Time Has Come
眠れぬ夜を過ごす人へ    東條 弓月
 最近は音楽療法の発展に伴ってか、様々な病気に効く音楽を集めたCDなどと言うものが売られていたりする。ヒーリング・ミュージックとでも言えばよいのだろうか。僕は今のところは健康なので、それらが実際に効くのかどうかは確かめ様がないのだが(なるべく確かめるような事態にはおちいりたくもないし)、その中でも特に面白いと思ったものがある。それは、快く眠るためのCDだった。解説を見てみると、脳内のβ波を抑制し、リラックスするようにα波やθ波を脳に出させるとか、そういう働きがあるらしい。
 そんなCDを見ながら、僕はある音楽史上のエピソードを思い出して、思わずニヤリとしてしまった。260年程前のドイツにも、不眠解消の音楽を作った人がいたからだ。彼は不眠症のカイザーリンク伯爵に眠りの為の音楽の作曲を依頼され、主題とその30の変奏からなる変奏曲を作曲した。そして弟子がその曲を演奏したそうだが、それで伯爵の不眠が解消したのかどうかは、残念ながら分からない。僕の持っている音楽辞典にもそのことについては書かれていない。ただ分かっていることは、このとき依頼を受けた作曲家とその弟子の名前だけである。作曲家はヨハン・セバスチャン・バッハと言い、演奏した弟子の名前はゴルトベルクと言った。そう、これが世に言う『ゴルトベルク変奏曲』が作曲された経緯である。
 しかしながらこの曲はグレン・グールドの録音で記録的な大ヒットを飛ばしたこともあり、今ではバッハの代表的な作品に数えられている。そして色々な人が様々な芸術的解釈を述べたりしている。まるで真摯に耳を傾けて魂を聞き取れとでも言うかのように。でも……、と僕は思う。結局のところこの音楽で作曲家が意図したのは、いかに相手を眠くさせるかということだったのではないだろうか。逆にこの曲を弾いて聴衆を眠らせることが出来たら、それは作曲者の目論見どおりの演奏だったと言えるのではないだろうか。大バッハだって、よもやこの曲が後世自分の代表作のように語られるなんて、予想できなかったに違いない。
 だから、『ゴルトベルク変奏曲』を聞きに行って寝てしまったと言う方、自分は音楽的ではないのだろうかなどとは悩まないで下さい。貴方は他の起きていた人々よりも素直に、大バッハが曲に込めたメッセージを受け止めていたのだから。
 そして不眠症で悩んでいてヒーリング・ミュージックのCDも効果が無かったと言う方、たまには気分を変えて『ゴルトベルク変奏曲』を聞いてみたらいかがですか。もしかするととても安らかな眠りが得られるかもしれませんよ。
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