Time Has Come
やってくれるぜ、まったく     東條 弓月
 勤務先の図書館で面白い本を見つけた。図書館勤めが止められないのは、本との偶然の出会いという事も往々にして含まれているのだろうなと思う。
  それは俳優高倉健の写真が表紙を飾っている本だった。『鉛のバラ』。作者は丸山健二。僕はこの作家も嫌いではない。近年は幾分観念小説のような作品が目立つが、力のある文章を書く。エッセイも良い(但し女性蔑視的な発言も多いので、女の人には余りオススメしない)。学生の頃から疲れた時や苦しい時に心に喝を入れる、苦いが効用のある薬のようにして時折手に取って来た。
 そして、久々に読んでみるかと思いその本を手にとって、まず帯に驚かされた。『主演、高倉健』。いやいや、魂消るとはこの事か。小説で主人公を限定するとは。大写しにされた健さんの写真が表紙を飾っているとあれば、読者は嫌でも主人公を彼とダブらせずにはいられない。
  物語は非常に映画的だ。主人公はかつて日本の暗黒街に君臨した極道者の男、通称「逃げきりの源造」。長い服役で全てを失い、年老いた彼は故郷の島へと戻るが、敵対組織から刺客を送られる。そして二人の運命を捉える、「島の女神」と称えられる不思議な少女……。
  さて、どうだろうか。もし主演男優の指定が無ければ、源造はどんな顔をしていただろう? ある人にとっては渡哲也かもしれない。三船敏郎だろうか、或いは想像上の年老いた松田優作? いずれにせよ作者は主人公を断定することによって読者の想像力にある種の枷をはめてしまった。これは小説手法の逆転劇ではないだろうか。
  作家が登場人物を形成するとき、特定の人物をイメージモデルに使うことはよくある。小説家のエッセイなんかにも楽屋ネタとしてモデルが披露された例も幾つかある。例えば池波正太郎は『剣客商売』の主人公秋山小兵衛のモデルとして歌舞伎役者中村又五郎の写真をノートに貼り付けたと書いている。
  恥ずかしながら告白してしまうと、僕自身も一度だけそんなことをした事がある。小説を書けばいつも自画像的になってしまうのが悩みだった学生の頃、強い思い入れを持って書いた一人のキャラクターだけは、決して自分自身にするまいとして、あるアーティストの顔をモデルにした。さらに恥を重ねて書くと、僕はその時いてもたってもいられず、その人物の小さなポスターを店の壁から剥がして盗んだのである。
  出来上がった小説を読んだ人々にモデルの名を告げると、賛否両論であった。その時僕はたとえ出発点は一人でも、そこから普遍性を帯びさせていく、言い換えれば出来る限りモデルの匂いを消していく作業がキャラクター造詣なのかと思った。
  だからプロの作家が作品に『主演・高倉健』と銘打った事に対して本当の本当に驚いたのだ。映画のノべライズでもないのに。
  余談だが、作中には源造が堅気を装うために花屋をしたエピソードが出てくる。自分がこれはと思う薔薇の花ばかりを集めた花屋で、彼自身もその仕事を愛している。そして彼が実家に持ち込んだ真っ赤な薔薇が拳銃と並んで作中の重要な小道具になっている。近年作庭に情熱を注いでいる丸山らしいエピソードだが、彼の文章を読むと、赤い薔薇が一番似合うのは実は任侠の男達なのではないかという気持ちになってくる。滴るような赤は流された男達の血か、死せる男に捧げる情婦の涙か。もしそうなら僕は少し薔薇を好きになってもいい。
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