離れずに暖めて 10
僕は息苦しさを覚え、ネクタイを緩めた。
できれば上着も脱ぎたいところだったが、さすがにそれはできなかった。これからまだいくつかの企業を訪問しなければならない。ったく、今からこんな状況に耐えられなかったら、来年就職活動をする頃はどうなるんだろう。
僕は企業名のプレートのついたドアを叩いた。ややして、ドアが開く。
「はい」
一人の事務員と思しき女性が出てきた。こいつは誰だろう、と言ったような、曖昧な笑みを浮かべて、僕の顔をじっと見上げている。
「あの、忙しいところすいませんが」
僕が用件を切り出そうとすると、
「あれ、あそこのファーストフードの人じゃないですか?」
女性は好意的な笑顔を見せた。
「毎月クーポン配ってるんでしたよね。今月も持ってきてくれたんですか」
女性の制服を見て気づいたが、たまに昼時に何人かで買いにきてくれる常連さんだった。そういえば、彼女の顔にも見覚えがある。確か、よくエビバーガーを買っていく人だ。
「はい、えっと……」
僕は手に下げていた紙袋から封筒を取り出した。中にはクーポン券と二枚の無料券が入っている。
「また来店してください。お待ちしています」
封筒を受け取ると、女性はにっこりして言った。
「もう一つもらっていい?」
「あ、いいですよ」
僕は封筒をさらに二つ渡した。
「いいの? こんなもらって」
「いいですよ」
別にこれぐらいはいいだろう。
「じゃ、僕次行きますんで、お邪魔しました」
僕が頭を下げると、女性も頭をさげてくれた。
「いえいえ、毎回どうも。来月もよろしく」
……さて、次に行こう。
僕はその隣に入っている企業のところにもお邪魔し、その階が終われば下の階へ……といくつもの企業をまわった。さっきみたいに好意的に迎えられるときばかりではない。なんとなく鬱陶しそうに応対されるときもある。
で、僕が何をしているかと言うと、事業所訪問である。
うちのバイト先は大阪のダイヤモンド地下街の一角にあるのだが、今日はその地下街の定休日ということで店も休みだ。その定休日には、夕方6時ごろからバイトと社員が集まってミーティングをするのだが、社員とサブマネージャーは、ミーティング前にいろいろとする仕事がある。その一つがこの事業所訪問だ。これは近くのビルにテナントとして入っている企業に出向いて、クーポン券を渡し「ぜひご利用ください」と挨拶に行くのだ。言わば営業の挨拶まわりみたいなものだろうか。
僕は正確に言うと、まだサブマネージャーではない。だが中岡さんの陰謀で事業所訪問に行かされる羽目になった。私服ではダメだからスーツにしろと言われ、学校に行ってから一度家に帰ってスーツに着替えてまた梅田に出かける手間を考えると、どうしてもスーツを着て学校に行ったほうがマシだろうという結論に達し、今日僕はスーツで学校に行ったのだ。
僕は担当を受け持ったビルの企業を回り終えた。袋の中にはまだクーポン入りの封筒が残っているが、通りすがりの人に渡すわけにもいかないし、ともかく店に戻ろう。
僕は腰の高さあたりまで開けてあったシャッターの下をくぐって店内に入った。空気のとおりが悪いため、少しむっとしている。ここではもう気を使う必要もないので、僕はスーツの上着を脱いだ。椅子の背にかけておこうかと思ったが、考え直した。店長室にあるハンガーにかけておこう。
「あ、佳月君、お疲れ」
店長室では中岡さんがシフト表の作成をしていた。彼もスーツを着ていたが、こちらはすでにネクタイを外している。
「あれ、店長とマネージャーはどこに行ったんですか?」
僕の質問に、中岡さんは作業を続けたまま答える。
「本部に用事があるらしいから、ミーティングが終わる頃に帰ってくるってさ」
「そうですか」
僕はハンガーに上着をかけた。
なんか肩こった気がするなぁ……。
「あぁ、佳月君」
中岡さんは僕を振り返って言った。
「6時まで用事はないからさ、好きなようにゆっくりしててよ」
「わかりました」
僕は時計を見た。今は5時10分か……このまま店で待つのも暇だな。
「ちょっと出てきますね」
「ゲーセンかい」
中岡さんの言葉に、僕は笑いを返した。
ばれてたか。
僕はさっきまで事業所訪問で歩き回っていたビルの地下へ向かった。ビルの地上一階から最上階までは企業が入っているが、地下はゲーセンを始め飲食店、薬局などがテナントとして入っている。そんなビルが近辺に4つほどあって、僕は高校の頃からここらへんをうろついている。この前清水さんと歩いたビルは他のビルだが、一緒にいった喫茶店『ジャマイカ』はこのビルの中にある。
近くのダイヤモンド地下街が休みのためか、ビルの中もいつもより人が少ない。そのせいか、ゲーセンにも人があまりいないように思えた。まぁ僕の好きな格闘ゲームをしている人がいる。それだけで十分だ。さっそく対戦しよう。
僕は対戦台の逆に回り、早速乱入した。小手調べとして、あまり使い慣れていないキャラを選択する。もし相手が強く負けたら、もう一度、今度は自信のあるキャラで乱入するつもりだった。
しかし……弱いなぁ、この人
僕は軽くボタンを叩いて、決めの大技を食らわせた。
こっちはほぼ無傷で三人残し、相手は残り一人という状況になった。しかし相手の男性は、僕に勝てないとみてどこかへ行ってしまったらしい。全く攻撃してこないからそれがわかった。動かない相手に連続技を入れても楽しくない……と思いつつそのまま続けていると、結局クリアしてしまった。
対戦したかったのに、今日は強い相手がいなかったな。もう少し時間をつぶせると思ったのに。
ゲームを終えて僕が立ち上がると、
「きゃー」
と声をあげて、台の向こうから相本さんが顔を出した。
「………………」
びっくりした。反対側で見ていたのか。
「ほんっと強いですね、お兄さん。久しぶりに見ましたが、やっぱり強い!」
相本さんの賛辞に、僕は肩をすくめた。
「いや、相手が弱いだけだよ」
僕の言葉に、相本さんは感激したように言った。
「いいですね、そのセリフ。『相手が弱いだけだ』かぁ。きゃー私も言ってみたいー」
彼女は一度家に帰って着替えたのか、制服でなくて私服を着ていた。厚底靴というほどではないが少し厚みのあるスニーカーを履いているため、いつもより背が高くみえた。
「私ミーティングまでの時間つぶしにきてたんですけどね」
相本さんは僕の姿を上からしたまでじーっと眺めた。
「最初見たとき、どっかのサラリーマンかと思いましたよ」
「お、そんなスーツが似合ってた?」
僕がわざとらしくネクタイを直すと、相本さんはにっこりして言った。
「いえ、背中に哀愁が漂ってました。お疲れ?って感じですかね」
………………。
「それにしても、お兄さん、今日どうしてスーツなんですか?」
「ん、事業所訪問してたからね」
「そっか、サブですもんね」
正確には、まだサブじゃないんだけどな。
僕と相本さんはビルの中をぶらぶらしていたが、どうも時間が余っていた。
「喫茶店でも入る?」
「そうですね」
僕は相本さんを連れてジャマイカに入った。
「あ、ここの名前きいたことありますよ。坂田さんがシフト前にたまに来るって言ってました」
僕も坂田さんに教えてもらったクチだった。
今日も店はこんでいた。僕もそうだが、皆何がよくてこの店にくるんだろう。椅子のカバーも破れてるようなとこなんだが。
どうやらこの店もBGMを流すことにしたらしい。マライア・キャリーの歌が流れていた。音量がやや大きいような気もしたが、うるさいというほどではない。
端の席に座ったところで、おばさんが注文をききにきた。
「アイスコーヒー」
「あ、私、アイスティー」
この店には主人らしきおじさんと、二人のおばさんがいる。何回きても、この三人の関係はわからない。坂田さんは「夫婦と愛人かも」と言っていたが、そんなはずはなかろう。僕の思うに二人のおばさんというのはどうもおじさんの妹と奥さんのようなのだが、三人の会話をきいていても、そういうことが全く伺えないのだ。
カウンターの中に座っていたらしいおじさんが姿を見せた。
うわ……一瞬だけ目があってしまった。
「最近の男というのは、若い女の子が好きらしいな」
と、唐突におじさんは大声で言った。隣にいた妹らしきおばさんが、
「最近の男は、若い女の子が好きらしいね」
と単に繰り返しただけとも取れる返事を返した。この二人はいつもそうだ。会話になっているのかなっていないのかわからない言葉のやりとりをするのである。
「しかし、あれだな。この前と違う女の子を連れてきてるところを見ると、彼女が何人もいるようやな」
「彼女が何人もいるみたいやな」
……どうも僕のことを話題に出しているらしい。この前清水さんと来て、今日は相本さんときてるからなぁ。相本さんにへんに突っ込まれないといいんだが。
幸いと相本さんは気づかないようで、
「ここの店員さんって変わってるって坂田さん言ってましたけど、本当ですね。いつもあんな会話してるんですか」
小声で囁いてきた。
「俺も何回かきてるけど、いつもあんな感じだよ」
「そうなんですか」
彼女はちらっとカウンターに目をやった。
「わしも若い頃は、10人ほど彼女がおってんけどな」
と言うおじさんの言葉に、思わず二人して笑ってしまった。
ほんとかよ。
「はい、アイスティーとアイスコーヒー」
テーブルの上にぽんぽんとグラスが置かれた。持ってきたおばさん(妹?)の動きはなかなか速かった。あっという間にテーブルを離れて、カウンターの中に戻っていく。おじさんもまた座ったらしく、声だけがきこえていた。
「でもお兄さん、そんな格好してたら、いつもとなんか違いますねぇ」
相本さんがしげしげと僕を見た。
「もう社会人みたいですね」
「それは俺が老けてるとか、そういう意味かい」
「嫌だなぁ、お兄さん。そりゃお兄さんは私より4歳上ですが、老けてるなんて一度も思ったことないですよぅ」
……怪しい、この言い方。
「たまーに、ジェネレーションギャップを感じる時ありますけど」
ほら、追加がきた。彼女はいつも二言目にさりげに皮肉を言う子だ。
「でもね、バイト始めて、思ったんですよね。いろんな人と会えるし、年が上の人との交流もあるじゃないですか。バイトしてよかったなぁ、って……」
それなら僕も、店長に紹介してよかったと思う。
「でも本当は、紫と同じとこで働きたかったんだろ?」
「あ、紫のとこの喫茶店は、私がバイト始めようと思った時募集してなかったんですよ」
タイミングが悪かったんだな。
「あそこの喫茶店、すっっっごく格好いい人がいるんです」
へぇ。
「バイト仲間に?」
「いえ、喫茶店のマスターの息子さんで、浩之さんて言うんですけど、ちょっとハーフっぽくてお兄さんとはまた違う格好よさで……」
紫のバイト先に行った事一度はあるけど、そんな人は見なかった。あいつ一言も言ってなかったぞ。
「そんな格好いいんだ」
「私も見たとき、びっくりしましたよ。紫って美形好きでしょ? 最初見た時狂喜したらしいですね。妹さんもいるんですけど、こちらもまたきれいな人で……」
そんな喫茶店なら、紫も喜んで働くだろう。
「でもうちの店もいけてますよ。負けてません」
相本さんはこぶしを握って上下に振った。
「いずれ劣らぬ個性派ぞろいです」
……相本さんもその中に入っているんだろうな。
「いきなりですが、お兄さん、彼女いるんですか」
確かにいきなりだった。
「なんでまた、そんなことを聞くのかな」
僕が聞き返すと、相本さんはストローでグラスの中身をかき混ぜつつ言った。
「『私がきいてもどうせ兄貴ははぐらかすから、亜希子が探りいれといて』、と紫に言われたんで」
相本さん、正直すぎるんだよな。紫は単刀直入に聞けとは言わなかっただろうに。ある意味不器用な子だ。
「まぁ下手にごまかして紫が勘違いすると困るから言っとくけど、付き合ってる人はいないよ」
「そうなんですか」
相本さんは目をぱちぱちさせた。
「紫が前に、お兄さんが女性と歩いているとこを目撃したと」
……あぁ、清水さんか。
「俺、女友達多いから」
軽くかわしたつもりが、
「お言葉ですがお兄さん、お兄さんが友達と思っていても、相手の女性はそうでないかも知れないんですよ」
相本さんの思わぬツッコミにうろたえたりして。
「お兄さんはそういうとこ、結構鈍いんですよね。去年の暮れに辞めた五木さんが、実はお兄さんのこと好きだったって知ってました?」
…………。
「ほらーもったいない。恋のチャンスを逃してますよ、絶対」
相本さんに気がある男の存在を明かすべきか一瞬考えたが、やめておいた。三人も名前をあげたら、彼女も困るだろう。
「チャンスって言ってもなぁ……別に、今は彼女が欲しいとか思ってないから」 勉強と創作とバイトとゲームのことで頭いっぱいだし。
「そうなんですかぁ?」
相本さんは唇をとがらせた。
「つまんなーい。早く美人の彼女捕まえてくださいよー。そんで紹介してくださいよー」
なんだそりゃ。なぜ紹介せねばならんのだ。
しばらく相本さんと他愛ない話を続け、ふと時計を見ると、6時まであと5分というところだった。
かなりぎりぎりだな。
「そろそろ、行こうか」
僕がレジの前に立つと、カウンターの中で座っていたおじさんが、
「毎度ありがとうございます。お世話になっております」
と、声をかけてきた。いつものことだ。
店のシャッターが閉まっていたので、脇の扉から中に入った。こんな時間になって集まっているメンバーは15人か。全部で30人ぐらいいるはずだから、約五十パーの出席率か。まぁ大抵さぼっている僕が、他人のことを言えた義理はないが。
「佳月君、遅いよ」
中岡さんが僕を見つけて言った。
「今日のミーティングの司会は君なんだからさ。ほら、資料」
おいおい、いつ俺が今日司会に決まったんだ。
と言っても文句のいいようもなく、僕は鞄をカウンターに置くと、渡された資料に目を通した。特に重要な事項はなく、読み上げればいいだけの簡単なものだった。これならまぁいいけど。店長もいないから、変な突っ込みを受けることないだろうし。
中岡さんの言ったとおり、店長はミーティングが終わる頃にやってきた。安田マネージャーも一緒だった。社員のいないミーティングほど楽なものはないな。
「佳月君、今日のコンパ来るんやね。久しぶりやん」
鈴木さんが声をかけてきた。
本当はコンパに行くつもりはなかったが、一応僕のサブマネ昇格、他に鈴木さんのトレーナー昇格、あと坂田さんという人の送別会を兼ねているので、参加しないわけにはいかなかった。坂田さんは僕が新人の頃からお世話になっていた人なのだ。彼は今月付けでバイトを辞めることになっている。
「坂田さんが来るらしいから」
「うん、そうらしいね」
今回のコンパの幹事は中岡さんといことで(というか大抵彼が引き受けている)、彼の案内で近くの商店街の飲み屋にぞろぞろと入った。総勢17人。そのうち高校生は6人ほどいたが、皆私服に着替えていた。
3階にある10畳ほどの座敷は貸切にしたらしく、誰もいなかった。いや、一人いた。隅の方で座布団の上にあぐらをかいて、のんびりとタバコを吸っている坂田さんが。
「こんばんは」
「お疲れ様です」
僕らが声をかけると、坂田さんは「よう」と言ってタバコを灰皿に押し付けた。
僕は坂田さんの隣に座った。頭をさげて挨拶する。
「ご無沙汰してます」
「ほんとにな。久しぶりやな、佳月」
坂田さんは目を細めて笑った。僕より二つ年上(一浪一留している)の経済大学4年生で、今日も就職活動をしていたのかスーツを着ている。僕とは違い、紺の地味な印象のあるスーツだった。年よりいくつか上に見える顔立ちのため、まるで社会人のような印象を受けた。
「お前もスーツかいな」
「あ、事業所訪問してたもので」
「そっか、そんな仕事もあったなぁ」
坂田さんは忘れてたよ、とつぶやいた。
テーブルをはさんで向かい側に鈴木さんと佐藤が座った。僕の隣に相本さんが座る。同じテーブルには大体同じ時間帯に入るメンバー同士が一緒に座っている。中岡さんを始め夜がメインのメンバーは、隣のテーブルに集まっていた。幸い社員もそちらのテーブルに行っているので、こちらは気兼ねなく話ができそうだった。
「どうですか、就職活動は」
鈴木さんが坂田さんに話し掛けた。
「いやぁ、どうもなぁ。まだセミナーに参加してるって初期段階やし。履歴書も書くの大変でなぁ」
「え、履歴書って、特技とか資格とか書くだけじゃないんですか」
相本さんが驚いたような声をあげた。
「バイト面接の履歴書と一緒にしてもらっちゃぁ困る。卒論のテーマとか、なぜこの会社を選んだのかとか、自己アピールとか……とにかく、いろいろ書かんといけないわけだ」
「大変ですねぇ」
腕をくんで考え込むような顔をした相本さんに、鈴木さんが言った。
「そんなこと言って、あっこちゃん、自分やってそのうち同じことすんねんで」
「あーそうですねぇ。今から考えとこうかな」
……。
店員さんが忙しそうに僕らの間を歩き回り、料理をテーブルに並べていく。どこの店でも、出てくる料理は似たりよったりだな。揚げ物と刺身が多い。
「じゃ、皆さんお静かにー」
中岡さんが立ち上がった。
「あとから何人か遅れてくるそうですが、とりあえず今いる人で始めることにします」
店員さんが運んできたコップを手に、皆とりあえず乾杯用のビールを注いだ。僕も一応ビールを入れたが、飲まずに乾杯後は坂田さんに渡すつもりだった。 「じゃ、店長」
中岡さんが店長に声をかけると、店長はぐるっとメンバーを見回して言った。
「今日はお疲れ様です。忙しい中、お集まりいただいてありがとうございます。今回は坂田君の送別会、佳月君と鈴木さんの昇格祝いということで」
店長は僕の方を向いてにやりとした。
……嫌な予感。
「新サブマネージャーとして、佳月君に一言お願いしましょう」
うっわー……最悪。
「お、頑張れ佳月」
坂田さんが肩をたたいてきた。
……どうせ逃げられはしないんだから、まともな挨拶しないと。
「ご指名をいただきましたので、挨拶させていただきます。佳月です」
座ったまま言うと、店長が、
「お前立てよ」
といったので、僕は仕方なく立ち上がった。
座敷で皆が座っている中、背が高い僕が立っていたら目線のやりようがない。しかし挨拶するならやはり立たなければならなんのか……やれやれ。
えーと……なんとか頭の中でそれらしい挨拶文を考える。
「この度サブマネージャーとして新たなスタートを切ることになりました。これは僕一人の力でなく、一緒にシフトに入って支えてくれた仲間や、今までトレーニングをしてくれた社員の方や先輩達の存在があってこそだと思っています。
サブとなっても初心を忘れずに頑張りますので、これからもよろしくお願いします」
……短いが、こんなもんだろう。
次に鈴木さんも挨拶をさせられた。その次に坂田さんも短く挨拶を済ませた。
「では、皆さんグラスを持ってください」
全員がグラスを手にしたところで、グラスを掲げ店長が「乾杯」と言った。グラスを合わせる音が響く。
「佳月、乾杯」
坂田さんがグラスを近づけてきたので、僕は応じてグラスを差し出した。
「お兄さん、乾杯しましょ」
「あ、僕も僕も」
「はいはい、乾杯」
相本さんと佐藤もグラスを持った手を差し出してきたので、僕はまたカチカチとグラスを合わせた。
「でも、ま、頑張れよ、佳月」
坂田さんはそう言って、ビールをうまそうに飲んだ。
坂田さんがあっという間にグラスを空にしたので、僕は近くにあったピッチャーのビールを注いだ。
「坂田さんみたいに、皆に慕われるサブを目指しますよ」
僕が言うと、坂田さんは苦笑した。
「俺みたいに、なんて目標小さいよ……俺を抜くつもりでやれよ」
坂田さんを抜く……そんなことは考えたことなかったが、僕は素直に頷いた。
「お兄さん、私たちがついてますもん、大丈夫ですよ!」
相本さんが言って、きゃははと笑った。
……なんか相本さん、いつもより明るい気がするのは気のせいか?
「あ、あっこちゃん、お酒飲んでるんじゃない?」
鈴木さんが言って、相本さんの持っていたコップの中身に口をつけた。
「やっぱり……ダメじゃない、未成年のくせに」
……どうやら飲んだ為にハイになっていたらしい。
「えー、まだ一杯だけですよぉ」
そう答えて、相本さんはまた笑った。手にしていたグラスは、ジュースではなくチューハイだったようだ。皆が気づかないうちに注いだらしい。顔を見る分には酔っているように見えないのだが。
「ったく、弱いくせに飲みたがるんだから」
「帰る時危ないやろ?」
「店の人にばれたら怒られるんだから」
坂田さんを始め皆にたしなめられると、途端に相本さんはしゅんとしてうつむいた。
「すみません、ごめんなさい……」
日ごろ可愛がっているだけに、相本さんが悲しそうな顔をすると、皆急に可愛そうになったらしい。
「いや、そんな気にすることないよ」
「そうそう、帰りは駅までちゃんと送ってあげるって」
「もう次はジュースにしなね」
「ほら、これおいしいよ、食べなって」
鈴木さんが皿に取ってくれたコロッケを、相本さんはもう笑顔に戻っておいしそうに食べている。……立ち直りが早くて結構だ。
「兄貴、ちゃんと管理しないとだめじゃん」
鈴木さんが僕に言った。僕はわざとらしく反省してます、という顔をした。
「申し訳ございません、いたらない兄で」
「いいの、お兄ちゃん、私が悪かったのっ」
と相本さんが僕の腕にしがみついてきたので、僕はよしよし、と頭を撫でてやった。
「……そうして兄と妹は、禁断の愛に目覚めるのであった」
佐藤がドラマのナレーションのように言った。
勝手に人を近親相姦の兄にするなって。
「そう、佳月さん、いまさらですけど……」
佐藤が急に真面目な顔をして言った。
「なんだよ、改まって」
僕もつられて真面目な顔をした。
「いや、やっぱ佳月さんにはお世話になってるから、一言言っておこうかと」
……なんだ?
佐藤は僕の方にまわってきて、僕を隅の方に引っ張っていった。元いた場所で僕の腕から引き離された相本さんが頬をふくらませているのが見えた。
「実は……あのですね」
佐藤は少しもったいぶった後、意を決したように言った。
「僕、最近鈴木さんと付き合いはじめたんですよ」
「え っ?」
僕は驚きの声をあげた。
……というか、声をあげずにはいられなかった。何事かと皆の視線がこっちに集中したので佐藤が慌てる。
「わ、わ、そんな叫ばないでくださいよ」
僕の口をふさごうと伸ばしてきた佐藤の手を払い、僕は佐藤の襟をつかんでその耳元で言った。
「……マジ? 最近って?」
気を使ってできるだけ小声で言うと、佐藤もぼそぼそと返した。
「佳月さんに、バイト変わってもらった日に告白したんですよ……すみません、迷惑かけました」
「いや、気にしてないけど」
二歳の年の差を乗り越えたか……って、全然気づかなかった。
僕と佐藤が隅でこそこそ話しているのを、周りの人は不審そうな目で見ている。
「で、どんなふうに告ったわけ」
「そんな、嫌だなぁ……はは」
佐藤は照れ笑いを浮かべて、髪に手をやった。
「直球ですよ。ストレートに」
へぇ。あんまし想像つかないけど。
「よかったな」
「はは……」
しかし、佐藤が入ってからまだ2ヶ月と少しだぞ……その間に進展するとは。
「あ、佳月君に言ったん?」
鈴木さんが寄ってきた。
「あ、そうなんです。言いました」
「もう、敬語使わんとってよ……」
鈴木さんは少し顔を赤らめつつ、しかしはっきりと口にした。
「彼氏やねんから、立場は対等やろ?」
「はい……」
立場は対等でも佐藤は尻に引かれるタイプだな。相手鈴木さんだし。
「ま、一応佳月君に報告しとこうと思ってん」
「うん、よかったね、おめでとう」
僕が言うと、鈴木さんは急にへらっとした笑みをみせた。
「でも、意外やったやろ? 驚いた?」
そう言って頬に当てた右手の薬指に指輪が。紅い石がついている。
「もしかして、それ」
僕が指輪を指すと、鈴木さんは頷いた。
「そうやねん……ルビー。誕生石やねん」
坂田さんが鈴木さんの肩越しに覗き込んできた。
「何ナイショ話しとん? 俺もまぜてくれ」
……テーブルを離れて隅の方で何人もこそこそしてるって、他人から見ると変な眺めだろうなぁ。
「え、えっと」
佐藤が言いよどんでいると、鈴木さんが、
「あ、私佐藤と付き合うことになったんですよ」
と答えた。坂田さんにも隠す気はないらしい。
「それでその指輪か……ルビーって? ルビーの指輪って言うと、寺尾聰を思い出すなぁ」
「ああ、『ルビーの指輪』ですか」
僕が言うと、坂田さんは頷いた。
「あれって10年ぐらい前「ベストテン」で10週間ぐらい一位だったんだよな」
「すごいですよね……懐かしいというか」
「誰ですかぁ? その人」
興味をひかれたのか、こちらにやってきた相本さんも話に割り込んできた。まだ酔いが覚めていないらしく、少し口調がおかしい。
「相本さんは知らないだろうね。10年前のヒット曲だし」
「どんな曲ですかぁ」
「まぁ……なんつぅか、失恋の歌ですかね」
「『町でベージュのコートを見るたびに 指にルビーの指輪を探すのさ あなたを失ってから』……とかいう歌詞だったかな」
「あんまし別れの歌の話を引っ張ってこんといてくださいよ」
鈴木さんが抗議した。確かに付き合い始めたばかりの二人の前でするには似つかわしくない話題かもな。
とりあえずナイショ話も終えたので、僕らは元の席に戻った。
「ま、鈴木さんもトレーナーとして頑張ってな」
坂田さんが言うと、
「任せて下さい。バックも坂田さんに習ったから、自信もってオペレーションできますよ」
鈴木さんは誇らしげに言った。僕も同じ時間帯入る仲間として心強い。
「そういや佳月は間のAの時期が長かったんだよな」
「そうですね……Bまではとんとんとランクあがって、レジ習得してAになったのが……大学二回になった頃だったかな?」
あまり覚えていないなぁ。
「あの頃いたやつほとんど残ってへんな……俺たちが一番古株だから」
「ほんとですね」
僕と同期なんて一人か二人だけだ。
「高本、小杉、新田……と、あと……そうそう、『女帝』田中」
僕は一瞬言葉を返す事ができなかった。
今になって、彼女の名前をきくことになるとは思わなかった。
「誰ですか、『女帝』って」
相本さんが聞いた。今度はオレンジジュースの入ったグラスを持っている。佐藤も続けて、
「僕も知らないですね。昔いた人ですか」
「二人とも知らんよな。なんせ二年ほど前に辞めてるから」
坂田さんが懐かしむような顔つきで言った。
「昔いた女子に、田中美緒って俺と同い年のがいたんだけど、こいつが接客うまくてなぁ」
「しかも美人でしたよねぇ」
鈴木さんが付け加えた。
澁谷先生とは違い、美緒さんは顔の造作は美人というわけではないが、美人と思わせる雰囲気をもっていた。派手な格好が好きで、スタイルも良く、すれ違う男が振り替えるような人だった。
「クレームの対応もうまくて、店長でさえ一目おいてたからなぁ。姉御タイプで、それであだ名が『女帝』。噂ではラウンジでもバイトしてて、人気ナンバーワンだったらしいけど」
「そんな人いたんですかぁ。見てみたかったなぁ」
鈴木さんが笑いながら僕の方に向き直った。
「そういや佳月君、よく美緒さんにからかわれてたよね」
「……」
僕がまだ新人だったある日、倉庫からカップやらストローをカウンターに運ぶ作業をしていた。その倉庫は女子の更衣室も兼ねていて、いつのまにか美緒さんが更衣室に入って制服に着替えていたのだった。何も知らない僕は鍵のかかっていなかったドアを開けてしまい、着替え中の美緒さんの下着姿を目撃してしまった。もちろんすぐさまドアを閉めた。後で謝りにいくと、そこで美緒さんが僕に言ったセリフは、
「別に、減るもんじゃないから構わないわ。よかったら今度ゆっくり見せよっか?」
それが初対面の新人に言うセリフかよ、と僕はその時思った。
そもそも着替えするなら、鍵を閉めておいてくれればよかったのに……。
その後しばらく、僕はこの時の出来事をネタにしていじめられた。何かと言うと「佳月はあたしのあられもない姿を見た男だからー」だった。嫌でも忘れられん。上も下も黒のレース……いや、忘れよう。
「自分、あいつと仲良かったよな」
「はぁ……」
僕は返事をごまかすように、皿に取った焼き鳥を食べた。ここは食べることに集中して、返答を避けよう。
早く話題が変わらないかと思う僕の気持ちをよそに坂田さんは続けた。
「あいつこの前偶然会ってんけど、俺と同いやから就職活動してんのかと思ったら、なんと結婚するって言うとった」
「え、美緒さん結婚するんですか」
鈴木さんが驚きの声をあげた。
僕も驚いた。……相手はどんな人なんだろう。
「佳月も全然きいてなかったのか、そういう話」
坂田さんに言われて、僕は首を振った。
「いや、僕は美緒さんが辞めてから、全然連絡とってなかったから……」
最後に言葉を交わしたあの電話は、2年ほど前のことだっただろうか。
そう考えてから、急にあの日のことを思い出して、僕はうつむいた。
あの夜の記憶は、彼女が僕の肩に付けた紅い跡のように一週間で消えはしなかった。
「何だよ、どうした佳月」
坂田さんに言われ、僕は顔をあげた。
「いや、ちょっと眠気が」
「まさか一杯ぐらいで酔ったとか言うなよ」
からかうように言われ、僕は笑いでごまかした。
「そんなに弱くないですよ、俺。ちょっと寝不足で」
「お前が入りたての頃は、結構飲みに行ってたのになぁ」
どことなく寂しげに坂田さんは言った。
「ここ二年ほど全然飲みに行ってへんし……昔は飲みながら語ったのになぁ。あの頃はよかった」
「坂田さん親父みたーい」
相本さんが笑いながら言った。
「そんなふうに言うのって、親父ですよぉ」
「親父って、そんな……俺はまだ24だって」
坂田さんがショックを受けたように言った。相本さんと坂田さんでは年が7歳違う。言うなれば相本さんが小学一年生の時に、坂田さんは中学一年生だったわけだ(こうして考えると7歳の年の差というのはかなりである)。
坂田さんとは何回か飲みに行ったことはあるが、高崎や徳田と飲みに行ったことはほとんどない。二人とも飲むと人が変わるので、とりあえず僕だけは素面でいるほうがいいと思っているからだ。坂田さんは酒に強いほうなので、僕が多少酔ったところで心配することはなかった。彼は一人暮らしをしているので、僕が帰れなくなっても泊まらせてくれたりしたし。
しかし僕はやはり飲まないほうがいいと思った時から、坂田さんとも飲みに行くのを止めた。これ以上自己嫌悪に陥ることを増やす前に、原因は絶っておいたほうが無難だという結論のもとに。
……美緒さん、できたら僕のことは忘れていてくれればいいんだが。
僕は氷の解けきったウーロン茶のグラスを空けた。するとそれを待っていたかのように中岡さんが寄ってきて、
「佳月君、ほらビール注いであげるよ」
とピッチャーを持ってきた。
「いいですよ、いりません」
断ると、中岡さんはじとっと僕を見た。
「佳月君は僕の酒が飲めないの?」
…………。
「中岡、佳月は原付に乗って帰るんだから、そんな無理強いするなって」
坂田さんがさらりと言うと、中岡さんは大人しくピッチャーを引っ込めた。大先輩である坂田さんには誰も逆らえないのだ。
「代わりに、俺に注いでくれ」
「わかりました」
中岡さんは坂田さんのグラスにビールを注いだ。
「あ、中岡さん、私にもください」
鈴木さんの言葉に、中岡さんは嬉しそうに、
「鈴木さん、酔って帰れなくなったら、僕が送ってあげよう」
とピッチャーを傾けてビールを注いだ。佐藤が何か言いたげな顔をしたが、ここで下手に口をはさむと鈴木さんと付き合っていることがバレるのを恐れてか、黙ったままだった。
「中岡さん、セクハラですよー」
相本さんがからかった。ほんと、彼女には怖いものなしだな。
「亜希子ちゃん、そりゃないよ。僕ほど誠実な男はいないって」
よく言うよ。
僕は店員に頼み、ウーロン茶のおかわりをもらった。
「亜希子ちゃん、高校卒業したら、お祝いに飲みに連れてってあげるよ」
……まーだ言うか、中岡さんは。
「お兄さんがいいって言ったらいきます」
相本さんがそう言ったので、中岡さんは僕のほうを見た。
「いいよね、佳月君」
そう言われて、僕は答えた。
「もちろん、ダメです」
「僕が信用できないのかい、佳月君」
全然。
8時半になると、高校生は店長命令で全員帰ることになったので、相本さんは先に帰っていった。9時になって、残りのメンバーもお開きにすることになった。
飲み屋を出ても、店の前で坂田さんを囲んで話は続いた。何しろ一番長く働いていて、皆が頼ってきた坂田さんがいなくなるわけだから名残が尽きない。 「就職活動、頑張ってくださいよ」
佐藤が半泣きになって言った。別に二度と会えないわけでもないのに泣かなくても……。
「就職決まらんかったら、店でずっと働けよ」
店長の言葉に、坂田さんは「絶対嫌やわ」とぼそりと言った。
「店にもたまに来て下さいよ」
「就職決まったら、また遊びましょうね」
「わかったよ。いつ決まるかわからんけど」
あまり長くいると店の迷惑になりそうだったので、本当に解散することにした。
時計を見ると、9時半だった。
何人かがカラオケに行くという話をしていたが、僕は遠慮した。
僕は坂田さんと駅まで一緒に帰ることにした。別方向に行こうとする鈴木さんと佐藤を軽く冷やかしてから、駅の方へ歩き出す。
「懐かしいな、久しぶりに皆に会うと」
坂田さんはぽつりと言った。
「しばらく卒論と就職のこと考えとったら、バイトのことなんて忘れてたわ」
僕黙って坂田さんの声をきいていた。
まだ湿度は高いものの昼より気温が下がったため、夜は幾分過ごしやすくなっていた。
「本当は、いろんなバイトをするつもりだったんやけど、結局ファーストフード一つで終わりか……」
「僕もそう思ってましたけどね」
坂田さんは苦笑した。
「辞められんかったからなぁ。店長と言い合いした後で辞めるとまるで負けたみたいやったし、悔しいって思ってたら、辞める機会を逃がしとった」
しかしその口調はさらりとしていて、後悔は感じられなかった。
「でも、なんだかんだ言って、店長は坂田さんに一目おいてましたよ」
「ま、俺をサブにしたんは店長やしな」
僕は坂田さんの横顔を見た。坂田さんは、とても穏やかな顔をしていた。僕は彼のこの表情が好きだった。店長に怒られた後でも、坂田さんは今みたいにやさしい顔をして励ましてくれた。彼がいなければ、僕はずっと前にバイトを辞めていたかも知れない。
その彼がいなくなることは僕にとっても寂しいことだった。でも、今度は僕が、誰かにとってそんな存在になれればいい、そう思う。
駅に着くと、僕と坂田さんは違う線に乗る為、改札の前で別れることになった。
「じゃ、また」
「落ち着いた頃、連絡するわ」
坂田さんは優しげな笑みを見せた。僕もその笑みに応えた。
「待ってます……じゃあ」
僕が背を向けて歩き出そうとすると、
「佳月」
坂田さんが僕を呼び止めた。
「一つ、言うの忘れとったわ。思い出した」
僕は振り返った。
「なんですか」
彼は僕の視線を受けると、坂田さんはなんとなく怪訝そうな顔をして言った。 「女帝から……田中から、お前に会ったら伝えてほしいって言われとった」
僕は彼の言葉の続きを待った。どんな事を言われても、動揺を顔に出さない心の準備をして。
「『まだ携帯の番号は昔のままだから』って……電話してほしいとは言ってなかったが」
「わかりました」
僕は坂田さんに笑いかけ、軽く手をあげた。彼も手をあげて応えた。
「じゃ、お疲れ様」
人ごみの中に坂田さんのひょろりとした後姿が消えていくのを見送り、僕は歩き出した。
番号は昔のまま……か。
僕は苦笑した。
そんなこと言われても、彼女はわかっているはずだ。
僕は絶対電話しないことを。