Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて 13
 それはどこか青い色を帯びた記憶だった。
 薄闇の中に、ぼんやりと見える人の輪郭……美緒さん。長い髪が顔を隠しているのに、彼女が笑っているのはわかった。何が楽しいのか、いつも笑っているような人だった。
 言葉もなく、衝動に突き動かされるままに、僕は彼女を抱きしめた。
 僕はそれが途中まで夢とは気づかずにいたが、過去の記憶をなぞるように展開していく夢の中で、もうすぐ高崎から電話がかかってくるんだ、と察していた。 
 電話はかかってきた。だが高崎からじゃなく、店長からだった。
「すぐに来い。店がまわらないんだ」
 どうして深夜の3時に店やってるんだ、と思う気持ちはなかった。
 僕はシャツを着ると、美緒さんを振り返った。
「やばい、俺店に行かないと」
「信じられない。この状況で行くなんてよく言えるね」
 美緒さんは僕の背中に愚痴とクッションを投げつけた。彼女の怒りはもっともだったが、僕は店へと急いだ。あまり急いだために、ベルトを美緒さんの家に忘れて。
 店について僕は驚いた。店内に入りきらないぐらい客がならんでいたのだ。僕が着替えて厨房に入るのも、人をかきわけて行かなければならないぐらいだった。
「遅い!!」
 店長の罵声に眉をひそめる暇もなく、僕はドレスの担当を任された。店長の他には安田マネージャーがフライヤーに入っているだけで、カウンターでは鈴木さんと相本さんが行ったりきたりしていた。これだけ忙しいなら、美緒さんも連れてくればよかったかな、と僕は考えた。「佳月、バーガーを50、チーズを60、てりやきを30……」
 僕はおかしいと思わずに、そのオーダーに応えてミートをグリルの上にぽんぽんと並べていった。夢の中の僕は、ミートの反転も器用にこなした。
 と、店が停電した。うちの店だけでなく、地下街全体の停電らしい。そうなるとどこからも光が入ってこないので、本当に真っ暗になった。
 並んでいた客はパニックを起こして、悲鳴をあげながら逃げ惑っているらしい。椅子やテーブルの倒れる音がした。
「落ち着いて、騒がないでください」
 店長が叫んだが、その言葉はまったく意味をなさなかった。
 僕はバーガー作りを放り出し、手探りでなんとか厨房からフロアに出た。
「お兄さんっ」
 相本さんらしい人物が腕にしがみついてきたので、僕はかばうようにして彼女の頭を撫でてやった。
 ……いつになったら電気はつくのだろう。
 停電になるのは珍しいことではない。今回みたいに地下街全体というのはないが、うちの店だけが停電することはたまにあることだ。その時はたいていブレーカーをあげればすぐにおさまるのだが、こう全体が停電になってしまうとどうしようもない。
 そのうち、さらに事態は悪化した。
「……なんか、浸水してません?」
 相本さんが言った。僕もそれに気づいたところだった。
 雨は降っていなかったと思ったが、どこかから水漏れしているのか、水がどんどん流れてきている。
 以前テレビで見た覚えがある。ダイヤモンド地下街が浸水したら、どのぐらいの時間で水没するか……どれくらいだったかな。
 雨で浸水しているぐらいなら排水溝に流れるので問題はないだろうが、この浸水は並みの速さではなく、すでに高さは僕の膝までに達していた。
 客はみな逃げたのか、周りは静まり返っている。店長やマネージャ、それに鈴木さんはどこに行ったのか声も聞こえない。暗闇の中で水につかるということがこんなに怖いとは思わなかった。
「早いとこ地上に出よう」
 僕は相本さんを引っ張って、階段があると思われる方へ歩いていった。その間にもどんどん水は流れてきているので、どうにか階段までたどり着いたときには、僕の腰の高さまでになっていた。
 それにしても、どうもおかしい。水にしては、どこか粘りつくような感触なのだ。
 僕は手についた液体を舐め……って、この味はてりやきソースじゃないか。なんでこんなものが流れてきているんだ。
 その時に僕はようやくこれが夢だと気づいた。
 そうなると、いつまでもこうしててりやきソースにつかっている必要はない。
 僕は意識的に、眼を覚まそうとした…………。
 

 サイアクだ。
 僕は体を起こして額を押さえつつ、夢の内容を思い返した。
 美緒さんの夢を見るのもなんだが、バイトの夢なんか見たら、精神的に疲れてしまう。これからバイトに行くというのに……さらになんなんだ、てりやきソースが流れてくるってのは。
 しかし……夢の中で繰り返しても、結局僕は美緒さんと最後まではいかないらしい。僕は苦笑した。夢に中で勝手に進展させるようなら、僕も欲求不満てことになる……まぁこんな夢を見ること事態、既にそうなのかもしれない。フロイトに分析させたら、間違いなくそう言われるだろう。
 時計を見ると、5時半だった。起きなければならない時間だ。6時には家を出て、6時半前には店について、開店準備を30分ほどで仕上げて……。
 夏休みに入ったのはいいが、毎日することはバイトばっかりか。ゴールデンウィークと変わらんな。まぁいいか。お金ができたら、また一人旅にでもいけば。
 それより、今日は初めて一人で開店準備をしなければならない日だ。幸い土曜日ということで、平日と違って客も少ないだろうから、多少手間取っても大したことはないだろうが……。

 僕は店の鍵を開けた。
 ドアを開き、何箇所かにつけられた非常灯がぼんやりと照らす店内に入り、厨房の中にある電気のスイッチを入れる。そうして店内を明るくすると、僕は店長室で着替えをすませた。
 まず、フライヤーやグリル、バンズトースターの電源を入れる。これは温まるまで30分はかかるから、絶対忘れてはならない。
僕は店のシャッターを開けた。全部開けると中が丸見えになるので、半分ほどにしておいた。パン屋が運んできたパンのケースの山を店内に引っ張りこみ、先入れ先出しのルールにしたがって、昨日の残りのパンのケースの下になるように積み重ねる。
 ……暑い。
 この店には空調がない。地下街全体で管理されているので、この店だけ冷房を効かすってことができないのだ。僕は暑さにいらつきながらも、黙々と仕事を進めた。
 ソースディスペンサーのチェック。いつ使っても規定の量が出るように調節する。それから補充もしっかりして……っと、たまねぎを仕込まなければ。クッキングカッターで、たまねぎを4つ分刻んでタッパーに入れる。あとピクルスと……あぁ、トマトもだ。
 野菜を切るのは慣れているので、そこらへんの作業はすぐにすんだ。佐藤にたまねぎを切らせると、彼は絶対涙を流して『佳月さん、僕はもう駄目です』と言い出す。涙を流さずにたまねぎを切れないらしい。昔紫の読んでいたとある絵本では、たまねぎを切るとき水中眼鏡をかけるといい、と書いてあったが、佐藤もそうしたら泣かずにたまねぎを切れるのだろうか。
 あとは開店してからでもできる作業だ……と、ドリンクチェックを忘れていた。  僕はカウンターに行くと、Sサイズのカップを取って、コーラ、オレンジ、ウーロン茶、コーヒー、紅茶と試飲した。
 ただでドリンクが飲めると喜ぶような話じゃない。これだけ短期間にいろんなドリンクを飲むと、気持ち悪くなってくる。だが毎日開店作業時には試飲をするのが決まりなので、僕はスープとシェーキまで一口ずつ飲んだ。本当は飲む順番を多少考えれば気持ち悪くならないのだろうが。
 僕はシンクでうがいをして一息ついた。
 中岡さんが書いてくれた開店作業のマニュアルを見直して、抜けているところがないかチェックする。
 そうそう、後はフロアの電気が切れてないか確認して……。
「おはようございまーす」
 制服に着替えた鈴木さんがやってきた。
「あぁ、おはよう」
 僕は返事を返した。
 アサイチが鈴木さんだと心強い。開店作業は慣れているうえに、いざとなったらフライヤーのバックアップまでしてくれる人だし。
「なぁ、佳月君……」
 呼ばれてマニュアルから顔をあげると、鈴木さんが困ったような顔をして僕を見ていた。
「どうかした?」
「うん、それが……」
 鈴木さんは右手を出した。ケガでもしたのかと思ったら、薬指に佐藤からもらったという指輪をしているだけで、別に異常の見られない手だった。
「あ、シフト中は指輪外してね」
 僕が言うと、鈴木さんは首を振った。
「抜けへんねん……」
「え」
「昨日友達と飲みに行って、水分取りすぎたみたいで手がむくんで……どうやっても抜けへんねん」
 僕は「ごめん」と断り、鈴木さんの手を左手で押さえ、右手で指輪を引っ張った。
「……たい、痛いっ」
「わっ、ごめん」
 僕は手を離した。鈴木さんはため息をついて、僕を見上げた。
「……抜けへんやろ?」
「確かに」
 洗剤をつけて抜こうとしても、鈴木さんの指輪は抜けなかった。
「私、佐藤に嘘ついてん……」
 鈴木さんはぼそっともらした。
「私の指輪のサイズ本当は10号ぐらいやねんけど、指輪ってたいてい奇数やから……11号って言われへんかって、9号って言っちゃって……それでもいつもは少しキツイぐらいでちゃんと抜けたのに、あの時見栄はったから、こんな時にそのツケがきたんやわ」
 別に指輪のサイズで見栄はることはないんじゃ……。
「佳月君、女心ってそういうもんやで」
「あ、そう……?」
 そんな太くも見えない指なんだけど、やっぱ違うんだろうか。
「どうしよう……佳月君の次は中岡さんやから、事情話したらわかってくれると思うけど、さすがに指輪したまま接客ってあかんやんなぁ」
「指輪の上からばんそうこう貼れば?」
 僕が言うと、鈴木さんはぱっと顔を明るくした。
「そうやな、それならまだいっか。はがれへんようにきつくまいたらOKやな」
 彼女は店長室に駆け込むと、救急箱からばんそうこうを持ってきた。
「ごめん、巻いて」
 僕はずれないよう、しっかりと指輪の上からばんそうこうをまきつけた。そうすると、まったく自然とは言えないまでも接客には支障のない状態になった。
「今度指輪買ってもらうときは、11号にしてもらいなよ」
 僕がそう言うと、
「いいの、9号で!」
 鈴木さんはそう主張した。
 ……わからん。
 

 僕の一回目の開店作業は大したこともなく終わった。
 ただ朝ご飯を食べなかったので、落ち着いてきたら急に空腹感を感じてしまった。これからはちゃんと朝飯を食おう……と思いつつ、僕の休憩まではあと二時間もあることを考えると、ため息をついてしまう。
 厨房内には、食べられそうなものがない。
 実際いろんな食材があるのだからつまみ食いぐらいできるだろうと言われるが、そんなことは不可能だ。バーガーやポテトなどのフライ類も、客に提供できる時間が過ぎれば捨てる。
 僕はイタリアンホットというピザ風のメニューの仕込をしていた。食パンに包丁を入れながら、ふとパンの耳でも揚げてやろうかと考えた。
 どうせパンの耳は捨てるだけだから、食べても文句はいわれないだろう。
 僕はパンの耳をフライヤーに放り込み、カリカリになったところで油からあげて、コーヒーシュガーをかけて食べてみた。なかなかいけるが、こんなことするのは今回だけにしよう。こんなことをしているサブマネは、全国でも僕一人ぐらいのものだろう。あまりふざけたことをするのはよくないな。
 ……しかし、今日も客の入りは悪い。
 朝から鈴木さん一人しかカウンターにいないのに、それでも十分店がまわっている。
 僕は勝手に作った朝飯の後片付けをし、イタリアンホットの仕込をすますと、アイスケースの霜取りをした。そうしていても、客はこない。鈴木さんはこのヒマをどうやって乗り切っているのだろうとカウンターを見ると、同じように掃除をしていた。
 少ししてから、赤ちゃんを抱いた女性が一人来た。やっと来た客だったので、ポテトもバーガーのストックもなく、一からつくって、僕が出来たてをフロアに持って出た。
 客が少ないため、どこにそのお客さんがいるのかすぐにわかった。禁煙席のテーブルに座っている。赤ちゃんを左手で抱いて右手でドリンクにストローをさそうとしているが、どこか危なっかしい手つきだ。僕と同い年か、一つ下ぐらいの若いお母さんだった。
「お客様、お子様用の椅子をお持ちしましょうか」
 僕が声をかけると、女性は振り返り、僕の顔を見て驚いたような顔をした。
「あ、はい……お願いします」
 僕はトレイの上に商品を置くと、子供用の椅子を持って女性の傍らに置き、彼女が赤ちゃんを椅子に乗せる手伝いをした。
 僕がその場を離れようとすると、突然女性が、
「佳月君」 
 と僕を呼んだ。
 は?
 僕が振り返ると、女性は懐かしげな眼をして僕を見ていた。
「佳月君、めっちゃ久しぶりやん。覚えてる? 私のこと」
 え?
 僕は彼女をじっと見た。確かに見覚えがあるような気がしたが、どうもはっきりとはわからない。もっと違う髪形だったような……。
 しばらく女性の顔を見ていたが、
「あ……っと」
 急に頭の中に何の脈絡もなく浮かんだ名前があった。
「……三田さん? 三田由紀子!」
「そうそう! やっだー、こんなとこで会うなんて」
 そうだ、高校の同級生の三田さんだ。愛子と仲がよくて、僕や高崎とも親しくしていた……化粧してるうえにあまりに「お母さん」にしてたから、すぐにわからなかった。
「高崎君に、ファーストフードで働いてるってきいたけど……ここやってんなぁ。びっくりしたわ」
「俺もびっくりした。三田さん子供連れてるし」
 僕は失礼と思いつつ、三田さんをじろじろ眺めてしまった。うわぁ……最初全然わからなかった。
「ふふー、今年の春に産まれたばっかしやねん」
 三田さんは赤ちゃんを抱き上げた。
「誰と結婚したと思う? 昔佳月君についてきてもらって、プレゼントの時計買いにいった、あのバレー部の先輩やねん」
「そうか、もう三田さんじゃないんだよな。変な感じだ」
「佳月君、バイトやんなぁ? そんなスーツみたいの着て、正社員みたいやわ」
「あぁ、一応バイトでは一番上だから」
「そうなんや、格好いいなぁ。しっかし、ほんとに驚いた」
 三田さん       今の苗字はわからないから三田さんとしか呼びようがない    は、赤ちゃんをあやすように時たま揺すり、店の中を見回した。
「この近くはよく通るのに、この店に来たのは初めてやねん……灯台もと暗しじゃないけど、意外と身近なとこにおってんなぁ……確か高崎君と同じ大学やったやんな、彼元気してる?」
「あぁ、元気」
 懐かしさに、気分が高揚していた。三田さんがこんなセリフを言い出すまでは。
「佳月君、愛子と連絡とってる?」
 そう言われて、僕は一瞬言葉につまった。
「……いや、とってない」
「愛子は今年卒業やからもう大阪に帰ってきてるし、実家におるから、よかったら電話してあげて。会いたがってたで、愛子」
 ……と言われても。
「な、よろしく」
「…………あぁ」
 戸惑う僕の内心を読み取ったのか、三田さんはくすりと笑った。
「3年もたったら、時効やって。再会したらこだわりって消えるもんやと思うで。特に愛子の場合は」
 僕は厨房に戻った。
「今のお客さん、知り合い?」
 鈴木さんが声をかけてきた。
「あぁ、高校時代のクラスメート」
「そうなん、わかってたらポテトの量サービスしたのに」
「それが、俺も最初気づかなかったんだ」
 そう言うと、鈴木さんは笑った。
「久しぶりに会ったんやな。子供がおって、びっくりしたんちゃう?」
「まぁ、そんなところ」
 僕は昼に備えてバーガーを作りつつ、三田さんの言葉を思い返した。
『会いたがってたで、愛子』
 本当だろうか。
 卒業式の日、僕を避けるようにして帰っていった愛子が、僕に会いたがっているとは。
 会いたくない、と思われるよりは会いたいと思われる方が断然嬉しいが……過去を引きずってるのは俺だけってことなんだろうか。愛子は全部忘れたかのように、平然としているんだろうか。でもあいつはそんな奴じゃないよな。天然ボケで明るく見えるくせに、気配りを忘れないような奴だったし……。
「佳月さん、何作ってんですか」
 僕ははっとして、振り返った。制服に着替えた佐藤が、僕の方を向いて立っていた。もうそんな時間になっていたとは気づかなかった。
「見たらわかるだろ、バーガーつくってんだよ」
 僕はぼんやりしていたことをごまかすように、語調を強めた。
「いや、僕が言いたいのは、なにバーガーをつくってるのかな、と」
 僕は自分の手元を見た。
 えびのフライパティを置こうとしていたパンの上にのっているソースは、どう見てもてりやきソースだった。
「……これは、今度の新商品てりやきエビバーガーだ」
 僕は大真面目に言った。そんな冗談が通じたのかはわからないが、
「へぇ、ぜひ味見したいなぁ。でもちょっと売れなさそうなバーガーですね」
 佐藤も本気か冗談かわからないセリフを言って、店長室に入っていった。
 ……今日はなんなんだ。夢でも現実でもてりやきソースかよ。
 僕は間違ったドレスをしてしまったパンをごみ箱に放り込んだ。
 

 二時にバイトをあがると、同じ時間にあがった佐藤が「ちょっとお茶でも」というので、僕はまたまたジャマイカに行った。
 またあのマスターに何か言われるかと思っていたら、マスターはいなかった。もしかしたら近くのパチンコ屋でも行っているのかも知れない。
「今日鈴木さん、指輪抜けなくなったらしいですね」
 佐藤がそう言ったので、僕は少々驚いた。鈴木さんがその話を佐藤にするとは思わなかったからだ。
「あぁ、きいたのか」
「ケガしたのかと思ったら違うって言うし、何かと思ったら指輪の上にばんそうこうしてるじゃないですか、理由もききたくなりますよ」
「はぁ」
 まぁ、普通は指輪の上からばんそうこうなんか貼らないしな。
「俺一瞬考えちゃったんですよ、もしかして佐藤さん、シフト中も俺のあげた指輪をしていたいから、ばんそうこうで隠してたのかな、なーんて」
 …………そりゃないだろう。
「でも可愛いっすね。指輪のサイズぐらいごまかすことなのに。女の子のそういうとこって、なんかいじらしくないですか?」
 僕は黙ってアイスコーヒーにミルクを入れた。ストローでかき混ぜる。
 佐藤は僕の反応を気にせず、一人で続けた。
「そういや、佳月さん、彼女できましたか」
 ……なんてまた、脈絡のない話の振り方だ。だいたい「できましたか」ってなんなんだ。俺は一言も「ほしい」とか「つくろうと思っている」なんて言ってないってのに。
「相本さんがたまに言ってますよ。『お兄さんに素敵な彼女が早くできるといいな』って。この前七夕に、短冊に書いて願ったらしいですよ」
 僕はあやうくコーヒーをこぼすところだった。
 ……相本さん、そんなに期待してんのか。
「すると何かい、俺に彼女できたら、七夕のご加護ってことかい」
「それだと一年に一回しか会えない長距離恋愛になりそうですねぇ」
 のんびりとした口調で言って、佐藤はアイスティーをすすった。
「いっそ相本さんとってのは、どうですか?」
「妹の友達だと、妹同然にしか見られない」
 それに相本さんが僕のことを本当に「兄」としてしか見てないことはよくわかっている。
「そうですか。でも相本さんのこと好きな奴って、少なからず佳月さんの存在を気にしてますよ」
「ふーん、小林とか、辻とか?」
 僕が名前をあげると、佐藤は大仰に驚いて見せた。
「あ、そこまでご存知でしたか。お察しのとおり、その二人です。この前の飲み会の時でも、チャンスがあらば相本さんの隣に座ろうと狙っていたのに、当の相本さんは佳月さんの隣を動かなかったから、二人とも残念がってましたよ」
 そこらへんは僕のせいじゃない。相本さん自身がずっと僕の隣にいたのだから。
「で、それを俺に話してどうしろと」
「え、別にどうもこうも。僕も言うつもりじゃなかったけど、話の流れで喋っちゃいましたね。気にしないでください」
 気にするなといわれても……人の恋路を邪魔する気はまったくないから、僕はできたら相本さんから離れた方がいいのかなぁ。その状態だと、ほんとに俺って邪魔者じゃないか。
「ま、いいじゃないですか。まだ相本さんは自分自身の恋愛には興味ないってことですよ。佳月さんが気にすることはないですって」
 佐藤はストローの入っていた袋をいじりつつ言った。
「で、佐藤こそ、うまくいってるのか」
 きいてから、愚問だったと後悔した。佐藤はへら?っと笑いを浮かべて、
「よくきいてくれましたね、佳月さん」
と、アイスコーヒーのカップに添えていた僕の左手を握った。
……この前の高崎の気分がわかった。気持ち悪いというより、不気味だ。いきなり男に手を握られるってのは。
「もう幸せっすよ?。鈴木さんはシフト中厳しいけど、普段はめっちゃ優しいんですよ。この前なんか……」
 言いながら僕の手を放そうとしない。間の悪いことにそこへマスターが帰ってきて、
「最近の若い奴は、男同士でも手をつなぐんやな」
 店に響くような声で言い出して、それに唱和するようにおばさんが「男同士でも手をつなぐんやな」と繰り返した。
「佳月さんも彼女つくったらわかりますよ。こう、なんていうんですかね、世界が変わりますよ」
「あぁ、わかったわかった」
 僕は佐藤の手を払った。いつまでも男と手を握り合っている趣味はない。
「……っと」
 佐藤は腕時計を見た。
「あ、僕はそろそろ行かないと」
「なんか用事か」
「いや、鈴木さんがもうあがるし」
 ……こいつ。
 鈴木さんがバイトあがるまでの時間つぶしに僕を誘ったんかい。
「いや、僕は純粋に佳月さんとお茶がしたかったんですよ」
「はいはい」
 僕は店の方に行く佐藤と別れ、ゲーセンをふらつき、本屋に寄り、ゲーム屋を覗き、8時前まで梅田をぶらぶらした。
 ……さて、そろそろ帰るか。
 僕が大阪駅に向かおうと歩いていると、携帯が鳴っているのに気づいた。
 ……まさか、美緒さんからじゃないよな。
 僕がそう思いつつ電話を見ると、ディスプレイに表示されていた番号は、自分の家の番号だった。
 安心して通話ボタンを押す。
「はい、もしもし?」
『あ、友則、パン買って来て』
 母親の声がしたかと思うと、電話は切れた。電波が悪くて途切れたのかと思ったが、向こうがきったらしい。用件だけ言って一方的に切るとは……なんつぅ母親だ。
 しかしわざわざもう一度電話をかけるのも面倒だったので、僕は仕方なくパン屋によることにした。どこのパン屋がいいだろう。大丸か、阪神か。大丸でいいか。
僕はそのまま地下を歩き、大丸百貨店の地下二階にあるパン屋でバターロールを一袋買った。特にこれという注文なかったので、これだけでいいだろう。
僕はエスカレーターで一階まで上がった。
そこからアクセサリーの売り場を抜けてJR大阪駅へ行こうとすると、どうも見覚えのある人が、店員から品物を受け取っているのを見つけた。
 ……あれ。
「澁谷せん……せい?」
 つぶやくように言うと、先生は振り向いた。先生は僕が立っている脇のエスカレーターの方へ向かっていたが、僕の姿に気づいて足を止めた。
「あら……佳月君」
 大丸百貨店と澁谷先生というのはあまり似合わない気がしたが、よく考えれば先生だってスーパーや八百屋でも買い物をするのだろうから、似合う似合わないにこだわるのは滑稽だ。フランスが似合うからと言って毎日キャビアを食べているわけでもあるまい。
 驚いたことに、今日の先生は七分丈の袖の生成りのシャツにジーンズという格好だ。それとあまりヒールの高くないサンダルを履いている。先生というより会社帰りのOLみたいな感じがしたが、そんなラフな格好でも上品さは少しも損なわれていない。
「買い物ですか」
 僕が言うと、
「そうなの。スカーフをね」
 先生はそう答えてにっこりすると、
「ねぇ、佳月君、今夜は時間があるかしら」
 ときいてきた。
「すみません、僕は9時からのドラマをリアルタイムで見るのをこよなく愛しているので」
 と言っても、僕はドラマとバラエティ番組は滅多に見ない人間だが。
 僕の返事に、先生は笑い出した。
「だめね、そんな答えで私の誘いを断れるとは思わないで。夕食を何にしようか迷っていたところなの。ちょうどよかった、つきあってよ」
 ……夕食に付き合えってか。
 僕は少し考えた。
 別に大したことはあるまい。いざとなったら逃げよう。いくらなんでも、人目のあるところで先生が何か仕掛けてくることもないだろうし。
「……いいですよ」
「じゃあどこへ行こうかしら」
 先生がそうつぶやいたので、僕はちょっと意地悪でもしてやろうという気になった。
「俺が決めていいですか?」
「あら、どこかお勧めがあるの?」
「前から行きたいと思っていたとこがあるんですよ」
 僕は澁谷先生を連れて、梅田の地下に入った。まっすぐ道なりに歩くと、僕のバイトしている店のあるダイヤモンド地下街につく。そこをさらにまっすぐ行って地上にあがると、北新地に出る。
 えーと……こっちか。
 少しだけ地上を歩き、僕はある店の前で足を止めた。
「あ、ここです」
 僕は先生の意見を聞かずに店内に入った。
「いらっしゃい!」
 威勢のいい声が迎えてくれた。
 僕が先生を連れてきたのは、ラーメン屋である。
 僕と先生はテーブル席に座った。すぐに若い店員が水が運んできて「なんにしましょ」と伝票を手にした。
「チャーシューメン」
 僕が頼むと、先生は壁のメニュー表を見ながら、
「あ、私は、焼き飯セット」
「ラーメンの種類は」
「醤油でいいわ」
 僕の視線に気づくと、先生は微かに照れたように笑みを浮かべて、
「私ラーメン好きなの。だめね、こういうところに来たら、つい食べ過ぎちゃって」
 ……意外とつわものだな。
「佳月君もラーメン好きなの? 前から入りたかった店って言ったわよね」
 聞かれて、僕は笑いでごまかした。
 僕に行き先を任せたことを後悔させてやろうという考えだけでここに来たなんて、とても言えない。
「フランスにはまだ行ってなかったんですね」
 僕が話をそらそうとしてそう言うと、先生は答えた。
「来月の頭に行くのよ。父の都合もあってね」
「先生のお父さんて」
「某大学の教授よ」
 へぇ、学識のある親子なんだ。
「かえるの子はかえるってことですか」
「私、父に教師になれなんて、一言も言われなかったわ」
 先生は眼を伏せて水を飲んだ。
「じゃあ、どうして先生に?」
「何かを勉強しつづけると、出会いがあるじゃない。人との出会いはもちろんだけど、新たな感動との出会い」
 ……先生って、なんかロマンチストなんだな。新たな感動との出会い、か。いい響きだ。
「お待ちっ」
 店員がやってきて、どんどんとテーブルの上にどんぶりを置いた。
 早い……。
 先生は鞄からハンカチを出し、膝に敷いた。どこか嬉しそうなのは、気のせいではないようだ。確かにラーメン好きらしい。
「外でラーメン食べるなんて久しぶりだわ。家ではよく食べるんだけど」
 先生でもカップラーメンを食べるんだろうか。……あまり想像できないな。
 ラーメンという選択は、ある意味よかったのかもしれない。食べている間は、無口になるし。何か妙なことを聞かれる心配もない。
 僕が食べ終わる方が早かった。量が多いということに加えて、先生の方が上品に食べているせいだ。僕と同じ物を食べているとは思えない。僕は別に空腹でがっついていたわけじゃないが、もう少しゆっくり食べてもよかったか。
「ごめんなさいね。私、食べるの遅くって」
「え、いや、どうぞゆっくり食べてください」
 僕はコップの水を飲み干した。するとすぐさま店員がやってきて、水を注いでくれた。
 先生が食べている間に、僕は今日の三田さんの言葉を思い返していた。それとともに、愛子のことを考えた。
 卒業して、もう働いているのだろうか。何をしているんだろう。今誰かと付き合っているのだろうか……。
「ごちそうさま」
 視線をあげると、ラーメンも焼き飯もきれいに食べきった先生が、水のグラスも空にしたところだった。水を注ごうとした店員に「結構よ」と微笑みかけ、先生は僕に言った。
「どこかでコーヒーでも飲みましょう」
「……はぁ」
 僕としても油っぽいラーメンを食べた後にコーヒーを飲んですっきりしたいという気持ちはあった。
 会計時に先生が全額払おうとしたので、僕は慌てて財布を出した。
「これぐらい出すわよ」
「いいですよ、そんなの」
 しばらく言い合っていたが、次のコーヒーを僕が出すと言うことで落ち着いた。
 さすがに先生をジャマイカに連れて行くのはなんだし、僕は違うコーヒーショップに先生を連れて行った。「珈琲の辞書」という、いかにもコーヒー専門店らしい名前で、コーヒーはちゃんとサイフォンで入れる店だ。そんなに広くない店でいつも混んでいるが、今日は時間のせいかそれほど混んではいなかった。
 僕と先生は、店の隅のテーブルに座った。
店員に「アイスコーヒー」と注文しかけて、今日すでにアイスコーヒーを飲んだことを思い出した。
「メニューを見せてください」
 そう言うと、店員は一度カウンターに戻り、メニューを持ってきた。前にも一度見たことがあるがこの店のメニューは本の形をしていて、辞書のような厚さがある。と言ってもメニューはそんな膨大な数あるわけではなく、開いて最初の3ページほどを除くと白紙だ。
 ……何にしようかな。
「カプチーノ」
「アイスとホット、どちらがよろしいですか」
「ホットで」
「私はブレンドコーヒーを」 
 店員は注文を繰り返してから、席を離れた。
「変わったものを頼むのね」
 先生が言った。
「たまには冒険してみたくなるんですよ」
 僕の言葉に、先生は笑みをうかべて「冒険ね……」とつぶやいた。
「後悔することだって、あるんじゃない?」
「でも、成功だと思うときもありますよ」
 先生はどこか楽しそうに笑った。そうしていると、教室で講義をしている時とは全然違って見えた。
 しばらくして、注文したものが運ばれてきた。
 先生はブレンドに砂糖を一杯だけ入れて、スプーンでかきまぜた。スプーンとカップが触れる音は一度もしなかった。スプーンと置くと、先生はカップに口をつけた。
 僕はカプチーノに砂糖を入れるか迷ったが、とりあえず何も入れずに一口飲んだ。心地よいシナモンの香りがした。
「ここのコーヒー、おいしいわね」
 先生が声をひそめて言った。つられて僕も小さな声で答えた。
「うちの母に教えてもらった店なんですけどね。確かにおいしいと思いますよ」
 結局僕は、砂糖を入れないことにした。今は苦味のある味の方がいい気がする。
「佳月君は、美術が好きなの?」
 ん? どこからそんな話が。
「どうしてですか?」
 僕がきくと、先生はカップを手に答えた。
「以前書いた小説の主人公、美大の学生だったでしょう。それに、大原美術館に行く話とか載っていたから」
 ……あぁ、あれか。
「僕が中学生の時、仲良くしていた奴が、美術関係の高校に行こうとしていて、それでいろいろ話をきいたり……一番大きいのは、母親の影響ですが」
「お母様が、美術好きなのね」
「そうです」
 僕が美術と言うものを解するような年になる前から、何回か美術展に連れて行かれた覚えがある。ピカソの絵を見たのは確か小学生になったばかりの頃だったと思うが、これぐらい僕にも描けると思った記憶が……。
「私、佳月君の小説の中で、美術の先生が一番好きだわ。描きあげることのできない肖像画をいつまでも残している人」
 先生はカップに眼を落としたまま言葉を次いだ。
「あの小説は、固有名詞が出てこないのよね。どうしてそうしようと思ったの?」
 僕はその問いに答えるまでの間を、カプチーノを飲むことでごまかした。
 ……今までにきかれてもおかしくなかった質問ではあるが、不思議と誰にもきかれたことはなかった。僕も最初は固有名詞を出さないことに自分なりのこだわりを持たせていたはずだが、今改めて聞かれると答えにつまる。
 登場人物に名前や過去を持たせると、人物は厚みをもった存在として確立される。けれど名前もなく過去についての描写もほとんどない人物であれば、どこか希薄なものになってしまう。
当時の僕は、あの小説をカラーではなくセピア色の、どこか現実味を欠いている世界にしたかったのではないだろうか……と思う。今考えても、あの小説の人物達に名前は付けられない。
「……どうしてでしょうね。理由はわからないけど、その時はそれがベストだと思うことって、あるじゃないですか。おそらく、その時の僕は、名前をつけないのがベストだと思ったんじゃないかと」
「そうね……私も個人的に言うと、あの小説の人物は、名前がない方がよかったと思う」
 先生は言った。
 僕は本当は、自分の作品について話すのはあまり好きじゃない。が、先生とこうして話していると、自分の作品を以前と違う角度で見直せるような気がしてきた。
 そこからなぜだか芸術の話になった。
 流れで僕が以前何か美術の本で見たマルセル・デュシャンの『泉』という作品の話を出すと、先生は「あぁ、あれね」と笑った。
「あれも一応、芸術作品なんですよね」
「そうね。現代美術の本にはたいてい載っているわね」
「あれでも芸術なんですね」
 僕にはあれがどうしても芸術だとは認めがたい。
なんていうか、あの作品はコロンブスの卵的発想というものでしかない気がする。つまり、誰も考えなかったことを最初にした。それだけのような気がするのだ。
「例えば……」
 澁谷先生はスプーンを手にとると、それを無造作に机の上に転がした。
「これに……そうね、『A』と名づけようかしら」
 僕は先生の意図をつかめずに、彼女の顔を見た。
「佳月君から見ると、これはただのスプーンに過ぎないわね。でもスプーンをスプーン以外の名前で呼んだ時、これには新しい意味が与えられたことになる。『A』という名前が何を表すのかわからなくても、私たちは日常見慣れたスプーンという無機物から、何かをすくうという目的以外のものを見つけ出すことができるんじゃないかしら。その時このスプーンは、もはやスプーンではなく、別の存在に成る……」
「それだと、どんなものでも芸術作品にできるってことですか」
 僕が言うと、先生は不思議と優しく微笑んだ。
「佳月君、君たちがしていることだって同じよ。日常で使い古された言葉を、ただの言葉の羅列から芸術に高めることができるのは、どうしてだと思うの?」
 そう言われると、返す言葉がない。何しろ相手は先生なのだ。
「芸術家だけが、ありふれた物に芸術的価値を与えられるってわけですか」
「芸術家だけというか……芸術を知る人は誰でもその力を持っている」
 長いまつげを伏せ、先生はカップに口をつけた。
「芸術って、人の心を動かすものでしょう。芸術家の作品だけが、人の心を動かすとは限らない」
「…………」
 僕は黙って、先生の言葉を受け止めた。
「そう……佳月君は『椿姫』を知っているかしら?」
「名前だけは」 
 確か、オペラだったように記憶している。徳田ならばよく知っているだろう。
「ヴェルディのオペラの一つなんだけれどね、ヒロインはヴィオレッタという娼婦なの。娼婦は本来ならば、とてもヒロインにはなりえない存在よね。けれどそんなヴィオレッタをただの娼婦から神話的女性にまで高めたのは、他でもなくヴェルディの音楽の力なの。蔑まれたものに尊厳を与えうることができるのは、まさに芸術の成せる技といえるわよね」
 ……澁谷先生の専門を忘れていた。美学だ。まるで一対一の講義を受けているような会話だな。
「何も考えない方がいいのよね、何かを見るときは。理屈とかいらないんだから」
 先生は僕を見た。
「佳月君だって知ってるはずよ。大原美術館でエルグレコの『受胎告知』を見たとき、言葉が必要だった? 理屈もなにもいらなかったでしょう?」
「……そうですね」
 僕は素直に頷いた。
 芸術に心が動かされたときは、理屈もなにもいらなかった。後になってそれを人に伝えたり書きとめようとする時に、言葉が必要になった。でも言葉は感動よりもずっと遅れてやってきて、しかも正確でないときている。
「そういう感動に出会えるから、旅行も勉強も好きよ」
 先生は胸に手をあてた。先生は時々少女めいた仕草をみせ、それがまた似合うときている。そのせいか、先生が僕より10歳も年上だということを忘れることがある。
「出ましょうか」
 そう言われて、僕は水を一口飲んでから、伝票を持って立ち上がった。
 
 僕と先生は、地上へ出た。
 昼の蒸し暑さは、夜になって和らいでいた。風があるのが幸いだった。こう夜風に吹かれるというのは気分がいいものだ。すでに時刻は9時を過ぎていた。
 駅まで歩く途中、ビルの脇に花壇が設けられてるところがあって、僕らはその間を歩いていた。時間も時間だからか、他の通行人はいなかった。ビルを見上げると、まだいくつか電気がついているところが見えた。何の会社か知らないが、こんな時間までご苦労なことだ。
「もうすぐ8月だというのに、今夜は涼しいわね」
 先生は風がなぶる髪を片手で押さえるようにしていた。
「そうですね」
 僕は……この時、言うなれば油断していた。今日先生とは意図的に出会ったわけでもないし、澁谷先生の態度もいかにも先生らしいものだったから……。
「佳月君」
 腕に何かが触れた    それは先生の手だったが、そう気づく前に僕は振り返ろうとしていた。
 僕が振り返ったとき、頬に細い手が触れ、唇が重ねられた。微かな香水の香りを感じた次の瞬間には先生が離れたので、僕は今の行為が何だったのかとっさに理解できずにいた。
 ……なんて、冷めたキスだ。 
 僕はそう思わずにはいられなかった。 
 これまで二人の異性とキスしたことはあるが、こんな気持ちのこもっていないキスなんてしたことがない。思い出すと照れるようなファーストキスだってそんな長いものじゃなかったが……時間の問題じゃない。これじゃほんとに唇を合わせただけだ。10秒続いたところで同じように感じただろう。
 先生はじっと僕の目を見つめていた。僕が何か言うのを期待しているようだった。
 …………ここで何を言えと言うんだ。
 しかし今の僕は、一言皮肉を言いたい気分だった。どうせ多少のことでは、先生はこたえないだろう。
「……随分、冷めたキスもあったもんですね。誰にでもそんなキスをするんですか」
 そう言うと、先生は僕が予想もしなかった反応を見せた   傷ついた顔を見せたのだ。どこか寂しそうな、泣きそうな眼だった。
 しかしそれも僅かな間のことで、先生は微笑を浮かべた。でも微かに寂しげな表情を残したまま。
「Je n’aime que toi」
 ……え?
 微かな声で先生が口にしたのは、確かにフランス語だった。それは僕よりも正確な発音で、世界でもっとも美しい響きと呼ばれる言語に相応しい滑らかさを持っていた。しかし僕は、それをフランス語だと認識するだけの知識は持ち合わせていたが、その意味まではわからなかった。
「……行きましょう」
 そう言ったのは、先生だった。今の行為に何も期待していなかったかのような口調で。
 僕は呆けたように立ちすくんでいたが、先生が歩き出したので、慌てて後を追った。
「私は地下鉄で帰るわ」
 先生がそう言ったので、阪神百貨店の横の横断歩道で僕は先生と別れることになった。
 別れ際に何をどう言えばいいのか迷っていると、先生が「信号、青よ」と言った。
 言われて振り返ると、確かに大阪駅への横断歩道が青信号になっていた。
「えっと……さようなら。よい旅を」
 僕の言葉に、先生はいつもの笑みで「ありがとう、さようなら」と答えた。顔にまつわる髪を耳にかけながら。
「じゃあ」
 あたかも信号が点滅する前に横断歩道を渡りきろうとしているかのように、僕は振り返らず急ぎ足で横断歩道をわたった。
 混乱。困惑。 
 今の僕の頭は、そんな言葉がぴったりだった。
 不意に僕は思い出したように唇をぬぐった。不快だからとかそういう理由ではなく   ただ口紅がついていたらやばいな、という考えからだった。しかし思い返せばあんな軽いキスぐらいじゃ口紅もつかないだろう。考えすぎか。
 
 僕は電車の車窓から外を眺めながら、ぼんやりと考えた。
 おかしい。
本気でなくても男を誘惑しようというなら、それなりに相手に惚れているフリぐらいするだろう。それぐらいはできそうな人なのに、キスといい態度といい、どう見ても僕に気がある素振りをしているとは考えられない。あまりにも冷めている。
 なのに、僕が先生のキスに大した反応もみせないのに傷ついた顔を見せるってのはどういうことだろう。
 ……わけがわからん。
 先生は僕が好きなわけじゃない、からかっているだけ。
 それはわかるんだが……僕の言葉に傷つく理由がわからない。僕の言葉ぐらいで傷つくプライドの持ち主でもないだろうし。
 それに、どこか不自然なのだ。どこが、と言うにははっきりしないが……僕を見る目つきがたまに変わるというか。そう、一番わかりやすく言い換えると……。
 目の前にいるのが、佳月友則だと思ってないんじゃないか。
 ……というところだろうか。
 それを一番強く感じたのは、先生がフランス語で何か喋ったとき。その中には、確かに愛しさともいうべき響きがあった。しかしそれは僕に対してのものではない、この矛盾。
 僕があの時先生が言った言葉を、響きから単語にあてはめようとしたが、僕がたかだか一年学んだ程度の知識では無理だった。あの言葉の意味がわかれば、先生の行為の意味もわかるような気がしたのだが……。
 僕は頭を悩ませながら家に帰った。
「ただいま」
 僕は買って来たパンをテーブルの上においた。
「パン買って来たよ」
 そう言うと、台所から出てきた母親が「夕食は?」と言ったので、僕は「食べた」と答えた。
「パン代、ください」
 僕が手を出すと、母親は電話の近くにあった何かの券を僕に渡した。
 なんだこれは……『ピカソと写真展』? 
「あの……これがパン代ですか」
「そう、それで代わりにして」
 僕もたかだか250円ほどのパン代でうるさく言うつもりはないが、別に行く気もない展覧会のチケットをもらっても嬉しくないんだが……。
 待てよ。ピカソと言えば画家。画家と言えば……夕佳里さん、観にいかないかな。聞くだけ聞いてみるか。あの日夕佳里さんに「また誘うから」と言ったが、僕自身また機会があるとは本気で思ってもいなかったな。
 電話の子機を持って自分の部屋に帰ると、僕は夕佳里さんの家の番号をまわした。
 ……そういや、最初は二回コールしてから切って、もう一度かけなおしてほしいって言ってたっけ。
 言われたとおりにかけなおし、二度目の電話のコールが5回を数えたぐらいに、呼び出し音が途切れた。
「……もしもし?」
 僕が声をかけると、受話器の向こうからややためらいがちな『はい』という返事がした。
「佳月ですが」
『あ……あぁ、佳月君』 
 夕佳里さんはまるで今起きたばかりのように、どこかテンポのずれた返事を返してきた。
「こんばんは。お元気ですか」
 僕がからかうように言うと、夕佳里さんは少しの間をおいて、
『はい、元気です。今日は月がきれいですね』
 と答えた。
 僕はベランダのガラスを通して空を見たが、曇っていて月など見えるような空ではなかった。どうやら向こうも僕をおちょくろうというつもりらしい。
「突然だけど、君、ピカソは好き?」
 いつまでもぼけた会話を続けるつもりもなく、僕は用件を切り出した。
『ピカソ? って、パブロ・ピカソ?』
 それ以外のピカソは知らないな。
「そう、そのピカソ。興味ある?」
『ゼロでも100でもないけどね』
 ……なんて答え方だ。また、これ以上とない曖昧な返事をしてくれる。ゼロでも100でもないと言われても、20ぐらいかはたまた80ぐらいか、全然わかりゃしない。
……まぁいいや。
「サントリーミュージアムで『ピカソと写真展』というのをやっているんですが、君、行く気ないですか」
『ないこともないけど』
 ……この際彼女の言い回しは気にするまい。
「じゃあ、行こう。一応期間が8月の23日まで。君の都合のいい日にあわせるから」
『…………』
 夕佳里さんはすぐに返事をしなかった。ややして彼女は、
『佳月君は、ピカソに興味があるの?』
 と質問を投げかけてきた
「そうだね、ゼロってわけじゃない」
 さっき彼女が言った曖昧な返事で返すと、向こうで微かな笑い声がした。
『そう……わかった。特に都合の悪い日はないけど、いつがいいのかな』
「えーと、じゃあ」
 僕はカレンダーを見た。
「……8月の頭がいいかな」
 とりあえず、5日の午後ということになった。
「一時に中央線弁天町駅の改札前で」
『うん……わかった』
 なんか僕が強引に話を進めたような気がしないでもないが、彼女の曖昧なペースに巻き込まれたら、話がすすまなくなってしまう。
「そういうことで、よろしく」
 僕は電話を終えると、子機を元の場所に戻した。
 ……よく考えたら、サントリーミュージアムも海遊館も、同じ天保山だったな。高崎たちと行く前に、夕佳里さんと行くことになるとは予想もしていなかったが。
 …………天保山か。
 また、三田さんの言葉を思い出す。
『電話してあげて』
 愛子の電話番号は覚えてはいないが、高校の住所録を見たらすぐわかる。しかし、電話をかけるのは調べるほど容易い行為じゃない。だいたい、最初になんて言えばいいんだ。『元気だったか?』とか差し障りのないことを? それからなんて? 
 3年間の空白を埋められる言葉は、僕の中にはないのだろうか。
 もしかしたら、彼女が持っているのかも知れない。

離れずに暖めて
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