Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて 14
「お兄ちゃーん、あーにーきー、電話、でんわぁ」
 紫が部屋のドアを叩いている。いや、あの音はドアを蹴っている。なんて奴だ。 
 僕は読みかけの本から顔を上げた。
 ふっと時計に眼をやると、午後10時を過ぎたばかりだった。
 ……誰だろう。こんな時間に電話とは。
 店からか、高崎か。高崎は先に携帯に電話してきて、僕が家にいるのを確かめてから電話してくるから……店か? 明日は夕佳里さんと美術展に行くのに、絶対バイトに入る気はないぞ。
「はいはい」
 僕がドアを開けると、子機を持った紫が上目遣いに僕を見た。
「今亜希子と電話中でキャッチだから、後でかけ直すか手短に済ませてよ」
「わかったわかった。で、誰から」
 僕に子機を渡しながら、紫は答えた。
「徳田さん」
 徳田?
 僕は首をかしげつつ外線のボタンを押した。
 徳田は電話があまり好きでないらしく、よほどの用がないとかけてこない。ということは……よほどの用か?
「もしもし」
 僕が言うと、
『もしもし』
 と確かに徳田の声がした。
 徳田の名前を騙った高崎というわけではなかったらしい。まぁ高崎の声なら紫も知っているから、騙しようもないことだが(第一そんなことをして何の得になるというんだ)。
「よう、なんだよ。何かあったのか」
 できれば穂積さんとなにかいいことがあったとか、聞いて楽しい事件だと嬉しいが。
『いや、特に用というわけではないんだが』
 徳田はなぜか、サークルの話を始めた。練習の進み具合、演奏曲、団員のこと……僕は彼の話に相槌を打ちながら、どうやら徳田が言いたいことがあるのに切り出せないでいるらしいことに気づいた。話し方に、妙なためらいが感じられるのだ。
「……あのさ、今キャッチだから、あまり長話できないんで、後でこっちからかけ直すよ」
 僕がそう言うと、徳田は『いや、そう重要なことでもないんだが』と慌てたように言った。
『明日、芳峰さんと出かけるらしいな』
 そんなことを言い出したので、僕は面食らった。
 なんだ、本題はそれかよ。
「そうだけど、もしや徳田はピカソに興味があるとか」
『違うんだが……佳月は……』
「もしもし? よく聞こえないぞ」
『……いや、その』
 僕は徳田の言いたいことがなんなのかも、彼がどうして話しにくそうしてにいるのかもわからなかった。
「なんだよ」
『……まぁ、楽しんできてくれ』
 はぁ?
 僕は呆れて返事ができなかった。
 なんだ、そりゃ。
 からかって言っているならまだわかるが、徳田はそんなキャラじゃない。
「はぁ、まぁ、楽しんでくるよ」
 僕は脱力感を感じながら言うと、『あぁ……じゃあ、また』と徳田の方から電話を切った。
 僕は外線ボタンを切った。
 ……なんだ? 何が言いたかったんだ、徳田は。
 子機をなおそうと部屋を出た僕は、すぐ外に立っていた紫を見て、紫が相本さんと電話中だったのをすっかり忘れて電話を切ってしまったことに気づいた。
「兄貴、長いよ」
 紫は文句を言って子機を受け取ろうとして、電話が切れているのに気づいた。
「あ     !! ったく、キャッチだって言ったのに」
「悪い、間違えて切った」
 僕はリダイヤルのボタンを押した。
 さっき家の電話は鳴っていなかったから、紫から相本さんに電話をかけたということはわかっている。
『はい、相本です』
 電話が切れたばかりのせいか、相本さんはすぐに電話に出た。
「もしもし、佳月ですが」
『いやん、お兄さん? こんばんはぁ』
 相本さんは一気にトーンを上げた。
『今紫と電話中だったのに保留のまま切られちゃって……』
「あぁ、俺がキャッチで話してて、その後間違って切ってしまったから。ごめんね」
『なぁんだ、お兄さんだったんですか? もー、怒るに怒れないですねぇ』
「早く代わってよ、ほらほらほらほらっ」
 紫が子機を持っている僕の腕を揺さぶった。
 まったく、落ち着きのない。
「はいはい……あ、相本さん、紫と代わるから」
『はーい、またかけてきてくださいね』
 僕は紫に子機を渡した。
「あ、もしもし? ごめんね、亜希子。兄貴のせいで……ううん、そう、今度ね」
 紫は話しながら部屋に帰って行った。僕も自分の部屋に戻る。
 ……しかし、徳田は一体何が言いたかったんだろう。わからん。
 以前僕が夕佳里さんを映画に誘った時も、何か言いたそうにしていたが……そうだ、結局きいてなかったぞ。あれはなんだったんだ。今度きいてみよう。
それにしても明日夕佳里さんと出かけることを、なぜ徳田が知ってるんだろう。まぁ、可能性は二つだ。夕佳里さんから直接徳田がきいた。それか、夕佳里さんが穂積さんに言って、それを徳田がきいた。……後者かな。
 その関係を考えながら、僕は妙なひっかかりを覚えた。
 徳田と、穂積さんと、夕佳里さん。僕と違って一回の頃から知り合いだったこの三人の間に、何かがあるような気がしたのだ。おかしな態度をとる穂積さんと、それを理解しているような徳田と……。
 

 言うのもなんだが、女の子と待ち合わせするのは久しぶりだった。
 ……だからと言って、特に緊張しているわけでもないが。
 僕はたいてい待ち合わせの10分前ぐらいにその場所に着くようにして、MDを聞きながら周囲を観察することにしている。今日もそうして12時50分ぐらいに弁天町の駅につき、中央線の改札前に立ってMDをきいていた。今日聞いているMDはPSY・Sだ。僕でもたまには邦楽をきく。
 しかし、暑いな……。
 僕は時計を見た。丁度1時……か。
 時計から顔をあげるのと、夕佳里さんが階段を登ってきて姿を現したのがほとんど同じだった。
「ジャスト、だね」
 僕が言うと、彼女は笑った。
「下のコンビニにいたの。実際駅についたのは10分ほど前かな」
「あ、そう? 実は俺もそれぐらいからいたけどね」
「そうなんだ。じゃあ時間つぶさずにすぐ来たら、待たすことなかったのに、ごめん」
 今日の夕佳里さんは長い髪をポニーテールにして、ジーンズとスニーカーという格好だった。そういや彼女のスカート姿もあまり見ないのは気のせいだろうか。まぁ僕は中岡さんのように「女の子はスカートだよ」と思っているわけではないので、別に構わないが。
 そうして、今日も彼女は長袖だった。ダークグリーンの薄手の上着に、細かい花を散らしたオレンジ系のタンクトップを着ている。夏らしい服装なのだが、この前の一件のせいか「やっぱり長袖なのか」という気持ちを抱かずにはいられない。穂積さんの妙な態度も気にかかるが……。
 僕らはキップを買い、タイミングよくホームに入ってきた電車に乗った。それほど混んではいなかったが、席は座る余地がなく、僕らはドアにもたれるようにして立った。
「君の家は、駅から近い?」
「歩いて15分ぐらいかな……それほど遠いとは思わない距離」
 夕佳里さんはかついでいたリュックを下ろして、前で抱え込んだ。
「一人暮らしって、食事つくるの面倒だって言うけど」
「うん、面倒」
 彼女は頷いた。
「でも、ご飯とナスがあればいい」
「な……ナス?」
 僕が聞き返すと、夕佳里さんは頷いた。
「うん、ナスを切って、油で炒めて、ミソをからめるの。おかずがそれだけでもご飯が二杯食べられるから」
 ……ナスって、そんなに栄養分がなかったような気がするが。
「ナス、好き?」
「うん、好き」
 僕の質問に、彼女は頷いた。
「あの紫のつやつやと、なめらかなライン……いいよねぇ」
 …………。
 からかわれてるのかな、俺は。
 しかしこの前の澁谷先生の言葉もある。もしかしたら夕佳里さんはナスに芸術性を感じているのかもしれない。夕佳里さんはナスに「ナス」ではない名前をつけ、愛でる趣味があるのかも知れない……って、彼女を変人扱いしてるな。やめよう。
「君は、天保山は初めて?」
「ううん、何度か。サントリーミュージアムは3回ぐらい行った事あるよ。海遊館は一度だけ。佳月君は?」
「俺は……サントリーミュージアムは初めてで、海遊館は高校の時に一度」
 ……今度二回目行くんだがな。
「もう8月だね……」
 彼女は外を眺めながらつぶやいた。
「そういや、もうすぐ夏の風物詩の時期だ」
 僕が言うと、夕佳里さんは怪訝そうな顔をして振り向いた。
「なに? 花火とか? 祭り……は天神祭りはもう終わったよね」
「そんなんじゃなくて、君も興味あるものが、夏には出るだろ」
「え?」
「今年はKOF98、だね」
「あぁ、うん、そうか、あれは夏だもんね」
 彼女は頷いた。
「思えば94から毎年出てるんだよね……」
「94年の夏……てことは、高1の夏か」
 あ……そうか。愛子と対戦してたのもKOF94か。あとバンパイアと。今思い返すと懐かしいゲームだ。
 そうこうしているうちに、大阪港につき、僕らは電車を降りると天保山の方へと向かった。
 今日はあまり人が多くないように思えたが、広場では人だかりが出来ていて、その中心では外国人が芸をしていた。見上げるほど高い一輪車に乗り、火のついた三本の棒をお手玉のように操っている。
「すごいねぇ」
「まったく」
 僕らは少しの間眺めていたが、最後まで見ずにサントリーミュージアムの方へ足を向けた。
 サントリーミュージアムは外観はコンクリートの無機質な感じだか、中はそうでもなく、入り口には制服を来た女性が何人もいて、そのうちの一人が僕らに笑顔で声をかけてきた。
「チケットはお持ちですか」
「あぁ、はい……」
 僕がチケットを出そうとすると、女性は後方にあるエレベーターを指した。
「すでにチケットをお持ちでしたら、あちらのエレベーターで上がっていただいて、チケットはミュージアムの入り口で受付の者にお渡しいただけますか」
 僕と夕佳里さんはエレベーターに乗った。
 どんなところかと思っていたら、大丸美術館と同じような感じの美術館だった。現代美術館のような、と言ってもいい。シャンデリアがさがっているわけでもないし、床が木でできているわけでもない。
「ここで展示されるものはだいたい写真とか、ポスターが多いんだよ」
 夕佳里さんが教えてくれた。
「洋画とかは展示しないのか」
「サントリーミュージアムは洋画とかは展示しないみたいだね。所蔵品もポスターとかだったと思う」
「所蔵品と関係がある?」
「うーん……例えば現代美術館とかだったら現代美術の作品を収集してるし、美術展も現代美術とかの展示をして洋画の展示とかはあまりしないと思うよ。なんていうか……テーマみたいなものを持っていて、それに沿った美術展にすると思う」
 ……そういうものか。
 受付の女性に券を渡して、僕と夕佳里さんは展示室に入った。

 ……しかし、この美術展に来て正解だったんかな。
 僕はそう思わずにいられなかった。
 ピカソに対する興味は、確かにゼロじゃない。ゼロじゃないけど……うーん。
夕佳里さんと僕の距離は、どんどん広がっていた。僕の方は一つのパネルの前に立っている時間が1分もないというぐらいさっさと足を進めていたからだ。
 途中で小さなホールのような場所に出た。椅子もあったので、僕はそこに座って夕佳里さんが追いつくのを待った。一角がガラス張りになっているところから外の景色を眺め、また見たばかりの展示品を思い返しつつ、やはり理解しがたい内容に頭を悩ませた。
『理屈じゃないのよ』
 こんな時に澁谷先生の言葉が頭をよぎる。そうは言ってもですね、感覚的でもよくわからないものもあるんだよ、先生。特に現代美術は。
「あ、佳月君」
 夕佳里さんがやってきた。
「こんなとこで座って、疲れたの?」
 ……そういうわけではないんだが。
 僕は苦笑しつつ、椅子から立ち上がった。
「なんか、俺ばっか先々進んでたから」
「あぁ、ごめんね。私遅かったかな」
 謝られてしまって、僕は少し申し訳なく思った。
 その後の展示は僕も速度を落として見ていたので、出口の辺りでの僕と夕佳里さんの距離はさほど離れてはいなかった。
出口近くのミュージアムショップで、夕佳里さんは何枚かのハガキを買った。
「図録は買わないの?」
 僕がきくと、夕佳里さんは首を振った
「図録の代わりにハガキを買って、その封筒に日付を書いておくの。図録は高いから、毎回買うわけにはいかないし」
 なるほど。確かに図録は高い。さらに分厚いから場所をとる。家にも何冊か親の買った図録があるが、たった数冊で本棚の一段を占めている。
 僕と夕佳里さんはエレベーターで一階に降りると、サントリーミュージアムの外に出た。
時間は3時前で、海遊館から出てきた団体客の一団が海遊館を背に写真を撮っているのに出くわした。
「今日は混んでいそうだね」
「混んでるのはいつもじゃないかな」
 横を通り過ぎて、なんとなしに近くのショッピングモールの建物に入る。冷房が効いていて涼しく、快適だった。僕等はぶらぶら歩き、適当に店を覗いた。
「あまりぱっとした店はないね」
 夕佳里さんがそう評した。
 キティちゃんの店もあったが、この店は本当にどこにでもあるように思える。それだけキティの人気があるということなのだろう。前にバイト先の人が東京限定のキティの人形焼を買ってきたが、別に珍しい味でもなかった。ただキティの形をしているというだけで買ってしまう人がいる、そんなことを販売元はわかっているということか。 
「どっかで休憩する?」
「うーん……」
 近くの喫茶店を覗いたがこれという店もなく、館内に置いてあるテーブルで缶ジュースでも買って飲もうかということになった。海を眺めることのできる位置で、冷房も効いているから下手に喫茶店に入るよりいい場所といえた。
「どうだった? ピカソは」
 僕がきくと、夕佳里さんは苦笑した。
「なに? どうって……」
「いや、よかったとか、悪かったとか」
「うん、面白かったと思う、けど」
 その口調が微妙だったので、どこか引っかかりを覚えた。
「けど?」
「はっきり言うと、ピカソの絵が好きだとかそういうのはないんだけどね」
 彼女は紅茶の缶を開けた。一口飲んで、言葉を続ける。
「どちらかというと、ピカソという画家自身に興味があるというか」
「ピカソ自身に?」
「ピカソだけに限らないけど、画家の人生もなかなか興味深くて、作品の完成の裏側に画家の生活のエピソードが隠れていたりするのね。もちろんそれは画家だけじゃなくて、他の芸術家……徳田君の研究してるシューマンでも、曲の完成の裏側には思わぬエピソードが隠れてると思う。
 あ、そうそう。私たちが創作するのだって、そうじゃない。そのテーマを選んだ理由、舞台の選択とか……無作為に考えられたものじゃなくて、作者のなんらかのこだわりがあるはずなんだから。
そういうのを知るのも、楽しいことだよ」
 僕は今までそういう観点で絵画を鑑賞したことがなかったので、何か勿体無いことをしてきたような気になった。昔観た絵画を今鑑賞したならば、前は気づかなかった何かに気づけるかも知れないし、つまらないと思った絵に思わぬ感動を与えられるかも知れない。でもまた同じような美術展をする機会はそうないだろうし、二度と見られない絵もあるだろう。
「君はいつもそういうことも考えて、鑑賞してるんだ」
「うーん、あとは……展示の仕方とか、解説のつけ方とか」
 また専門的だなぁ。
 ……そうか、そういや彼女は学芸員課程を履修していたっけ。専門的なのも当たり前か。
 僕はコーヒーを一口飲んでから言った。
「なんか、俺とは違った観点で鑑賞してるんだね」
「はは、口だけ。いつもいつもそんなふうに観てられないし」
彼女はそう言って笑った。
「前に、中国の陶器とか壺を展示してるとこに行ったとき……すごく退屈だった。観ても価値なんてわからないし。ああそう、その時に、清の時代のものだったか……大きな壺の前で、初老の夫婦が話してたんだけど、その奥さんの方がね、『この壺見て、西太后を思い出すわ』とか言ってたのね。……佳月君、西太后知ってる?」
「知ってる、けど」
「西太后が恋敵の両手両足を切り落として、壺に入れたっていうのは?」
「……知ってる」
 映画で見た覚えがある。手足を切られた恋敵が壺に入れられ、歌を歌いながら運ばれていくシーン。
「なんかおかしくない? 展示してある壺を見て『これは素晴らしい』って思う人がいる反面、西太后を連想する人もいるっていうの。その話を徳田君にしたのね」
 彼女はまた紅茶を飲んで、一息おいた。
「例えば……『天国と地獄』って曲があるじゃない。その曲をきいたとき、知ってる人は「ああこれは『天国と地獄』だな」って思うけど、知らない人は「これは運動会の時の曲だ」って思うと思うの。それと同じようなことかもしれない。見る人が見れば、清の時代の壺。だけど何も知らずに見ると、西太后の壺……わかる?」
「なんとなく、ね」
「徳田君が言ってたのはCMの話だったけど、よくCMの曲にもクラシックの有名な曲が使われてるでしょ? 例えば……まぁ、ショパンのソナタがお菓子のCMの曲に使われてたとするじゃない。何人か無作為に人を集めて、ショパンのソナタを流したときに「この曲はショパンのソナタだ」と思う人と、「この曲はお菓子のCMの曲だ」と思う人と分かれるだろう、って話だった。彼は自分は間違いなく前者だと言っていたけど」
「あぁ、だろうね」
「そんなふうに芸術作品が妙に身近なもの   別に西太后は身近じゃないけど   に関連付けられて、生活の中に浸透してるのって、なんか面白くない?」
 そう言われたものの、いまいちピンとこなかった。あまりそういうことを考えたことがなかったせいだろうか。CMの曲云々の話にしても、僕はクラシックに詳しいわけでもなくテレビもそんなに見ないので、その例えがしっくりこなかった。   彼女は僕の反応をどうとったか、テーブルに頬杖をついた姿勢で僕を見ていた。
 そうしてさきほどまでの口調とは違うどこかけだるげな調子で「なんか、この前から私ばかり喋ってる気がするなぁ……」とつぶやいた。
「そうだっけ?」
 僕もそんなに黙っていたような気はしてないんだが。
「私、本当はあまり喋るのが好きじゃないんだけどね」
 彼女は言葉を捜すように、視線をさ迷わせた。
「好きじゃない……得意じゃないって言うべきなのかな。伝えたいことはたくさんあるけど、伝えようと言葉をさがしているうちに時間が過ぎていって、伝えようとしていることはどんどん過去になって取り残されていくような気がする」
 それは彼女らしい曖昧な言葉だったが、僕は感覚的にそれを理解した。
 同時に、昔の自分のことを思い出した。
 僕も昔は、喋るのが好きじゃなかった。理由はいろいろあったが……高崎と知り合ってからは、わりと喋るようになったような。高校入った当初は、放課後ふらふらしていて出会った朗とか牧さんとかと親しくしていて、二人とも沈黙が気にならない性質だったから、僕もほとんど喋らなくて済んでいた……。
 そんな話になってから、僕等はなんとなく黙っていた。しかし、それは気まずさとは無縁の沈黙だった。
 僕はふとリュックを開け、内ポケットに入っていた鍵を出して、彼女に見せた。 「なに? ……あ」
 夕佳里さんは鍵を受け取って、声をあげた。
「これ庵だね」
 家の鍵には、僕が高校時代にゲームセンターで取ったゲームのキャラのキーホルダーがつけられている。
「あは、可愛い」
「わりと、気に入ってるんだけどね」
 顔も悪くない造りだし。
 夕佳里さんは人形を眺めていたが、僕に返してくれた。
「キャラクターのキーホルダーつけてるなんて、佳月君て可愛いとこあるんだね。」
「……え」
 夕佳里さんの言葉に、僕は思わず眉をしかめてしまう。
 あんまり聞きたくないセリフだった。
「あ、もしかして、嫌だった?」
 夕佳里さんの言葉に、僕は頷いた。
「やっぱ、嫌? 男が可愛いって言われるの」
「そう、だね。男に対して言う言葉じゃないと思う」
 言いながら、『ひとめあなたに……』にもそういう下りがあったことを思い出した。
 ある女性が、恋人の行為に「かわいい」と言って恋人を怒らせる。恋人は「男に可愛いなんて言う女は可愛くない」とか言うんだったっけ。
 僕も昔美緒さんによく言われたもんだ。
 あの人はよく、『佳月って可愛いよね』と年上の優越感のようなものを含ませた口調で言った。そして僕の嫌そうな顔を見ながら、どこか楽しそうに『そんな顔しないの』とたしなめたりして。
 そんなことを思いつつ、僕も過去の失敗を思い出した。
「でも、まぁ……俺も女の子に対して言うべきじゃない言葉を言ったことがあるし」
 僕がそう言うと、
「え、どんな?」
 夕佳里さんが興味深そうに眼を輝かせた。
「……ききたい?」
「うん、ききたいな」
 彼女は故意なのか無意識なのか、どこか甘えるような口調で言った。
「え……と」
 一度言葉を切ったが、意を決して僕は言った。
キューピー人形に似てる、って、言った……」
「え? よく聞こえなかった」
「……キューピー人形に似てるって、言ったんだよ」
 夕佳里さんは笑い出しそうな困ったような顔を見せた。
「え、女の子に『キューピー人形に似てる』って言ったの?」
「え……はは、それはちょっと……ははは……おかしい……」
 彼女はこらえきれなくなったらしく、声をあげて笑い出した。
「なに? そんな体型だって皮肉ったの? そんなこと言ったら駄目だよ」
「そうじゃなくて……」 
「じゃあ、なんで?」
 彼女は目じりの涙をぬぐった。
「いや、体型のことじゃなくて……その子が天パで前髪もくるくるしてて、眼が丸っこくて睫がくるんとしてたから……なんとなく」
 そう言うと、夕佳里さんは笑いをおさめて言った。
「あぁ、そういう可愛い感じなんだ。誉め言葉だったのね」
「誉め言葉というか……思いついたから言っただけで、そんな深い意味はなかったんだが」
「でも、その言葉、彼女がどう受け止めたかが問題だよね」
 夕佳里さんは言った。
「その子、どんな反応してたの?」
 どうだったっけ……確か。
「……俺の言葉をきいて、ダイエットを決心したらしい」
「あは、誤解されたんだ。で、後でちゃんと言ったの? あれはけなして言ったんじゃないって」
「……言ってない、気がする」
 というか……言ってない。
「それは言ってあげたらよかったのにね。きっと覚えてるかもよ」
「……そうかな」
 まぁ、今更言うこともできないが。
「……そういや、今ごろ澁谷先生ってフランスにいるんだよね」
 夕佳里さんが話を変えた。
「ね、先生のフランス語きいたことある? とっても優雅なんだよ」
 聞きたくないけど聞かされたよ。
 僕は心の中でつぶやいた。
「君もいつか行くんだろ、フランス」
「うーん、いつのことになるやら」
 彼女ははは、と笑った。
「オスロ美術館にも行ってみたいんだけどね」
「オスロ? って、ノルウェーだっけ。そこの美術館に?」
「またムンクの話になるんだけど」
 夕佳里さんは気恥ずかしそうに言った。
「ムンクの作品はオスロ美術館が所蔵してるから、そこの展示で見てみたいなぁと思って……やっぱりお国柄とか考え方の違いで、展示の仕方って変わってくると思うのね。前に見た作品でも、オスロで見ると全然違うかもしれないし……」
 なるほど。
 ほんとに彼女はムンクが好きらしい。それだけ好きだといえる芸術家が僕にはいないせいか、なんか妙に感心する。徳田もシューマンの論文をかくといっているが、もし僕が誰か芸術家の論文を書こうと考えたとき、誰について書こうかとか全然思いつかない。好きな絵画とかそういうものはあるが、作者について知っていることはほんの僅かだし、研究したいと思うほど作者自身に興味を持っているわけでもないし。
「穂積さんとは、美術展とかは一緒に行かないの?」
「圭ちゃんと? たまには行くけど……彼女とは映画とか、食事とか」
「そういや、穂積さんてよく食べるんだろ?」
 僕が徳田からきいた情報に基づいて言うと、夕佳里さんは笑った。
「徳田君にきいたの? 彼女は確かによく食べるよ。私とケーキバイキングとか行くと、店の人が驚くぐらい」 
 …………店員に驚かれるぐらいかよ。彼女は外見太っているわけじゃないのになぁ。
「圭ちゃんは私ほどムンクは好きじゃないけど、でも彼女がムンクの絵の中でとても好きだっていう作品があるの。『思春期』っていう題名の絵なんだけど……知らない?」
「知らない」
「えーとね」
 夕佳里さんは鞄から手帳とペンを取り出した。そして適当に1枚破ると、そこに絵を描き始めた。
「えっとね、こんな感じで……」
 言いながら、彼女はその絵を表していく。
「女の子は推定15歳ぐらいなんだけど……その子はベッドに腰掛けていて、その手は膝の上で交差しているのね。顔は笑顔でもなく、穏やかというより無表情で、壁に、女の子の影が長く伸びているの」
 彼女は描きあげた絵を僕に示した。
「……思春期?」
「うん『思春期』」
 彼女は頷いた。
 おそらくムンクの絵だから、明るいものじゃないんだろう。僕は不安と怯えを抱いたような、傷つきやすそうな少女の姿を思い浮かべた。
「まぁ、機会があれば見てみて」
 彼女がそう言うので、「そうだね、機会があればぜひ」と僕は答えた。
「その絵をみたら、彼女がどういう人か、わかるんじゃないかな」
「え?」
 僕が聞き返すと、夕佳里さんは微笑を浮かべて答えた。
「圭ちゃんが、言ってた。『私、たぶん佳月君には怖い女だと思われてるやろうな』って」
「別にそんなことは思ってないよ」
 僕は言った。
「穂積さん、かわいいと思うけど」
 僕が言うと、夕佳里さんは驚いたような顔をみせた。その反応に、僕も驚いた。
「なんでそんな顔するわけ」
「いや、佳月君てそういうことさらっと言うんだな、と思って」
 ……あぁ、悪いクセが出てしまった。
 高校時代、友人が好きな女の子がいるということで、隣のクラスのなんとかさん(吉井さんだったか?)のことを「俺は可愛いと思ってんねんけど」と言うので僕も「吉井さん? そうだね、可愛いと思うよ」と答えたのが人にきかれ吉井さん本人に知られ、本人が僕の発言の「可愛いと思う」から「自分に気がある」と勘違いして、そこから騒ぎに発展して……。
 後で高崎に言われた。
「あまり気安く女に『可愛い』とか言わんほうがいい。下手に言うと勘違いされるから、言う相手は一人だけにしとけ」
 僕だって騒ぎを起こしたくてそんなことを言ったわけではなく、その時はただ友人の言葉を肯定しただけにすぎなかったんだが。
「なに? 男の人って、誰にでもそう言えるものなのかなぁ」
 夕佳里さんがそんなことを言い出した。
 ……それって、なんか僕が軽い男だと思われてるわけか? 嫌だなぁ。 「君も、そういうことを言われたことがあるクチなわけ」
「ないわけじゃないよ。20年も生きていればね」
 彼女はまたも二重否定で答えた。しかし「20年も生きていれば」って、面白い返事だな。
「でも、言いなれてるような人に言われると、本心なのかどうかわからないじゃない。そんな人に言われても、全然嬉しくないでしょう」
 彼女の答え方からするに、以前彼女に「可愛い」と言った相手は、誰にでもそういうことを言うような軽いタイプだったらしいな。
 僕は夕佳里さんの顔を見ながら考えた。
 彼女の僕に対する警戒心は、そこからきてるのかもしれない。案外その男と僕が似ているとか、そんなもんかな。僕に似ていると言えばこの前のなんとか言うピアニストも僕と似ていると言っていたが、世界には本当に同じ顔の人間が3人いるんだろうか。
「言っておくけど、俺は誰にでもそんなことを言ってるわけじゃないから。すべての男がそうだと思うのはどうかと思うよ」
 一応そう言うと、彼女はちょっと笑った。
「うん……まぁ確かに、すべての男の人がそうだというわけじゃないよね」
彼女は考え込むように眼を伏せ、指先で唇をなぞった。
 ただそれだけのことなのに、僕はふと彼女のその唇に口付けたい誘惑にかられた。
 ふせられた長いまつげを持つ瞳と、細い指が、突然予想もしなかった艶かしさを帯びて僕の前に在った。
 ……いや、でも、いくらなんでもいきなりそんなことをするわけにはいかない。それをできるだけの近距離にいるが、心の距離は天保山から南港ぐらいの距離はありそうだし(もしかしたら南港どころか神戸港ほどの距離かも知れない)。仮にそんなことをしたら、彼女には殴られなくても穂積さんには蹴られそうだ。もしかしたら重りをつけて芸池に沈められるかもしれない。芸池にいるというゲッシーの餌にされそうだ。
 でも……もしそんなことをしたら、彼女はどんな反応を見せるだろうか。それがとても気になった。気になったが……試してみることはできない。
 僕は彼女から目をそらし、戸外の海を眺めた。
 ……僕もどうかしてるよ。
 きっと、昔の記憶を呼び起こすものがここにあるせいだろう。
 あの日    愛子と海遊館に来た日    僕はどうしても(どうしても、ってのも変な話だ)、どうにか愛子にキスしようと思っていたのだ。それというのも、高校時代の悪友(今は他府県の大学に通うために引っ越している)にそそのかされたからだ。
 ある日の放課後、高崎と他二人の友達と学校の近くのマクドに寄ったとき、その悪友川村が楽しそうに「佳月、高山とどこまでいったんだ」などと言い出したのが始まりで……それから散々からかわれたんだっけ。
 僕が3ヶ月経ってもキスひとつしていないことをきくと、川村は驚いた。
「高山も期待してるって、絶対」
 川村はもっともらしくそう言った(そう言いながら、彼は独り者だったが)。
「そういうものか?」
「当たり前だよ、お前。三ヶ月も経てばそれぐらいは」
 僕が高崎に同意を求めると、彼は「人それぞれやろ」とかわした。
 だが川村の言うことも一理あるような気がしはじめて……やっぱここらで次に進まねばならんのかと思い、そう思うと天保山というのは場所としては悪くないなと考えたのだが。
 しかし。
 海遊館を出て、しばらく海を見ながら歩いて、そろそろ帰ろうかという時まで、僕はタイミングを計りかねていた。
 つーか、どこでしろっていうんだ、場所がないって、こんな人が多いとこ。
 休みの日の天保山は、家族、カップルであふれていた。
しかもちっこいくせに愛子は歩くのが早かった。僕がいろいろ考えつつ歩いているのに愛子の方はずんずん歩いて、手をつないでいると引っ張られているようだった。
「どうしたん? 疲れたん?」
 階段を上りながら、愛子はそう言って振り返った。二段ほど上の段に立っていると、彼女の目線はちょうど僕と同じぐらいの高さだった。
 今だ。
 その時、僕は思った。
この時を逃したら、おそらく機会はない。
 彼女の右腕をつかんで引き止め、片手を彼女の頬に添えて……顔を傾けて唇を重ねたのは、時間にしてほんの数秒。いや、二秒ぐらいだったかもしれない。
 離れてると、眉間に皺をよせた愛子の顔が眼に入った。
「……なんだよ」
 思わずそう声をかけると、
「そんなんずるいわ」
 と予想もしなかった言葉が返ってきた。
「は?」
「全然心の準備してへんかったもん。え? って思った瞬間には終わってるしぃ」
 少し拗ねたような、語尾を延ばす口調でそう言って、愛子は次のセリフを口にした。
「もっかい」
「…………………………え?」
「もっかい、して」
 わずかに顔を傾けて、ねだるような調子で愛子は言った。
 こいつのすごいとこって、こういう仕草がわざとらしくないとこだよな……僕は半ば感心した。男子の間で可愛いと言われてる愛子だが、それは確かだと思う。間違いなく、可愛い。
 しかし僕は二回目を実行することが出来なかった。人目も気になるし、初めてのことで動揺していたからだ。
「また今度な」
「えー?」
 僕は一気に階段を何段か飛ばして一番上まで上がり、愛子が追いかけてくるのを振り返って待った。
「佳月君、ずっちいわぁ」
 愛子は軽く頬をふくらませて文句を言った。でもどこか嬉しそうな顔をして。
「はいはい」
 愛子は追いつくと、僕の手を握るかと思いきや    腕を絡めてきた。その仕草に、さらに動揺させられたりして。
「……くっつかれると、暑いだろ」
 文句を言うと、僕の腕に抱きついている(しがみついている、と言った方が正しいか?)愛子がにっこりして……そうだ、僕はあの時愛子にも言われたんだ。
「照れちゃって、佳月君かわいーい」
 その後駅につくまで、僕はずっと黙りこくっていた気がする     

「佳月君」
 声をかけられて、僕は現実に引き戻された。
 ……いかんいかん、つい過去に浸ってしまった。
「眠いの? ぼーっとしちゃって」
「いや、そんなことないよ」
 僕はそう答えた。
 ぬるくなってしまったコーヒーに口をつける。
 それから夕佳里さんに視線を移したとき、彼女の髪に何かごみがついているのに気づいた。
「ちょっと動かないで」
 僕は手をのばして、彼女の髪に触ろうと……した。が、夕佳里さんがぱっと身をひいたので、僕は手を途中で止めた。
「なに?」
「いや、髪に糸くずかなんか、ごみがついてるから」
 彼女が怪訝そうに言ったので、僕は答えた。
「どこ?」
「いや、ちょっと動かないでくれたら取ってあげるよ」
 僕はそう言ったが、夕佳里さんは自分で髪に触れた。髪をすくように手を動かすが、どうも位置がずれている。
「前髪についてるの?」
「いや、もう少し右……あ、ごめん、君から見て左」
 どうもうまく取れず、じれったくて僕が手をのばすと、夕佳里さんはその手をぱっとかわした。更に手をのばして彼女の髪に触れようとすると、夕佳里さんは僕の手が届かない距離まで椅子を後ろにひいた。傍目からはカップルがじゃれているように見えるかもしれないが、明らかに、彼女は僕に触られるのが嫌で避けているみたいだった。
「ちょっと見てくるね」
 夕佳里さんは立ち上がり、洗面所の方へ行った。
 残された僕は缶コーヒーを飲みつつ、彼女が戻るのを待った。
「あ、ごめんね。お待たせ」
 夕佳里さんは戻ってくるとそう言って椅子に座った。
「あぁ、いや……」
 僕はなんとも言えない気持ちで答えた。
 夕佳里さんはふと周りを見回してから、紅茶の缶に視線をやった。何か切り出すタイミングを計っているようだと思っていると「そろそろ、行かない?」と彼女は言った。
「……そうだね」
 僕等は空き缶をごみ箱に入れると、海に面した方のドアを開けて外に出た。
 一日のうちで一番暑い時間を過ぎたとはいえ、強い西日をまともに浴びているとかなり暑かった。もう少し日が落ちて過ごしやすくなったら、海側に座るカップルも増えることだろう。
 僕と夕佳里さんは、せっかくきたのだからと海沿いの道を歩いていた。
時々足元を走り抜け、建物の陰に隠れてしまう黒い物体がいた。フナムシかと思っていたら、それはゴキブリだった。
「こんなとこにゴキブリがいると、なんか興ざめだね」
 夕佳里さんがそう言った。
 まったくだ。
 自分の家じゃないから無視するのは容易いが、さすがに何匹もいるとなぁ……。
 海遊館の前の広場を通り、駅へ向かう途中、左手に観覧車が見えた。
 ……そうだ、愛子とも観覧車に乗ったっけ。
 あの時は混んでいたために知らないカップルと相乗りしたんだっけ……もし愛子と二人きりだったら、観覧車の中でキスしてたかもしれない。
「この観覧車乗ったら、俺の家が見えるんだ」
 僕がそう言うと、夕佳里さんは観覧車を見上げた。
「へぇ……そうなんだ。私の家は見えるのかなぁ……見えないか」
「よかったら、乗る?」
 僕が言うと、彼女は僕の方を向いてしばらく止まっていたが、ぶんぶんと首をふった。
「いい……乗らない」
「そう」
 僕も無理に勧める気はないので、それ以上は言わなかった。
 夕佳里さんはもう一度観覧車を見上げた。
「佳月君は、そのキューピー人形みたいな可愛い彼女と、この観覧車に乗ったことあるんだね」
 夕佳里さんにそう言われて、僕は驚いて「え?」と声をあげてしまった。
「観覧車なんて、あまり男同士では乗ったりしないよね。佳月君の高校の時の彼女?」
「…………よくわかるね」
「海遊館に来たのは高校の時。デートで来たと考えたら、彼女は高校時代の人だよね」
 ……当たり。
「それに、その女の子も、どうでもいい相手に『キューピー人形に似てる』って言われても、ダイエットしたりしないよね」
 そう付け加えて、彼女は僕の方を向いた。
「そう……かな」
「そう思うよ」
 彼女は言い切った。
 そうして、わずかに笑みをうかべた。
「……なにか?」
「ううん、なんか、そういうの、ほのぼのしてていいなぁと思って」
 彼女が楽しそうに言うので、「終わった話だけどね」と僕は水をさした。
「あぁ……うん、ごめん」
 夕佳里さんは笑いを消して、言葉を継いだ。
「気を悪くした?」
「いや、いいよ」
 僕がそう言うと、彼女は僕の顔を見上げた。
「佳月君て……」
 そう言いかけて、夕佳里さんは言葉を切った。言いかけたものの、言おうかどうか迷ったらしい。口をつぐんで、さりげに目をそらす。
「俺が、なに?」
 その続きを聞くと、
「……えーと、なんだっけ?」
 とぼけたような答えが返ってきた。
 ごまかす気らしい。
「俺が、なにって?」
 もう一度きくと、
「あっ、ごめん、今宇宙からの妨害電波にあって……記憶が途切れたみたい」
 夕佳里さんは額に手をあてて眉をよせた。ご丁寧に、苦しむような仕草を見せてくれる。
「だめ、思い出せない……」
 君はチャネラーかい。
 僕は諦めた。見かけによらず意固地なところがある人だから、これ以上聞いても無理だろう。
 やれやれ。ほんと、わからん人だ。 
 しかしその不可解さは決して不快じゃなかった。
 逆に、惹き付けれられるものを感じる。
 それは不思議な感覚だった。

 僕と夕佳里さんは、また地下鉄に乗って弁天町に向かった。
 時計を見ると、5時すぎだった。
 今日はまだ帰りたくない気分だ。
 ゲーセンでも喫茶店でもいいから……もう少し、彼女といたい気がした。何か他愛ない会話でも……沈黙でも、構わない。そう思った。
 弁天町で降りると、夕佳里さんは「じゃあ……」と出口の方へ足を向けた。
「あ……ねぇ」 
 僕が声をかけると、夕佳里さんは僕の方へ向き直った。ポニーテールが動きに合わせて揺れる。
「よかったら、ゲーセン行かない?」
 近くにちょっとしたレジャー施設のあるビルがあって、そこにはそこそこ大きいゲームセンターがあるのだ。もしかしたら新作ももう出てるかもしれない。プレイするなら、ぜひ彼女と一緒にしたかった。
 彼女は口をつぐんだ。
 大きな眼でじっと僕を見つめている。
 やがて彼女は口を開いて、言った。
「……今日は、やめておくね」
「そう」
 夕佳里さんはどこか曖昧な笑みを浮かべ、
「じゃあ、また、休みあけに」
 と言った。もうこの夏休み中に僕と会う気はまったくないらしい。どうでもいいけど、今の言葉……ちょっと傷ついたかも。
 しかし、そう言われるとまた次も誘いたくなる僕って……嫌な奴なんだろうか。
「うん……じゃあ」
 僕はそう答え、彼女と別れた。
 鞄からヘッドホンを取り出し、耳につける。
 10年ほど前のヒットソングをききながら、僕は環状線の階段をあがった。

離れずに暖めて
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