僕が教室に入ると、ゼミのメンバーは半分ほどがそろっていた。僕がきたのがあまり早くなったから、当然といえば当然なのだが。
徳田はまだきていないようだった。僕は教室内を見回し、左端の列の席に夕佳里さんと穂積さんを見つけ、その後ろの席にまわった。
「おはよう」
声をかけると、二人は振り返った。
「佳月君、徳田君いじめたらあかんやんか」
挨拶も無しに、穂積さんが笑いながら言った。
いきなり言われてなんのことかと思ったが、どうやら「せーちゃん」という呼び名の件だとわかった。
「徳田、なんか言ってた?」
僕がきくと穂積さんは髪を揺らして首をふった。
「特に言ってなかったけど、あの呼び方をするのはマユちゃんだけやから、あまり触れない方がいいと思って」
「まあ二度とは口にはしないと思うけど。なんでまた、せーちゃんなんだろうな」
「あのサークル、ほとんどの団員は名前で呼び合っているよね」
夕佳里さんが言うと、穂積さんは頷いた。
穂積さんにもリサイタルの感想をききたかったが、徳田の複雑な表情を思い出すと聞きづらかった。考えてみれば、徳田は僕が穂積さんの存在を知るずっと以前からの付き合いがある。その間に何かがあったとしてもおかしくはないが……って、何かって何なのか僕にもよくわからんが。
「まだ先生こないやんな」
穂積さんが腕時計を見た。
「たぶん」
僕も時計を見る。あと十分は余裕がある。
「私飲み物買ってくる」
穂積さんは立ち上がった。
「何かついでに買ってこようか」
という彼女の申し出に、僕はコーヒーを、夕佳里さんは紅茶を頼んだ。お金を渡すと、穂積さんは勢いよく教室を飛び出して行った。
穂積さんが行ってしまったので、僕としては好都合だった。なにしろ夕佳里さんを映画に誘うのに、穂積さんが隣にいると気まずいことになる。
さーて、なんと言って切り出したものかな。
「あの本、もう読んだ?」
ありがたいことに、彼女の方から話題をふってくれた。
「あ、ああ、もうすぐ終わる」
あれから二日ほど経ったというのに、実はまだ読み終わっていない。他にしたいことがいろいろあって、読書は後回しになっていたのだ。
「あ、でもムンクの話のところは読んだよ。もう少しで終わる」
夕佳里さんは微笑した。
「そうなんだ。ムンクの『マドンナ』がどんな絵なのか想像つかないでしょ? 私は見たから知っているけど」
それが、見たことあったんだよな、僕は。
僕はこないだ知った事実を打ち明けるべく口を開いた。
「実は、俺『マドンナ』を見たことがあった」
そう言うと、夕佳里さんはびっくりしたようだった。
「え、そうなんだ?」
「むかーし、大原美術館に行った事があった」
「……そういえば、そうだよね。佳月君が書いてたあの小説に、大原美術館のことかいてたよね」
彼女は思い出した、と一人で頷いた。
「大原美術館にも『マドンナ』があるんだから、佳月君が見たことないのはおかしいよね」
「大原美術館にも、って、『マドンナ』っていくつもあるわけ?」
「ムンクは同じタイトルの絵を何枚かかいたり、版画にしたりしているから、同じ絵がいくつもあったって不思議じゃないんだよ」
さすがにムンクの論文を書こうとしているだけあって、彼女はさらりと答えた。
「なるほど。『叫び』は一つだけなんだ?」
「うん、『叫び』は一つだけみたい。でも一度盗まれたんだよ、何年か前」
「じゃあ今はどこにあるのかわからないわけ?」
「ううん、今はもうオスロに戻っているみたい」
へーえ。
『モナリザ』だって、盗まれたことがあると何かの本で読んだことがある。美術館には警報装置もあるだろうに、それでも盗まれてしまうものなのか。
彼女の知識に感心していて、僕はふっと大事なことを思い出した。本の話からムンクの話に変わっていって、映画の話が切りだしにくくなっている。やばいぞ、これは。早くしないと穂積さんだって戻ってくる。徳田だってもうくるだろう。
「あの、あのさ」
「ん?」
夕佳里さんは僕を見た。少し頭を傾けて、見上げるような視線だった。
「もう少ししたら始まる、『ディープインパクト』って映画、知ってる?」
僕が言うと、彼女は少し考え込んだ。
「うーん……きいたことあるけど、どんな映画だっけ」
「簡単に言うと、隕石が地球に衝突するっていう映画」
「あ、知ってる。原作が『神の鉄鎚』とかいう映画だよね」
「それは知らないけど……その映画、俺と一緒に見に行かないか」
彼女は口をつぐんだ。僕をまるで探るような目つきで見る。なんだろ、下心ありそうな男だと思われているのだろうか。
「券が二枚あってさ、内容もなんか……あの本と似てるから、君興味ないかな、と思ったからどうかなと……」
どこか言い訳めいた言葉を口にすると、何か本当に下心があるのをごまかしているような響きになって、僕は一人気まずい思いをした。
「……考えておくね」
あまり興味なさそうなその返事に、
「もちろん、嫌なら別に断ってくれていいよ」
と僕は彼女が断りやすいよう言葉を付け足した。
「え、あ……」
夕佳里さんは困ったような笑いを浮かべ、言葉をつまらせた。
「そんな……嫌とか、そういうことじゃ、ないんだけど……」
そうしてうつむいた彼女を見ていると、僕は自分が悪いことを言ったような気がしてきた。別に困らせるつもりではなかったのだが……。
「おまたせ」
机の上に、コンと硬い音をたててコーヒーの缶が置かれた。見上げると、穂積さんと徳田が立っていた。
「コーヒー、ジョージアしかなかったよ」
穂積さんは僕の前に座った。徳田は僕の隣に座る。
「美女に使い走りさせといて、文句なんか言えませんって」
僕がそう言って缶を開けると、穂積さんは笑った。
「ったく、口がうまいんやね。本当にそう思ってるんか知らんけど」
「いやいや、俺の見る目は確かだって。今日つけてる口紅、新色だろ」
僕の指摘に、穂積さんは口元を押さえた。
「や、わかったん? すごいなぁ」
……というか、化粧品の宣伝のポスターで、タレントが使用している色と同じだし。
隣の徳田も飲み物を持っていた。こちらはウーロン茶だった。
「自販機のとこで、穂積さんと会ったのか」
僕がきくと、
「ああ。使い走りさせられた美女と会ったんだ」
と、徳田には珍しいジョークで返してきた。
「徳田もうまくなったな」
僕がからかうと、徳田は眼鏡のフレームをちょっと押し上げて答えた。
「誰かさんのマネをしただけだ」
……俺のマネか?
ドアが開いて、先生が入ってきた。
「みなさん、おはようございます」
相変わらず艶やかな笑みを浮かべて挨拶の言葉を口にしたが、僕は個人面談の一件から先生の笑みには毒があるように思えて仕方ない。
「今日はなにするんだろうな」
「忘れたのか。一人一人発表するんだろうが」
あ、そっか。
のほほんとしていたが、僕にもそのうち順番がまわってくることを考えるとウンザリした。発表とかは好きではないんだが。考えるのは卒論だけでいいだろうに。
「とりあえず今日はのんびりしていたらいいんじゃないか」
と徳田が言うので、僕は手帳を取り出し、来月のバイトの予定でもたてることにした。
あ、でも夕佳里さんに映画の返事をきいてからの方がいいよな。でももしかしたら断られるかもしれないし……これは困ったな。バイトの予定をたてるのはまたにしよう。
今日の発表者は瀬戸さんだった。彼女は童話を制作しているとかで、自作の童話の紹介とモチーフについて語っていた。配られた資料には、自作の物語と挿絵がかかれていた。
僕はゲームの世界についてでも発表しようかな。それかファーストフードの裏側、とか。うーん、馬鹿にされそうなテーマだ。
僕はコーヒーを飲みつつ、瀬戸さんの物語を読んでいた。よく考えたら、一緒に海遊館に行く子だよな。コンパ以来話していないが……高崎の交友範囲は広いから、僕の知らない学科の学生をよく知っている。あいつは前倉みたいな奴にでも人当たりがいいからなぁ。
だけど、たぶん高崎がそういう奴じゃなかったら、高校時代に僕と彼が友達になることはなかったのかもしれない。出会いっていうのは面白いよな。
ふと徳田を見ると、徳田はじーっと瀬戸さんの童話を読んでいた。彼は創作にはそれほど興味はないものの、いろいろな作品を読む事に関しては熱心だ。すべての作品には学び取れるものがあるということだが、彼は僕の作品から何を学んだんだろう。
瀬戸さんの次は、吉原だった。彼とは個人面談の件以来たまに話したりする。旅行が趣味だそうで、今日の発表も旅行で行った事のある中国についての話だった。資料がうまくつくられていて、なかなか面白い。彼は第二外国語で中国語を履修しているそうだが、講師の先生と中国語で会話ができるらしいときいたことがある。ついでに言えば、中国人と偽っても通用しそうな顔をしている。
「俺は中国よりヨーロッパの方が好みなんだが」
徳田が言った。僕もどちらかというとアジアよりヨーロッパが好みだが、会話が成立しない国に行くのはどうも怖い。まだアメリカなら、片言の英語でなんとか意思を伝えることはできるだろうが。英語の文法は得意だが、発音には自信がない。
「徳田が旅行に行くならどこの国?」
「俺はドイツかイタリアかな。佳月は?」
「俺は……イギリスか、フランスだな。大英博物館に行ってみたい。ロンドン塔も面白そうだし」
「ロンドン塔が面白い?」
徳田は知らないらしい。僕は声をひそめて教えてやった。
「知らないのか。昔処刑場だったところで、たまに霊がでるんだと」
「……お前がイギリスに行くと言っても、俺は絶対同行を断わる」
徳田は意外と怖がりなところがある。特に幽霊というものが苦手らしい。僕としては見えないから別にいいのだが、彼は怨念を残して死に、成仏できない魂という存在自体が怖いのだと言う。まあ本当に恐ろしいのは人の情念だと何かで呼んだ記憶があるぐらいだし、徳田が嫌がるのもわからないではない。
人の発表をきいている間にゼミは終わった。僕の発表はまだ先の事なので、まだしばらくはのんびりできそうだ。
「さーて、徳田君、ボックスいこっか」
穂積さんが言った。今見ると、学校の最寄駅の側のスーパーの袋を手にしている。どうやらお菓子が入っているらしい。
「それ、ボックスで食べるお菓子?」
僕が聞くと、穂積さんは頷いた。
「うん、皆で食べようと思って買ってきてん」
「でもほとんど圭ちゃんが食べるんだよね」
「夕佳里は余計なことを言わないの」
夕佳里さんと穂積さんは顔を見合わせて笑った。
「そうだな、ボックスに行こうか」
徳田が鞄を手に言った。
僕もあとの授業はないので、途中まで一緒に歩いた。夕佳里さんと穂積さんが並んで歩いている後ろで、僕は徳田に、こそっと話し掛けた。
「俺さっき、夕佳里さんを映画に誘ったんだが……」
「で、OKしてもらえたのか」
徳田が気遣って小声で言った。
「いや、まだはっきりした返事はもらってないんだが」
「……」
徳田は何かいいたげな顔つきをした。彼がこういう顔をする時は、言いたいけど言ったらまずいかな、ということを考えている時だ。
「……なんだよ」
「いや……」
促すと、徳田は言葉を濁した。
「お前が返事をもらったときにいうよ」
……?
僕と徳田は立ち止まった。ボックスに向かう徳田たちと別れるところまで来ていた。
「じゃあな」
「おう」
穂積さんが僕に手を振ってきたので、僕も手を上げて返した。
「……」
二人が行ってしまうと、僕と夕佳里さんはバス停に向かって歩き出した。
「穂積さん、最近よくボックスにいくね。まだ学祭には日があるのに練習かな」
僕が言うと、夕佳里さんは鞄を担ぎなおしつつ応えた。
「圭ちゃんはもう正式なメンバーになってるから」
「え、そうなんだ」
今までは単なる助っ人だったのに。そうか、ついにメンバーの一人か。
「前から誘われてたみたいだしね」
ふーん……。
「そういや、穂積さんは、徳田と行ったリサイタルについて、なんか言ってた?」
「うん、……あ、そうそう」
夕佳里さんは僕に向き直り、やや興奮したように言った。
「あのピアニスト、やっぱり佳月君に似てたって。声がそっくりだったって言ってた」
「徳田もそう言ってたけどね」
自分と同じ声か……よくわからんなあ。自分が聞いている自分の声と、他人がきいているのでは違うらしいし。
「顔はまったく同じというわけではなかったみたいだけど……」
そう言ってから、彼女は何かを思い出そうとするような顔つきで、視線をさまよわせた。
「そう、それから……なんかね、澁谷先生に似た人を見たって」
「澁谷先生を?」
まあこの大学の卒業生がピアニストだし、先生は意外と音楽の分野にも興味を持っているらしいから、リサイタルに行くぐらいは不思議ではないのかもしれないが。
「それが……先生、泣いてたみたいだって……」
は?
僕は先生の泣き顔を想像してみた。……駄目だ。どうしても、そんな先生の姿は浮かばない。
「なんか変でしょ?」
言われて、僕は頷いた。
「ピアノのあまりの素晴らしさに感動して泣いたんじゃないか」
あの徳田が言葉では表せない、で終わらせたぐらいだし。
「そうかなぁ……」
「そうだよ、たぶん」
「そうだよね……」
そのつぶやきは納得しきれない気持ちを含んでいたが、夕佳里さんはそれ以上は言わなかった。
「そうだ……穂積さんて、彼氏いる?」
僕がきくと、夕佳里さんはぎくっとしたように僕を見た。
なんか、聞いたら悪かったかな。
「どうして……?」
返す言葉がぎこちない。
なんだろ、怪しいな。
「いや、なんとなく。前に彼女にはいろいろ聞かれたし、お返しにきこうと思って」
もしかしたら戸川って奴と両思いだからサークルに入ったとか、そういう理由があるのかと思ったからだとは言いにくいが。
「…………」
夕佳里さんはうつむいて何かを言いかけてやめるような仕草を二度ほど繰り返したが、ふっと顔をあげて言った。
「いるような、いないような、って言えばいいのかな……」
「は?」
いるようないないような。
穂積さんは彼氏はいないけど何人もの男をはべらせている、とか、実は彼女ならいる、とか……? まさかね。
「私の口からは、これ以上詳しいことは……」
夕佳里さんは言葉を濁した。
「そっか……」
戸川って奴は、そのことを知っているのだろうか。いや、徳田をからかった時、彼は『戸川が穂積さんのことを好きだ』と言って僕の言葉をはぐらかしたが、穂積さんに彼氏がいるとは一言も言わなかった。徳田が知っているなら戸川も知っているはずだから、つまりは戸川は穂積さんに彼氏がいる(らしい)ことを知らないわけか。
まあ穂積さんのサークル参加の理由が戸川でないことはなんとなくわかった(だからどうってわけでもないが)。
「ねえ」
「ん」
僕が夕佳里さんの方に向き直ると、彼女は神妙な顔をしていた。
「返事……今度会った時にするから」
「ん……あ、そうだ」
僕は立ち止まり、鞄の中の適当な紙に自分の携帯番号を書いて渡した。
「携帯の番号渡しとくから、何かあればかけてくれればいいし」
「うん」
夕佳里さんは紙を受け取ると、ペンケースの中にしまった。
「君の連絡先って、ゼミの最初に配られた連絡網の番号でいいよね」
ゼミの二度目の授業で、全員の簡単なプロフィールと住所電話番号を書いた連絡網の表をもらっている。もちろん連絡網には携帯番号は書いていない。確か前倉は書いていた気がするが。
「……うん、そうだね」
そう答えて、夕佳里さんはためらいがちに言った。
「私の家に電話するときね、三回ほどコールしたら、一度切ってほしい。それでもう一度かけてくれたら、次に出るから」
「……いたずら電話防止?」
僕が聞くと、彼女は頷いた。
「あんまりひどいなら、番号かえるとかしたら?」
一応提案したが、番号変えるって金かかった気がする。
「一度、変えたんだけど……」
彼女はそこで言葉を切った。番号を変えたところで効果はあまりないということか。
「わかった。電話するとき気をつけるよ」
「うん」
そのまま夕佳里さんとは、彼女の最寄駅まで一緒だった。
「じゃ、またね」
「じゃあね」
別れ際の一瞬、彼女は笑みを見せてホームに降りた。
最近気づいたが、なんか彼女の話し方は少し変わっている。どこがどうというか、なんとなく。
彼女が降りて電車が動き出してから、鞄の中で携帯が鳴っているのに気づいた。
ディスプレイに表示された番号は……なんだ、佐藤か。
「もしもし」
僕は電車の中ということで、声をひそめた。
『もしもし、佳月さん?』
佐藤の声だった。
「間違いです」
『待って下さいよ、俺ですよ、佐藤です』
佐藤は慌てた調子で続けた。
『佳月さん、今夜暇ですか』
「いや、めちゃくちゃ忙しい。これからデートだし」
僕は佐藤が電話をかけてきた理由がわかっていたので、わざとそんなふうに返した。
『またまたー。彼女いないって知ってるんですよ、嘘つかないで下さい』
電話で話しているうちに、次の駅についた。ここで降りて原付に乗れば家まで15分ほどなんだが……どうやらすぐには帰られそうにない。
「わかったよ、用件を言えよ」
『今日の7時からのシフト、交代してもらえませんか。俺用事ができて……』
「7時から何時だよ」
『10時です』
3時間か、まあ余裕だな。明日9時からもバイトだが、それぐらいなら支障はない。
「いいよ、お前から店長に電話しといてくれ」
『今日店長いませんよ。中岡さんがサブマネで入ってるんで、まあとにかく電話しときますわ』
おおっと、中岡さんか。久しぶりだな。
電話を切って時計を見ると、まだ5時過ぎだった。夕食には早いが、店に着いたら何か食べるかな。
僕は大阪で降りると、まっすぐ店に向かった。
中岡さんがサブマネージャーで入ってるということは社員はいないってことだから、今日はのんびり働けるな。
「あれ、お兄さん」
店内に入るとすぐ、フロアで机を拭いていた相本さんが僕に気づいてやってきた。
「今日入ってました?」
「いや、急遽佐藤のかわりに」
「ああ、そうなんですか」
相本さんも学校帰りにご苦労なことだ。まあ紫は放課後バイトをしたくても父親に反対されている。父親は学業を優先させようという考えなんだろうが、平日の夜に紫が勉強しているとはあまり思えない。
僕がカウンターに行くと、あまり有難くないことにレジ店員二人とも男だった。よく見ると、今シフトインしている女の子は相本さん一人らしい。相本さんはいつも8時にあがるから、8時からメンズレジかぁ……このメンツだと、僕はレジだな。
「佳月君じゃないか」
一人だけ白いシャツを着て、キャップの色も違うサブマネージャー、中岡さんが声をかけてきた。
この人は僕より一つ年上だが同じ大学三回生だ。去年留年してしまったらしい。工業大学に通っていて専門知識はかなりのものらしいが、問題があると言えばその性格だ。前倉といい勝負の女の子好きなのだ。昔の知り合いにも一人女好きがいたが、どうして僕の周りにはこういう人が多いんだろう。
「佐藤からきいてるよ、今日はご苦労さん」
中岡さんは接客をもう一人の男子に任せて(名札には水野と書いてあった)、僕との会話を続けている。僕はその水野君をあまり見たことがないのでわからなかったが、彼はどうやらレジは不得手らしくもたついている。
「中岡さん、彼手間取ってますよ」
僕が囁くと、中岡さんはしれっとして答えた。
「俺、今店頭のメニュー見てる女の子接客するから」
僕が振り返ると、確かにかわいらしい二十歳ぐらいの女の子が店頭のメニューを眺めていた。
……やれやれ。
「僕も客なんですが」
僕が言うと、中岡さんはわざとらしく眉をしかめた。
「やだよ、水野の方に並んで」
……おいおい。
「お兄さん、私が受けますよ」
フロアから帰ってきた相本さんが、中岡さんを脇へどかせてレジの前に立った。
「中岡さん、レジに入る気ないならフライヤーにでもいて下さいよ。ぼけっと立ってられたら邪魔ですよう」
仲間内で相本さんは最強の高校生と言われているが、その所以はサブマネの中岡さん相手でもこういう口をきくところだ。
「亜希子ちゃんはきついなあ」
中岡さんは笑いながら厨房内に去っていった。女子全員を名前で呼ぶのはこの人だけだ。名札には苗字しか書いていないから、シフト表か履歴書を勝手に見て覚えたのだろうか。その律儀さを大学の出席にまわせば留年なんかしなかっただろうに。
のんびりしている間に、6時55分になった。
僕は厨房の入り口の壁に取り付けてある鏡を見ながら、前髪をかきあげてキャップに入れた。ピンでとめて、ずれないように固定する。二ヶ月ほど髪切ってないから、かなり伸びてきたなぁ……そのうち店長に切れと言われそうだ。
制服のネクタイの歪みを正し、手を念入りに洗う。レジに入力して入店登録を済ませると丁度7時。
さーて、今から俺は、ファースフードの店員だ。
相本さんは包材の補充やトレイ拭きなどカウンターの細かい仕事をしているので、僕が接客を引き受けた。さっきまでカウンターにいた水野君は休憩に入り、中岡さんは僕をレジにまわすと厨房に引っ込んだが、たぶんかわいい子がきたときだけレジにくるつもりだろうと僕は読んでいる。あと一人僕と同じく7時から入った男子も、厨房でソースの補充などをしながら中岡さんとバーガーを作っていた。
しかし、夜だろうと店はやはり暇だった。ほんとにこの店は大丈夫なんだろうか。僕が大学を卒業する前にここを辞めて数年したら、違う店になっているような気がする。
「佳月君、学校の方はどう?」
中岡さんが厨房から話しかけてきた。
「まあ真面目に通ってますよ」
僕はカップに氷を入れながら答えた。しかし話し掛けられたために気がそれて、間違えてオレンジの隣のコーラにカップをセットしてしまった。
……まあコーラならよく出るから置いておけば使うだろう、とコーラのカップを近くのアイスケースにしまった。
改めてオレンジジュースを入れなおして商品を揃えた。会計を済ませ、客にトレイを渡す。
「ありがとうございます、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
いつも思うが、長いんだよ、この接客用語は。
そのあと二人レジを受けたが、こんなときに限って全然コーラが出ない。困ったもんだ。まあ捨てればいいが、もったいないよな。
僕はストックのあるバーガーを見ながら、次はどれを客に勧めようかと考えていた。リブサンドがあと4分なのに3つもある……中岡さん、あんまり考えずに作ったな。
「すみません」
いきなりカウンターの向こうから言われて、何かと思って振り向くと、キャップをはずした水野君が立っていた。
「レジお願いします」
「ああ、ごめん」
僕はレジ機に自分の扱いコードを入力した。
「リブサンドがお勧めですが」
と勧めると、水野君は冷めた口調で答えた。
「それ、あと3分ほどでウエスト(捨てるの意味)ですよね」
……ばれたか。
「僕てりやきバーガーにします」
水野君はストックのないやつを注文してきた。
「てりやきはウエイト(今から作る、もしくは作っている最中)だよ」
「かまいませんよ」
「てりやき、ワンウエイトです」
僕はバックの中岡さんにオーダーを通した。中岡さんが後ろから、
「なんだよ水野、リブサンド食ってくれよ」
というと、水野君もカウンターの向こうから返した。
「嫌ですよ、リブサンドは高いし、僕今日はてりやきの気分なんです」
「リブサンドにてりやきソースうってやるから、リブサンド食ってくれ」
……ここまでくると、なんか悲しいものがあるなあ。
僕はもうどっちでもよかったので、てりやきバーガーでレジ登録し、水野君の会計を済ませた。ついでに、入れ間違えたコーラを一緒にトレイにのせる。本当はダメなんだが、やっぱ捨てるのはないし、社員もいないからいいだろ。
水野君が休憩から帰ってくる時には、時間は8時だった。
「じゃ、私そろそろあがりますね」
相本さんが言った。
「ああ、お疲れ様」
「お先失礼しまーす」
相本さんが帰ると、店員は男だけになった。
一度だけ昼間、僕以外全員女子という時もあったが、あのときは大変だった。女子はレジ優先でトレーニングしているからどうしても厨房内のことが把握しきれていなくて、僕も厨房内の二人の女子をフォローしきれなかった。ポテトの入ったバスケットを油から上げたとき時上下に揺すれといわれても、僕なら片手でできるが女の子じゃ重くて両手ですら苦しそうだったし、ピーク時に炭酸の交換をしなけりゃいけなくなった時も、炭酸のケースもかなり重くて女の子が引きずろうとしても少しも動かなかった。あの日は通常のシフトの倍ほどの体力を消耗した気がする。
休憩からあがった水野君が、トレーニングシートを持ってやってきた。
「佳月さん、レジトレしてください」
「ん、いいよ」
僕はトレーニングシートを受け取った。
「とりあえず……水野君はレジ打つときの姿勢がよくない」
「は、はい」
「あと、お客様にお釣りを渡すときは、片手をお客さんの下に添えるんだよ。それがちゃんとできてない」
僕はレジを開け、適当に小銭を出して水野君に渡した。
「やってごらん」
僕が右手を出すと、水野君は右手に小銭を乗せ、左手を僕の右手の下に添えた。
「こ、こうですか」
手が震えてるよ……まあ仕方ないか。
僕は小銭を受け取ってレジにしまった。
客が来たので、僕は接客を水野君に任せた。一通りはレジはできるんだから、あとは滑らかにできるようになればOKだな。佐藤も彼ぐらい積極的にレジトレしてくれたらいいんだが。
「佳月君、今月のミーティングの後のコンパだけどさ」
バックから中岡さんが話し掛けてきた。
うちの店では、月一回の定休日にミーティングをしている。全員参加が原則だが、僕はあまり出ていない。テーマは大体新商品のことだし、ミーティングの内容は連絡ノートというものがあってそれにちゃんと書かれているので、別に出席しなくても困るということはない。
で、そのミーティングの後は、コンパと称してバイト同士でカラオケや飲み会、ボーリングなどに行ったりしている。新人の紹介もあり滅多に会わないバイト同士が会える場でもあるので、ミーティングには出なくてもコンパに出る人は多い。中岡さんもサブマネながらその一人だ。
「佳月君も久しぶりに出なよ」
「すみません、僕その日は用事があって」
みんなで集まるのはいいが、カラオケは好きではないし。居酒屋に行けば絶対中岡さんが僕に飲ませようとするし。
「佳月君付き合い悪いよ。そんなに俺のことが嫌いなの」
後ろで愚痴っている中岡さんを無視して、僕はレジに入った。水野君は手間取りながらも頑張っているし、僕がずっと見ていなくても大丈夫だろう。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
僕はお客さんに笑いかけた。僕も水野君にえらそうにトレーニングしているが、最初のレジはやはり緊張した。僕がこうして客が中年の親父だろうが小学生のガキだろうがにっこり笑って接客できるのも、僕がレジトレを始めた当時の女子のサブマネージャーの指導のお陰だ。
「コーヒー、ホット」
僕が我ながら最高のスマイルを見せたというのに、客のおじさんは無愛想に言った。どことなく目つきが険しいというか、鋭いというか……なんか普通の客じゃないような雰囲気をしている。
「はい、ホットコーヒーをおひとつ」
僕は笑顔を崩さずに繰り返した。
「ご一緒に、アップルパイなどいかがですか?」
「じゃ、もらおうか」
お、いい感じじゃないか。勧めてみるもんだな。
僕は商品と砂糖とミルクを揃えた。会計を済ませてトレイを渡すと、おじさんはレジに近いカウンター席に腰を下ろした。
水野君も接客が終わったところだったので僕はまたレジトレを始めたが、視界に入るさっきのおじさんがどうも気になった。それとなくカウンターや厨房、フロアを観察しているような視線、そして何かを紙に書き込んでいるような仕草。どうも怪しい。
僕は水野君が接客している間に、バックにまわった。
「中岡さん、今日誰か店に来るって聞いてました?」
中岡さんはラッピングの手を止めずに答えた。
「いや、なんもきいてないよ。なんで?」
「フロアにいるおじさんが、どうも普通じゃないんで」
「普通じゃないって、挙動不審てことかい。近くに交番あるから、いざとなったら佳月君走ってきてよ」
いや、そういう意味じゃなくて……。
「支部の人かな、と思って」
「ああ、そういう意味かい」
全国の店は各支部の管轄内にあり(うちの店は大阪支部の管轄になる)、そこには社員でも店長やマネージャーと言った経営でなく、店をまわりながら経営の問題点を調べて会議にかけたり、店長に指導する立場の人間がいる。僕らはそこから店に来る人を『支部の人』と呼んでいる。その人たちは大抵店長がいるときに来るが、今日は店長がいないからもしかしたら支部の人ではなくて、競合店のスパイかもしれない。
僕と中岡さんが話していると、厨房の入り口で「こんばんは」と声がした。見ると、さっきのおじさんが、持っていた鞄からキャップを出して被ろうとしていた。サブマネの中岡さんのキャップは店長やマネージャーと同じ水色だが、おじさんのキャップは紺色だった。それは支部の人間であるという、まぎれもない証拠だった。あまり考えたくないが、支部の人たちは仕事で店をまわるとき、必ず自分のキャップを持ち歩いているらしい。
「こんばんは、お疲れ様です」
僕と中岡さんは頭をさげた。僕の考えは外れてなかったようだが、かと言って嬉しくも何ともない。店長がいない時に来られても困るのだ。
「ごめんねー、忙しいときに」
おじさん、いや支部の人はにっこりした。
「俺最近大阪支部に配属になって、店長いないって知ってたんだけど、近くに用事があったからついでに寄ってみたんだよ。斉藤っていうんだけど、よろしくね」
最初の印象とはずいぶん違い、親しげな話し方をする。
「サブマネージャーの中岡です」
「トレーナーの佳月です」
僕達も自己紹介をした。
「俺ちょっと店長室で仕事させてもらうね」
斉藤さんは奥の店長室に入って行った。僕と中岡さんは思わず顔を見合わせた。
「……何時まで居座るつもりでしょうね」
「さあ……」
斉藤さんは僕があがる時間になってもまだ店長室にいた。1時間以上はいることになる。もう10時だというのに。僕が店長室に入ると、パソコンで何か資料をつくっていた。
「あ、あがり? お疲れさん」
斉藤さんは振り返った。
「佳月君だったっけ」
「はい」
僕は近くにあったパイプイスを出して座った。キャップを外し、前髪をなおした。本当は支部の人の前でこんな長い前髪をみせるのはどうかと思ったが、早く外したくて仕方なかったのだ。
「佳月君、君の接客は、実に気持ちいいね。あのスマイルといい、パイの勧め方のさりげなさといい、実によかった」
は?
僕は斉藤さんに向き直った。彼は僕を見ながら熱っぽく続けた。
「男子であれだけ丁寧な接客できるのは珍しいよ。トレーナーなんてもったいない。サブマネージャー候補として、俺が店長に推薦しとくよ」
……うわ、なんか勝手に話をすすめてるよ、この人。
以前も僕がサブマネになる話が出たが、僕はのらりくらりとその話をかわしていたのだ。サブマネになれば確かに時給はかなりあがるが、責任も重いし仕事も増えるし、売上げに気を使わなければならない。いつも売上げを気にしていなけりゃならないのはごめんだ。
「いや、せっかくですが、僕は」
「ったく、何言ってんの。君がサブマネになったら、きっとこの店のプラスになるよ」
斉藤さんは厨房にいた中岡さんを呼んだ。
「君だって、佳月君はサブマネに相応しいと思うだろ?」
きかれて、中岡さんはにやりとした。今中岡さん一人しかサブマネがいないので、この人も僕にサブマネにならないかと言い続けていたのだ。
「いやぁ、僕もそう思ってたんですよ。佳月君は接客は上手いし、バーガーのドレスだって早くてきれいだし、責任感だってありますからね。トレーナーで終わるのはもったいないですよ」 うわ 。
くっそ、今日佐藤と交代するんじゃなかった。
「今日はとりあえず帰るけど、また今度サブマネ候補の佳月君に会いに来るからね。店長には言っておくから、覚悟しといてよ」
と、斉藤さんは明るく言って去って行った。
「…………」
僕が無言でじとっと見ると、中岡さんは僕の肩を叩いて笑った。
「ほーら、やっぱ佳月君はサブになる人材だよ。支部の人に推薦してもらえるなんて、よかったじゃないか」
「僕は嬉しくないですが」
「またまたー。別に難しくないよ。ただ仕事がちょこっと増えて、ちょっこと責任が重くなるだけだし」
中岡さんのように気楽に物事を考えることが出来たら、僕も苦労しないですむんだが。
「いいじゃん、時給千円だよ。これから夏休みだし、稼ぎなよ」
「中岡さんも3人の女の子とのデート代と、ローン返済のために頑張ってくださいね」
僕は皮肉を言って店長室を出た。
中岡さんが女の子3人と付き合っていること、車を購入したローンに追われているのはバイト内じゃ有名な話だ。
……まあ仕方ないか。いつまでも気楽なトレーナーでいられるとは思ってなかったし、サブマネ経験が長い中岡さんがああ言うのだから、そんなに難しく考えることはないのかも。
僕も根は楽観的な方だしな。
更衣室兼倉庫に入り、僕は着替えを済ませた。
そういや、斎藤さんに髪の長さについては何も言われなかったな。
僕は前髪を引っ張ってみた。眼を隠すほどではないが、それでも睫毛にあたるぐらいの長さだ。まあ高一の時はもっと長かったから、自分では鬱陶しいとは思っていないが、そろそろ切りに行くべきなんだろうな。サブマネが規則を破っていたら話にならんし。
……やれやれ、今日は長い一日だった。
僕は大学でのことを思い返した。
返事は今度会った時、か。夕佳里さんと今度いつ会えるかはわからないが、イエスかノーか、返事はどちらかしかない。もし断わられたら……うーん、今悩んでも仕方ない。
僕は帰り支度を済ませると、更衣室を後にした。