Time Has Come
 
 
 
離れずに暖めて  3
 それは、学校帰り。いつもは他の友達と集団で歩いているのに、その日は僕らだけで。話が途切れたあとのわずかな沈黙の後、彼女は言ったのだ。
「……私ら、つきあわ、ない……?」
 彼女の言葉に、僕は少々面食らった。
 友達としての関係を変える時がくるとは、全然意識していなかったのだ。
 彼女はうつむいて返事を待っていた。
 僕が答えるのを、待っていた。
 彼女のことは嫌いじゃない。はっきり言ってしまえば、好きだ。女友達の中で一番仲も良いし、話も合う。きっと、楽しくやっていける。
 僕はその時、決めた。
 彼女と付き合おうと。
「いいよ」
 僕の返事に、瞳に浮かんでいた不安の色はぬぐったように消える。
 そうして彼女は、手を差し出した。
「じゃあ、今日から佳月君はうちの彼氏な」
 よろしく、と付け加える。
「よろしく」
 少し照れながら、僕はその手を握る。小さくて僕が握ると壊れそうに感じたその手……。
 

 
 また、見た……見てしまった。
 見たくもないのに、思い出したくないのに、どうしてご丁寧に時間の流れにそって、物語のように夢の中に出てくるのだろう。このままだと、夢の中で僕はまた同じことを繰り返してしまう。できることならなかったことにしたいできごと。
 もういちど布団をかぶって寝なおしたいが、目覚ましが僕を呼んでいた。起きなければならない時間になっているらしい。
「やれやれ」
 僕はため息をつき、ベッドから降りた。目覚まし時計を止める。今は九時過ぎ。さっさと顔洗って、さっぱりしよう。頭を切り替えるんだ。これからバイトだと言うのに。今日は十一時からのバイトで、終わるのが夕方五時。その後の予定はないが、たぶんゲームセンターか本屋に寄って帰るだけだ。
 せっかくのゴールデンウィークだが、高崎に言ったように僕は連続バイトだ。授業がなかったので僕の休みは二日からあったが、その日もバイト、三日もバイト、四日もバイト、五日  今日もバイトだ。稼げて結構。そのうち車でも買おうかな。免許だけは去年の暮れに取得したが、家の車はほとんど父親が使用していて、僕が使用できるときは滅多にない。といっても、助手席にのせるのが大抵買い物にいく母親というのは悲しいものがある。
 僕はそこらにあったシャツを手に取った。少ししわが寄っているが、バイトだけだから、別にいいだろう。
 部屋を出ると、リビングで二つ年下の妹の紫が食事をしていた。すでに化粧もして外出着という姿なので、これからどこかへ出かけるのだろう。我妹ながらそれなりにかわいいものの、化粧のテクはまだまだのようだ。まあ兄としては、変な男に捕まらないことを祈るばかりである。
「今日もバイトなの?」
 紫はパンにバターを塗りながら聞いてきた。
「ああ、そうだよ」
 僕は台所にいって、冷蔵庫を開けた。昨日コンビニで買ったボスの缶コーヒーを探したが見つからない。
「紫、お兄ちゃんのコーヒー知らないか」
 台所からリビングをのぞくと、紫はぎょっとした顔で僕を見た。
「え、あれお兄ちゃんのだったの?」
 何―っ。
「飲んだのか?」
「だって名前かいてなかったじゃん」
 紫はそんな通じるはずもない言い訳をして、責任転嫁を計る。
「そんなもん、名前なんか書くか。小学生じゃあるまいし」
「いいじゃん、お兄ちゃんの方が稼ぎ多いんだから、缶コーヒーぐらい」
 たかだか百二十円、確かに大騒ぎするほどでもないが、飲もうと思ったときになくなっていると無性に腹が立ってくる。
「今日帰りにでも買ってくるから、機嫌なおしてよ」
 反省した様子だったので、とりあえず水に流してやった。
 ったく、しょうのない……。
 

 僕のバイト先は、梅田の地下街にあるファーストフードだ(名前をだしてしまうと少しマイナーだと言われるので出さないでおこう)。ともかく、僕の仕事はバーガーやポテトを作りつづけることだ。時にレジも打つ。接客にまわるのは、カウンターの女の子が足りない時ぐらいだが。
 ここのとこ連続でバイトに入っているので、昼のピークをまわすのにも疲れてきた。毎日バーガーばかり見ているのもうんざりする。食べ物というより無機物を眺めるような感じになってくる。しかしそうなると商品の質がおちてくるので、嫌でも美味しそうな商品をつくることを意識していなければならない。
 でもそれも、あと一時間もしないうちに終わる……。今はもう客も少ないし、気分的にのんびりできるのが嬉しい。
「佳月君」
 カウンターの女の子が僕を呼んだ。鈴木さんという、僕と同い年の子だ。
「なに?」
 僕が持ち場から離れて鈴木さんのほうに行くと、彼女はにやにやしながら僕を手招きして、フロアを指した。
「ご指名だよ」
 は?
 僕がフロアを見ると、カウンター越しに立っていたのは清水さんだった。
「やあ」
 彼女はおどけた口調で片手をあげた。
「え、なんで」
「高崎君に聞いちゃった。梅田きたついでに寄ってみてん」
 百貨店の買い物袋を手にしているところを見ると、確かについでらしい。一人で買い物にきたのかな。
「私、お客様やで」
 と言うので、僕はレジ入力の設定をした。
「何か食べるの?」
 僕が客層を入力していると、清水さんはちょっと頬をふくらませて抗議してきた。
「私お客やってば。普通に接客してみせてや」
 参ったな。
 僕は知り合いに対する対応から、マニュアル道理の対応に切り替えるため、数秒を要した。
「いらっしゃいませ、こんにちは。こちらのお得なセットメニューはいかがですか?」
 スマイルとともに言うと、清水さんはぷっと笑い出した。
「……なんだよ、その態度」
 僕が文句を言うと、清水さんは目じりに浮かべた笑いの涙をぬぐった。
「ごめん、やっぱり普通に話して」
 ……何がおかしいんだ。
 

 僕は五時過ぎに店を出た。
 清水さんの接客のあと、鈴木さんには「この後デート?」と突っ込まれたが、僕は適当にかわした。僕があがった時には店の中にはいなかったので、もう帰ったのだろう。
 そう思っていたら、店を出てすぐの角に清水さんが立っていた。誰かを待っているのかと思えば、僕の方を見て近寄ってきた。
「五時までやったんやな。あんまり待たんでよかった」
 僕を待ってた?
 ポカンとしていると、彼女はにこっと笑った。
「ゲームセンター好きってきいてんけど、のぞいていけへん?」
 なんだ、彼女もゲーマーなのか? 
 僕は彼女に連れられるようにして、近くのゲームセンターに行った。
「今日は一人で買い物?」
「うん。久しぶりにスカート買ってん」
 そういう清水さんは今日もズボンだった。普通のジーパンだが、ウエストでなく腰骨で支えられているタイプだった。これに丈が短めのTシャツをきいてるので下手するとへそだしになりそうなのだが、そこを彼女のスタイルの良さが嫌らしくないように装っている。風よけのためか、薄手の上着を手に持っていた。
 今まで意識しなかったが、清水さんは女の子にしては背が高い方だ。たぶん百六十以上はあるだろう。妹の紫が百六十ぐらいなのに対して、もう少し上に思う。さらに清水さんはヒールのある靴を履いているので、僕との身長差は十センチ弱ぐらいだ。
 すらりとしてスタイル良し、なかなかの美人。対して隣で歩く僕の格好は冴えない。鈴木さんが見たら、デートなどど冷やかすことは出来なかっただろう。こんなしわの寄ったシャツでデートにいく男がいるもんか。
 清水さんはゲームセンターの表にあるUFOキャッチャーをのぞき、景品のクマのぬいぐるみを狙って2回ほどチャレンジした。
「あかんわ、とられへん」
 清水さんが訴えるので、僕は様子を見た。何回やっても、とれそうには見えない。
「これは……とれないかもなぁ」
「佳月君、ゲーム得意なんやろ。こういうのはダメなん?」
 って言っても、UFOキャッチャーとゲームは違うんだけどな……。
 僕は少し考え、近くにあった別の、景品のあるゲームを指さした。
「あれなら、とれるけど」
 それはUFOキャッチャーとは違うが、カニの爪のような形のアームで景品についている金具に引っ掛け、下に引っ張って落とすというゲームだ。コツさえつかめば、大抵の景品は三百円ぐらいでとれる。 
「え、じゃあキティちゃんのストラップとってー」
 僕は要望にこたえ、二百円でストラップを落とした。
「やったー、すっごーい」
 僕は景品を取りだし、はしゃいでいる清水さんに渡した。
「はい」
「ありがと、じゃあ二百円出すよ」
 清水さんは財布からお金を取り出そうとしたが、僕は受取りを拒否した。
「いいよ、そんな」
「え、でも」
 清水さんは躊躇していたが、僕が受け取らないのをみて諦めた。
「じゃあ、また今度違う形で返すわ」
「そんな、いいのに」
 まあこれぐらいで喜んでもらえるなら、容易いことなのだが。
「な、プリクラとろう、プリクラ」
 清水さんが唐突にそんなことを言い出した。
「は?」
「とろう、とろう。フレーム可愛いのあんねんって」
 僕はプリクラの台まで引っ張られそうになって、慌てて清水さんの手を振り払った。
「俺そういうの苦手だから、パス。それだけはダメ」
 清水さんは少し拗ねたような顔をしていたが、「仕方ないか」とつぶやいた。諦めてくれたらしい。
 しばらくうろうろしてから、喫茶店にでも入ろうということになった。
 僕らは大阪駅前ビルの地下にある喫茶店『ジャマイカ』に入った。ここは僕のバイト先の先輩と以前にきたことがある店で、外観は怪しげだがなぜか繁盛している。
 店の奥の席に向かい合って座り、僕はアイスコーヒー、清水さんはアイスティーを注文した。メニューをききにきたおばさんがいってしまうと、清水さんはさっき取ったキティちゃんのストラップを袋から出した。
「使うの?」
 僕がきくと、彼女は
「使うよ。せっかく取ってもらったんやし」
 と、自分の携帯を取り出して、つけてあったブルーの紐の、僕の知らないマスコットのついたストラップを外してしまう。
「それ外すの?」
「だって二つもつけられへんやん」
 彼女はキティのストラップをつけると、携帯を手にして検分するように眺めた。
「うん、可愛い」
「よかったね」
 飲み物が運ばれてきた。
 僕がコーヒーにミルクを入れている間、清水さんは鞄の中を覗きこんで何かを取り出した。テーブルの上に置かれたのは、ライターとピアニッシモという銘柄のタバコだった。
「清水さん、タバコ吸うんだ」
「うん、ちょっとね」
 僕はゼミコンの時清水さんの近くにはいなかったから知らなかったが、きっとその時も吸っていたのだろう。
 慣れた手つきでタバコに火をつけ、ふっと煙を吐き出す。その清水さんの仕草に、なんとなく嫌悪感を感じた。僕は常々、女の子がタバコを吸うのはあまり好ましくないと思っているのだ。
「清水さん、タバコ……やめたら?」
 僕が言うと、彼女はタバコの灰をとんとんと灰皿に落としながら、僕の顔を見た。
「……どうして」
「体によくないしね」
 僕はアイスコーヒーをストローでかき混ぜてから飲んだ。清水さんはしばらく黙っていたが、タバコを灰皿に置いた。
「佳月君は、タバコ吸う女の子は嫌い?」
「まあ、好きとは言い難いね」
 僕の返事に、清水さんが複雑な表情をしていたので、僕は慌てて付け加えた。
「もちろん、吸う吸わないは個人の自由だから、別に清水さんに絶対やめろとは言わないよ。ただ健康を害するものだから」
 清水さんは僕の言葉に、返事をしなかった。
 その後話が変わってからは、清水さんはタバコに触れなかった。灰皿の上で、タバコは半分も吸われないままに放置されていた……。

 帰り、僕はJRなので地下街を通って駅に向うことにした。清水さんは地下鉄だったので、途中で分かれる。
「じゃあ、またゼミで」
「またね」
 僕はMDのヘッドホンを耳につけた。ノリのいい洋楽ロックのおかげで少し気分が向上する。
 帰って寝よう。疲れていると、ロクなこと考えないものだ。さっさと帰ろう。
 僕が家についた時には、七時前だった。少ししたら夕食だというので、寝ることも出来ずに僕はテレビゲームをして時間をつぶしていた。
「ただいまー」
 紫が帰ってきたらしい。僕がゲームをしている後ろからやってきて、
「お兄ちゃん、見たよー」
 含みのある言い方で、僕の顔を見た。
「なんだよ、何を見たんだ」
 僕がそっけなく言うと、紫は僕が脅しにのらなかったせいかつまらなさそうな顔をした。
「梅田で、お兄ちゃんがきれいな人と歩いているの見たよー。あれって彼女じゃないの?」
 なんだ、清水さんと一緒のとこを見たってことか。
「兄貴の趣味ってよくわかんないや。美人だけど、前の……なんて名前だっけ? あの人とは全然タイプが」
「うるさいな」
 僕は紫の言葉をさえぎった。他人にとやかく言われるのはいい気がしない。まして今一番思い出したくないことを思い出さされるのは最悪だ。
「それより紫、ちゃんとコーヒー買ってきたか」
 僕が言うと、紫は持っていた鞄をあさった。
「もー、わかってるわかってる。兄貴はうるさいなぁ」
 お前が俺のコーヒー飲むからだろうが。
「はい、コーヒー」
 紫が缶コーヒーを鞄から出した。そのままたたた、と自分の部屋に帰っていく。
「おい、待て、紫」
 僕は渡された缶コーヒーを持ったまま、紫を追いかける。紫は僕の目の前でばたんとドアを閉じた。ご丁寧に鍵も閉めたらしい。
 逃げるってことは、ワザとだな、あいつ。
 僕は紫の部屋のドアを蹴った。この部屋のドアは壊れていて、かぎを閉め様とちょっと強く押せばすぐ開くのだ。
「なにすんのよ、暴力兄貴っ」
 もはや逃げ様のなくなった紫が、クッションで少しでも僕を遠ざけようとする。
 往生際の悪い奴だ。
 僕は持っていた缶コーヒーを、紫のベッドの上に投げた。
「UCCなんぞ甘くて飲めるかっ。ボス買って来いボスをっ」
「いいじゃんかー。UCCでも」
 ……なんつー妹だ。
 
 
 
 

 連休あけ、大学に行くと予想どおり学生の数は減っていた。
 昼時も食堂ががら空きである。僕は四人がけの席を一人で占領して、一番安い定食を食べた。この時期になると、帰りの電車もあまり混まないからいい。ただ同じ授業の友達がこなくなると、出席カードの確保や掲示板にない情報の入手ができなくなるので心もとない。まあ徳田が大抵の専攻の授業に出席しているので、孤独ではないのだが。高崎には期待できない。奴は時間さえあればコンピニのバイトで稼いでいるのだ。
 その他の友人は……週に一度会うか会わないかの奴もいる。一体学業をほったらかしで何をしているのかは知らないが、僕は留年だけはしたくないので、そこのとこは真面目に授業をこなしている。
 文芸の研究室に行くと、澁谷ゼミの予定が掲示板に張り出してあった。
『今週と来週で、ゼミ生一人一人に十五分から二十分ほどで卒業制作又は論文のテーマを研究室で発表してもらいます。あくまで予定しているもので結構です。しかしまだ先のことと思わずに、今からしっかり構想を練っておくこと。発表の順番は、学籍番号順にしました。予定のあわない人は、研究室まで言いにきてください。    澁谷』
 うーむ、卒業制作か……。
 卒業まだ遠い先のことのような気がするが、もう来年僕も四回生……。
「おはよう」        
 振り向くと、穂積さんが立っていた。今日は一人らしく宮下さんの姿は一緒になかった。
「ああ、おはよう」
 穂積さんは僕が見ていた掲示を見て「卒業制作かぁ」とつぶやいた。
「もう考えている?」
 僕の質問に、彼女はうーん、と声をあげた。
「考えてはいるんやけど、決定ではないなぁ」
 僕のみたところ、穂積さんは研究論文の方ではないかと思う。想像するよりも論文としてまとめるほうが似合っているように見えるのだ。今日の穂積さんはお洒落なのかコンタクトをはめていないのか細い金縁の眼鏡をかけていて、細身のジャケットを羽織っている。そのせいかいつもよりもずっと知的に見えた。就職したらバリバリのキャリアウーマンとして活躍しそうな感じがする。
「佳月君は創作やろ?」
 言われて、僕は肯定する。論文なぞ書く気になれない。
「まあ、ね」
「まーた、ロマンチストな話かくんやろ」
「は?」
 僕がきょとんとしていると、彼女は眼鏡の奥の目を細めた。
「佳月君て、そんな感じするわ。ロマンチスト。フェミニストって言うのもあってるけど」
 誉められいるのかけなされているのか、よくわからない口調だった。
「いきなりきくけど、佳月君は彼女いるの?」
「今の質問、軽くさくっと刺されたって感じだね」
 僕が笑ってそう応えると、穂積さんは口もとを手で押さえた。
「悪いこときいたみたいやな。ごめんな。気に障ったんやったら」
「いや、いいよ」
 穂積さんが真剣に謝るので、僕は慌ててしまった。
 僕と穂積さんは廊下の外にあるバルコニー(というと聞こえがいいが)のようなスペースに出て、そこにある椅子に座った。座った状態だとドアは後方で、前は木々の頂上だけが見える。天気がいいので、こうして座っていると気持ちがいい。前にここで寝ている人を見たことがある。
「なんで、俺にそんな質問したわけ」
 僕がきくと、穂積さんはにやり(と言っても決して嫌らしい感じはない)とした。
「学術的興味」
 ……この人もどこか変わってるよな。
「だって絶対佳月君てフェミやもん。どんな女の子とどんな付き合い方してんのか、めっちゃ気になっとってん」
「まあ、できたら女の子を泣かせたくないって思っては、いるんだが」
 僕がそう答えると、穂積さんは眼鏡のフレームをついと押し上げた。
「やっぱフェミやん」
 はあ。
「昔はおったわけ? 彼女」
 僕は段々話の展開が、自分にとって都合の悪いほうに流れているのにきづいた。
「もうこれ以上はいいません」
 手で口を押さえてそう言うと、穂積さんは細い目をさらに細くした。
「ここまできたら、教えてくれてもいいんとちゃう?」
 僕は口を押さえたまま黙っていた。
「うっわ、ヘビの生殺しってやつやん。ひどーい」
 僕は笑いながらふっと視界の隅に誰かの姿を認め、ドアの方をむいた。
「あ」
 今ちょうどドアを開けました、という状態の清水さんが立っていた。今日の彼女ははスカートだった。もしかしたらこの間買ったと言うスカートかもしれない。
「あ、おはよう」
 僕が言うと、清水さんはワンテンポ遅れて「おはよう」と言った。開いていたドアを閉める。穂積さんの方は何も言わなかった。清水さんも穂積さんに対して視線を流しただけで、特に声をかけることはなかった。
 ……なんか、気まずい。この空気の流れはなんなんだ。
「佳月君、この間はありがとうな」
 言って、清水さんは携帯をとりだした。キティのストラップが揺れる。
「ああ、うん」
 僕は気の利いた返事を返すことができず、また気まずい思いをする。
「へえ、清水さんて意外とキティラー?」
 穂積さんが言った。その言葉の中に、僅かに嘲笑が含まれているのに気づき、僕は逃げたくなった。
 誰か助けてくれー。
「そんなんとちゃうよ」
 清水さんは不機嫌そうな声で返す。
「そうなんや」
 穂積さんはさきほどまでの気のいい笑顔を、冷笑といっていいものに変じていた。含みのある口調で続ける。
「ちょっと前まで、なんとかいうマスコットのストラップやったから。非売品とか言うて、友達に自慢しとったやん?」
 へえ、俺は全然知らないマスコットだったけど。
「いいやんか……時々ストラップ変えるぐらい。まるで悪いことみたいに言わんといて」
 清水さんはかすれた声でそう返した。立場的に、清水さんが押されている。
 ……どうにか穂積さんを止めないと、清水さんが気の毒だ。
 と、穂積さんは一転して普段の表情にもどる。声音まで明るいものになった。
「悪いなんてうち、一言も言ってへんよ。そんなの気にせんとってよ。やだな、清水さん」
 少し前までのやり取りがまるで嘘のようだった。押されていた清水さんの方はあっけに取られたような顔をしていたが、きまり悪そうに「じゃあね」という言葉だけ残して、ドアを開いて去ってしまった。
「穂積さん……」
「言わんとって!」
 しばらくして僕が声をかけると、穂積さんは僕の言葉をさえぎった。
「わかってる。わかってるよ。今のは私が悪いんやって」
 うつむいている彼女の顔には、確かにまぎれもない後悔が表れていた。
「じゃあ、なぜ……」
 わからないはずがないだろうに、わかっている穂積さんなのに、どうしてあんな言い方をしたのか。
 穂積さんは眼鏡を外し、ハンカチを取り出してレンズをふいた。落ち着きのない手つきだった。
「……私、どうしてもあの子にはあんな態度とってしまうねん」
「気があわないってことか」
 まあ僕も前倉とはうまくやれないし、誰だってそういうのはあることだが。
「ちゃうねん、そんなんと」
 穂積さんは眼鏡をかけた。きっぱりとした口調で言う。
「あの子は私が守ろうとしているものを脆くしたから、例え悪気がなかったってわかってても許されへんの」
 守ろうとしている、物? 脆くする……って何だ? 脆いもの? どういう謎かけだ。
 僕の怪訝そうな顔に気づいたのか、穂積さんは僕の方をむいた。寂しげな眼で、それでも笑顔で言った。
「佳月君は知らんでいい……知ってほしくないねん。ごめんな、変なこと言って」
 彼女は立ち上がった。スカートを払うと、鞄を肩にさげる。
「私、行くわ。ユカリと食堂で待ち合わせしとるし」
「ああ、じゃあ……」
 僕は座ったまま、穂積さんを見送った。
 僕には分からないが、二人の間には確執があるようだった。穂積さんが気にしていること……穂積さんは自分のことで深く悩んだりするようには見えない。もっと強い人に思える。いや、それは僕の読み違いだろうか。
 清水さんは、穂積さんがなぜ自分にそんな態度をとるのか、わかっているようだった。だからあんなふうに言われても、強く言い返せない弱気な態度なんだろう……。
 僕は立ち上がり、鞄を手に取った。
 今の時間は、九号館の教室で高崎と徳田が授業に出ているはずだ。教室前で待ち伏せでもしよう。
 僕がその教室の前までいくと、ちょうど授業が終わったのかドアが開いて中から学生が出てきた。うーん、ナイスタイミング。
 高崎はいなくても、徳田はさぼる奴ではないからつかまるだろう。
 僕が教室をのぞくと、高崎と徳田は真中あたりの席にいた。徳田は机にもたれるようにして立っていたが、高崎がまだ何かをプリントにかきこんでいるらしく作業中だった。高崎の奴、また授業中寝てたな。
 僕は教室の中に入った。徳田が僕に気づいて顔をこちらに向けたが、そこを前倉が徳田に声をかけたので、徳田はそちらをむいた。
 僕が近づくと、徳田と前倉は授業の内容について話しているようだった。高崎の手元を見ると、やはり忙しそうにプリントに何かかきこんでいる。
「お、佳月」
 高崎が僕に気づいて顔をあげた。
「お前、掲示板に」
「高崎君、君はあとで研究室にもってきなさいね」
 今の授業の担当をしていた坂井先生は、もう教室を出ようとしていた。手には他の学生の提出したプリントを抱えている。僕らの他には、教室には学生の姿はない。皆とっくに終わらせているというのに、まったく。 
「あ、もう、すぐにできます、待ってください」
 高崎はまたプリントにかきこみだしたが、どう見てもすぐにはできなさそうだった。僕は近くの席に座り、高崎が悪戦苦闘するのを見守ってやる。
「研究室で待ちます」
 坂井先生は行ってしまった。
「なんだよ、もう終わるのに」
 いいながら、高崎はシャーペンを筆箱にしまった。後まわしにするつもりらしい。
「今仕上げて、この休み中にもっていった方がいい」
 徳田が言った。高崎が顔をあげ、徳田を見る。
「ヘタに遅く持っていって、それだけのものが書けたのかと期待されても困るだろう」
「ま、そうだな。ちょっと待っててくれ」
 高崎はまたペンを取り出し、何か書き始めた。
「で、結局なんやねん、テーマは」
 話を中断されたらしい前倉が、少しいらついたように徳田に言った。徳田は真面目に授業に出ているので頼りにされるのだろうが、あまり親しくもない前倉にこうきかれるのはなんか気の毒だ。例え不機嫌でも顔に出さない徳田はえらいと思う。
「俺がそれを語るのは、間違っている」
 徳田はそう答えた。何の話をしているのかはわからないが、徳田が質問されたのは、授業で要点となることらしい。徳田は大抵きけば答えてくれるが、自分で考えなければならないことは絶対答えてくれない奴だ。
「間違ってるってなんやねん。わからんならそう言えばいいやろ?」
 前倉の言葉に、徳田は子供に言い聞かせるように穏やかに言った。
「俺の答えはある。しかしその答えは俺の解釈でしかない。だからそれを前倉に言って、前倉がその答えを自分の答えとするのは間違いなんだ」
 ……うーん、なんか雰囲気が険悪になってきたぞ。前倉対徳田。乱闘が始まったら止めるべきだろうが、まだ大丈夫そうだ。とりあえず今のところ、口では徳田が勝っている。 
「できたー」
 妙に能天気な声で、高崎が叫んだ。その声のおかげか場の雰囲気が少し和らいだ。高崎が僕の方をむく。
「そうだよ、澁谷ゼミ、個人面談するらしいやん」
 高崎は掲示板を見たらしい。しかし他人のゼミの情報までちゃんとチェックしているとは、恐るべし。
「そういや、高崎は澁谷先生ファンやったな」
 前倉が言う。やれやれ、と言った顔つきだ。
「確かに美人だと思うが、それぐらいだな」
 徳田が冷ややかに評した。しかし徳田が誰かを美人だと評価するのも珍しいことだ。
「徳田はトランペットの方がいいっていう奴だしな」
 高崎がからかう。徳田は黙って眼鏡のフレームをおしあげた。
「なんだ、徳田は興味ないのか、女に。変なヤツ」
 前倉が身を乗り出すようにして言った。徳田の前倉に対する視線が、やや軽蔑を含んだものになる。それに気づかない前倉、お前はアホだ。
「街中の通りすがりの女でも、いいヤツいっぱいいるだろ。『お、美人』とか『あの女はEカップはあるな』とか思えへんのか?」
 例え思ったとしても、お前みたいに口には出さないって。
 徳田はそんな前倉に、冷淡とも言える口調で言った。
「好きでもない女の胸なんて、ただの脂肪の塊だね」
 一瞬沈黙ののち、ぱちぱちという拍手が響く。手を叩いているのは僕と高崎だ。
「いやー、さすが徳田」
「俺、今のメモろかな。いつか使えるかも」
 僕と高崎は、あくまで徳田側なのだ。
 前倉は拍子抜けしたような、呆れたような顔をしたが、何も言わなかった。
「変なやつら」
 と捨て台詞を残し、立ち去ってしまう。
「さてと、俺は坂井っちのとこに行くか」
 高崎がプリントを手に、立ちあがる。休憩時間はもう終わってしまったが、今の時間この教室の授業はないらしく誰も入ってこない。
「ここで待っててくれ。俺いってくるし」
 高崎は慌しく走り去った。ドアが勢いよくしまり、激しい音がする。僕と徳田は苦笑した。こんなことは珍しくないのだ。いわゆる日常茶飯事。
「高崎はさっきの時間寝てたのか」
 僕がきくと、徳田は肩をすくめた。
「まあな。イビキまでかいて、隣にいた俺が恥ずかしかった」
「起こせばよかったのに」
「起こそうとしても、起きなかったんだ」
 また昨日深夜のコンビニでバイトしていたらしいな。
 この次の時間、僕と高崎は同じ授業をとっている。
 たぶん徳田と同じ目にあうに違いない。やれやれ。

離れずに暖めて
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