Episode 1

 本編では、主人公佳月友則の受講するゼミ講師として登場し、序盤に友則を振り回す彼女。
 その彼女が、同じく芸術大学の学生だった頃の話。

prologue

 リサイタルから帰宅した夜は、テレビもラジオもつけずに静かな空間に身を浸していたい。
 カーテンを閉め切り小さなランプだけをつけた部屋で、私は着替えもせずソファに座り込んだ。
 目を閉じると、ライトに照らされたステージの上でピアノを弾く彼の姿が浮かんでくる。
 彼が紡ぎだした音の1つ1つを、心の中に蘇らせる。彼の指の動き、ペダルを踏む足、空を見据える視線、今日見てきたものを1つ残らず。
 やがてリサイタルの余韻が静かにひいてきたころ、私は身体を起こしてテーブルの上の花瓶に生けた花を見た。
 リサイタルの度に贈るあの花束は、彼の家に届けられるのだろうか。いつも私だけでなく何人もの人が彼へ花を贈っているようだけれど……もしかするとスタッフ内で分け合っているとか―――悪くするとそのまま捨てられてしまうのかもしれない。それはないにしても、彼が持って帰る花なんてほんの一部なのかもしれないし、その中に私の贈った花が入っているかどうかなんてわからない。
 だがもし彼が持って帰って飾るのならば、数日私と彼の家には、同じ花が飾られていることになる。そう思うと、少し嬉しかった。一体どんな家で、どんな場所に、どんな花瓶で――まぁ、これは飾られていたら、の話だが。
 彼には、青い花がよく似合う。闇のように深い深い青が。季節によって花の種類は違っても、いつもいつも青い花を選んできたし、これからもそうするつもりだった。
 私はソファから立ち上がった。寝る前に、済ませてしまわなければならない儀式があった。
 書き物机の椅子に座り、引出しを開けて便箋とペンを用意した。便箋には飾りなど必要ない。どんなに見かけが良くたって、書いてある言葉が稚拙だったら何の意味もないから。
 ペンを手にとり、私はふっと息をついた。
 書きたいことはたくさんあった。彼に伝えたいこと、知って欲しいこと……それこそ言葉を尽くしても伝えきれないほどの想いが。けれど、言葉の奔流に彼を巻き込みたくはなかった。静かな、すっと心に入り込んで溶けてしまうような、そんな一言だけで充分に思えた。
 だから結局、手紙にはいつも同じことしか書かない。それしか書けない。それ以上は必要ない気がする。
 私の心には、いつも貴方の音が響いていることを、貴方は知らない。そもそも貴方は私の存在すら知らない。
 もし仮に彼が抜群の記憶力を持っていて、私は学生時代に一度貴方に声をかけられているといえば、彼は私のことを思い出すだろうか。もう10年も前のことをまるで昨日のことのように覚えている私を知ったら、彼は私を気味悪く思うかもしれない。
 でも、永遠に残る一瞬は誰にでもあるでしょう。
 便箋を二つに折り、封筒に入れてそっと封を閉じた。
 表に相手の名前だけ書き、裏には自分のイニシャルを入れる。そしてそれをテーブルの下の箱にそっと落とし入れた。
 これは儀式だった。彼のリサイタルを鑑賞するようになってからの。
 彼に手紙を出そうと思ったことはあった。でもやめた。私という人間の存在を、彼に伝える必要はない。だからただ花を贈るだけに留めている。
 彼が私にとって至高のピアニストであると意識したときに、私は自分の進む道を決めた。もし彼の存在が私の中で揺らいでしまったら、私は道を修正しなければならなくなり――もしかしたら、後悔するかもしれない。この『後悔』という2文字は、私が一番嫌いな言葉だった。私は後悔しないために彼を信じていると言えるし、彼を信じているから後悔せずにいられるとも言える。
 彼の奏でる音に込められたものを読み取る力を身につけるために、私は留学もしたし大学院へ進学して美学を学んだ。その成果は現れているのだろうか。彼がフランスに留学すると聞いて、もう1つの母国語と言えるまでに懸命にフランス語を学んだ。美学の勉強のために渡仏したけれど、そこで彼と会うことはできなかった。
 そう、おかしなことだ。私はフランスで偶然、彼と会うことができるんじゃないかなんて期待してた。まるで少女小説のような、出来すぎた偶然を夢見ていた。もちろんそんな夢は叶わなかった。
 だが私はそんな夢のために、10年間を費やしてきた。独り善がりの夢。
 でも、自分の選択に間違いはなかったと信じてる。たとえ誰かを傷つけたとしても。
 彼のことを思い出すと、一緒にあの人のことも思い出す。彼への憧れと自分の目標のために、別れを告げたあの人のことを。
 私は寝室へ行き、ドレッサーの引出しを空けて小さな箱からネックレスを取り出した。アクアマリンのついたシルバーのネックレス。これをもらったのは夏だった。私の白いワンピースに似合うのを見かけたからと、あの人は誕生日でもないのにプレゼントしてくれた。まだ覚えてる。気障なセリフも、私にネックレスをつけてくれた仕草も……あの人の指も、また優しかった。ピアノを弾く彼の指とはまた違う魅力を持っていた。
 今は付けることが無いネックレスを時々取り出して磨くのは、罪悪感のせいだろうか。
 ふとネックレスを首にあてて見たけれど、そのデザインは今の自分には幼い感じがした。もうあの頃の私じゃない。
 口元に苦笑が浮かぶ。
 あれからもう、10年は経つのね……。
 あの頃私はまだ、大学生だった。自分の教え子たちのように。