Time Has Come
楽の器に想う    東條 弓月
 今回は芸術論というよりは、僕の体験談。
 僕は高校・大学時代と吹奏楽をして、現在は雅楽で龍笛(横笛)をメインに演奏している。だから、楽器の種類では管楽器との関わりが一番深いとも言えるだろう。いわゆる「吹いて鳴らす」楽器である。何故管楽器ばかりなのかというと、僕には人並みはずれた(と密かに自慢できる)肺活量があるという、フィジカルな要因も挙げられるかもしれない。だけど、率直に言うと、一番の理由は楽器との一体感が感じられるからということだと思う。例えば金管楽器。マウスピースにそっと唇をあてがい、正確な音程を頭でイメージしながら息を吹き込む。僕の呼気はぐるぐるした管の中を通ってベルから放たれ、音となって辺りに響き渡る。それは呼吸という、生きるための本能的な行為が音楽という芸術と結びつく瞬間でもある。放たれた音は僕の声でもあり、また全く違う別のものでもある。僕はそんな風に管楽器が音を生み出す瞬間をこよなく愛しているのである。
 しかし、世の中には楽器は他にも色々ある。例えばピアノ。ピアノは奏者が鍵盤を叩くことによって楽器の中にあるハンマーが跳ね上がり、上に張られた弦を叩いて音を出す。高度に機械化された楽器であり、演奏者は音の発生源に対して極めて間接的にしか関われない。少なくとも僕にはそう思えてしまう。だからピアニストの究極の目標は、この間接性を乗り越えることなのだろうかと、つい考えてしまう。撥を使って楽器を叩く打楽器奏者も、弓で弦を擦って音を出す弦楽器奏者も同様だ。
 そんな矢先、僕は舞楽(舞を伴った雅楽曲)で初めて鉦鼓という打楽器を受け持つ事になった。鉦鼓というのは金属の皿を縦に吊るしたような形をしていて、皿の真中から撥を摩り下ろすようにして「チン」という音を鳴らす楽器である。しかし僕が鳴らしても、なんだかこもったような音しか鳴らない。それから僕は楽器に向かい、何度も楽器を鳴らした。そうしているうちに、僕の中で一つの不思議な感覚が湧きあがってきた。僕は今鉦鼓を鳴らしているのではなく、鉦鼓の中にある音を取り出しているのではないだろうかという感覚である。つまり初めから音は楽器の中に眠っていて、僕が撥を使って楽器に働きかけることによって、楽器の中で眠っていた音が引き出されるという感覚だ。僕は昔小説の中で「あらゆるものは音を宿していた」と書いたことがあるが、それが机上の空論ではなく実感として押し寄せてくるような気がした。そうか、そうだったのかと思わず唸らずにはいられなかった。音は僕の触れていない楽器の中にもちゃんと宿っていて、いつでもそこで僕が(或いは誰か他の演奏者が)自分に触れるのをじっと待っていたのだ。
 僕にとって管楽器を奏でる事が呼吸を伴う本能的な行為なのだとしたら、打楽器のそれはぎりぎりまで研ぎ澄ました五感を撥に託し、楽器が内包している「最高の音」を探り求める究極の理知的な探求なのかもしれない。あくまで「僕にとって」ではあるが。
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