「ん、なんやこの写真」
高崎が僕の鞄からひらりと落ちた写真を拾った。
「なんや、自分の写真か。この格好は……あぁ、バイトの制服やな」
「あたり」
「この前のスーツの時も思ったけど、結構こういう格好似合うな、自分」
「そりゃどうも」
僕は鞄から手帳とペンを取り出しながら答えた。高崎はまじまじと写真を見ている。
「しかし……不自然な写り方やな。なんで横向いてんねん」
まぁもっともな疑問だ。
「いや、つい余所見してしまって」
昨日の失敗作の写真は僕がもらって鞄に入れておいたのだが、家で鞄から出すのを忘れ、結局そのまま学校に持ってきてしまったのだ。
「最近ポラロイドって珍しいよな。焼き増しも高くつくし」
僕は写真を高崎に返してもらうと、鞄に入れた。
「なんの為の写真なん? よもやファーストフード特集の雑誌記事に掲載されるとか」
「そんなんじゃない。店の中のボードに貼るだけだ」
雑誌に掲載されるような写真撮影なら、俺は断固として拒否する。
「ふーん……あ、俺たまに、写真のモデルになんねんで」
高崎がそう言ったので、僕は驚いた。
「写真のモデル? どこの写真家の? そんな話初めてきいたぞ」
「……写真家じゃないねん。写真学科の学生のモデル」
高崎は苦笑しつつ答えた。
「へぇ……写真学科に知り合いがいるのか」
「あぁ、俺のアパートの下に住んでる子が……」
言いかけて、高崎は「おっ」と声をあげた。
「めっちゃ人がおんなぁ……」
掲示板の前には人だかりができていた。まぁ無理もない。夏期休暇中の課題が発表されているからだ。横幅が1メートルぐらいの掲示板に、10人ほどの人が群がっている状態だ。近づいても見られるかどうか。
「佳月、任せた」
高崎が僕の背中を叩いた。
「はぁ?」
「お前の身長を活かす時が来た。後ろからでもその身長で覗いたら見えるやろ。俺は後ろで応援しとくから、さぁ行ってきてくれ」
……そういうことかい。応援してもらってもなぁ。そもそも僕と高崎の履修している授業は全て同じというわけではないので、高崎の分をカバーするのは難しい。
「お前の自慢の裸眼2.0の視力を活かせば見られるだろ」
言い合いながら、僕と高崎は掲示板の前に来た。なんとか人の間から、履修している授業の課題を見つけて手帳に書き写す。
テーマが……これで、枚数が10枚で……結構な量だな。
「うわ、坂井っちの課題きっつー……30枚かよ」
書きながら高崎が声をあげた。
「一日一枚ずつ書いたら一ヶ月で終わるかなぁ……」
何を小学生のようなことを言ってるんだか。
僕の履修している授業の課題は5つあった。まぁまぁの数だ。履修科目が多い徳田はもっと多いかも知れない。
この掲示板は専攻の授業の課題だけで、一般教養の課題は違う掲示版に貼られている。僕と高崎は一般教養の掲示板も見たが、そちらは一つだけしか課題がなかった。たいてい一般教養は後期授業の最後にテストかレポートになる。
僕と高崎は手帳を鞄にしまい、掲示板から離れた。
「9月の頭に少し家に帰ろうと思ってんねん」
高崎が言った。
「おばさんはよくなったのか?」
「あぁ、今は起きて普通に家事しとるってさ。最近は浩二も買い物とかいろいろ家の手伝いしてくれるから楽やって、この前電話で言うとった」
「そっか、よかったな」
「あぁ」
僕が言うと、高崎は笑みを見せた。
「そうそう、海遊館さ、8月の平日に行く予定やから、都合悪い日があれば先言ってくれよ」
「今のとこは別に……バイトさえなければ全然」
「そうか、じゃ、適当に決めとくわ……っと」
僕らの歩いている道の向こうから、澁谷先生が歩いてくるのが見えた。白い清楚な感じのワンピースに薄手の上着を着て、ゆるやかなカールの髪を耳の上で留めている先生は、いいとこのお嬢さんがそのまま成長したという雰囲気だった(まぁ実際そのとおりなのだろうが)。あと白い日傘でも持てば、モネの「パラソルの女」現代版といえたかも知れないが、先生は日傘ではなくファイルと本を抱えていた。これから授業か研究室に戻る途中なのか、おそらくどちらかなのだろう。
「久しぶりに見たけど、やっぱきれいやなぁ……」
高崎がつぶやいた。
そうか、高崎は久しぶりなのか。僕なんか毎週見てるが。
そのまま道を変えることもなく歩いたので、当たり前のこととして僕と高崎は澁谷先生と顔を合わすことになった。
「あら、佳月君」
先生は足を止めた。まず僕を見、高崎に視線を移してにっこりとした。
「君は、高崎君だったわね。ごきげんよう」
僕らも「おはようございます」と返した。
「澁谷先生はこれから授業ですか」
高崎がきくと、先生は首を振った。
「いえ、授業ではないのだけれど……」
「先生は、夏期休暇、なにか、予定あるんですか」
なんだ、高崎。積極的に会話を続けようとするなぁ。
高崎の問いに、先生は笑みを深くした。
「私、一月ほどフランスに行くのよ」
「へぇ、フランス」
そういやフランス語も話せるんだっけ。
「観光ですか?」
「父が向こうの大学の教授と会うのに、私も同行することになったの。まぁそれは名目上で、私も知り合いに会ったり、ぶらぶらしようかと思っているんだけど」
「いいですねぇ、フランスですか……俺も行ってみたいなぁ」
……お前がフランスに興味があるとは知らんかったぞ。
「ぜひ、機会があれば行って見るといいわ。フランスに限らないけど、学生のうちにいろんな所に行っていろんなものを見るのも勉強のうちよ」
「フランスっていや、佳月って、確かフランス語とってなかったか」
ぎく。
「いや、とっていたと言っても、フランス語?しか履修してなかったし……」
僕は言い訳のように答えた。
「あら、佳月君、フランス語習ってたの?」
澁谷先生が興味を示したように話にのった。
「意外だわ。それは」
高崎がさらに調子にのってこんなことを言い出した。
「勉強の成果を一言」
……えー?
僕は誤魔化して逃げようかと思ったが、ふっとある言葉を思い出して口に出した。
「Un ange passe」
途端に、先生は笑い出した。僕の発音がおかしいから笑っているのかと思ったら、
「それ、、沼田先生の口癖でしょう。私何度も聞いたわ」
なんだ、知ってるのか。
「なんや、今の。なんて意味やねん」
僕は高崎に教えてやった。
「天使が通った、って意味だよ。沈黙が生じた時『今天使が通った』って言うらしい」
「沈黙が生じたときに、『天使が通った』って、そう言うのか。へぇ……」
「俺がフランス語習ってた沼田先生はよくつまらんギャグを言う人だったんだけど、誰も笑わずにシーンとしてると、必ずこのセリフを言ってごまかしてたんだ」
「なるほど」
「確かに、沼田先生のジョークではちょっと笑えないわね……」
先生は笑いをおさめた。
「でも不思議ね。沈黙が起きると『天使のお通りだ』って言うの。なんとなく素敵じゃない? 見えない天使がそばを通り過ぎるなんて」
天使と言われると、僕はどうしても『女神転生2ソウルハッカーズ』というゲームに出てくるヴァーチャーとかプリンシパリティとかいう天使を思い出してしまう。かなりゲームに洗脳されてるなぁ……やばい。
「それじゃ、楽しい休暇を。課題も忘れずにね」
さりげに先生らしい言葉を口にして、澁谷先生はゆったりとした足取りで行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、
「ふーむ、フランスかぁ……先生には似合うなぁ。優雅な雰囲気だ」
高崎が腕組みして言った。
「しかし案外、澁谷先生って中国とかアジア系でも似合うかも。こう、ミスマッチに見えて意外とあう組み合わせって、あるよな」
「うんうん、カレーに餅とか、抹茶コーヒーとかな」
僕が言うと、高崎はがっくりとした。
「佳月〜……お前俺をからかってるやろ」
お前が妙にロマンにひたってるから。
僕はおかしいのを堪えて、まぁまぁと彼をなだめた。
「あ、そうや」
高崎がふと声をあげたので、僕は彼の方に向き直った。
「さっきの写真、いらないならくれ」
そう言って僕に右手を差し出したので、僕はなんとなく彼の手を握った。
ぎゅっと、両手で。
「おいおい、なにすんねん」
高崎は慌てたように僕の手を払った。
「いや、たまには友情を確認しようかと」
僕の言葉に、高崎はやや呆れ顔を見せる。
「お前は握手で友情を確認するんかい」
「じゃあ抱擁で確認するか」
僕は高崎に向かって両腕を広げた。
「さぁ来い高崎。俺達の熱い友情を、熱い抱擁で確かめよう」
「しくしく」
高崎は泣く真似をした。
「佳月が壊れた……」
ただの冗談なのに、泣くなって。
「……と、冗談はともかく、何で欲しがるんだよ」
僕は鞄から写真を取り出したが、高崎に渡そうか迷った。
「ん、なんとなく。くれ」
高崎が手を伸ばしてきたが、僕は彼の手の届かない位置に写真を持った手を動かした。
「なんで避けんねん」
「……まさか飾るわけじゃないよな」
そう冗談を言ったが、まったくなぜ欲しがるのかわからない。
「いや、まさか。そういうわけじゃないが、悪用はしないから。な?」
…………ま、いいか。
僕は高崎に写真を渡した。どうせ自分で持っていても仕方のないものだ。
「……で、佳月はこれからどこ行くんだ?」
「俺? あぁ、研究室に課題のテキストを取りに。お前は?」
「俺は図書館に行って、ちょっと調べ物を」
僕は時計を見た。今は11時を過ぎたばかりだ。
「……じゃあ12時に食堂で」
「あぁ」
僕は高崎と別れ、研究室に向かった。
研究室には会議室にあるような長テーブルと椅子が置いてあるのだが、その隅の方の席に夕佳里さんと、その右に穂積さんが座っていた。夕佳里さんはジーンズと、暑くないのか長袖のシャツを着ている。穂積さんの方は白地に細かい花を散らした優しい感じのブラウスと、丈の長いスカートを身に付けていた。
「あ、佳月君」
僕に気づいたのは穂積さんだった。
「おはよう」
「あ、おはよう」
僕は二人に近寄った。
「佳月君もあれやろ、課題のテキスト取りに来たんやろ?」
穂積さんがそう言って、机の上に置いていたプリントを示した。
そういや、彼女達も同じ授業履修してたな。
「そこの引出しの三段目にあるよ」
そう教えてくれたので、僕は探す手間もなくテキストを入手することができた。
「研究室で一休み?」
僕が聞くと、夕佳里さんが、
「さっきまで、澁谷先生とここで喋っていたんだ」
と答えた。
先生は僕と高崎に会う前は、研究室にいたらしい。
僕は「座ったら?」と穂積さんに勧められ、彼女の右隣に座った。
「澁谷先生、フランスに行くんだってね」
「そう、聞いた聞いた」
「いいなぁ、私もフランスに行きたい」
夕佳里さんの言葉に、穂積さんが言った。
「私は行くんやったら、イタリアがいいな」
二人ともヨーロッパ系なんだな。
「私、ずっとルーブル美術館にいきたいと思ってるの」
夕佳里さんが言った。
「あそこは一日でまわれないほど広いらしいね」
「らしいね」
彼女はうっとりと芝居がかったような仕草で、両手を組み合わせた。
「ルーブル美術館に隠れて過ごせないかなぁ」
「美術館に隠れる?」
僕が聞き返すと、夕佳里さんは頷いた。
「うん、『クローディアの秘密』って本があるんだけどね、主人公のクローディアって女の子が弟を連れて家出して、アメリカのメトロポリタン美術館に隠れるって、そういう話なの。それに憧れてた時期があって」
美術館に隠れ住む。僕には魅力的とは思えないことだった。どうやって美術館で生活するんだろう。絵画や彫刻などの美術品しかないところで。床で寝るんだろうか。ベンチでも寝られる僕だが、さすがに床では眠れないな。
「その物語がいつ書かれたものか知らないけど、美術館には間違いなく警備員がいるし、警報機だって設置されているだろうから、そう簡単にはいかないだろうね」
僕の返事に、夕佳里さんは「そうだねぇ」と言った。
「でも素敵じゃない? 名画に囲まれて過ごすの」
うーん……。
「でも夜に彫像とか見たら怖いやん。大英博物館やったら、ミイラとかありそうやし、そんなのが歩き出すんじゃないかって思ってしまうわ。私とてもそんなとこで寝られへん」
穂積さんが自分の肩を抱きしめるようにして、体を震わせた。
「でもミイラは足まで包帯でぐるぐる巻かれているから、歩くことはできないし大丈夫だろ」
僕が言うと、穂積さんはちょっとむっとしたように言い返した。
「歩けへんでも、キョンシーみたいに両足揃えてジャンプして来るかも知れへんやん」
…………(くす)。
「あ、今心の中で馬鹿にしたやろ」
穂積さんが僕に突っかかってきた。
「いやいや、そんなことない。馬鹿になんてしてないって」
しかし隣では、夕佳里さんが声をあげずに笑っていた。
穂積さんてわりと怖がりなんだな。
僕はなんとか笑いを表に出さずにおさえた。
しかし……なんか、ちょっと暑い。
研究室の中は、あまり冷房がきいていないらしい。近くに座っている学生は、下敷きであおぎながらワープロを使っている。
さすがに7月になるとたいていの人は半そでになるものだが、夕佳里さんが半そでを着ているところを見たことがない。彼女は暑くないのだろうか。まぁ年中長袖を着ていようが、それは芸大では珍しいことではない。同じ学科の人ではないが、いつ見ても黒ずくめでアタッシュケースを持ち歩いてる人もいる。
「夕佳里さん、長袖着てて暑くない?」
僕が何気なくそう言った途端、
「別にいいやんか、そんなの」
なぜか穂積さんが、突き放すような口調でそう返した。
「人が何着ようと、そんなの勝手やん」
僕は彼女の言葉の内容よりも、その口調に驚かされた。穂積さんの話し方は普段から少し素っ気無い感じもするが、決して冷たいものではない。が、今のそれは以前彼女が、清水さんに対して見せた冷たさを思い出させた。
「……ま、確かに冬に半そで着ようが本人の自由だけどね」
逆にのんびりと言い返すと、穂積さんは口をつぐんだ。テーブルの上で重ねた手に視線を落としてしまう。その隣で夕佳里さんは、感情の読み取れない笑みを浮かべて僕を見ていた。
「教室って、冷房よく効いてるから……半そでだと風邪引きそうになるし」
夕佳里さんの返事は僕の質問の答えとしては適当だったが、穂積さんの態度の理由を説明づけるものではなかった。
しかし、これ以上この話題を続けるのを避けたほうがよさそうだ。
僕は咄嗟に何か別の話題を探し、適当なものを見つけて口にした。
「あ、この間の……映画、面白かったね」
夕佳里さんに対しての言葉になってしまったが、
「あぁ、面白かったん? 隕石の衝突がどうこうって映画」
穂積さんが顔をあげてそう言ったので、僕の気遣いはどうやら報われたらしい。彼女もこの気まずさを回避しようと、僕の話題にのってくれたようだった。
「うん、面白かったよ。圭ちゃんはあまり見たくなさそうだったけど」
「うーん……ああいうのって、最後が想像できてしまうやん」
それを言ったらおしまいだ。
「それに、特に有名な俳優も出てへんかった気がするけど……どう?」
「俺も俳優に詳しくないから、知らない」
僕は俳優で映画を選ぶタイプではないし。
「アメリカの映画だから舞台がアメリカなのは当たり前なんだろうけど……きっと日本では、新井素子の小説みたいな世界が展開してたのかな、って考えたりしたんだけど」
言われて、僕も小説の内容を思い返した。
あの映画はアメリカの映画だから出てくる場所はアメリカがほとんどだったが、よく考えれば世界の全ての人間が隕石の脅威に怯えていたわけだ。当たり前に日本でも、少しでも高いところに逃げようとする人、諦めて家でじっとしている人、隕石衝突の結果引き起こされる津波に飲み込まれる前に死を選ぶ人、そして迫り来る死に耐え兼ねて狂気に陥る人……そういや、映画では狂気に陥る人間はいなかったな。実際、いてもおかしくなさそうなのに。
「ありえない話じゃないよね、隕石の衝突って。ノストラダムスの予言の『恐怖の大魔王』だとかって、隕石という説もあるんだから」
穂積さんがノストラダムスの話を出してきた。
なんか懐かしいネタだな。
「君、ノストラダムス信じてるの?」
「うー、信じてるわけじゃないけど、世紀末って何かが起こりそうじゃない?」
正確には世紀末ってのは、二千年なんだがな。
「戦争とか、何かの事故とか……」
「北斗神拳伝承者が現われるとか」
なーんか今日はいつになく冗談を飛ばしてしまう日だな。しかしその何気ないジョークが、意外に夕佳里さんと穂積さんに大ウケした。
「うわ、懐かしー。それって『北斗の拳』やろ」
「あれ流行ったよね」
へぇ、女の子でも知ってるんだ。
「あの頃って、皆で雑誌回し読みしてたし」
「テレビも見てたよ。クラスにいなかった? 秘孔つく真似する人」
それはいたかなぁ……。
「でもあの漫画やってた頃、ほんとに世紀末には核戦争か何か起こると思ってたわ」
穂積さんが言った。
「まぁ今は核戦争なんか起きたら世界滅亡は確実だから、それはないやろうけど……それでも何か、湾岸戦争よりも規模の大きい戦争とか、何か怖いこと、絶対あると思ってた」
「新世紀は迎えられないと本気で信じてた時あったよね」
夕佳里さんも同調する。
「あ、でも今だって絶対新世紀を迎えられるとは限らないか」
「なんで?」
僕が尋ねると、夕佳里さんは微笑した。
「今日でも明日にでも、何があって死ぬかわからないじゃない」
……まぁ、そうだな。それは間違いない。
しかし人間いつ死ぬかわからないといっても、いつも死を意識しているわけじゃない。むしろ、死を忘れて生きている。いつもそんなことを考えていたら、車の運転もろくにできない。
……あ。
「佳月君、どうかしたん?」
穂積さんが僕の顔をのぞきこんだ。
「え、あぁ……前に履修していた西洋美術の授業で『死を忘れるな』ってのがあったのを思い出して」
「あぁ『メメントモリ』。野田先生がよく言っていた言葉ね」
さすがに美術関係だと、夕佳里さんが冴えている。
「そうそう、それ。それと、野田先生、もう一つなんとか言ってたような……」
僕が言うと、夕佳里さんは即答した。
「もう一つは『ヴァニタス』でしょう。生命のはかなさ、という意味。その二つはよく絵のモチーフとして描かれているものだね」
生命ははかない。死はいつも近くにある。だから死を忘れるな、と。生きているからこそ、その裏側にある死を意識すべきだと……そういう解釈なのだろうか。
「なんだ、美術の講釈会か?」
不意にそんな声がして、振り向くと徳田が立っていた。
「よう」
「おはよ」
徳田は微かな笑みで挨拶に答えると、穂積さんの方を向いた。
「穂積さん、まゆちゃんが探していたが」
「えっ」
穂積さんは目を丸くして声をあげた。
「ほんとに? 待ち合わせは3時だったけど……」
「急ぎではないようだったが……見かけたらボックスに来れたら来てほしいと伝えるように言われた」
「うーん……」
穂積さんはちらっと夕佳里さんを見た。夕佳里さんが「行ってきたら」と言った。
「じゃ、ちょっと行ってくる。すぐ戻るし」
穂積さんは立ちあがると、鞄を手にした。
「徳田君……ちょっと、頼むね」
徳田とすれ違い様に、穂積さんが彼に囁いた。何を頼まれたのか本人はわかっているようで、徳田は「あぁ」と頷いた。
「もう、掲示板を見に行ったのか」
僕が声をかけると、
「あぁ、もう朝のうちに」
彼はさっきまで穂積さんが座っていた椅子に腰を下ろした。
「課題、いくつあった?」
「11」
徳田がそう言ったので、僕は驚いた。
「11! そんなに?」
「本を読んで論文を書くのから創作的なものまでいろいろだが、なぜか絵を描く課題まであった」
「あ、それ知ってる。山田先生の授業でしょ」
夕佳里さんが言った。
「なんとかいう詩を読んで、その情景を絵に表せとかいうの」
「まるで美術学科の課題だな」
「文芸に来て絵を描くことになるなんて思わなかったよ」
徳田は肩をすくめた。
「……なぁ、徳田。さっきから気になっていたんだが、今日のベルト、妙に物が良さそうなんだが」
僕が言うと、徳田は自分のベルトに目をやった。
「あぁ、これか。母の見立てだが、確かに物はいいらしい」
バックルが格好いい。今日の徳田はジーンズでなく茶色のスラックスに白いシャツ、そしてその物が良さそうなベルトという格好だ。こういう格好は知的な彼に似合っている。
「今日、なんかあるのか」
「あぁ、飲み会なんだが……」
徳田は言いにくそうにつぶやいた。
「前の団長も来ることだし、少しまともな格好をしておこうと思って」
「へぇ」
「まゆちゃんの恋人でもある人だ」
……なんかどんな人かわかったような、わからないような。その人には頭があがらないんだろう。まゆちゃんと同じく。
「そうだ、せっかくだから、この前言い足りなかったシューマンについて……」
徳田がそんなことを言い出したので、僕は慌てた。
「いや、シューマンのことは今はいいよ。どうせ語りきれるものじゃないだろ。徳田の論文を楽しみにしてる」
徳田が「そうだな」と答えたので僕はほっとした。
しばらくたわいない話をしていたが、鳥の鳴き声にはっとすると、研究室の壁にかけられた鳩時計が12時を示していた。
「あ、俺12時に高崎と待ち合わせしてるんだ」
僕は徳田を見た。
「え……と、徳田は」
「俺はちょっと頼まれたから、もう少し後で行く」
徳田はそう答えた。
「……あぁ」
僕はふと夕佳里さんの方を見た。
彼女は僕と眼があうと、微笑して「じゃあね」と言った。
「……うん、また」
「行けそうになかったら、携帯に電話する」
徳田の言葉に、僕は彼の方を向いて「わかった」と答えた。
「じゃあ、後で」
僕は研究室を出て、食堂に向かった。
食堂は混雑していたが、早くからきていたらしい高崎は、窓際の明るい席を確保していた。座っている高崎の傍らに清水さんが立っているのが見えた。
なにやら清水さんが大きな声で言っている。
「どうするん? 私行く気ないわ」
「そうやなぁ……」
近寄っていいのかわからない状況だったが、高崎が僕に気づいて手をあげたので、僕は二人に近寄った。
「よう」
「あ、おはよう」
清水さんは困ったような顔を微笑に変えた。
今日の彼女は底の厚いサンダルをはいているので、僕との身長差があまりなくなっている。もっとも、女子高生が履いているほどの厚底ではない。あれを履く子は長身願望があるというが、もとから背の高い清水さんには縁のないものかもしれない。
「……とりあえず、その話はまた次に」
高崎が言うと、清水さんは頷いた。もしかするとサークルの件かもしれない。知ったとき驚いたが、清水さんも高崎のようにバイクを走らせるのが好きらしい。瀬戸さんも同じサークルというから、人は見かけによらない。
「徳田は後で来るってさ」
僕はそう言って椅子に座った。
「清水さんもお昼一緒に食べる?」
きくと、彼女はためらいがちに「友達が待ってるし」と答えた。
「あ、佳月君、高崎君とも言っとってんけど、海遊館とはまた別に、カラオケとか行こうよ」
「え……うん」
カラオケは嫌いじゃないけど苦手だな。誰も知らない歌を歌う方だし。
「バイクでどっか行けたらいいんやけど、佳月君バイクちゃうんやろ?」
「いや、俺原付改造してるから、100キロぐらい出せるよ」
大真面目に言うと、隣で高崎が笑い出した。
「また佳月はそんな顔で冗談言うやろ。あのゲンチャで100キロ出せるわけないやん」
「なんや、マジな顔するから一瞬本気にしたわ」
清水さんはにこっと笑うと、
「じゃ、またね」
立ち去りかけて、彼女は高崎の方を向き、肩から下げていた鞄をぽんと叩いた。
「高崎君、アレ、ありがと」
「ん? あぁ、うん」
高崎が返事を返すと、清水さんはきびすを返した。
……アレってなんだろう。
と思いつつ、僕は違うことを高崎に聞いた。
「清水さん、さっき何か叫んでいたみたいだが」
「あー、あれなぁ。ちょっと……」
高崎はため息をついた。
「うちのサークルで、休み中に旅行に行こうって話が出てるんやけど、幹事が前倉で、まぁいろいろと」
…………。
「どこに行くって?」
「沖縄か北海道やってさ」
また両極端な。
「俺は行きたくないねんけどな。旅行は楽しいけど、今は金のかかることはしたくないし」
「なんで前倉が幹事なんだ」
「誰もやれへんから、奴が立候補してん」
あ、そう。
「なんだかんだ言って、サークルの出席率一番高いのは前倉やからな。俺なんてバイト優先になっとるから、あんまし発言権ないし」
「清水さん、行く気ないって言ってたが」
「そこがなぁ……やっぱり旅行とかコンパとかで盛り上がりたい奴っておるし、一回生は純粋に旅行楽しみにしとるし、3回の俺らが行かないって言い出したら、参加しづらいやろ? 清水が行かんかったら瀬戸さんも行かんやろうし、そしたら他の3回の女子も行かないと思うから……」
「うーん……」
「5万円もあれば浩二にプレステも買ってやれるし、実家のぼろい洗濯機も買い換えられるかも知れんし……と思うと、気楽に旅行に行く気になられへんのが、正直なところだ」
高崎はがくりとテーブルに突っ伏した。
彼は実家のことがあるせいか、お金のことに関してはシビアなところがある。 「お前が行かないと、まずい?」
「前倉が暴走したら、俺ぐらいしか止められへん〜」
……ああ、そう。暴走するんだ。
僕はなんとも声のかけようもなく、窓の外を眺めていた。
今日はいい天気だな、と。
「……行くんならバイク旅行したらええのに。走り屋らしく。うちはバイクのサークルなんやからさ」
高崎のつぶやきは僕に対してのものではなく独り言だったが、僕は助け舟を出そうと口を開いた。
「前倉にそう言ってもダメなのか?」
「少人数ならともかく、初心者含めた10数人がバイクで連なって走ると、いろいろ危ないからなぁ……長距離はとても無理だ」
「難しいな」
「せめて白浜なら行ってもいいんやけど」
それを思うと、徳田のサークルはあまり問題ごとをきかないが、そこは徳田がうまくまとめているんだろうか。それともただ僕らに言わないだけか。
そう考えていると、徳田がやってきた。どうやら用事は終わったらしい。
「お、徳田……なんかしゃれたベルトしてんなぁ」
高崎もベルトに気づいて、徳田をまじまじと見た。
「どこのブランド?」
「なんだったかな。イタリア製だったと思ったが」
徳田は鞄をテーブルの上に置き、座った。暑そうにノートであおぐ。
「いいなぁ、男は小道具にこだわれ! ってな」
高崎の言葉に、僕は頷いた。
「誰のセリフだ?」
徳田が聞いたので、僕が答える。
「高崎と俺の、昔の知り合いのセリフだよ。男はさりげなく小道具にこだわるものだ、って言ってた」
「で、お前らなんかこだわってるのか」
言われて、僕と高崎は顔を見合わせた。
えーっと……。
「あ、俺はこれ!」
高崎は鞄からライターを出した。滅多に見ることはないが、高崎のライターは僕があげたものだ。そんなに高いものではないが滑らかなフォルムに彫り物がしてあって、なかなかしゃれたデザインになっている。誕生日にライターを買ってやろうと言ったとき、高崎が「これがいい」と言い張ったのでそれに決めたのだ。
「ライターか。なかなか格好いいもんだな」
徳田は高崎のライターを手にして、そう評した。一度かちりと火をつける。
「三日に一度は磨いてんねん。きれいなもんやろ。まあオイル補充すんの面倒やけど」
「そうだな」
徳田は高崎にライターを返すと、僕の方を向いた。
「で、佳月は?」
…………うう。
僕はしばらく考えていたが、特に何も思いつかなかった。
いつも持ち歩いているものって言ったら、時計、鞄……でも大したどちらもこだわりはない。
え、俺って何もこだわりの一品持ってなかったのか?
「はーい、タイムオーバー」
高崎が言った。
「佳月君の負けー」
……いつ勝負になったんだよ。
しかし何もあげるものがなかったので、少し悔しかった。
「俺も何か一つ、いいもの買おうかな」
そう言うと高崎が、
「じゃ、鞄をイタリア製に!」
次いで徳田まで言い出す。
「いっそジーンズをオーダーメイドにするってのはどうだ」
そんなんあるんかい。
「オーダーメイドなら靴でもええやん。あ、佳月、ヘアスタイルにこだわれ。これからは有名美容師に切ってもらえばええやん」
……はいはい。
「でも別に、こだわりってブランドものでなければ駄目というわけでもないんだよな」
徳田の言葉に、高崎が「そうだな」と相槌をうった。
「ま、佳月はこれからってことで」
よくわからないが、そういう結論に落ち着いた。
うーん、今度何か買い換えるときは、適当に選ばずにこだわってみるか。
「あぁそうや、休み中、久しぶりに俺んとこ遊びにけぇへんか」
高崎が言った。
そういや、しばらく彼の部屋に行ってなかった。一回の頃はよく泊まりに行っていたものだが、最近は互いにバイトで忙しかったし。
「あぁ、行こうかな」
「ふむ、それはありがたい」
徳田がそう言った。
「え?」
「ありがたいってなんだよ」
高崎が徳田に聞いた。
「いや、練習の帰りだと電車がなくなって奈良まで帰れないことが……待て待て待て」
徳田は頭をノートで叩こうとした高崎を止めた。
「冗談だ。喜んでお邪魔しよう。楽しみにしている」
「飯は佳月が作ってくれるんだよな」
高崎がノートを引っ込めて嬉しそうに言った。
「俺が? ……まぁいいけど」
「やったー、佳月の料理はうまいしな」
といっても、俺は大したもの作った覚えがないぞ。
「そういや佳月はわりと料理ができるんだったな」
徳田が言った。
「どうしてそんな料理をするようになったんだ」
「両親が共働きの頃妹が小さかったから、俺が作るしかなかったんだ」
「なるほど」
まぁ今だって紫はほとんど料理なんかしない。たまにお菓子は作っているみたいだが。
「まぁ適当に作ってやるよ」
「作るならカレー作ってくれ、カレー。大量に。三日は食事に困らないしな」
……三日間昼と晩にカレーを食うんかい。だいたい高崎の家に、そんなでかい鍋があったか記憶にない。
「まぁそれはいつでもいいよ。徳田も電話さえくれたら、その日に泊まりに来ても構わへんし」「そうか? それは嬉しいが、そうしょっちゅう人の家に邪魔するわけにも行かないしな」
彼はそう言うと、眼鏡をハンカチでふいた。眼鏡をかけてから、彼は僕の方を向いた。
「そうだ、俺も佳月が読んでいるという『無意識の組曲』を読もうと思って」
「あ、買ったのか」
「いや、後輩が持っていたのを借りたんだ。レポートの課題図書っていっても、夏期休暇の課題ではないんだろ? だから俺が読み終わるまでの間ぐらい借りても支障はないということで」
徳田が鞄から出した本は、確かに僕も持っている本だった。なかなか分厚いので、辞書も持ち歩く徳田の鞄はかなりの重さになっていることだろう。彼は肩がこったりしないんだろうか。
「実に興味深い本だ。こういったテーマの本はどこか独善的な偏りを持ってしまうものだが、今回はなかなか面白いと思った。シューマンのことも載っていることだし、研究に役に立つかも知れない」
「徳田の研究って?」
高崎が言った。
「論文だよ、卒業制作。高崎はきいてなかったけか」
「ゼミちゃうしな。そうか、徳田はシューマンの研究か。まぁ論文て感じはしててんけど」
そういや、高崎の卒業制作はなんだったんだろう。
そう思って聞くと、高崎は「俺か?」と少し頭をかしげつつ答えた。
「エッセイ的に何かテーマを決めて論じようと思ってんねんけど」
高崎のエッセイはなかなか面白い。彼はそんなに文章的に技巧を凝らす方ではないが、その素直な物の見方とユーモアのセンスには定評がある。難を言うとかなりの遅筆だ。そのために時々課題の提出が遅れてしまい、評価が下げられることがあった。高校のとき、国語の先生に「もう少し早く仕上げるということができたら、高崎の評価は一段階あがるんだが」と言われたらしい。大学入試の論文を高崎が時間内に仕上げられたということが奇跡に近いのではないかと、国語の先生は思ったことだろう。実際入試の時最後まで教室内にいたのは高崎だった。僕は一時間ほど外で寒さに震えていたのを覚えている。
「そうだ、佳月、映画行こうや、映画」
高崎が言った。
映画ねぇ。高崎の好みそうな映画って、何かやってたかな。
「何の映画?」
「えーと『ディープインパクト』だったかな。隕石の」
……うーん。
「俺もう観たよ、それ」
僕が言うと、高崎は「えー」と声をあげた。
「そうなんか。なんや……徳田は行けへんって言ってたしな」
彼はつまらなさそうな顔をしていたが、ふっと視線をあげて僕をみた。
「誰と観たん?」
え?
「なんで」
「いや、なんとなく」
「別にいいだろ、誰と観ても」
「いいけど、隠すほどのことでもないやろ」
「別に隠すつもりはないが」
「じゃあ言ってもええやん」
「だから、なんで聞くんだよ」
「だから、なんとなくやって」
「言わない」
「えー、いいやん教えてくれても」
ここまで来ると、高崎と言葉で遊んでいるような感じだ。
徳田はもちろん僕が誰と映画に行ったか知っているが、口をはさまずに黙っていた。
「俺の知ってる奴?」
「ああ」
僕はいつまでも続きそうなこの言葉のキャッチボールを、どうやって終わらせようか考えた。もう強引に振り切るか、それともはっきり言うか。言ってもいいんだが、相手が夕佳里さんだというところを高崎に深く突っ込まれるのはなんか面倒だ。もちろん高崎はある程度僕の過去を知ってるわけだから、相手が女の子だと知ればきっと何か思うだろうし。
そう考えていると、徳田が「とりあえず昼飯を食べよう」と言いだした。
「高崎も気になるだろうが、佳月は子供じゃないんだから、誰と行こうと放っておいてやれよ」 苦笑交じりにそう言うと、高崎も肩をすくめて笑った。
お昼を食べたあと、僕らは同じ授業に出た。今日の授業は一つだけで終わったが、徳田は今日飲み会ということで、僕と高崎でてくてくとバス停に向かった。
「今日ちょっと梅田で買い物したいんやけど、付き合ってくれよ」
と高崎が言ったので、僕たちは梅田まで出ることになった。とりあえず梅田に出て地下に入ったが、これからどこに行くのかはまだ決めてなかったな。
「何を買うんだ」
「両親の結婚記念日に、何かちょっとしたものを送ろうと思ってさ」
「それはそれは。誕生日にも何か送ってるのか?」
「いや、結婚記念日だけな。誕生日まで送ってたら、俺の財布がピンチになってまうし」
結婚記念日ねぇ。
僕は両親に花をあげたことがあるが、プレゼントをあげたことはない。両親の好みというものがよくわからないからだ。そういえば、うちの母はなぜだかカーネーションが好きではない。母の日はいつもバラの花だった。僕は小学生の頃、カーネーションを色つきの水に浸しておくと、花がその水を吸い上げて色が変わるというのをやってみたいと思った時期があった。だが家にカーネーションが飾られた日がなかったために、その実験をしたことがなかった。今更やってみたいとは思わないが、カーネーションといえばふとその事を思い出す。
「何がいいかなぁ……」
「とりあえずどういうものがいいのか決めないと、ぶらぶらしていても仕方ないぞ」
僕が言うと、高崎はうーん、と腕を組んで考え出した。
高崎が考えている間、僕らは人の邪魔にならないように柱の陰に寄った。今は帰宅ラッシュの時間らしく、近くにある地下鉄御堂筋線と阪神電車の通路から、人の流れが途切れることなく続いている。僕たちが立っている阪神百貨店脇のマクドの前は待ち合わせによく使われる場所のため、近くには待ち合わせをしていらしい人がたくさん立っていた。
「……実用的なものがいいか、それとも飾るようなものか。迷うなぁ」
僕は高崎のつぶやきを聞きながら、行き交う人を眺めていた。
高崎と一緒に梅田に来たのは久しぶりだ。まして買い物というのは珍しい。彼は服なんかを買うときは、たいてい難波か心斎橋の方に行くのだ。僕は逆にミナミには行かないので、あっちに行くとどこにどんな店があるのかわからない。
……にしても、こいつ何も考えずに来たんだな。まだ悩んでる。今日中に何を買うか決まればいいいが。
僕はあくびをかみ殺すと、ふっと視線を遠くにやった。視界の隅を黒い服をきた人が横切ったので、そちらに気を取られたのだ。
その人はこちらに向かって歩いてきた。と言っても僕の方ではない。待ち合わせでもしているのか、僕の立っている柱の向かいの壁際に立ち、腕時計を見る。
僕は暇だということもあって、さりげなくその人物を観察した。
女性だった。よくみると服の色は黒ではなく光沢のある濃いグレーで、色は地味な感じだが肩紐がなく肩は露になっている。首にはおそらくシルクのスカーフを巻いていた。足元にはヒールの高いミュールをはいている。
こんな格好をする女性っていうのはどんな顔なのだろうと思い視線をあげると、濃いサングラスをかけていて目元はわからなかったが、長い髪に縁取られたその顔を、僕はどこかで見たことがあると……。
「うわ」
思わず小さく声をあげてしまった。その声が聞こえたかのように、女性はサングラスを外してこちらを見た。咄嗟に視線をそらそうとしたはずなのに、眼があってしまった。
視界の端に、彼女が笑みを浮かべたのが見えたが、僕はもうそっちを見ることができずにいた。
こんなところで会うなんて思ってもいなかったが、互いに梅田が活動圏内ということを考えればそれは不思議なことではなかった。
頼むから、こっちに来ないでほしい。
その願いはどうやら聞き届けられたらしい。現われた待ち合わせ相手らしい人物が、彼女に話し掛けるのが見えた。そうして二人はどこかへ行ってしまった。
「うーん、やっぱ無難におそろいの湯のみでもえっかなぁ」
高崎ののんびりした声をききながら、僕はため息をついた。
別に後ろめたいことはないはずのに、どうして会いたくないと思ってしまうんだろう。やっぱ自分の情けない過去を思い出したくないからなんだろうなぁ……恥ずかしい。
「……あれ、佳月、お前の電話鳴ってへん?」
言われて、僕は鞄に入れていた携帯を出した。確かに僕の電話が鳴っていた。着信音の『Take Cover』が流れている。他のことに気をとられていて気づかなかったらしい。
通話ボタンを押そうとして、僕は手を止めた。
下4ケタが、9876……こんな携帯のナンバーは、一人しか知らない。
『まだ携帯の番号は昔のままだから』
……そういや僕の番号も、機種変更しかしてないから昔のままだった。
「出ぇへんの?」
高崎が怪訝そうに聞いたが、
「いや、いい」
僕は留守電に切り替え、そのまま携帯を鞄に放り込んだ。
「で、何を買うか決まったなら見に行こう」
「あぁ、じゃ、湯のみってことで」
湯飲みかぁ……阪急百貨店でいいかな。
歩き出してから、僕はさりげなく周りを見回した。だが彼女はもう見えなかった。とっくにどこかへ行ったことだろう。梅田のどこかで留守電の応答をきいて微笑している彼女の顔が頭に浮かんだ。
また電話してくるに違いない。
僕はそう根拠のない確信を抱いた。
「食器は……何階にあんのかな?」
僕は高崎の明るい声を聞きながら、僕は妙な脱力感を感じていた。
……よく考えたら、僕はあの時高崎に助けてもらったと言えるのかも知れない。彼からの電話のおかげで、僕は場に流されすにすんだことだし。
「エレベーターに乗ったらわかるさ」
僕は高崎の背を押して、エレベーターの方へ押しやった。