に座っている。
「ったく、佳月はいつもそんな強引にせまってんのかい」
 高崎がワインをあおった。あんな飲み方をしていたら、遠からずつぶれるな。
「せまるも何も、相手がいないのに」
「ほんとかいな」
 僕はワインを注ごうとしたが、もうボトルは空になっていた。仕方なく、冷蔵庫にあったビールを出してきた。高崎はビール好きらしく、冷蔵庫の中には5本ほど冷やしてあった。あまりビールって気にもなれないが、ナポレオンなんか高崎に飲ませるわけには行かないしなぁ。強くないくせに調子よく飲む奴だから。
「俺、徳田の口説き文句をきいてみたいな。なぁ、どうやって口説くん? もし目の前に口説きたい美女がいたら、さ」
 まさかトランペットを吹くとか言うんじゃないだろうな。 
 僕がそんなことを考えていると、徳田はふっと視線を遠くにやり「言葉なんか必要ないな」と言った。
「さすが、徳田! 目で殺すってやつですか」
 高崎がぱちぱちと手をたたいた。
 …………徳田、酔ってるんだろうか。素面でこんなことを言うやつだとは思ってないんだけど。
「佳月も見習わんとな。強引なだけじゃ女は落ちないって」
 だから迫る相手もいないってのに。誰が、いつ、強引に迫ったというんだ。前科もないのに。
「はいはい、覚えとくよ」
 僕は適当に答えた。
「数うちゃ当たるってわけでもないんやで」
「別に俺は数はいらないよ。一人いれば十分だし」
 ……あ、今懐かしいものを思い出した。高崎なら分かるネタだな。
「例え二桁の数の美女を口説き落とせても、俺はBバージンの道を選ぶね」
「うわ、懐かしい漫画ネタやな」
 高崎が声をあげた。
「なんだ、そのBバージンてのは」
 徳田の言葉に、僕が答える。
「そういうタイトルのマンガがあって、その中で男にはA、B、Cのバージンがあって……AとCは忘れたけど、Bバージンてのは、好きな子以外とは例えチャンスがあっても絶対しないってやつだった」
「AとCは……なんやったったけなぁ。山田なんとかいうマンガ家やったな」
「山田……風太郎」
 徳田がぼそっと言った。
「それ、マンガ家じゃないだろ」
「山田……耕筰」
「それ、作曲家」
「山田詠美……山田花子、山田かまち」
 僕と徳田は横目で発言した高崎を見た。
 山田がつけば誰でもいいってわけじゃないって。
「山田……山田……」
 しばらく考えていたが、どうにも思い出せないので諦めた。
「まぁ山田何がし氏のそのマンガの主人公の秋って男が、Bバージンを貫こうとするわけだ」
「秋って、確か生物オタクやったな」
 高崎の言葉に、徳田が「生物オタクの主人公がBバージンを貫く……?」とつぶやいた。これだけ聞いても話はわからんだろうなぁ。
「まぁ読んだら早いけど、おそらく徳田は読まないだろうな。主人公の秋は高校時代生物オタクだったんだけど、好きな子ができて、いろいろ修行した結果いい男に変身するわけだ」
「修行ねぇ」
「それで憧れの女の子と同じ大学に入って口説こうとするんだけど、まぁいろいろあってうまくいかないわけ」
「いい男になれたからって、すぐにふりむいてもらえるとは限らないってことか」
 徳田が皮肉っぽく言った。
「というか……相手のユイちゃんて子が、プレイボーイが嫌いな子で、秋のこともプレイボーイだと思い込んで信用してくれないんだよ」
「で、秋はBバージン貫くぞ、って誓って、信用してもらえるように頑張るわけや」
 高崎が付け加えた。
「Bバージンはいいけど、そもそもそいつって経験アリだったのか?」
 徳田の言葉に、高崎がぼそりと「秋ってヤラハタ……やったな」とつぶいやいた。
「は? アヲハタなら知ってるが」
 徳田……それはジャムのメーカーだ。 
「ハタハタとか」
それは魚。
「えーと、つまり……」
「やらないで、ハタチ。略して、ヤラハタ」
 僕の代わりに高崎が言ってくれた。
「はーあ、なるほど」
「俺らと一緒やな。はっはっは」
 高崎……はっきり言うなよ……。
「そういや、徳田は……経験、アリなんですか?」
 高崎が興味津々という顔で言った。
 さあ、どう答える徳田!!
 期待する僕の前で、徳田は遠い過去を思い出すかのように目を伏せた。
「イタリアの女性はみな情熱的でな……」
 僕は床に倒れて、笑いをこらえた。
 ……く……苦しい……。
「佳月、大丈夫か? 気分でも悪いんか?」
 笑いすぎてお腹が痛い……。
 僕はなんとかこらえて起き上がった。
 隣では徳田がしれっとした顔でグラスを傾けている。
「そういや、今日最高にくだらんビデオを見たよ」
 僕が言うと、徳田がこちらを向いた。
「なんだ?」
「高崎が誰かから借りたAV」
「俺は見たくて借りたわけちゃうって」
 高崎は手を振って否定した。
 でも結局見たくせに。
「くだらんといえば思い出したが、去年見たホモ映画」
「あぁ、今日高崎ともその話をしていたんだけど」
「あれも笑ったよなぁ。すごいストーリーで」
 単位が絡まなければ、絶対行かなかったが。
「でもあの映画館、ホモ映画だけじゃなかったよな、確か」
「あぁ、俺トイレ行くのに別の劇場を通り抜けたけど、そっちではノーマルもやってたで」
 高崎が言った。
「あぁ、それでやたらトイレから戻ってくるのが遅かったのか」
 徳田が納得がいった、というようにつぶやくと、高崎が叫んだ。
「ちゃう!! ちゃうって。観てたわけじゃない。遅くなったのはトイレが混んでたから……」
「女優、美人だったか」
 僕が言うと、高崎はちょっと考え込んで答えた。
「いやぁ、イマイチやったな。女子高生っていう設定はちょっと無理がありそうな年に見えたし」
「観てたんじゃないか」
 僕と徳田が突っ込むと、高崎は言い訳した。
「べっ、別に通り過ぎるちょっとの間に観れるやん、そんなの、な?」
 なんで女子高生って設定まで、通り過ぎる合間にわかるんだ。制服を着ていたというならわかるが。
「しかし、あぁいう映画って、どうしてタイトルにセンスがないんやろうな」
 高崎が話題をすりかえた。
「タイトルで中身がすぐわかるから便利とか」
「あぁ、そういう利点もあるな」
「でもちょっとえぐいよな。品がない」
「上品なポルノなんて聞いたこともない」
 ごもっとも。
「題名って、結構重要だと思うが」
 そういう話になって、僕はふっと夕佳里さんが言っていた、マグリットが他人に絵の題名をつけさせる話を思い出した。
「自分が作品を書いたとき、その題名を他人につけさせるって、どう思う?」
 そう言うと、二人は少し考えていたが、
「俺は全然抵抗ないで。むしろ考えてほしいぐらいやわ。俺気の利いたタイトルひょいって思いつかんし」
 高崎はそう答えた。
「俺は……自分で考えるかな。まぁ、俺は創作なんて滅多にしないから、大抵研究対象の名前が題名に来るが」
「そうか、徳田は論文派だもんな」
「でも創作だったら……もしある人物を主人公にするなら、その主人公をイメージするような曲を持ってくるか」
「主人公をイメージするような曲って」
「人間関係の状態を表す言葉で、不協和音というのがあるだろう」
 徳田の声が、わずかに低くなった。
「ピアノの鍵盤で適当に引くと、聞くに堪えない不安定な音だったりする。それが不協和音だが、人間関係で言うとその鍵盤にあたるのは人間であって……それが不協和音を奏でるということは、人間は音だと言い換えることもできる。人間が音ならば、その一生の流れは一つの曲のようだと解釈できるだろう。そのイメージにあった曲の題名をもってくるとか……ま、ちょっとありがちな発想だが」
「いや、でもなんかロマンチックな感じやな」
 高崎のその言葉の後、僕らは少しの間だけ黙っていた。
「……まだ、ビールあったか?」
 しばらくして徳田がそう言ったので、僕は冷蔵庫から缶ビールを3本とってきた。 「じゃ、もう一度」
「はいはい、乾杯」
 僕は二つ目の缶ビールをあおった。……部屋が結構涼しいから、あまりビールの冷たさが引き立たないな。
「うわ、今日のドラマ、テープに撮んの忘れてたわ」
 高崎が新聞のテレビ欄を見ながらうめいた。
「今日なんかドラマやってたっけか。誰が出てるやつ?」
 高崎は有名な女優の名前をあげた。
「面白いか?」
「いや、一度観だすと気になって最後まで見てしまうねんなぁ……」
 惰性で観てるのか。
「徳田はドラマを観るのか?」
 僕がきくと、徳田は首を振った。
「でも母がテレビ好きだから、観たくなくても視界に入って……」
 想像すると微笑ましいな。ドラマを観ている徳田って。
「そういや佳月って、全然テレビ見てないんやな、確か」
 高崎が思い出したように言った。
「あぁ、俺は家にいる時はラジオ聞いてるし」
「最初から最後まで見たドラマとかって、なんかあんのか?」
「最初から最後まで見たドラマ?」
 あるにはあるが……言ってもわかんないだろうなぁ。
「まぁ、なんでも言ってみろよ」
「えーと、『痛快ロックンロール通り』かな」
「…………はい?」
「あと……『誘惑』と、『LUCKY天使都へ行く』だったかな……それと『気持ちいい恋したい』」
「それって、何年前のドラマやねん」
 高崎が呆れたように言った。隣で徳田も怪訝そうな顔をしている。
「俺が小学生から中学生の時だから……まぁ、10年ぐらい前か?」
「きいたことあるような題名やけど、内容わからんわ」
「今あげたドラマには、実は共通点があるんだ」
 僕が言うと、高崎が「なんやねん」と身をのりだした。
「TMネットワークの宇都宮隆が出演していた」
 あ、でも『痛快ロックンロール通り』では出演していなくて、TMの曲がオープニングで使われていたんだっけな。
「え? そうやったっけ。俺TMは知ってるけど」
「妹もTM好きで、一緒に見てたから……毎週ちゃんと見てたな」
「あぁ、そういや妹さんは元気か」
 徳田が言った。
「あぁ、エネルギー無駄にあまってそうなほど元気」
 僕の返事に、高崎が笑いをもらした。
「相変わらずやもんな、紫ちゃんは」
「礼儀正しくて、いい子じゃないか」
 あ……徳田は紫に会ったことはあるが、紫の本性を知らなかったっけ。
 僕は今日の出来事を簡単に徳田に話した。
「彼女はそんな勝気な性格だったのか」
 徳田が驚いたように言った。
「わりと攻撃的なとこがあるから、たまに冷や冷やするよ」
 僕がそう言うと、徳田はちょっと笑った。
「兄と似てるじゃないか」
「俺と?」
 言い返そうとして、彼が何を言いたいのか思い当たり、僕は口をつぐんだ。
「一回生の時『カレッジ』で……」
 徳田が言うと、高崎が「なんやなんや。俺知らんぞ、『カレッジ』の話なんて」と好奇心を隠し切れない顔をして言った。
 一回生の頃、徳田はある専攻授業で、意見の相違から同じ一回生の男子学生と対立していた。相手の男子学生のあまりに偏った意見は誰からも受け入れられず、大多数の学生は言葉には出さなくても徳田の意見を支持していた。
 それを、相手の男子学生は根に持っていた。
 たまたま僕と徳田が『カレッジ』に入った時相手が先に店にいたのだが、徳田の姿を見て一緒にいた友人たちに徳田の悪口を言い始めたのだ。
 もちろん露骨に名前を出しはしなかったが、「池の近くで格好つけてトランペットを吹いている」とか言いながら徳田の方を見るあたりが嫌味なやり方で、周囲の人まで不審げな目で僕と徳田の様子をちらちら伺いだすほどだった。
 当の徳田は涼しげな顔をしてコーヒーを飲んでいたが、標的にされていなくても僕の方が先に耐え切れなくなった。
「いやあ、あの時は俺も驚いたよ。まだ知り合って間もない時で、佳月は穏やかな奴だと思ってたからな」
 徳田の言葉に、僕は言い返した。
「お前が何も言わなかったからだろ」
「言いたい奴には言わせておけばいいんだよ。結局あいつは留年したあげく中退しただろう。そういう奴だったんだから」
「で、佳月はなんて言ったん?」
「別に大したことは言ってないよ。言いたいことがあるならはっきり言え、って言ったぐらいで」
「その前に『うるせえな』がついてたぞ」
 徳田が付け足した。
 ……そういや、そんなことも言ったかな。
「その後に『ケンカ売ってんなら買ってやる』とまで」
 ……それは言ってないって。
「まぁ、あの時は若かったからな」
 僕がそう言うと、笑いを含んだ声で徳田が言った。
「じゃ、今はもう若くないのか」
 ……それを言われるとなぁ。
「でも俺はまだ男だし、自分の身は自分で守れるけど、妹はそうじゃないからなぁ……そういうとこが怖いんだよな」
「でも、いつまでもお兄ちゃんが気にしててもしょうがないし、彼氏に任せておけば」
 高崎の言葉に、徳田が「あぁ、彼氏ができたのか」と言った。
「一応、できたらしい」
「どんな男なんだ?」
「知らん。そのうち会ってみるけど。まぁ紫の尻に敷かれているのは確実だろうな」
 もしかしたら紫以上に気が強いタイプかも知れん……それは怖いな。考えたくない。
「会ったらぜひ教えてくれよ……」
 そう言ってから、高崎は「ふあぁ……」と大あくびした。
「眠くなってきた……」
 もごもご言いながら、彼は横になった。
「寝るのか?」
 時計を見ると、1時前だった。
 いつの間に……時間が過ぎるのは早いな。
「おーい、高崎」
 呼んでも、返事はなかった。代わりに寝息がきこえる。
 なんて寝つきのいいやつだ。
「……寝てるな」
 徳田がそう言ったので、僕は押入れから薄手の毛布を引っ張り出して、高崎にかけてやった。
 さてと。
 僕は冷蔵庫を開け、ナポレオンのボトルを出した。
「そんなものを隠していたのか」
 そういう徳田の顔は、心なしか嬉しそうだった。
「高崎にはちょっと飲ませられないからな」
 栓は徳田にあけてもらい、僕は軽くグラスを洗った。
「薄めるか? なにかで割るにしても……何もないな」
「氷だけで十分だろう」
 冷蔵室から氷をとってグラスに入れると、徳田がボトルを傾けて酒を注いだ。
「じゃ、乾杯」
 グラスを持ち上げると、氷が触れ合う涼しげな音がした。
 僕はこの氷が揺れるカランという音が好きだ。この音が響くぐらい静かな夜というのもいい。
 グラスに口をつけると、苦味のある味が口の中に広がった。
「やっぱり締めはワインよりこういう方がいいな。酒を飲んでいるという気分になる」
「酔えればなんでもいいんじゃないのか」
 僕がからかうと、
「そんなことはない。気分によって変わるさ。なんでもいいなんて奴は、エチルアルコールでも摂取していればいい」
 徳田はちょっと笑った。
 彼はまだそれほど酔っていないようだ。と言ってもまだそんなに飲んでいないから当たり前か。
 しばらく他愛ない話をしていたが、僕は彼に聞きたいことがあったのを思い出した
「そういや、徳田」
「ん」
 彼は僕の方を向いた。
「前に、俺が夕佳里さんを映画に誘ったとき……」
「あぁ」
「何か言いたそうにしていたが、俺が返事もらってから言うって言ってただろ? あれ、なんだったんだ」
「あぁ、あれか……」
 徳田は歯切れの悪い口調で言った。
「いや、彼女は……ちょっと、変わった人だから」
「はぁ、で?」
「断られても……あまり気にするなって言いたかっただけで」
 とてもそれだけには思えないが。
 天保山に行く前日には、わざわざ電話までしてきて。
「そういや、不思議なんだが」
「なんだよ」
「『ピカソ展』……夕佳里さんは俺のことが苦手そうなわりに誘いには応じたんだよな……嫌だって素振りを見せたら、俺だって無理には誘わないんだけど」
そう、どこか矛盾している。
「なんでだろうなぁ……俺にはわからんが」 
といいながら、徳田はまた目をそらした。
 ……怪しい。絶対おかしい。
 徳田はわからない、という言葉を簡単には使わない。言われたことに関して、まったく考えていないと思われるのが嫌なタイプだ。その彼が「わからん」といってしまうのは、言いたくないからだ。
「……なんだよ」
 徳田は僕の不審そうな視線に気づいた。
「お前、彼女と穂積さんと、一回の時から知り合いなんだよな」
「あぁ」
「じゃ、俺の知らない何かを知ってる、って思ってもいいんだよな」
「そりゃあ、お前よりは多少、な」
「何を?」
 僕の問いに、彼は「さあて……」と答えた。
 こうじらされるように言われると、なんか聞き出したくなってくる。
「教えられないようなことなのか?」
「さて。どちらにしても、俺の口から言うことではないと思うし、本人が言いたがらないならそれで終わりにしておけばいいんじゃないか」
「そりゃそうなんだが……気になることは多くて」
「ん?」
「彼女が夏でも長袖きてる理由って、何かあるのか」
 そう言った時……徳田はぱっと表情を変えた。……いや、表情を隠した。いつもの落ち着いた知的な顔つきを、無表情に。そうして、実にさりげない口調で応えた。
「いや、俺は知らないな」
 ……それは明らかに、何か知っているという反応だった。自然をよそおって視線を外す仕草も、普段の徳田はしないことだ。
「年中黒い服着ている男もいるし、長袖ぐらいで不思議がるのも大げさだ」 
「最初は、そう思ったけど」
 僕はあくまで冷静な徳田に言い返した。
「穂積さんの態度が気になって……彼女は、何か隠している気がする」
「何かって……なんだって言うんだ」
「わからないが……何かだよ」
「推測でものを言うのはよした方がいい。いや」
 徳田は僕をじっと見た。今度はそらそうとせず、真っ向から見つめてくる。
「10歩譲って、芳峰さんが夏でも長袖を着る理由が何かあったとして、それを知ってどうする」
「どうするって……」
 答えにつまった僕に、徳田は重ねて言った。
「ただの好奇心で、他人の領域に立ち入ることはない。された方も迷惑だろう」
「そりゃ……確かに、そうだが」
 僕が言い返せずにいると、徳田は口調をやわらげ、からかうように言った。
「もっとも、お前が彼女のことを好きだというなら、話はまた違うが」
 またそんな意地の悪い言い方をする。
 僕はカップの氷をからからと揺らしながら言った。
「まぁ、可愛いとは思ってるけど」
 そう答えると、徳田は少し驚いたような顔をした。
「なんだよ」
「いや、そうはっきり言うものかと」
 徳田相手に隠すようなことじゃないし。
「でもその言葉って、二種類の意味にとれるが」
「二種類?」
 僕が聞き返すと、徳田もからからとグラスを揺らした。
「客観的な感想としての「可愛い」か、恋愛対象圏内の「可愛い」か」
「なんだよ、下心があるかって言いたいのか」
「早い話がそうだな」
 徳田は心持ちからかうような目で僕を見た。
「違うのか」
「違うよ」
 僕は否定した。グラスにナポレオンを注いで、かきまぜるためにまたグラスを揺らす。
 ……でも、一瞬の心の揺らぎは否定できなかった。
 天保山でのことは、徳田には言えないなぁ……。
 あの時心に一瞬よぎった感情は心の深淵に沈んではいったのだが、完全に消え去ったわけじゃないらしい。そう考えていると、光の届かない海の底でじっとしている小さな生物が思い浮かんだ。あ、待て……やばいぞ、このままいくと連想がすすんで、アンコウだとか深海魚が出てきそうだ。頭の中でギャグになっていく……どこかで止めておかないと。
 ぼけっとしてグラスをからからと揺らしていると、徳田が「落ち着きがないぞ。動揺してるのか」と突っ込んできた。
「違うって」
 僕は苦笑した。連想がすすみにすすんでマンガネタまで行ってしまったことはもう忘れよう……僕も酔ってるんだな、きっと。
「徳田の方は……どうなんだよ。お前だって気になる異性がいるんだろ?」
 わざと穂積さんの名前を出さずにそういうと、徳田はちょっと笑った。
「俺は……そういうのはあまり」
「あまり、なんだよ」
「自分の心を乱すようなことは、考えたくない……というのは、間違っているんだろうか」
 彼は両手でグラスをはさむようにして持った。じっと、その冷たさを味わっているかのようだった。
「やりたいこともやらなければいけないこともたくさんあって……俺は、理想と意地で自分を支えている。そこに感情が入ると、自分が脆くなるような気がするよ。もちろんそれは、俺が弱いせいもあるだろうが……」
 彼にどういう言葉をかけようか、しばらく迷った。
 でもここで何か言って、彼を励ましてやらねば……。
 と思いながらふっと顔をあげると、徳田はグラスを空にして、新たにボトルから酒を注いでいるところだった。
「徳田は」
 僕が言いかけたところで、徳田はグラスに入れた酒を一気にあおった。
「…………」
 なんか、嫌な予感が。
「静かな夜だ」
 徳田はグラスを置くと、言った。
「だが時に、この静けさを自分の手で壊したくなることもある。静寂に耐え切れないのではなく、静寂を打ち破りたいという誘惑にかられるんだ。こんな夜にふさわしい曲もいくつか知っている」
 ……まさか。
 僕は徳田の鞄を奪おうとしたが、距離の関係で無理だった。
 彼の手には、トランペットのケースがある。
「ま、まさかここで吹こうというんじゃないよなぁ……」
「近くに公園があったな」
 ……公園でも近所迷惑には違いない。
 僕はなんとか徳田を説得して、トランペットのケースをしまわせた。
 個人的には聴きたいとは思ったが、こんな時間にそんなことをしたら苦情を言われるに決まっている。
 ……やれやれ。

 目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入って一瞬驚いた。数秒後に、ここが高崎の家だということを思い出し、僕は体を起こした。
「んー……」
 高崎はまだ寝ていた。徳田は……と見ると、こちらも寝ていた。バイトで早起きが身についていたせいか、僕が一番早く目が覚めたらしい。もう一度寝なおそうかと思ったが、妙に目が冴えて、眠れそうになかった。
 時計を見ると、8時過ぎだった。思ったほど早くはないな。
 勝手に掛け布団代わりにしていた高崎の長袖のシャツを、元のようにハンガーにかけなおした。
 ……朝食の支度でもしておくかな。昨日100円均一でパンも買っておけばよかった。冷凍庫にあった分は徳田が食べたからなくなったしな。
 散歩がてら買い物に行こう。
 僕は顔を洗い、鍵を借りて外へ出た。
 昨日は……えーと、徳田のトランペットを止めた後、短歌の話になって……百人一首の話をしたんだっけか。そこからは……なんか細かいことは忘れたな。ともかく額田王の話までは記憶しているんだが……どこからそんな話になったのか思いだせん。ナポレオンのボトルはしっかり空にしたし。
階段を下りたところで、自転車を引っ張っている伊藤さんに会った。
「あ、佳月さんでしたっけ」
 伊藤さんはぺこりと頭をさげた。
「早いね。バイト?」
「違います。学校の先輩のとこへ撮影の手伝いに行くんですよ。佳月さんは昨日泊まりやったんですね」
「うん、そう」
 僕は駅へ向かうという彼女と途中まで一緒に歩いた。
 時間も時間だけに、道を歩いているのはサラリーマンといった出勤途中の人ばかりだった。
「夜にお邪魔して、ちょこっと写真撮らせてもらえばよかったわぁ」
 伊藤さんがそう言った。
 昨日の夜ねぇ。
「そりゃさぞかし楽しい写真が撮れただろうね」
 そう言うと、彼女は目を輝かせた。
「なんです? 何かあったんですか? もしかして、いやんなことですか?」
「嫌がる高崎の唇を奪った」
 伊藤さんは口をぽかんと開けた。
「…………ほ、ほんとに? ほんとですか? 冗談抜き?」
「駅はこっちだよね。それじゃ」
 僕は分かれ道の一方を指した。
「俺、こっちのコンビニに行くから」
「あぁ、あ?。最後まできかせてくださいよ?」
 叫ぶ彼女に背を向けて、僕はローソンに入った。
 まぁとりあえず、缶コーヒー。あ、朝食どうするかな……とりあえず、食パン。フレンチトーストでも作るか。牛乳と……卵はあったから、こんなもんか。
 僕は買い物を済ませて、高崎の家に戻った。
「あぁ、どこに行っていたんだ」
 僕が帰ると、徳田は起きていた。
「朝飯の調達」
 僕は流しの横で、買ってきたものを並べた。
「悪いな、いろいろと。俺手土産ももってきてないのに」
「俺には気を使わなくていいよ。高崎には今度昼飯おごればいいんじゃないの?」 「そうだな、そうさせてもらうか。何かすることがあれば手伝うが」
「気持ちはありがたいが、二人並ぶには台所狭いんでな」
 徳田はまた隣の部屋へ戻り、テレビをつけた。朝から何を見るのかと思えば、ニュースだった。
 卵をわってかきまぜたものに牛乳と砂糖を少し加え、食パンの耳を切って浸しておく。 
 僕はお湯をわかしてインスタントコーヒーを入れようとしたが、カップが1つしかない。前は2つあったのに……高崎の奴、1個割ったな。この1個は高崎に使わせるとしても、あと2つはどうしたものか……仕方ない、味噌汁の椀に入れるか。
「徳田、コーヒーには」
 声をかけると、「あ、ミルクだけだ」という返事が返ってきた。
「ほい」
 味噌汁の椀を置くと、徳田は「なんだこれは」と声をあげた。
 確かに、そう言いたくなる気持ちはわかる。
「中身はコーヒーだ」
「カップがないのか。仕方ないな」
 徳田は両手で椀を手にして、口をつけた。見ていて飲みにくそうだったが、後で僕も同じようにして飲む羽目になるわけだ。
「20年生きてきたが、味噌汁の椀でコーヒーを飲んだのはこれが初めてだ」
 今度いざという時の予備を、100円均一で買っておくことにしよう。
 僕はまだ寝ている高崎の肩をゆすった。
「おい、高崎。起きろよ」
 僕が声をかけると、高崎は「うーん」とつぶやいた。
「あと10分……」
「起きないとキスするぞ」
 高崎は勢いよく体を起こした。
「お、起きた起きた」
 徳田が言うと、「そんなこと言われて寝てられるかい」と高崎は言った。
「何時や……9時か」
「朝食食べるだろ?」
「食う食う。あ、なんか作ってくれんのか。嬉しいなぁ」
 高崎はテーブルの上の味噌汁の椀に気づいた。
「なんやこれ。味噌汁か?」
「コーヒーだ」
 徳田の答えに、高崎は「あぁ」とうなずいた。
「そういや、コップがなかってんな。ははは、めっちゃ変な感じ」
 僕は自分と高崎の分のコーヒーを入れ(僕の分は徳田と同じく味噌汁の椀入りだ)、フレンチトーストを焼き、バターと蜂蜜とともにテーブルに並べた。
 そういやナイフとフォークって……3組もなかったな。
 仕方なく、割り箸を添える。なんとも妙な組み合わせだった。味噌汁の椀で飲むコーヒーと割り箸で食べるフレンチトースト……うーん、変だ。
 食事の後、僕と徳田は帰ることにした。
 駅で逆の方向になる徳田と別れ、僕は地元駅に止めていた自転車で家まで帰った。次の日に酒が残っているとは思わないが、ぼけっとして事故を起こすと困るので、今回は原付でなく自転車にしていたのだ。
僕は家に帰り着くと、まずシャワーを浴びて、冷蔵庫に入っていたアクエリアスを飲んだ。
「……ふぁーあ」
 人の家だとやはり眠った気がしない。実際そんなに寝てないから当たり前か。何時まで起きてたかな……。
 ま、少し寝直すか。
 僕は髪をかわかすと、首にまいていたタオルを洗濯籠に放り込んで、上には何も着ないままズボンだけはいた格好で自分の部屋に戻った。
 昨日家を出た時より心なしか部屋が片付いている気がしたが、母親が片付けにきたのだろうか。いつもは部屋に入ったりしないのに。
 僕は不審に思いつつ、ともかく眠ろうとベッドに近づいて……。
「うわぁ」
 思わす叫んでしまう。
 僕はびっくりして……思わずへたりこんだ。
「な、なんでここにいるんだ……じゃない、なんでここに寝ているんですか」
 僕がそう言うと、僕のベッドを占領していたお祖母さんは、むくりと起きあがった。今目覚めたにしてははっきりした口調で答える。
「たまにはベッドというもので寝てみたいと思ったから、友則さんのベッドをお借りしたんですよ」
 ……心臓が止まるかと思ったよ。
 お祖母さんは何が楽しいのか上半身裸でいる僕の姿を見て、僅かに頬を染めた。
「そうしていると、六十年も前にあの方が私の寝所に忍んでこられた時のことを思い出しますわ。懐かしい……友則さんはあの方によく似ていますもの」
 うっわぁ……思わず鳥肌。
「ベッドがよろしいなら、どうぞ、僕はソファででも寝ますんで」
 近くにあったシャツを着て部屋を出ようとすると、
「まあお待ちなさいな」
 お祖母さんはベッドからおりてきた。
 てっきり僕にベッドを返してくれるのかと思ったら、
「せっかく友則さんが帰ってきたのだから、少しお話しましょう」
と言い出した。
「いや、せっかくの申し出ですが、僕の体は睡眠を必要としているんです」
 と断ったのだが、お祖母さんは袖で目元をぬぐうフリをした。
「まあ……二十年も前に友則さんに名前をつけた時には、このような冷たい仕打ちを受けるだなんて、夢にも思いませんでしたのに……私、今日の夕方には帰るんですよ。それなのに」
「わ……わかりました。はい」
 僕は大きくため息をつきたいのをこらえた。どうせ何を言ったって、お祖母さんにかなうわけがないのだ。
 僕はお茶を入れ、和室に座っていたお祖母さんにすすめた。お祖母さんはお茶をすすって一言「入れ方が間違っていますね」と言った。
「入れ方……ですか」
「薄すぎます」
 あぁ、僕は薄めが好きだから、ついクセで薄くしてしまった。
「はあ……じゃ、いれなおしましょうか」
「結構です。滅多に飲むことのない孫の入れたお茶ですもの、かまいません」
 ……………。
 せっかく昨日高崎の家に泊まって、お祖母さんから逃げられたと思ったのに……もっと遅く帰ればよかったよ。
「ところで友則さん、昨日はどちらに泊まっていたのです?」
「友達の家ですが」
 と僕は即答した。何もやましいことはないという態度をとったつもりだったが、
「男友達なのか女友達なのかはお聞きしないことにしますね」
とお祖母さんはにっこりした。
 ったく……孫をいじめにきたのかよ、このお祖母さんは。
「友則さん」
「はい」
「友則さんにはお付き合いしている女性はいるんですか」
 ………………。
 また唐突に何をいいだすやら。
「なんで……ですか?」
「聞けば紫さんにはいるそうではないですか。兄の友則さんにもいておかしくはないでしょう? もう20歳ですものね」
 紫はわりと祖母と仲がいいので、いろいろ暴露したことだろう。僕について何を言ったのかは知らないが。
 お祖母さんは夢見るような目つきでつぶやいた。
「ぜひとも、私とあの方のようなロマンチックな恋を体験してほしいものですね」
 お祖母さんの恋って、今は亡きお祖父さんとの駆け落ち寸前までいった話だろ……まぁ時代が時代だけに大胆なことだと思うが、まさか僕に駆け落ちしろと勧めているわけでもあるまいな。いや、僕が駆け落ちすると言ったら嬉々として協力してくれそうだ。
「今のところ、ご期待に添えそうにはないですね」
「あら、残念ですこと」
 祖母はお茶をすすった。
「お付き合いしている人はいなくても、意中の人とかは」
「残念ながら」
 僕の返事に、祖母はため息をついた。
「私ももう老い先短い身。孫の花嫁ぐらいは見るまで頑張ろうと思っていますのに……」
「じゃあ僕が結婚しなかったら、ずっと死なないってことですか」
 冗談で言うと、
「まぁ、友則さん! 私もひ孫の誕生まではとても生きられまいと思いながらそういっていますのに……あぁ、20年前に友則さんに名前を付けたときは、このような仕打ちを」
「わかりました、わかりましたって」
 やれやれ。
 お祖母さんはころっと表情を変え、何事もなかったかのようにお茶を飲んだ。
 ……うぅ。
 やっぱり、昼過ぎに帰ってくればよかった……。

離れずに暖めて
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