Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  6
 ひま。ヒマ。暇。
 僕はあくびをした。人がせっかく休日をつぶしてバイトをしているというのになんてやりがいのない店だ。バーガーのストックも全部で五個とない。ポテトも揚げてないし、チキンのストックも一つだ。これで店がまわってるんだから不思議だ。
 日曜日の昼前、十一時。十時台の客数なんて、たったの六人! はっ、笑っちまう。この店そのうち潰れるかもな。
 カウンターの女子が三人もいるので一人休憩に入れても、後の二人は接客する相手がいないのでフロアとカウンターの掃除をしている。店長がいなくてよかった。いたらいたで何を言い出すかわからんし。
「佳月さん、クーポン券でも配った方がいいですか」
 佐藤という名の、今年大学一回生という男が僕に話しかけてきた。もう一人の男子は休憩に入れているが、今特に佐藤にさせる仕事もない。ソース、野菜の在庫もチェックしてあるし、要は客がこないとどうにもならない。 
 かと言ってクーポン券配らせて、地下街の警備員に注意されるのは困ったもんだ。また店に苦情の電話がかかってくるかもしれない。配ったとしてもそれだけ客がくるか見こみもないし。
「あー、うん、そーだな……」
 バイト先であるこのファーストフードの店で、今の時間帯バイトで一番上のランクは僕だ。さらに社員であるマネージャーが用で出かけているので、他のバイトの子に指示を出すのは僕の仕事になる。とりあえず、僕のランクはトレーナー。下からT、C、B、Aランクで次にトレーナーときてその上がサブマネージャー。サブマネは社員に代わる時間帯責任者でもある。 僕は厨房から店の中を見まわした。フロアはそこそこ広いが、そこに並ぶ席はほとんどが空いている。時間的な要素もあるが、はっきり言えばこの店は流行っていない。
「あー、よし、佐藤はレジトレ。前のどっちか一人をバックトレーニングする。そう言ってきて」
「え、まじっすかぁ」
「俺はいたってマジメだ」
「レジトレだけは勘弁してくださいよー」
「俺の指示がきけないってのか」
 佐藤はレジ打ちが嫌いらしい。しばらく抗議していたが、しぶしぶカウンターにいった。代りに一人女の子がやってくる。まだ高校生の相本という子だが、実は紫の同級生で、僕は紫から頼まれて彼女を店長に紹介したという経緯がある。相本さんにとって僕は、『バイト先の先輩』というよりも『同級生の兄』という意識が強いらしい。
「お願いしまっす、お兄さん」
 明るい笑顔で相本さんは言った。紫の友達と言うだけでなく、接客にむいたさわやかさを持っていたので僕も店長に紹介できた。明るいだけでなく前向きでもあるが、たまに失敗することもあるのでそれが原因でランクがなかなか上がらない。制服のポロシャツとキュロットが少々野暮ったくみえるような、なかなか感じのいい女の子である。彼女に惚れている男子バイトを、僕は二人ほど知っている。
「じゃあバーガーの作り方だけど」
 僕がトレーニングシートを用意していると、相本さんはふふふ、と含みのある笑い方をした。「紫が言ってましたよ、とうとう兄貴も彼女ができたらしいって」
 ったく、紫のやつ。勝手な事をぺらぺらと。
 僕は手拭用のダスターで手をぬぐった。
「俺のことをどうこう言う前に、自分もいい男さがせっていっといて」
 僕がそう言うと、相本さんはきょとんとした。
「あれ、お兄さん知らないんですか。紫、彼氏いますよ」
 は?
「いつから?」
 僕の質問に、相本さんは冷凍されたミートパティを手に取りながら言った。
「今年の始めやったかなぁ……」
 今年の始めか……。
 僕はパンを袋から取り出してトースターのトレーの上に並べた。
 そういや、あいつがPHSを持ち出したのもその頃からだ。高校に入学した頃はまだ必要ないとか言ってたわりに「周りの子が持ってるから」と言って父親に承諾書を書かせていたっけ(父親は紫に甘いから)。
「どんな男?」
 僕がきくと、相本さんは少し考えるような顔つきをした。
「うちもよく顔覚えてないんですけど、お兄さんほど格好良くはなかったですね」
 いや、別に俺を基準にしなくても。
 焼けたパンを並べた後、相本さんがパンの上にタマネギやソースをのせていく。これには決まった順番があるので、中身があっていればいいというわけではない(パンの上にソースなどの具を乗せていくことを『ドレス』という)。相本さんは手際良くとはいかないまでも、順番をちゃんと覚えていたので特に注意することもなかった。
「身内がかっこいいと理想が高くなるって言うのに、紫は気にせぇへんみたいですね。まあ誰でも自分の彼が最高だと思う時あるもんですし」
 しかし、紫がねぇ……。
 身内の変化には気づくものだと思っていたが、いまや生活のリズムがかなり違う妹のことだし、気づかなくても仕方ないものか。
 身内でそんなものなのだから、ましてや他人のことなど知るよしもない。
 僕が余所見している間に、相本さんは焼いていたミートパティを反転させようとしていた。僕が振りかえったとき、彼女はミートパティを返しそこねて二つ折りにしてしまった。
「きゃー、すみません」
 相本さんは二つ折りになったミートパティを一生懸命もとの形に戻そうと重なった部分を返そうとしていたが、二つに分かれてしまった。
 やれやれ。ま、最初は誰でもする失敗だ。
「いいよ、焼きなおすから」
 僕が新たに焼きなおしている横で、相本さんはまだ二つに分かれたミートパティをいじっていた。僕の視線に、にっこりと罪のない笑顔を見せる。
「これ、きれいにパンの上に乗っけたら使えるんじゃないですか?」
 だから、それはしちゃだめなんだってば。
 
 
 
 僕は口笛を吹きながら学内を歩いていた。
 別に気分がよかったわけではないが、MDをききながら歩いているとついつい吹いてしまう。自慢じゃないが、口笛は我ながら上手いと思う。高崎とイントロクイズができるぐらいには。まあ僕と高崎とではきいている歌手が全然違うので、高崎の正解率は高くはないんだが。
 きいていたのはフィルコリンズだった。少し女々しいとも思える歌詞なのだが、メロディがきれいなので気にいっている。数年前母親がコンサートに行くと言った時、その時はさほど興味がなかったので同行しなかったが、今となっては後悔している。
「佳月君」
 丁度サビの部分を吹いている時に声をかけられたので、僕はまだ続きを吹きながら振りかえった。声で相手はわかっていた。僕は区切りのいいところで口笛をやめ、挨拶の言葉を口にしようとした。
「But everyday I say I’ll try to make my heart be still……だっけ?」
 彼女が口にしたのは、まさしく僕が吹いていた口笛のメロディの歌詞だった。ちょっと驚き。僕はMDのヘッドホンを外した。コードをくるくるとまとめてリュックに入れる。
「よく知ってるね」
 僕が言うと彼女は   宮下さんは微笑した。今日は特に用事はないらしく、化粧はしていなかった。長い髪も結ばずに風に吹かれるままだ。ジーパンとカーキ色のシャツを着ている。「洋楽好きだよ。フィルコリンズ、いいよね」
「どんな訳か知ってる? この歌」
 並んで歩くと、宮下さんは急に立ち止まった。
「ちょっと待って」
 そう言って僕の右側にまわった。彼女は今まで僕の左側にいたのだ。
「よし、じゃあいこっか」
「なんだ、右側にまわりたかったんだ」
 僕が言うと、宮下さんは笑った。
「私、鞄を右側に持つから、人と歩く時は右側を歩くの。でないと歩きづらくて」
「へぇ、そうなんだ」
 僕らは九号館の方に向かっていた。
「で、なんだっけ。さっきの曲の内容?」
 途切れた会話の続きを始める。
「そう」
「片想いの歌じゃなかった? 僕は君がいないとダメなんだ……みたいな」
「そうそう、僕は毎日泣くとか、そんな歌詞」
「彼女は彼のことを愛してなかったんだっけ?」
「まあ、この恋は成就することはないみたいなこと、歌詞にはあった気がするけど」 
 こうして歩いていると、宮下さんが結構歩くのが速いのに気づいた。僕と彼女では背の高さからしてもコンパスの差というものが生じるのだが、僕はいつもより遅く歩いているいう気はしないのに、僕と彼女は同じ速さで歩いている。
「宮下さんて……」
「あ、そうだ」
 彼女は何かを思い出した、というように僕の言葉をさえぎった。僕を見上げて、言いづらそうな顔をしながらも、続ける。
「実は、私、苗字がかわったの」
 僕は一瞬何を言われたのかわからなかった。
「え、え?」
 苗字が変わるって……まさか結婚した? って、彼氏はいないって言ってたよな。
 彼女はなんとも表現のしがたい笑みを浮かべ、改まったような言う。
「叔母夫婦の養女になったから……これから芳峰夕佳里です」
「ヨシミネ?」
「芳しい峰で、芳峰なの」
 はあ、なるほど。
 この前親戚と会ったというのは、その叔母夫婦なのか……。
 宮下さん――いや、もうその名では呼べない彼女は、それ以上のことは言わなかった。まあ僕が深入りすることではない。
「じゃあ、俺はこれから君のことをなんて呼べばいいのかな」
 僕が言うと、彼女は顔を上げた。
「別に、芳峰でいいよ。なんなら名前で呼ぶ?」
 冗談ぽく言うので、僕も冗談で返した。
「名前で読んだら、俺の妹と同じユカリだな。間違えて呼び捨てにしないように気をつけないと」
「そっか、佳月君の妹もユカリだっけ」
 芳峰……きこえないよう、つぶやいてみる。あまりしっくりこない。今まで宮下であったのだから当然だろう。少なくとも、名前の方はこれからも変わることはないわけだし……。
「夕佳里さん、でいこうかな」
 僕が言うと、彼女はくすりと笑った。
「ほんとに? 妹さんと間違えないでね」
「大丈夫だって」
 微妙な緊張感を消すように、僕はわざと明るく言った。叔母夫婦の養女になったというその言葉の裏には、実の両親の不在などといった複雑な家庭環境があるのだろう。どことなく寂しげな彼女の顔が、どうもひっかかって仕方ないのだが。
「ね、佳月君は、どう?」
「は?」
 よくわからない質問をされて、僕は戸惑った。
「あ、ごめん。さっきの歌ね、フィルコリンズの。あの歌詞みたいに佳月君も『君がいないとダメだ』とかそんなふうに考えたことがあるかな、って思ったから」
 はあ、そういうことか。
 僕は少し考えてみた。
 ……つーか恋愛は一度だけしかしたことないし、そりゃあ小学生の頃初恋なんてものもしたけれど、この人がいないとダメだなんて思ったことはない。
第一思ったとして、相手が自分のことを同じように思ってくれなかったら、もう僕は生きていけないじゃないか。そんなことはこれからも考えるとは思えない。
「いや、ないね」
 僕が言うと、彼女――夕佳里さん……は、意外そうな顔をした。
「そうなんだ。圭ちゃんが、佳月君は過去に恋愛で痛い想いをしたに違いない、って言ってた」
 また彼女も勝手なことを。まあ痛い想いはしたけれど、またちょっと違うんだよな……。
「そういや、佳月君てファーストフードでバイトしてるんだったね」
 ころっと違う話になったので、僕は過去の話から離れて嬉しいような……しかし相変わらず僕の話題かい。
「ああ」
 ゼミの自己紹介で言ったから、ゼミのメンバーは全員知っていることだ。
「どう? 『いらっしゃいませー』ってするの。もう二年も働いてるなら、わりと長いよね」
「まあね」
「どうして接客のバイトにしたの?」
「他人とのコミュニケーションを取るのが苦手だったから」
 僕の答えに、彼女は首を傾げた。
「逆じゃない? 他人とコミュニケーションを取るのが得意な人が接客したいと思うんじゃないの?」
「いや、それが……」
 僕は中学校で標準語をからかわれて嫌な思いをしたためで、高校入学時学校ではほとんど話さなかった。高崎と親しくなってからは気にせず話すようになったが、僕はどちらかというと人付き合いが苦手だった。だが創作をするならやはり人間を知るべきだと、とりあえず人がたくさんくるファーストフードでバイトして(時間が好きに選べるのが一番魅力的だった)、しばらくしたら違うバイトをしようと思っていたのだ。しかし思ったようにはいかず、結局今のバイト先で二年……当分やめられそうにもない。
「でも徳田君が見た時、佳月君は楽しそうに働いてたって言ってたよ」
「楽しそう? 接客ってのは笑顔が重要だから、たんに笑ってただけだって」
「そうなんだ」
 彼女は笑った。なんだか、彼女はよく笑う子だ。
「佳月君が接客してたら、女の子のお客が増えるんじゃないの」
「はは」
 そういう常連の女の子がいるらしいことは、鈴木さんからきいているけど本当なんだか。でもそういう人は、僕のことをアイドルと同じようなとらえ方をしているのだろう。性格も何も知らない、外見だけで憧れていて、本当の僕を知ったときに失望せずにいられるかは怪しいものだ。
 本当の僕か……と、自分でもおかしなことを考えたものだ。本当の自分を知る人間は、どれぐらいいるのだろう。
「君はバイトしてないの?」
「私は長期休暇の間だけ、短期でバイトしてるぐらいかな」
 なるほど、そういう人はよくいる。確か徳田もそうだった。
 僕らは文芸の合同研究室に寄って、掲示板のチェックをしようということになった。もしかしたら休講や教室変更があるかもしれない。
 合同研究室の前にある掲示板の告知には、休講は何もなかった。連絡事項の欄に、
『澁谷ゼミ 5/22 「自分の創作の原点」をテーマにして原稿用紙二枚にかいて発表』
とかかれていた。うわー、俺こういうの苦手。
「そういや……夕佳里さんは卒論のテーマは何にした?」
「あ、私前に創作するって言ったっけね。やっぱり論文にした」
「そうなんだ。で、何をテーマにするわけ……夕佳里さんは」
 名前を呼ぶのがまだひっかかっているが、なんとか不自然にならないよう装った。
「ムンクについての論文」
 彼女がそう言ったので僕は、
「ムンクってこういう奴だろ」
と両頬に手をあてた。彼女はくすくす笑う。
「それはムンクの『叫び』っていう絵のことだね」
「そうそう、『ムンクの叫び』」
 いくら美術の知識が貧困な僕でも知っている。
「あの絵の題名は『ムンクの叫び』じゃなくて、『叫び』っていうんだよ。知ってた?」
 彼女がそんなこと言ったので、一瞬きょとんとしてしまう。
「え……っと、ムンクっていうのは画家の名前で、絵のタイトルはたんに『叫び』ってこと?」
「そうそう。勘違いしている人が多いけどね。『The Scream』だったかな」
 へーえ。一つ賢くなったぜ。
「俺、あの絵しか知らないな。他にどんな絵をかいてたっけ」
「有名なのは……『思春期』とか『マドンナ』かなぁ」
 全然知らん。というか、ムンクのあの画風で『マドンナ』(聖母)を描いたら、いったいどんな絵になるのか想像もつかん。
「佳月君は、新井素子って作家を知ってる?」
 いきなり何の脈絡もないような質問をされて戸惑ったが、僕は「知らない」と答えた。
「ムンクの『マドンナ』は、とても聖母像なんかに見えない、暗い背景に裸の女の上半身が描かれているの。女は心持ち上をむいて、目を閉じているように見えるんだけど……その絵の事が、新井素子の『ひとめあなたに…』って作品の中に出てくるの。女性が絵について語るシーンがあるんだけど……女は影に抱かれて喜んでいるような、苦しんでいるような、そんな不思議な表情で、眼は閉じられているのではなく目の抜け落ちた死骸のようにも見える……それが女だって、彼女は言うの。詳しくは読まないとよくわからないと思う、私もうろ覚えで言ってるし。
 ……まだ見たことないけど、見てみたい絵なの」
「へえ」
 なんとも、僕には想像できない絵だ。 
 ……いや、待てよ。マドンナというタイトルの暗い絵を、僕はどこかで見たことがある気がした。今きいた描写が何かひっかかる。
 どこだったかな……ま、いいか。僕が行った美術館なんて数が知れている。
「夕佳里さんはムンクが好きなんだ」
「そう」
 彼女は頬にまつわる髪をはらった。彼女の髪は長くて、肩から背中をおおうように流れている。首から肩まで露わになったショートの清水さんとは対照的だ。
「高校の頃大阪でムンク展があって、期末テストが近いのにわざわざ心斎橋まで行ったの。私もその時は『叫び』しか知らなくて、その絵がどうしても見たかった。日本でムンク展がなければ、オスロまで行く気だったぐらい」
「そんなに『叫び』が好きなんだ」
 そんないい絵だったかなぁ……というより、僕には怖い絵に見えた。人の心の深淵を現わしたような空の色、言い様のない不安に叫ぶ人物……僕は絵画ははわりと好きだが、ああいう絵は好きじゃない。見ていて辛くなってくる。
「好きというかなんというか……そうだね、好きなのかな」
 どっちやねん……と僕は思わず心の中でつっこむ。でも好きでもなかったら、京都からわざわざ観にやってこないだろう。
「なんていうのかな、こう……理屈じゃなくて、あの絵を見てると、感覚的に同調できる部分があるように思えて……そうきっと……私の中にも、思わず叫び出さずにはいられない、何かがあるような気がして……」
 最後の方は独り言のようにかすれ、ききとれなかった。じっと僕を見つめたまま、彼女は声にならない何事かをつぶやいたように見えた。しかしそれは、僕の気のせいだったかもしれない。彼女の眼と何かを語ろうとしている唇の、どちらをも同時に意識することはできなかった。
 何か、言わないと。
 僕はわけがわからないまま、会話をつなぐ糸を探ろうとした。
 ……大きな眼だな。
 唐突に、僕の思考はわき道にそれてしまう。こんなにじっと彼女の顔を見たのは初めてだった。二重で、まつげも長くて……眼に陰があるように見えるのはそのせいだろうか。少しつり上がり気味の眼できつい感じがしないでもないが……でもどちらかというと童顔だし、かわいいって方だよな。
 誰かに、似てる気がする。誰か……どこかで見かけた人? 店に来る客の誰か? 違う。僕が知っている誰か……。
 ああ、そうだ。
 去年僕がかいた小説の女の子に似ているんだ。最後は死んでしまうキャラだったが……長い髪、内気そうだが意外と気が強い性格、大きな眼……意識すればするほど似ているように思えてくる。特にモデルもなくかいたキャラだったが、現実に存在するとすればきっと……。
 僕がじーっと見ていたせいか、夕佳里さんはふっと眼をそらした。急に僕も見つめ合っていたことに照れを感じてしまう。
 ……なにやってんだよ、俺は。
 ふっと眼をそらすと、合同研究室の前にいた前倉と眼が合った……って、僕はぎょっとした。いつからいたんだ、こいつ。研究室のドアは開いたままだったので、全然人の出入りに気づかなかった。
 手にプリントを持っている様子から、合同研究室にあった資料を取りにきたようだった。今日の彼はそれほど外した格好はしていなかったが、どうも僕とは趣味の合わない服装をしている。やっぱり、こいつは好きになれそうにない。
 特に挨拶を交わす仲でもなかったので、僕は彼をよけるように廊下の反対側に移動した。
「いい気なもんだな」
 すれ違いざま、前倉はそう言った。彼は僕の方を見ていなかったし、はっきりと聞こえたわけでなかったから確信はない。だが確かに、彼は何か言った。嘲笑を含んだような一言を……。
 彼はそのまま振りかえることなく、エレベーターの方に行ってしまった。
 なんなんだ、奴は。
 僕は夕佳里さんの方を振り向いて、彼女の様子に驚いた。彼女はいつの間にか二メートルほども離れた距離にいて、廊下の端の方で壁に寄りかかるようにして立っていた。心なしか顔色がさえないように見える。
「……どうかした? 大丈夫?」
 僕が近づくと、彼女は僕を見て、苦しげに言葉をつむいだ。
「……ん、大丈夫」
「本当に?」
 重ねて尋ねると、彼女は力なく笑った。
「……うん、ちょっと調子が悪い、のかな」
 でもそれは、他に理由があるのを隠そうとしているような言い方だった。
 ……なんだ、前倉か? 彼が来るまで、彼女は普通だった。彼のさっきのセリフといい、ひっかかる。でも二人をつなぐものがわからない。なんだろう。
「前倉がどうかした、とか?」
 僕が冗談めかして言うと、彼女は口をつぐんだ。無表情を装った彼女の眼によぎるのは、怯えか不安……。
 僕の気のせいだろうか。
 目の前にいる女の子は、化粧はしていないけど可愛い子だ。前倉が彼女に眼をつけなかったというのはただの好みだろうか。前倉が彼女の存在に気づかなかった、ということは絶対ない。二人の学籍番号は前後だから、一回生の時の英語や基礎演習のクラス分けが同じだったはずだ。
 以前、二人の間に何かあったのは確実のようだ。しかし、ただ前倉にナンパされたことがあるというだけでは、彼女の態度は説明できない。もっと違う、何か……。
「そろそろ、授業にいかないと……」
 夕佳里さんは右手首の腕時計を見ながら言った。女物にしては文字盤の大きな時計だった。 
「あ、もうそんな時間?」
 僕も時計を見た。もうすぐ休憩時間が終わろうという頃だった。そろそろ教室に向かった方がよさそうだ。
「夕佳里さんて、左利きとか?」
 エレベーターの中で、僕は彼女に聞いてみた。彼女は不思議そうに僕を見上げた。
「右利きだけど……どうして?」
「いや、時計を右にはめてるから。普通、右利きの人は左にはめるものじゃないか?」
 一瞬、沈黙。僕は理由のわからない気まずさを味わった。
「……ただ、なんとなく右にはめてるだけだよ」
 彼女はそう答えた。
 
 
 授業が終わった後、僕は徳田や高崎を探した。高崎はまあ学校に来ていない確立はかなり高かったが、たぶん徳田はいるはずだ……と、三つほど教室を覗いていくと、やはり徳田はいた。
「おーい」
 僕が呼びかけると、彼は僕の方にやってきた。廊下で立ち話もなんなので、食堂に行こうということになった。ちょうど昼時だから、飯も食いたいし。
「高崎は」
 僕がきくと、徳田は即答した。
「知らん。今日は見ていない」
 徳田はファイルを手にもっていた。ちらりと覗いているのは楽譜だった。今日も楽団の集まりがあるのだろうか。
「それ、今度学祭で演奏する曲か」
「いや、俺の練習曲だ」
「それにしちゃ愛しのトランペットを持ってないようだが」
 彼の持っている鞄は、どう見てもトランペットは入りそうに無い。
「今はボックスの方に置いてある」
 はー、なるほど。
 徳田が学内で練習している姿を、僕はたまに見かける時がある。大学の裏にある、池の傍で練習していたこともあった。
「今年はしっかり、S……なんとかの演奏をききにいくよ」
 いかん、徳田のサークル名を忘れた。
「『SOUTH WIND ENSEMBLE』だ」
 案の定、徳田はフルネームで言った。ご丁寧に、発音まで正確に口にした。
「そうそう、SWEだっけな」
「略したらな」
 長い名前だというのに、彼は一度も略した事がない。自分のサークルに誇りを持っているからかもしれない。
「徳田は夏休みもサークルの練習か」
「まあな。できたらバイトもしたいんだが……」
「忙しいな」
「さらにレポートもあるだろうから、図書館にも行かなければならない」
「うあー、考えたくないな」
 話しながら食堂に入ると、窓際の席に高崎が座っていた。日の当たるところで、頬杖をついた格好でぼんやりしているようだ。机の上に置かれた紙と筆記用具は、作業中のようだがどれほどはかどっていることやら。
「あいつ授業こないであんなところに」
「俺、驚かしてやろ」
「何をガキみたいなことを」
 僕は高崎の後ろからそっと近寄った。高崎は全然気づいていないようだ。
 後ろから高崎の耳もとで、声をあげる。
「わっ」
「うわっ」
 高崎はびくっとして振り返ろうとし、勢いあまって椅子から転げ落ちてしまった。
「おいおい、大丈夫か」
 やってきた徳田が声をかける。
 僕は高崎が立ちあがるのに手を貸そうとした。
「悪い、そんなに驚くとは」
「あ、ああ」
 高崎は自力で立ち上がった。服をぱたぱたと払う。
「ちょっと考え事しとったから、めっちゃびっくりしただけやし」
「本当に、悪かった」
「いや、いいって」
 僕らは椅子に座った。
 机の上に置かれた紙には、なにやらこちゃこちゃと書かれていた。レポートの下書きらしい。
「授業も出ないで、何をしていたんだ」
 徳田が高崎に言った。
「遅刻したんで、もう出るのやめよ思ってこっちきてん。提出レポート執筆中」
「で、書けたのか」
「まぁな。なんとか間に合うってとこ」
 僕と徳田も椅子に座った。
「あ、そうだ。徳田」
「ん?」
「さっき宮下さんに会ったんだが、彼女、苗字がかわったらしい」
「なんだ、結婚したのか」
 徳田が本気とも冗談ともつかない顔で言った。まあ叔母夫婦の養女になったとかいう話は、僕がしなくてもいいだろう。
「いや、まあ、いろいろあるらしいんだが、芳峰になったそうだ」
「そうか、芳峰か。これからはそう呼ばねばならんのだな」
 徳田は眼鏡を外し、ハンカチで拭いた。
「苗字が変わるっていうのは複雑やなぁ。女は結婚しても変わっちまうしな」
 高崎のつぶやきに、徳田が指摘する。
「男だって、養子に行ったら苗字が変わるぞ」
「あ、そうかぁ……そういう未来もありえるのか」
 高崎はなにやら考えていたが、ふと顔をあげた。
「俺らが外国人と結婚した場合って、名前にカタカナ入るんか?」
「……入らないんじゃないかな」
 そこまで未来の可能性を広げるか、高崎。
離れずに暖めて
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