離れずに暖めて 2
いろいろなゲームの音が不協和音を奏でている。微かにきこえるBGMは有線らしく最新のヒット曲が流れていた。しかしきこえないも同然なので、流すだけ無駄だと思うのだが。
僕は天王寺のゲームセンターはそんなに好きではない。そもそも天王寺にはゲーセンの数が少ない。それも小規模なものばかりだ。小規模というと、設置してあるゲームの種類が少ないということになる。そうなると、目当てのゲームがないことが多い。
それでも僕はとりあえず天王寺のとあるゲームセンターに入った。ここはまあまあ広く、賑わっていた。僕はなんとなくアクションゲームがプレイしたかった。できればコンピューターでなく対戦。でも僕がやりたいゲームは、去年の夏に出たものなので、対戦台があるとはとても思えなかった。
奥のほうに行くと、人だかりのできているところがあった。身長百八十センチの体格を活かして覗きこむと、僕がやりたいと思っていたゲームだった。こんなギャラリーができるほど、熱い対戦が繰り広げられているのか? 向こう側のプレイヤーは十勝していた。こちらのプレイヤーは体格のいい兄ちゃんだったが、あっけなく敗れて悔しそうに台を叩いて去っていった。これで向こう側の人は十一連勝というわけだ。
どんな人がプレイしているんだろう。
そう思い、僕は向こう側の台をのぞいた。向うにも何人かギャラリーがいる。そこに囲まれてプレイしているのは……。
僕は口をポカンと開けた。さっきゼミコンにいた、確か……そう、僕の前にいた、宮下とかいう女の子だ。隣に友達らしい、ゼミコンで見かけた気もする女の子が座っている。
へえ、ゲーマーなんだ。人は見かけによらずってやつか。
僕は挑戦者側の後ろに戻った。僕も挑戦する気になったのだ。強い相手がいれば燃える性質だし、特にこのゲームは年々シリーズ化していて、僕も毎年プレイしているからそれなりに自信があるゲームだ。
また彼女は連勝記録をのばしたらしい。座っていたサラリーマンが立ちあがったが、空いた席に誰も座ろうとしない。周りの人たちは敗者ばかりらしく、悔しそうな顔で画面を見ているだけだった。それなりに強いように見えるのに、なかなか勝てない。それでギャラリーの興味をひいたらしい。
「あっち、女の子だろ」
「強いな」
そんなつぶやきがきこえる。これほど強い女の子にはそうそう出会えないだろう。ここで対戦しなければもったいない。
僕は財布から百円玉をとりだし、椅子に座った。スタートを押すと、キャラ選択の画面に変わる。このゲームは一度に三人のキャラを選択してチームとして戦わせるものだ。僕はその三人を迷わずに選択した。いずれも自信のあるキャラばかりだ。
よーし……。
向うは新たな挑戦者だとわかったのか、警戒して積極的に挑んでこない。そこをこちらから攻め込んで……と。
さすがに連勝するだけあって、なかなか手強い。連続技はほとんど出さないが技の入れ方が的確だし、攻め方が慎重だった。ガードも固い。そうなるとこちらが連続技を多用するのもどうなので、合わせて慎重に攻める。
どんなにうまい人でも、必ずスキは生じるものだ。特に彼女のように連戦している時は、どうしても集中力が続かなくなる。技を出した後の硬直時間にあわせて……。
「よしっ」
思わず小声でつぶやく。大技が決まった。ギャラリーから感嘆のつぶやきが聞こえる。これで僕が先手を取った。ちなみに勝敗は、先に三人のキャラを倒したほうが勝ちである。敵はあと二人。
そうして戦っている間に、互いに一人を残すのみとなった。こういう展開が一番楽しい。最後のキャラが切り札だとわかっている。同キャラだというのもなかなか面白い。
「このキャラが手強いんや。油断していると痛いのくらうで」
と、隣に立っていた知らないサラリーマンが声をかけてきた。さっき対戦に入っていた人である。最後のこのキャラにやられたらしい。
ゲーマーっていうのは、どこかしら妙な仲間意識が働くらしい。ゲーセンで出たばかりのゲームの攻略など、知らない人と語ったことがある。隠れキャラの出し方を教えてもらったこともあった。
しかし、僕は油断していたのかなんなのか、あっという間に体力の半分を失ってしまった。手加減したつもりは全くない。
同キャラで負けるのは悔しいな。
僕は相手のスキをついて、またも大技を入れた。その少し後、わずかに僕のキャラの体力が上回る状況でタイムーオーバーとなる。
こういう勝ち方は好きではないが、まあこれも勝利といえないことはない。
「危なかったなー」
サラリーマンの言葉に、僕は苦笑して応える。実際タイムオーバーにならなければ、この勝負は負けていたかもしれないのだ。
「あと、任せます」
僕は席を立った。サラリーマンが「おい、ちょっと」と慌てるが、僕は意に介さなかった。
「宮下さん」
友達とともに台を離れようとしていた宮下さんに声をかける。彼女は驚きの表情をうかべて振り向いた。
「あ、佳月君」
僕の名前を呼んだのは、友達の女の子のほうだった。彼女は僕のことを多少なりとも知っているらしい。
「ほら、ユカリ。佳月君やん。同じゼミの」
言われて、宮下さんも思い出したらしい。
「ああ、そういや私の前に座ってた気が」
宮下さんは外見はお嬢様風なのに、口を開くと意外にさっぱりした話し方だった。
「宮下さん、ゲーム強いね。俺負けるかと思った」
「なんだ、対戦相手、佳月君だったの?」
驚きと好奇心の混じった表情で、宮下さんは笑った。
「君はゲームしないんだ?」
僕が友達の方にきくと、彼女は肩をすくめた。
「私はユカリの付き添いやねん。ゲームなんて全然せぇへん」
僕は改めてこのゼミ仲間を見た。
宮下さんは女の子としてはそう高くない身長だが、女の子としてもわりと長い髪をしている。背中の中程まであるストレートだ。大きなややつり上がり気味の眼をしているが、どことなく幼げな顔立ちがきつさを和らげている。わりと印象に残る美少女といえるのに、どうして彼女の存在にコンパまで気付かなかったのだろう。
対して友達の女の子(会話の流れからもまだ名前は伺えない)は、宮下さんと対照的に髪は短く、顎の高さで切りそろえられていて、クレオパトラを彷彿とさせる。細い一重の目をしていて、理知的な印象があった。話し方から感じると、こちらもさっぱりした性格のように思われる。大阪育ちらしく、歯切れのいい大阪弁だ。ふと誰かを思い出させる。
「そろそろ帰らへんとな」
友達の方が時計を見ながら言った。
僕も時計を見た。十時前になっている。僕が朝帰りしようと気にしない親だが、明日は学校もバイトもあるし、もう帰ろうということで、僕は二人とともに駅に向うことにした。
友達のほうは地下鉄を利用しているとのことで、僕は宮下さんと四駅の距離を同じ電車に揺られていくことになった。
電車を待つ間に彼女が缶コーヒーを買おうとしていたので、僕は自分の分と合わせて彼女の分も出してあげた。
電車に乗りこんでから、僕は早速宮下さんに尋ねた。
「彼女、名前なんていったっけ」
「え、あの子? 彼女は穂積圭子」
うーむ、記憶にあるような、ないような。
「私、君のこと知ってるよ。佳月友則君」
フルネームで呼ばれて、僕は飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになった。今日はよく吹き出してしまう日らしい。
「え、あ」
「去年の『文学工房』読んだし」
よほどあの作品は印象深いらしい。
「友則って、紀友則から名づけられた、って何かにかいてたよね」
僕は頷いた。嬉しくもない名付けられ方だ。
「あまり気に入っていない、ってかいてあった気もするけど、どうして?」
「名前をつけたのは俺の祖母にあたるんだけど」
僕は祖母に、初めて名前の由来をきかされた時のことを思い出す。
「うちの両親は二人とも気性が荒くてさ、昔は少しのことで大喧嘩していたらしい。それで息子の僕は穏やかで素直な子に育つように、って紀友則からつけたらしいのだが」
紀友則の歌は率直にして素直、という。別に歌人になってほしいと祖母には一言も言われていないが。
「ちなみに妹は紫とかいて『ユカリ』と言うんだけど、紫式部から取ったってさ」
「紫式部も知的で控えめな性格だったらしいね。へえ、君のお婆さんてネーミングセンスあるねー」
……そうか?
「でも音だけだったら、私と名前同じだね、佳月君の妹は」
そっか、そういえばユカリって呼ばれていたっけ。
「そういや、俺の妹もゲーム好きだよ」
「そうなんだ。佳月君は何のゲーム持ってるの?」
とゲーム談議に花を咲かせていると、あっという間に宮下さんの降りる駅になった。
「コーヒーご馳走様」
僕の最寄駅の隣の駅のホームで、宮下さんはコーヒーの缶を右手で掲げて見せながら「じゃあね」と言って背を向けた。
僕はコーヒーを口に飲みながら、コーヒーの苦さとともに苦い思い出が脳裏をかすめるのを努めて無視しようとした。
ゲーム好きの女の子と知り合うのは初めてじゃなかった。もう四年ほど前も、そうしてゲームの話から親しくなった女の子がいた……。
「佳月君てゲーム好きなんやってな」
彼女は初対面だというのに臆することなく、僕に話しかけてきた。
クラスでも友達の多い、明るく快活な女の子。はきはきした大阪弁で、気後れしていたのは僕の方だったのかもしれない。
「……そうだけど」
「じゃあ今度対戦せぇへん?」
いかにも嬉しそうに言うので、僕は承諾した。まさかその日にゲーセンに連れていかれ、対戦することになるとは思いもしなかったが。
わりとかわいらしい、けどそれはまだ磨かれざる原石という感じのかわいらしさ。人当たりのいい性格。僕にとって初めての、女友達といえる存在。
彼女は僕の友達とも親しくなり、僕の友達と彼女の友達と、グループで遊びに行くようになって……。
どこから間違えたんだろう。
どうして気付けなかったんだろう。
友情と恋愛感情は違うんだって、知っていたはずなのに……。
「おい、佳月、佳月っ」
頭に響く振動で、僕は眼を覚ました。
顔を上げると、高崎が僕を見下ろしていた。彼は僕が頭を乗せて寝ていた机の脚を足で蹴っていたらしい。
僕はせっかく誰もいない空き教室で寝ていたのに、高崎に見つけられてしまったようだ。
「なんだよ、起こすならもっと優しく起こしてくれ……」
「お前、昨日ゼミコンだったらしいじゃないか」
言われて、僕は寝ぼけた頭でしばらく思考をめぐらせた。
「ああ、そういや……そうだったな」
僕は軽く頭を振った。夢の残滓を散らすかのように。
どうして今ごろ、あんな夢を見るんだ。
「そうだったな、じゃないやろ。なんで俺に教えへんかってん」
「教えたって、お前は参加できないだろうが」
僕の言葉に、高崎はどんどんと机を叩いた。
「たとえゼミコンに参加できなくても、帰ろうとする澁谷先生に、偶然を装って話しかけ、お茶するとかちょっと一杯するとか、お近づきになる方法はいくらでもあるだろうが!」
……あー、はいはい。
「しかもお前、澁谷先生の隣の席やったって?」
ぎくっ。
「どうしてそんなことを……」
「前倉がいっとった」
あいつ……今度会ったら回し蹴りしてやる。
「で、どんな話したんだよ」
そんな期待されても。
「先生は『カイト』の店長と知りあいらしい」
僕は先生のとの会話を思い返しつつ言った。
「知り合いって……まさか恋人とか」
「さあな……」
いっそここで「恋人らしい」と言ってしまえば、高崎の熱も冷めるだろうか。
僕はそんなふうに考えたが、バレた時が怖いから実行に移すのはやめた。例え冗談でも、そんなふうにからかうのは悪い。
「で、その他は?」
他……ねえ。
特に大した話もしていないし、僕が酒に弱いだのなんだのという話をしたと言っても高崎が面白がるとは思えない。
「俺は瀬戸さんと話していたから、先生とはそんなに喋っていない」
そう言うと、高崎は残念そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「そう、高崎は宮下さんて人を知ってるか?」
僕は昨日のゲームセンターでの話をした。
「ふーん、宮下はゲームが好きなのか」
高崎はあまり関心がなさそうに答えた。
「お嬢様風のかわいい子なのに、かなり強かった」
僕が言うと、彼は首を傾げた。
「まあかわいいとは思うが、お嬢様……か?」
僕にはそう見えたが。落ち着いた茶色のアンサンブルとベージュのスカートを身につけていた彼女は、長いストレートの髪とあいまって、確かにお嬢様風だと思えたのだが。
「宮下……か」
高崎がふと意味ありげにつぶやき、僕はその口調の響きが気になって高崎の顔を見た。しかし目があった瞬間、高崎はふっと視線をそらして、そのまま話までも転じてしまった。
「ゴールデンウィーク、どっか遊びにいかへん?」
連休か……。
僕は首を振る。高崎はやれやれ、といったふうにため息をついた。
「バイトか?」
「バイトだよ」
つい連休は稼ぎ時とばかりにバイトを入れてしまったのだ。バイト可能な時間を正直にかいて提出したら、そのまま全部いれてくれた鬼のような店長なのだ。例え半月先の予定でも、変更してくれと言ったら何を言われるかわからない。
「ま、連休があかんかっても、夏休みがあるし、またどっかいこうや」
「そうだな」
僕は時計を見た。ゼミの教室にいくかな。
「じゃ、俺そろそろいくし」
僕は立ちあがった。
「あ、お前次ゼミだったな。俺も次授業だし、そこまで一緒に行くか」
鞄をもって教室を出る。今日は教科書の必要ない授業だったので、僕の鞄の中身はMDウォークマンとゲームボーイ、筆記用具と財布などの必需品だけだ。原稿用紙と国語辞典を毎日持ち歩いていたのは、一回生の始めだけだった。その理由も「文芸学科らしい」から。写真学科はカメラ、音楽学科の人は楽譜、美術学科はスケッチブックを持ち歩いていて「それらしく」見えるのが羨ましいと思う時期があったのだ。今じゃそんなお荷物、必要な時以外は持ち歩くこともない。辞典は合同研究室で借りれるし、レポートや制作もワープロで提出するので、原稿用紙はほとんど使うこともないからだ。
「夏休み、親の車だすから、どこかいこうや。徳田も誘ってさ」
「車でかぁ……どこへ?」
「大学の施設とか、さ」
「白浜か? 海で泳ぐか、観光か」
「まあ浜辺で水着の女の子を口説きにいくのではないことは確かだな」
「それじゃ前倉だって」
僕らは大ウケした。
「じゃ、またな」
「澁谷先生の情報、ちゃんと流せよな」
凝りずにそんなことを言う高崎に手を振り、僕は教室へむかった。予想に反してまだ誰もいなかった。僕は一番乗りしたらしい。
コンビニで買ったビタミンウォーターのペットボトルと鞄を、前から5列目の机の上に置いた。うちの大学の机は、一つに3人ほどが座れる机と椅子一体型だ。そこを広々と一人で占領して座り、僕はゲームボーイを取り出した。
教室には誰もいなかったのでわりと大きな音量でしていたが、誰かが教室に入ってきたので、僕は音量をしぼろうとした。
「あれ」
教室に入ってきたのは、清水さんだった。
今日の彼女は体にぴったりしたTシャツを着て、下は綿の赤いズボンをはいていた。ちょっと派手なその赤も、彼女は難なく着こなしている。腰にはデニム生地のシャツを巻きつけていた。少し古ぼけた味のある布の鞄を肩からななめにかけている。足元に目をやると、靴は底の厚いスニーカーだった。チャイナドレスの時はまとめていた髪はおろしてあり、はっきりしたウェーブの茶色の髪が肩ほどまでかかっていた。なんとなく、活動的な印象がある。化粧も華やかな感じで、いかにも「女子大生」といった感じだった。
「おはよう、佳月君」
「おはよう」
今は決して午前中ではないが、大学では学生同士挨拶する時はいつも「おはよう」なのだ。 彼女は僕の席までやってきて、前の机の上にこしかけた。
「早いんやな、くるの」
「まあね」
別に勉強熱心なわけではないが。
「カラオケ、楽しかった?」
僕がきくと、彼女はにっこりした。
「うん、楽しかったよ。佳月君もきたらよかったのに。結局……深夜の1時ぐらいまで遊んだかな」
「え、そんなに。家に帰られた?」
「だってカラオケって、すぐ時間たつやん。帰るの面倒やったから、友達のとこに泊まらせてもらってん」
教室のドアが開いた。ゼミの仲間が五、六人ほど入ってくる。それほど親しくはないが、この前のコンパで多少のコミュニケーションをとっているので、「やあ」とか「おはよう」(別に朝ではないが、大学では午後でも、業界のように挨拶は「おはよう」だ)という挨拶を交わした。
「よう、清水さん」
前倉が清水さんに声をかける。清水さんはちら、と前倉を見て「おはよう」と言った。
「この前話とった本、もってきてんけど読めへん?」
前倉は僕の隣に座った。清水さんと僕の間をさえぎるような割り込み方だった。そういや徳田が言ってたよな、「前倉は清水狙いか」って。推察どうりらしい。
僕が視線を外したとき、ドアが開いて穂積さんと宮下さんが入ってきた。
僕は鞄をもって立ちあがり、二人に声をかけようと近づいた。
「おや」
先に気付いたのは穂積さんだった。
「おはよう」
「おはよう」
僕らはとりあえず挨拶を交わした。
今日の宮下さんは、最初の一瞬は彼女とわからないほど、ゼミコンとは印象が違った。まるきりのノーメイクで、ジーンズにデニム地のシャツという格好だ。長い髪は後ろで三つ編にして、飾りのない茶色のゴムで束ねている。高崎が「お嬢様か?」と首をかしげるのも無理はない。すっぴんでも確かにかわいいが、全く受ける印象が違うのだ。
対して穂積さんの方は、普通にメイクをしていた。今日は水色のブラウスにあわせたのか、アイシャドウがブルーだ。目元が涼しげで、やはり彼女は知的美人といえる。
「佳月君てユカリと家が近いんやってね」
穂積さんが言った。この前別れた後の話を、宮下さんから聞いたらしい。
「そう、隣の駅。もしかして、高校の校区同じ?」
「あ、それはないよ」
宮下さんが否定する。
「私、もともと大阪じゃないし。京都からきてるから」
「あ、そうなんだ」
そういや、彼女は大阪弁ではない。もっとも大阪生まれの大阪育ちでも、僕のように大阪弁を使わない人間もいるのだが。
「よう、佳月」
徳田が教室に入ってきた。僕は右手を軽くあげて応える。
「昨日、ちゃんと家に帰られたのか」
「まあね」
彼は当たり前だ、と言わんばかりに即答する。こいつは自分が天王寺で、いきなりトランペットを吹こうとしたことを覚えているのだろうか。
「そういや、徳田君かなり酔っとったな」
穂積さんは徳田のことを知っているらしい。
「戸川が言ってたとおりやん。徳田君てめっちゃ飲むって」
「戸川君て、確か徳田君と同じサークルの人だったよね」
宮下さんの言葉に、徳田は頷いた。話をきいていると、穂積さんと宮下さんは、徳田と面識があるようだ。
「私も楽器できるんやで、フルートを少し」
穂積さんが言った。
「彼女には、助っ人として去年の学祭の演奏にも参加してもらった」
へえ、そうなんだ。
「宮下さんにもピアノで参加してもらいたかったんだが……」
「そんな、もう七年もひいてないから、もう全然だめだよ」
徳田の言葉に、宮下さんが両手を振って否定する。会話から、この三人のつながりが読めた。徳田は宮下さんにも参加してほしいと頼んだことがあるようだ。
「宮下さん、ピアノ弾けるんだ」
「昔はね、弾けたけど」
「ユカリの指も、ゲームのためだけに動くわけじゃないってことよ」
穂積さんが宮下さんをからかった。宮下さんは肩をすくめる。
「しかし、先生は遅いな……」
徳田が時計を見る。話しているうちに、時間は授業開始から十分ほど経過していた。僕らが話している間に学生の人数はそろったというのに、肝心の先生はまだきていないようだ。
その時廊下を誰かが走る音がきこえ、文芸学科の副手(確か加藤さん)がかけこんできた。 「すみませーん、今日の澁谷ゼミは休講です」
「えー?」
その場にいた全員が、何らかの声をあげた。
「掲示板に休講とはかいてなかったが」
徳田がつぶやく。彼は律儀に文芸の掲示もチェックしていたらしい。
ともかく、休講ならば教室にいても仕方がない。
半分以上の生徒は、休講とわかるとすぐに教室から出ていった。気付くと、前倉はまだ清水さんを相手に話している。彼女も気の毒に……と僕が言っていいのかしらないが。
「佳月、どうする。俺はサークルの練習にいくが」
徳田は鞄を肩に担いだ。やはり今日もトランペットを持っているらしい。いつも彼は大きな鞄を持ち歩いている。
「まあ休講ならここにいてもしかたないし……とりあえず、出るか」
僕らは鞄を持って、徳田を先頭に教室を出た。
「そうだ、穂積さん、いきなりで悪いんだが、今年も学祭に協力していただけないだろうか」
徳田が振り返って言うと、穂積さんは驚いたようだが、すぐに眼を細めて嬉しそうに言った。
「いいけど、私のフルートなんかでいいん?」
「いや、助かるよ」
「今年の曲は……って、まだ決まってへんか」
「これから皆で話し合って決めるんだ。よかったら、今日の活動にもこないか?」
「そうやな、いくわ」
話をとんとんとすすめ、二人は一緒にクラブハウスにいくことになったらしい。
四人で教室を出たあと、途中で二手に分かれた。残った僕らは 僕と宮下さんは、ふと顔を見合わせた。
「お茶でもする?」
僕が誘うと、彼女は微笑した。
「いいよ……この前のコーヒーのお返しさせて」
僕らは学校内にある喫茶店『カレッジ』に入った。ここはコーヒーが二百円という安さなのだ。飲み物だけでなく食事のメニューも安く味もまあいけるので、昼時は結構混む。今は客は少なく、七つあるテーブルのうち二つが使われているだけだった。
「どうぞ、お好きなものを」
と宮下さんは言ったが、百二十円しかおごっていないのにそんな高いものを返してもらおうという気になれない。僕はコーヒーを頼んだ。
「コーヒーって言われても、種類があるよ。ブルマンでも飲む?」
からかうような宮下さんの言い方に、僕はメニューを見た。
ブルマンて、三百円じゃないか。
「いいよ、ブレンドで」
「じゃあ、ブレンドコーヒー二つ」
注文をききにきたおばちゃんに、宮下さんは五百円玉を渡した。消費税もいらないので、百円玉が一枚返ってくる。
「澁谷先生、どうしたのかな。体調不良とか」
「どうだろうな」
たわいない会話の間に、コーヒーが運ばれてきた。
彼女が砂糖の入れ物に手を伸ばす。
「いれようか」
「あ、じゃあ一杯だけ」
コーヒーを一口飲む間、どちらも黙っていた。
先に沈黙を破ったのは、僕だった。
「宮下さん達は、徳田と知りあいだったんだ」
「うん、私は去年からね。圭ちゃん……あ、穂積さんが徳田君と一緒のサークルにいる、戸川って人と友達でね。話はきいてたから一回生の時から存在は知ってたよ。いつもトランペット持ち歩いてて、すごい酒のみだってね」
奴を語るには、酒とトランペットは切り離せないらしい。
「佳月君は一回生の時から徳田君と友達なの?」
「ああ」
僕は彼との出会いを回想した
あれは一回生の時、文芸必須の英語一番最初の授業の日 その日は大雨だった。じめじめした、わずかに緊張感の漂う教室で、僕と高崎は教室の後ろのドアに近い席に並んで座り、一回生の時間割についてああだこうだと話していた時だった。
開け放してあったドアから、誰かがが入ってきた。僕はドアに背を向けていたので最初は気づかなかったが、高崎が「うわー」と声をあげたので、何ごとかと振り向き、そこに全身ずぶぬれの男を見つけた。
彼は青ざめた顔で、
「田畑先生の英語は……休講ですか」
と僕に話しかけた。
「掲示板には、何もなかったで」
高崎の返事に、彼は「いや、今見たらありましたよ」と言った。四月と言えど気温はまだ低く、雨にうたれた男は寒そうだった。
「俺、掲示板見てくる」
高崎が教室を飛び出していった。ずぶぬれ男の発言に教室中が真偽にざわめいている間、男は椅子に座ると鞄からタオルを出して髪をふいていた。
「傘もってなかったのか」
僕が話しかけると、彼は僕のほうを向いた。
「本屋で傘立てにおいていたら、盗られたんです」
気の毒な奴。
高崎を含め、掲示板を見に行った人達が帰って来て、口々に「休講だ」と告げた。
「佳月、昼飯食いに行くか」
高崎が椅子に座り、ずぶぬれ男の方をむいた。
「自分、めっちゃ濡れてんなぁ」
「傘は盗られたんだ」
「うわー、災難やな」
僕らはしばらく話していたが、そのうち意気投合した。
「飯一緒に食いに行くか?」
高崎が誘うと、男はうなずいた。
「そうします」
彼は鞄の中からメガネケースを取り出し、眼鏡をかけた。かなりの近眼らしく、レンズはわりと分厚かった。
「そういや、名前聞いてなかったな」
僕と高崎が名乗ると、男は低い声で「俺は徳田です」と丁寧に名乗った 。
「徳田君はよく授業で見るよ。似たような時間割なのかな」
「いや、彼は卒業までにほとんどの授業の単位を取ると言ってたから、学科の専攻授業はほとんど出てるはずだ」
「ほんとに? それはすごい」
僕らはしばらく、徳田ネタで盛り上がった。すまん、徳田。ネタにして。
「穂積さんとは、大学から?」
僕が聞くと、宮下さんは少し答えにつまったようで、答えはすぐに返ってこなかった。
「……圭ちゃんは中学の時の友達なんだけど、高校は別で、大学でまた一緒になった」
「じゃあ彼女は京都から通っているわけ?」
「ううん、彼女は高校から大阪に引っ越してきたから、今は豊中のほうに住んでる」
「へえ、それで互いに『一緒の大学にいこうね』って言ってたわけ?」
「……そういうわけじゃ、ないんだけど、ね……」
そう返事した時の彼女の顔を一瞬よぎったのは 。
なんだ、なんだろう……なんて言えばいいのだろう。怯え。不安。そういった暗いものが潜んだ、なんとも形容しがたい表情。
宮下さんは目を伏せ、コーヒーカップに添えていた両手を、膝の上に移動させた。途切れた言葉の続きを捜しているように、開きかけた唇が何かを言おうと震えていた。が、僕の視線に気づくと、彼女は顔を上げてぱっと笑顔を見せた。
「同じ高校からは誰もこの大学にこなかったんだけど……知り合いが一人いると全然違うよね。圭ちゃんがいてよかったー」
「うん、まあ、そうだよね」
僕は相槌を打ちながら、さりげなく、カップに口をつけている彼女の顔を見た。その顔は先ほどの陰はなく、コーヒーの苦さにちょっと眉をひそめているだけのように見えた。
なんだろう、気になる。過去に、穂積さんと何かあったとか? いやそれなら仲良くはないだろう。なんだ……。
気になったものの宮下さんがファミコンのゲームの話をはじめ、それで盛り上がったので僕の頭からは彼女の陰りのある表情のことがすべりおちてしまった。
その時の僕は、まだ知らなかったのだ。彼女の心に根ざす、暗い記憶を……。