Time Has Come
図書館学とART    ヨハネス
 ご存知ない方もいらっしゃるとは思うが、世の中には図書館学(Library science)なる学問の分野がある。で、その中の一つに「資料組織法」と言うのがあって、それは何かというと、ごくごく簡単に言えば図書を件名(テーマ)ごとに分類し、整理することに関する学問という感じになるかと思う。図書館に行ってみていただけば分かると思うが、殆どの本には背表紙にラベルが貼られていて、833.2とか913.6とか言う具合に数字が書かれている。それらの数字には意味があって、NDC(日本十進分類法)を採用している図書館では、833.2の本は和英辞典、913.6の本は日本の近代文学(明治以後)ですよ、ということを示しているのである。図書館にある本は、基本的にこれらの分類法に基づいてそれぞれのジャンルに区分けされているのである。
 さて、掲示板でもお話した事があるように、僕は以前某図書館のAV資料室で音響資料や映像資料を取り扱っていた。AV資料はその性質上図書の分類法をそのまま当てはめることは難しいのだが、その図書館ではこのNDCをベースにした分類法が採用されている。
 で、ここからが本題であるが、CDを整理していると、どの項目に当てはめていいのか分からない資料が、非常に多いのである。例えば、吉田兄弟(津軽三味線デュオの兄弟です)のオリジナルCDは、伝統音楽なのか、イージーリスニングなのか? 東儀秀樹のオリジナル曲は? 久石譲は? cobaは? そしてイギリスのボンドはクラシックの弦楽四重奏なのか?
 ……もういいかげんにしよう。つまり僕がここに挙げたアーティストは、みんなクラシックや古典音楽に影響を受けながら、その範疇に留まらない活動をしている人々だ。彼らの活動は、ある意味ジャンル分けされることを拒んでいるようにも思えるし、誰一人として彼らが本来区分されるべきジャンルを明確に説明することは出来ないだろう。彼らのCDを(便宜的に)イージーリスニングの棚に返す時、僕は図書館学と芸術の間にある、非常に深い溝を認識せざるを得ない。
 あくまで個人的な感覚ではあるが、図書館は分類法を用いてあらゆる物をジャンルごとに区分し、整理する役割を負い、芸術は常に区分されることを拒んでいるのではないかという事を感じることがある。そして当然のことながら、力関係では芸術の方が分類法よりも上位に存在している。
 僕は芸大時代、ある授業で「誰もしなかったことをする人間が芸術家だ」という主張を持った講師に出会ったことがある。卒業制作展では写真とも絵画ともつかない作品も見たし、民族楽器と西洋楽器を組み合わせて作曲された曲も聞いた。クリエイターの卵達が「ここではないどこか」、「これではない何か」を求めている姿、従来の概念では規定できない作品を目指している姿を見てきた。
 今僕は司書と言う資格を使い、これらを「何もの」であるか、規定する立場に立っている。それは時として、逃げる側から追いかける側に回ったかのような違和感を僕に与える。しかしそれは決して不快ではない。僕は規定しようとする事を通して、かえって芸術の力を思い知らされたように思う。
考えてみればベートーヴェンの第9交響曲が初演された時、誰もあの曲を聞いてクラシックだとは思わなかっただろう。あの曲は器楽曲の形態である交響曲にはじめて合唱を導入した、当時の常識を打ち破る、とてつもない「斬新な」音楽だったのだから。
結局のところ作品というものは時を経て、その熱が冷めなければ規定することは不可能なのかもしれない。僕はロックのCDが並べられた棚の前で夢想する。ここに置かれているビートルズのCDは、百年後クラシックの棚に移動しているかもしれない、と。それから僕は、19世紀フランスでヒット曲のように気軽に口ずさまれたというオッフェンバックのオペレッタを、クラシックの棚に戻した。
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